イタリア・ルネサンス年表
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1300年 - 1399年
1300年代(トレチェント Trecento)
- 1300年 - 教皇ボニファティウス8世の回勅「アンティクオルム・ハベット・フィダ・レラティオ」。
- 1300年 - 『神曲』では、この年の聖金曜日、ダンテが人生の半ばで暗い森に迷い込み、地獄・煉獄・天国遍歴が始まる。
- 1300年 - ダンテに先行する清新体の詩人で友人でもあったグイド・カヴァルカンティ死去。
- 1301年 - 教皇派(ゲルフ)支配のフィレンツェで、白党(ビアンキ)政権が黒党(ネリ)に倒される。
- 白党に属していたダンテ、フィレンツェ市から追放され、以後流浪生活を送る。
- 1301年 - ハレー彗星の出現が観測される。
- ジョヴァンニ・ヴィッラーニはその年代記に記録し、ジョットはパドヴァの壁画「東方三博士の礼拝」にその様子を描く。
- 1302年 - 教皇ボニファティウス8世の回勅「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」。
- 1302年 - カルタベロッタの和約が結ばれる。
- 1302年 - ジョットの師であり、フィレンツェ派の遠祖でもあるチマブーエ死去。
- 1302年 - 【フランス】国王フィリップ4世が三部会を召集。
- 1302年 - 【フランドル】ブリュージュの朝課事件で、フランドル市民がフランスの支配に抵抗して一斉蜂起。
- 続く同年の金拍車の戦い(コルトレイクの戦い)でフランドルは最終的に独立を勝ち取る。
- 1303年 - ローマ大学創建。
- 1303年 - アナーニ事件で、教皇ボニファティウス8世がフィリップ4世の配下ギヨーム・ド・ノガレらに急襲される。
- ボニファティウス8世は釈放されたが、屈辱を受けて病状が悪化し間もなく死去、後継はベネディクトゥス11世。
- 1304年 - 教皇ベネディクトゥス11世死去、後継教皇の選出は翌年にもつれこむ(→1305年)。
- 1305年 - フランス人のボルドー大司教ベルトラン・ド・ゴが選ばれ、教皇クレメンス5世として即位(→1308年) 。
- 1306年 - フランシスコ会修道士で「讃歌(ラウデ)」などの宗教詩で知られるヤコポーネ・ダ・トーディ死去。
- 1307年 - 教皇クレメンス5世の命でノヴァーラ近郊のドルチーノ派の拠点を教皇軍が急襲。
- 1307年 - ダンテ『俗語論』。
- 1308年 - 教皇庁のアヴィニョン捕囚(-1377年)。
- 1308年 - 【ドイツ】後期スコラ哲学を代表する実在論者ドゥンス・スコトゥスがケルンにて死去。
- 1308年 - ローマ派のピエトロ・カヴァリーニによりナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ教会壁画完成。
- 1308年 - ペルージャ大学創建。
- 1309年 - 聖ヨハネ騎士団が東ローマ帝国領ロドス島を占領。
- これ以前の騎士団の根拠地はキプロス島、以後この騎士団はロドス騎士団とも呼ばれる(-1522年)。
- 1310年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世のイタリア遠征(→1312年)。
- 1310年 - ヴェネツィアでバイアモンテ・ティエポロ(三代前の元首ロレンツォ・ティエポロの孫)らによるクーデターが起こる。
- 元首ピエトロ・グラデニーゴの改革(1297年)に反対するクーデタだったが、グラデニーゴが先手を打って鎮圧する。
- 以後ヴェネツィアの政治は寡頭体制に移行(議員世襲制(1323年)、十人委員会の常設(1335年))。
- 1310年 - フィレンツェ派の祖であるジョット、パドヴァの「スクロヴェーニ礼拝堂壁画」完成。
- 1310年 - ジョヴァンニ・ピサーノ、ピサ大聖堂説教壇の彫刻完成(1302年 - )。
- 1310年 - ディーノ・コンパーニがフィレンツェの『年代記』を執筆( - 1312年)。
- 1311年 - ヴィスコンティ家のマッテオ1世が神聖ローマ皇帝代理としてミラノの覇権を握る。
- デッラ・トッレ家(トッリアーニ家)が没落し、以後ヴィスコンティ家が事実上のミラノの僭主を世襲する。
- 1311年 - シエナ派の祖であるドゥッチョ、シエナ大聖堂「マエスタ(荘厳の聖母)」完成。
- 1311年 - ヴィエンヌ公会議開催、翌1312年この会議でテンプル騎士団の解散を正式決定。
- 1312年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世が100年ぶりにローマで戴冠式を行う(→1313年)。
- 1312年 - マラテスタ2世・マラテスタが最初のリミニの僭主となり、マラテスタ家の支配始まる( - 1528年)。
- 1312年 - ジェノヴァ出身のランチェロット・マロチェロがカナリア諸島に到達。
- 1313年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世、シエナにて急逝。
- この皇帝に私淑していたダンテは『帝政論』を捧げる。またこの死去に伴い、ダンテのフィレンツェ帰還は絶望的になる。
- 1314年 - 教皇クレメンス5世が死去、以後2年間教皇座は空位(→1316年)。
- 1314年 - アルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、フィレンツェのヴェッキオ宮殿(共和国政庁舎)完成(1299年 - )。
- 1314年 - 【北アフリカ】哲学者ライムンドゥス・ルルスがアルジェリアのベジャイアにてイスラム教徒の投石で負傷する。
- この負傷によりジェノヴァ商人に救出されるも、翌1315年には落ち延びた故郷マヨルカ島のパルマで死去。
- 1315年 - ティーノ・ディ・カマイーノによりピサに設置された神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の墓碑完成。
- 1315年 - 『エケリニス』を著したパドヴァのムッサート、桂冠詩人になる
- 1315年 - 【スイス】モルガルテンの戦いで、スイス原初同盟(ウリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデン)がハプスブルク家を撃退
- 1315年頃 - パドヴァ大学医学教授ピエトロ・ダバノが宗教裁判中に死去、死体は火刑に処される。
- 1316年 - 2年間の空位の後、教皇ヨハネス22世が即位。
- 1317年 - シモーネ・マルティーニ「ロベルト1世に王冠を授けるトロサの聖ルドヴィコ(トゥールーズの聖ルイ)」。
- 1318年 - ヤコポ・ダ・カッラーラがパドヴァ領主に選ばれ、以後1405年までカッラーラ家がパドヴァを掌握。
- 1320年 - ダンテ『水陸論』。
- 1321年 - ダンテ、亡命先のラヴェンナにて死去(1265年 - )。
- ダンテは亡くなるこの年までに代表作『神曲』を完成させる(1304年 - )。
- 1321年 - フィレンツェ大学創建。
- 1323年 - 教皇ヨハネス22世の回勅「クム・インテル・ノンヌッロス」。
- 教皇はフランシスコ会の「清貧論争」に介入し、フランシスコ会厳格派(聖霊派)を断罪。
- 1323年 - 教皇ヨハネス22世がトマス・アクィナスを列聖する。
- 1323年頃 - 【フランス】ベルナール・ギー『異端審問の実務』。
- 1324年 - 旅行家マルコ・ポーロ死去。
- 1325年 - アルトパーショの戦いで、ルッカの傭兵隊長カストルッチョ・カストラカーニがフィレンツェ軍に勝利。
- 1325年 - パドヴァのマルシリウス『平和の擁護者』。
- 1327年 - ルッカ公国成立。
- 1327年 - フィレンツェで天文学者チェッコ・ダスコリが異端の罪で火刑に処せられる。
- 1327年 - アヴィニョンの聖クララ教会でペトラルカとラウラの運命的な出会い、詩人は『カンツォニエーレ』を書き始める。
- 1328年 - ローマにて神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の戴冠式。
- 皇帝はアヴィニョン教皇ヨハネス22世を廃位するため、対立教皇ニコラウス5世を即位させる( - 1330年)。
- 戴冠式を取り仕切ったパドヴァのマルシリウスはローマの教皇代理に任命される。
- この皇帝の下に哲学者ウィリアム・オッカム、ジャンダンのヨハネス、フランシスコ会総長チェゼーナのミカエルらが結集。
- 1328年 - マントヴァのボナコルシ家が倒され、ゴンザーガ家が権力を掌握。
- 1328年頃 - 【ドイツ】神学者・神秘主義者エックハルト死去。
- 1330年 - タッデオ・ガッディによるサンタ・クローチェ聖堂壁画「羊飼いへの天使の知らせ」完成(1328年 - )。
- 1330年頃 - ヤコポ・デル・カセンティーノ「カニョーラ三連祭壇」(ウフィツィ美術館蔵)はこの頃のものか(1320年頃 - )。
- 1331年 - ドミニコ会士のポルデノーネのオドリック死去。
- 1333年 - シモーネ・マルティーニ「受胎告知」(ウフィツィ美術館蔵)。
- 1333年 - フィレンツェのアルノ川の氾濫でヴェッキオ橋が流される(→1345年)。
- 1334年 - 教皇ヨハネス22世死去、教皇ベネディクトゥス12世即位。
- 1334年 - ジョットがフィレンツェ大聖堂の「ジョットの鐘楼」建設に着手( - 1387年)。
- 1336年 - ペトラルカがアヴィニョン近郊ヴァントゥ山の登山に挑み頂上まで登る(近代的登山の先駆け)。
- 1337年 - ジョット死去。
- 1337年 - 【イングランド・フランス】百年戦争始まる( - 1453年)。
- 1338年 - 教皇ベネディクトゥス12世がフランシスコ会修道士ジョヴァンニ・デ・マリニョリをモンゴル帝国に派遣する。
- 1338年 - 【ドイツ】 レンゼ選帝侯会議で、神聖ローマ皇帝選挙に教皇の許可は不要であると宣言。
- 1338年頃 - ペトラルカ『アフリカ』。
- 1339年 - シモン・ボッカネグラが初代ジェノヴァ元首に就任
- 1339年 - アンブロージョ・ロレンツェッティ、シエナ市庁舎の平和の間壁画「善政と悪政の寓意と効果」完成。
- 1339年 - カラブリアのバルラアムが、東ローマ帝国から東西教会合同のためアヴィニョン教皇庁へ送られる。
- バルラアムは南イタリア人で、グレゴリオス・パラマスの静寂主義(ヘシュカスモス)を批判したことで名を挙げていた。
- バルラアムはこの滞在中にペトラルカにギリシア語を教授する。
- 1340年頃 - イタリア初の多声音楽文化・トレチェント音楽の最盛期。
- 1340年頃 - シモーネ・マルティーニがアヴィニョンに招かれ教皇宮殿の壁画を描く(国際ゴシック様式)。
- 1341年 - ペトラルカ、桂冠詩人になる。
- 1342年 - フィレンツェのブオナッコルシ商会の経営破綻(「14世紀の経済危機」の始まり)。
- この景気悪化で、その後1343年にペルッツィ商会とアッチャイオーリ商会、1346年にバルディ商会と連続して経営破綻。
- 1342年 - 政治的混乱でフィレンツェが共和国体制を停止し、ナポリ王ロベルト1世の庇護を求める。
- 1343年 - ティレニア海に面するナポリ湾周辺で地震、この津波によりアマルフィの市街区のほとんどが壊滅する。
- 1343年 - アテネ公が専制の不満から追放され、フィレンツェは自治を回復。
- 1343年 - ピサ大学創建。
- 1343年 - ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂祭壇装飾「パラ・ドーロ」が補修される。
- 元首アンドレア・ダンドロの命によるもので、パオロ・ヴェネツィアーノが祭壇装飾を担当している。
- 1344年 - キプロス十字軍。
- 1345年 - タッデオ・ガッディの設計でフィレンツェのヴェッキオ橋再建される(現在まで残存)。
- 1345年 - 【フランス】パリのノートルダム大聖堂完成(1163年 - )。
- 1347年 - ニコラ・ディ・リエンツォ、ローマで護民官となるが失脚(コーラ革命)。
- 1347年 - ハンガリー王ラヨシュ1世がナポリ女王ジョヴァンナ1世を追放、ナポリ王位を要求し首都ナポリを占領(→1382年)。
- 1347年 - 【クリミア】モンゴル人と交戦中のジェノヴァ領カッファでヨーロッパで最初のペスト罹患者が記録される。
- 1348年 - 南アルプスのフリウリ地方を震源とする大地震発生(1月25日)。
- 1348年 - ナポリ女王ジョヴァンナ1世から教皇クレメンス6世にアヴィニョンが売却される。
- 以後、フランス革命で没収されるまでアヴィニョンは教皇領となる。
- 1348年頃 - ヨーロッパにペスト(黒死病)大流行(→1347年)。
- 『カンツォニエーレ』にも歌われたペトラルカの恋人ラウラはこのペストで死去。
- フィレンツェの銀行家であり年代記作家でもあったジョヴァンニ・ヴィッラーニもこのペストで死去。
- フィレンツェ派の芸術家ではアンドレア・ピサーノ、ベルナルド・ダッディ、マーゾ・ディ・バンコがこのペストで死去。
- シエナ派の芸術家ではピエトロ、アンブロージョのロレンツェッティ兄弟がこのペストで死去。
- 疫病を避けた人々の閑談から生まれたのがボッカッチョの『デカメロン』 (ペスト文学)。
- 1348年 - 【ボヘミア】プラハ大学創建とプラハ市街の大改修始まる。神聖ローマ皇帝カール4世による。
- 1349年 - 教皇クレメンス6世が「鞭打ち苦行者」(フラゲラント)を非難し禁圧する回勅を布告。
- 1349年 - 【ドイツ】後期スコラ哲学を代表する唯名論者ウィリアム・オッカムがミュンヘンにて死去。
- 1350年 - アヴィニョンの教皇インノケンティウス6世に委任され、枢機卿アルボルノスが教皇代理となる( - 1357年)。
- 1350年頃 - 女性神秘家のスウェーデンのビルギッタがローマに定住、以後亡くなるまでローマで過ごす( - 1373年)。
- 1350年頃 - 【フランス】「ジャン2世善良王の肖像」(ルーブル美術館蔵、アルプス以北の最古期の個人肖像画)。
- 1351年 - ペトラルカ『凱旋』に着手( - 1374年)。
- 1352年 - ナポリ女王ジョヴァンナ1世が亡命先のフランスからナポリに帰還(→1347年)。
- 1353年 - サン・ジミニャーノがフィレンツェに占領され、対シエナの前線基地になる。
- 1353年頃- ボッカッチョが『デカメロン』を完成させる。
- 1354年 - 神聖ローマ皇帝カール4世のイタリア遠征、翌1355年にローマで戴冠式を行う。
- 1354年 - ニコラ・ディ・リエンツォが教皇インノケンティウス6世に許され、イタリアでアルボルノス枢機卿と合流。
- やがてアルボルノスと別れローマに帰還するも、ローマでの独裁を不満に思った市民の反乱で殺される。
- 1355年 - ヴェネツィアで元首マリーノ・ファリエロがクーデタを起こすも失敗し、処刑される。
- 1355年頃 - ブオナミーコ・ブファルマッコによるピサ・カンポサント連作フレスコ画「死の勝利」。
- 1356年 - 【ドイツ】ニュルンベルクとメッツの帝国議会において神聖ローマ皇帝カール4世が金印勅書を発布。
- 1357年 - 枢機卿アルボルノスが一時教皇代理を解任される。
- その直後、彼の指揮でファーノで議会が開かれ、教皇への服従・各領地の自治などが決められる(ファーノ憲章)。
- 1358年 - 枢機卿アルボルノスが再び教皇代理となり教皇領の回復に着手( - 1364年)。
- 1358年 - ヴェネツィアの支配を脱し、ドゥブロヴニクがラグーザ共和国として自立。
- 1358年 - 【オーストリア】ルドルフ4世(建設公)がオーストリア大公を自称する( - 1365年)。
- 1358年 - 【フランス】パリでのエティエンヌ・マルセルの反乱、フランス東北部でのジャックリーの乱。
- 1358年 - 【オーストリア】ウィーンにてスコラ哲学者であるリミニのグレゴリウス死去。
- 1358年 - 【フランス】「ビュリダンのロバ」や「インペトゥス理論」で知られるスコラ哲学者ジャン・ビュリダン死去。
- 1359年 - レオンツィオ・ピラートがボッカッチョに招かれ、フィレンツェ大学でギリシア語講座を開設。
- 1359年 - オルカーニャによるオルサンミケーレ教会のタベルナクル(天蓋付き壁龕)。
- 1359年 - 【ドイツ】フライブルクのフランシスコ会修道士ベルトルト・シュヴァルツが黒色火薬を発明か。
- 1360年頃 - 【ドイツ】「レットゲンのピエタ(ボン・ライン州立美術館蔵)」が作られる。
- 1361年 - 教皇不在のローマでラテラノ宮殿が炎上、1307年の大火に続く不祥事で宮殿の荒廃が進む。
- 1361年 - パヴィア大学創建。
- 1361年 - 盲目の音楽家フランチェスコ・ランディーニがフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院のオルガニストとして雇われる。
- 1361年頃 - 2度目のペスト大流行(ペスティス・セクンダあるいはペスティス・プエロルム(子供のペスト))(→1348年頃)。
- 1362年 - 教皇インノケンティウス6世死去、教皇ウルバヌス5世即位
- 1364年 - アルボルノスが教皇代理を解任され引退、引退後はオルヴィエートやナルニなどイタリア各地に要塞を建造。
- 1364年 - カッシナの戦いで、フィレンツェがピサに勝利。
- 1365年 - サヴォイア伯十字軍。
- 1366年 - ペトラルカが教皇ウルバヌス5世宛てにローマへの帰還を勧める書簡を送る(『老年書簡集』所収)。
- 1367年 - 教皇ウルバヌス5世がアヴィニョンからローマへ帰還する。
- しかしこの滞在は一時的なものであり、1370年には教皇は再びアヴィニョンに戻り、同年その地で死す。
- 1367年 - 教皇のローマ入りを目前にヴィテルボにて枢機卿アルボルノス死去。
- その死を悼んで音楽家ヨハンネス・チコーニア(父)がバッラータ「涙を浮かべて」を捧げる 。
- 1368年 - アンドレア・ダ・フィレンツェによるフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会壁画「教会の伝道と勝利」完成(1366年 - )
- 1368年頃 - イングランドの詩人チョーサーがイタリアに渡り、ペトラルカと交友関係を結ぶ。
- チョーサーはペトラルカの影響からイタリア式十四行詩ソネットをイギリス文学に導入し「英詩の父」と呼ばれる。
- 1369年 - 【ブルゴーニュ】ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公とフランドル女伯マルグリット3世の結婚。
- この結婚により1384年には夫妻はブルゴーニュとフランドルの支配権を獲得、ここが「北方ルネサンス」の舞台となる。
- 1369年頃 - 3度目のペスト大流行(ペスティス・テルティア)(→1348年頃) 。
- 1370年 - 教皇ウルバヌス5世死去(→1367年)、アヴィニョンにて教皇グレゴリウス11世即位。
- 1370年 - 東ローマ帝国皇帝ヨハネス5世がイタリア訪問中、負債の問題でヴェネツィアにて拘束される。
- ヴェネツィア元首アンドレア・コンタリーニは多額の身代金を受け取ることで、翌1371年ヨハネス5世を釈放。
- 1371年 - 【フランス】ジャン・ド・マンデヴィル『東方旅行記』の最古の写本。
- 1372年 - ピサの斜塔完成(1173年 - )。
- 1373年 - 女性神秘家のスウェーデンのビルギッタがローマで死去(1391年列聖)。
- ローマでビルギッタとともに暮らしていた娘のカタリナは遺骨をスウェーデンに持ち帰り、ヴァドステーナ修道院に埋葬する。
- 1374年 - ペトラルカ死去。
- 1375年 - 八聖人戦争で、フィレンツェとローマ教皇庁が戦う( - 1378年)。
- 1375年 - ボッカッチョ死去。
- 1376年 - ドミニコ会修道女シエナのカタリナが教皇グレゴリウス11世へローマへの帰還を促す(→1377年)。
- 1376年 - 【イングランド】ジョン・ウィクリフが『俗権論』を執筆し、ローマ教皇の権威と権力を否定。
- 以後その主張はロラード派を生み出し、1381年のワット・タイラーの乱の指導者ジョン・ボールにも影響する。
- 1377年 - 教皇グレゴリウス11世のローマ帰還、教皇庁のアヴィニョン捕囚終わる(1308年 - )。
- 1377年 - チェゼーナの大虐殺。
- 枢機卿ロベール・ド・ジュネーヴ(後の対立教皇クレメンス7世)の指示でジョン・ホークウッドの部隊が実施。
- この時期、イングランド人ホークウッドなど傭兵隊長(コンドッティエーレ)が外国人部隊を指揮しイタリア各地を蹂躙。
- 1377年 - アルベリコ・ダ・バルビアーノがイタリア人だけの傭兵部隊「サン・ジョルジョ軍団」を結成。
- 1377年 - 【フランス】アルス・ノーヴァの代表者でありノートルダム・ミサ曲を手がけたギヨーム・ド・マショー死去。
- 1377年頃 - 【イングランド】ウィリアム・ラングランド『農夫ピアズの夢』。
- 1378年 - 教皇グレゴリウス11世死去、その後の教皇選挙(コンクラーヴェ)が紛糾。
- 1378年 - フィレンツェでチョンピの乱起こる( - 1382年)。
- サルヴェストロ・デ・メディチが「正義の旗手」に選ばれ、一時的に毛織物業労働者など下層民衆の英雄に祭り上げられる。
- 1378年 - チョーサーが密命を帯びてイタリアに渡る、ミラノのヴィスコンティ家と傭兵隊長ジョン・ホークウッドと接触したか。
- 1379年 - アルティキエーロによるパドヴァのサンタントニオ大聖堂のフレスコ壁画完成。
- 1380年 - シエナのカタリナ死去(1461年列聖)、残された多くの書簡は初期トスカーナ文学を代表する。
- 1381年 - キオッジャの戦いでヴェネツィアがジェノヴァに勝利して海上覇権を握る(1379年 - )。
- 1382年 - ナポリ女王ジョヴァンナ1世が又従弟のカルロ・ディ・ドゥラッツォによって暗殺される
- 1382年 - 【フランス】数学者・天文学者であり、国王シャルル5世の貨幣改革の理論家として活躍したニコル・オレーム死去。
- 1385年 - チョンピの乱が鎮圧され、サルヴェストロ・デ・メディチやミケーレ・ディ・ランドがフィレンツェから追放される(→1378年)。
- 1385年 - ミラノのジャン・ガレアッツォが叔父のベルナボを失脚させ、ミラノの完全な支配権を手中に収める。
- 1385年 - ナポリ王カルロ3世がラヨシュ1世亡き後のハンガリー王に迎え入れられる(カーロイ2世)。
- しかし翌1386年にカルロ3世は、反対派であるラヨシュ1世未亡人エリザベタ・コトロマニッチに暗殺される。
- 1386年 - ミラノ大聖堂の建設開始( - 1813年)。
- 1386年 - 【ポーランド】リトアニア大公ヤギェウォ(ヨガイラ)とポーランド女王ヤドヴィガの結婚によるヤギェウォ朝の成立。
- 1386年 - 【ドイツ】ハイデルベルク大学創建。
- 1387年頃 - 【イングランド】チョーサー『カンタベリー物語』執筆開始( - 1400年、未完)。
- 1388年 - アッチャイオーリ家のネリオ1世がアテネ公となる。
- アッチャイオーリ家はフィレンツェの名家で、以後オスマン帝国に支配されるまで同家がアテネ公位を継承( - 1458年)。
- 1389年 - ローマ派の教皇ウルバヌス6世死去、後継はボニファティウス9世。
- 1380年代 - アーニョロ・ガッディがフィレンツェ・サンタ・クローチェ聖堂の聖歌隊席のフレスコ画を完成させる。
- 1390年 - 傭兵隊長のジョン・ホークウッドがフィレンツェの総司令官となる(→1377年)。
- ミラノのジャン・ガレアッツォの行軍を食い止め、フィレンツェは独立を死守(→1436年)。
- 1391年 - フェラーラ大学創建。
- 1391年 - 教皇庁付歌手でもあったアントニオ・ザッカーラ・ダ・テーラモが、教皇ボニファティウス9世の秘書官となる。
- 1391年頃 - コルッチョ・サルターティ『ヘラクレスの功業について』。
- 1394年 - アヴィニョン派の教皇クレメンス7世死去、後継はベネディクトゥス13世。
- 1395年 - ヴィスコンティ家のジャン・ガレアッツォがミラノ公になりミラノ公国成立(→1385年)。
- 1395年 - フランコ・サケッティ『短編小説三百篇』。
- 1395年頃 - 【イングランド】ウィルトンの二連祭壇画(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)( - 1399年)。
- 1396年 - 【ブルガリア】ニコポリスの戦い。
- 1396年 - ギリシア人マヌエル・クリュソロラスがフィレンツェに招聘される。
- 招聘したのはコルッチョ・サルターティで、これによりフィレンツェにギリシア語講座が開設される(1397年 - 1400年)。
- 1397年 - ジョヴァンニ・ディ・ビッチが「ローマ商会」本店を出身地のフィレンツェに移す(事実上のメディチ銀行の発足)。
- 1397年 - 【デンマーク・ノルウェー・スウェーデン】北欧三国でカルマル同盟が結ばれる( - 1523年)。
- 1398年 - フランスがアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世の支持を撤回。
- ジョーフレ・ブシコーの率いる軍がアヴィニョンの教皇宮殿を包囲し、教皇の篭城は1403年まで5年間続く。
- 1399年 - 東ローマ皇帝マヌエル2世、オスマン帝国に対する救援依頼のためイタリアを含む西欧各地を歴訪( - 1402年)。
- 皇帝マヌエル2世は、パレオロゴス朝ルネサンスと呼ばれる最末期のビザンティン文化を代表する文人でもある。
- 1399年 - 【ブルゴーニュ】メルキオール・ブルーデルラム「ディジョンの祭壇画」(旧シャンモル修道院蔵)(1393年 - )。
1400年 - 1499年
1400年代(クアトロチェント Quattrocento):フィレンツェの経済力を背景に文芸、美術など各分野に人材が輩出し、ルネサンス文化が栄える。東ローマ帝国の知識人がもたらしたギリシャ語文献や印刷術の発明から大きな刺激を受ける。
- 1400年頃 - チェンニーノ・チェンニーニ『絵画術の書』。
- 1401年 - フィレンツェ大聖堂洗礼堂の扉の設計競技、ロレンツォ・ギベルティが当選。
- 1401年 - ジョヴァンニ・ドミニチ『家政の指針』。
- 1401年頃 - 【ボヘミア】ヨハネス・フォン・テープル『ボヘミアの農夫(農夫と死)』。
- 1402年 - ミラノ公ジャン・ガレアッツォ急逝、ミラノによる北イタリア統一は挫折。
- ミラノ公位は息子ジョヴァンニ・マリーアが継承するが、公国は求心力を失い弱体化。
- 1402年頃 - ピエル・パオロ・ヴェルジェーリオ『若者の高貴な振る舞いと自由教育について』。
- 1403年 - ヴェネツィアに世界初の検疫のための隔離施設「ラザレット・ヴェッキオ」が設置される。
- 1403年 - 教皇ベネディクトゥス13世がアヴィニョンから逃亡し、ルイ2世・ダンジューに庇護される(→1398年)。
- 1404年 - 【フランス】ヴェネツィア出身の女流詩人クリスティーヌ・ド・ピザンによる『薔薇のことば』。
- 1404年 - 【ブルゴーニュ】クラウス・スリューテル「モーセの井戸」完成(1395年 - )。
- 1405年 - ヴェネツィアがヴェローナとパドヴァを占領し、ヴェネト地方の覇権を握る。
- 1405年頃 - ロレンツォ・モナコ「エジプトへの逃避」。
- 1405年頃 - 【フランス】百年戦争を記録した『年代記』の作者ジャン・フロワサール死去。
- 1406年 - フィレンツェがピサを占領し、トスカーナ地方の覇権を握る。
- 1407年 - ジェノヴァにサン・ジョルジョ銀行設立。
- 1408年 - ヴェネツィアがハンガリー王国からダルマチアを奪取する。
- 1408年 - ナポリ王ラディズラーオ1世がローマを占領(→1413年)。
- 1409年 - ピサ教会会議開催、教会大分裂は終結せず、三教皇の鼎立状態となる。
- ローマ派の教皇グレゴリウス12世、アヴィニョン派の教皇ベネディクトゥス13世、ピサ派の教皇アレクサンデル5世。
- 1409年 - ドナテッロ「ダビデ像」(バルジェロ美術館蔵・大理石製)完成(→1446年)。
- 1409年 - 【ドイツ】ライプツィヒ大学創建。
- 1409年 - 【フランドル】ランブール兄弟『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』完成。
- 1410年 - ピサ派の教皇アレクサンデル5世死去。
- 枢機卿バルダッサレ・コッサがピサ派の教皇ヨハネス23世として選出される。
- 選出に尽力したメディチ家のジョヴァンニ・ディ・ビッチはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、莫大な利益を得る。
- 1410年 - ピサ派の教皇ヨハネス23世がローマを制圧するためルイ2世・ダンジューを派遣する(→1411年)。
- 1410年 - 枢機卿ピエール・ダイイ『世界の姿(イマゴ・ムンディ)』。
- 1410年 - 「ダティーニ文書」と呼ばれる膨大な商業文書を残したプラートの商人フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ死去。
- 1410年頃 - ゲラルド・スタルニーナにより「テーベの隠者たち」(ウフィツィ美術館蔵)が描かれたか。
- 1410年頃 - 【ロシア】アンドレイ・ルブリョフ「聖三位一体(至聖三者)」。
- 1411年 - ロッカセッカの戦いで、ナポリ王ラディズラーオ1世がルイ2世・ダンジューを撃退(→1413年)。
- 1411年 - ナポリ王ラディズラーオ1世がサンタンナ・ディ・ロンバルディ教会(サンタ・マリア・ディ・モンテオリヴェート教会)を建立。
- 1412年 - ミラノ公ジョヴァンニ・マリーアが暗殺される。弟フィリッポ・マリーアは公位を継承し、旧領の回復に着手。
- 1412年 - 【アラゴン】カスペの妥協により、トラスタマラ家のフェルナンド1世がアラゴン王になる。
- 1413年 - ナポリ王ラディズラーオ1世が再びローマを占領、ピサ派の教皇ヨハネス23世がフィレンツェに逃亡。
- 1414年 - コンスタンツ公会議開催( - 1418年)。
- 1415年 - コンスタンツ公会議の決定により、プラハ大学元学長ヤン・フスが異端者として火刑に処される(→1419年)。
- 1415年 - 【ポルトガル】国王ジョアン1世とその子エンリケ航海王子らが北アフリカのセウタを攻略。
- 1416年 - サヴォイア公国が成立し、サヴォイア家のアメデーオ8世の支配下に置かれる。
- 1417年 - コンスタンツ公会議で、コロンナ家出身のマルティヌス5世を教皇に選出、教会大分裂終わる。
- 1417年 - 人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニにより、ドイツで古代ローマの哲学者ルクレティウス『事物の本性について』の写本が発見される。
- 1418年 - フィレンツェ大聖堂大ドームの設計競技、フィリッポ・ブルネレスキが当選(→1436年)。
- 1418年 - 枢機卿ピエール・ダイイ『教会改革論』。
- 1418年 - 【フランス】パリの出版業者で錬金術師とも言われたニコラ・フラメル死去。
- 1419年 - フィレンツェにて廃位された対立教皇ヨハネス23世死去。
- 後年、サン・ジョバンニ洗礼堂に「教皇ヨハネ23世墓碑」がドナテッロらによって作られる(1425年-1428年)。
- 1419年 - ヤコポ・デッラ・クエルチャによるシエナのカンポ広場「喜びの泉(フォンテ・ガイア)」完成(1414年 - )。
- 1419年 - 【ボヘミア】第一次プラハ窓外投擲事件。フス戦争始まる( - 1439年)。
- 1420年 - 教皇マルティヌス5世が初めてローマ市に入り、荒廃したローマ市の再建始まる(→1417年)。
- 1420年頃 - ミケリーノ・ダ・ベソッツォ「聖カタリナの神秘の結婚」(シエナ絵画館蔵)
- 1421年 - フィレンツェがジェノヴァから海港リヴォルノを購入。
- 1423年 - ヴェネツィア元首としてフランチェスコ・フォスカリが選出され、以後35年近く国政を指導( - 1457年)。
- 1423年 - ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方三博士の礼拝」。
- 1424年 - ザゴナラの戦いで、ミラノがフィレンツェに大勝、フィレンツェはヴェネツィアに接近(→1427年)。
- 1424年 - 【フランス】パリのサン・イノサン墓地回廊のフレスコ壁画「死の舞踏」が描かれる。
- 1425年 - フェラーラ侯ニッコロ3世・デステが、後妻パリシーナ・マラテスタと前妻の息子ウーゴ・デステの両者を姦通の罪で処刑。
- 1427年 - マクロディオの戦いで、傭兵隊長カルマニョーラ率いるヴェネツィアがミラノに大勝。
- 1427年 - マソリーノとマサッチオ「ブランカッチ礼拝堂壁画」完成。
- 1428年 - マサッチオ死去。
- 1428年 - 【フランドル】ロベルト・カンピン「メロードの祭壇画」完成(1425年 - )。
- 1429年 - メディチ家のジョヴァンニ・ディ・ビッチ死去、後継者は息子のコジモ・デ・メディチ。
- 1429年 - マッテオ・パルミエーリ『市民生活論』執筆(出版は没後の1528年)。
- 1430年 - ヴェネツィア領テッサロニキ(1423年 - )がオスマン帝国に降伏しその領土となる。
- 1430年 - ヴェネツィアのコンタリーニ家の「カ・ドーロ(黄金の館)」がボン父子によって完成する( - 1428年)。
- 1431年 - 教皇マルティヌス5世死去、教皇エウゲニウス4世が即位。
- 1431年 - バーゼル公会議開催(→1438年)。
- 1431年 - サン・ロマーノの戦いで、フィレンツェがシエナに勝利する(→1456年)。
- 1431年 - ロレンツォ・ヴァッラ『快楽論』(エピクロス主義)。
- 1431年 - 【フランス】ジャンヌ・ダルク、ルーアンにて火刑に処される(→1455年)。
- 1432年 - ヴェネツィア共和国に対する背信の罪でカルマニョーラが処刑される(→1427年)。
- 1432年 - 【フランドル】ファン・エイク兄弟「ヘントの祭壇画(神秘の子羊)」完成。
- 1433年 - フェラーラの和約により、ミラノとヴェネツィア・フィレンツェが講和する(1423年 - )。
- 1433年 - フィレンツェでアルビッツィ家を中心とする反メディチ派が政権を握り、コジモ・デ・メディチらを追放(→1434年)。
- 1433年 - マントヴァが侯爵領に昇格、ジャンフランチェスコ・ゴンザーガが僭主からマントヴァ侯になる。
- 1433年 - ピサネロ「神聖ローマ皇帝ジギスムントの肖像」。
- 1434年 - ミラノとの戦争で大敗北を喫しリナルド・デリ・アルビッツィの政権は崩壊、アルビッツィ一族は逮捕される。
- ヴェネツィアに亡命していたコジモ・デ・メディチが帰国し反対派を追放、メディチ家がフィレンツェ支配を確立( - 1737年)。
- 1434年 - カルマニョーラの後継としてガッタメラータがヴェネツィア軍の司令官に抜擢される(→1432年)。
- 1434年 - 【フランドル】ヤン・ファン・エイク「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。
- モデルはフィリップ善良公に仕えたイタリア出身の銀行家ジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニとその婚約者ジョヴァンナ・チェナーミとされていたが、近年の研究でアリーゴ・アルノルフィーニの従兄弟ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニとその内縁の2番目の妻、あるいは既に死去した最初の妻と考えられている。
- 1435年 - ナポリ女王ジョヴァンナ2世死去。
- ヴァロワ=アンジュー家のルネ・ダンジューとアラゴン王アルフォンソ5世がその後継をめぐって争う(→1442年)。
- 1435年 - アルベルティ『絵画論』執筆。
- 1436年 - 教皇エウゲニウス4世によるフィレンツェ大聖堂の献堂式。
- 献堂式に合わせフランドル楽派の音楽家ギヨーム・デュファイが「薔薇の花が咲く頃」を作曲。
- 1436年 - カマルドリ会のアンブロージョ・トラヴェルサーリが『ディオニシオス文書』を翻訳。
- 1436年 - フラ・アンジェリコがフィエーゾレからフィレンツェのサン・マルコ修道院に移る。
- この修道院で「受胎告知」「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」などの製作を行う。
- 1436年 - ウッチェロ「ジョン・ホークウッド像」(フィレンツェ大聖堂内)(→1390年)。
- 1436年 - サセッタ「東方三博士の旅」(メトロポリタン美術館)完成(1432年 - )。
- 1436年 - 【フランス】フランボワイヤン様式のルーアンのサン・マクルー教会着工( - 1521年)。
- 1437年 - バーゼル公会議の開催地移動が決定(→1431年)。
- 参加者は公会議派と教皇派に分裂し、公会議派はバーゼルに留まり、1439年には対立教皇フェリクス5世を選出。
- ニコラウス・クザーヌスら教皇派らはイタリアのフェラーラに移転し、東西教会合同の準備を行う。
- 東ローマ皇帝ヨハネス8世パレオロゴスやコンスタンティノポリス総主教ヨセフス2世がイタリアに到着。
- 他に東方教会の代表者としてニカイア府主教ヨハンネス・ベッサリオン、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンらが出席。
- 1438年 - フェラーラで公会議を開催(フェラーラ・フィレンツェ公会議)。
- ヴェローナの画家ピサネロが東ローマ皇帝ヨハネス8世の来訪を記念して皇帝の肖像メダルを作成。
- フェラーラ侯ニッコロ3世・デステが公会議開催を支援、やがて資金不足や疫病流行で行き詰まる(→1439年)。
- 1438年 - ルカ・デッラ・ロッビア、フィレンツェ大聖堂の「カントリア(歌う見物人)」完成。
- 1438年 - 【フランス】国王シャルル7世がブールジュの国本勅諚(国事詔書)を発令、ガリカニズムの始まり(→1516年)。
- 1439年 - フェラーラでの公会議をフィレンツェに移転(フェラーラ・フィレンツェ公会議)( - 1445年)。
- 1440年 - アンギアーリの戦いで、フィレンツェがミラノに勝利(→1503年)。
- 1440年 - ニコラウス・クザーヌス『学識ある無知について』。
- 1440年 - ロレンツォ・ヴァッラ『コンスタンティヌス寄進状の偽作論』。
- 1440年頃 - ヤコポ・ベリーニ「寄進者エステ家公子リオネッロのいる謙譲のマリア」。
- 1441年 - ミラノ公女ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティと傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァの結婚(→1450年)。
- 1441年 - 【ドイツ・ネーデルラント】トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』。
- 1442年 - アラゴン王アルフォンソ5世がルネ・ダンジューを追放し、ナポリ王となる。
- 1442年 - アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニが桂冠詩人となる。
- 1443年頃 - 【フランス】バーテルミー・デック「エクスの受胎告知」。
- 1444年 - フィレンツェ市書記官長で人文主義者のレオナルド・ブルーニ死去(代表作『フィレンツェ人の歴史』)。
- 1444年 - ロレンツォ・ヴァッラ『ラテン語の優雅さについて』。
- 1444年 - コジモ・デ・メディチにより、ニッコロ・ニッコリの蔵書を基礎とした図書館がサン・マルコ修道院に創設される。
- 1444年 - ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチとルクレツィア・トルナブオーニの結婚。
- 1444年 - フランシスコ会修道士のシエナのベルナルディーノ死去(1450年列聖)。
- 1444年 - 【ブルガリア】ヴァルナの戦いで、キリスト教諸国軍がオスマン帝国軍に大敗(ヴァルナ十字軍)。
- 1444年 - 【スイス】コンラート・ヴィッツ「奇跡の漁り」。
- 1445年 - ヴェネツィア元首フランチェスコ・フォスカリの息子ヤコポが贈収賄と汚職で告発される(→1457年)。
- 1445年 - ジョヴァンニ・ディ・パオロ「天地創造と楽園追放」。
- 1445年頃 - ドメニコ・ヴェネツィアーノによるサンタ・ルチア・デ・マニョーリ祭壇画。
- 1446年 - サン・マルコ修道院長アントニーノ・ピエロッツィがフィレンツェ大司教となる(フィレンツェの聖アントニヌス)。
- 1446年 - ドナテッロ「ダビデ像」(バルジェロ美術館蔵・ブロンズ製)完成(1444年 - )。
- 1446年 - アントニオ・ヴィヴァリーニの三連祭壇画「玉座の聖母子と聖者たち」。
- 1446年 - アルベルティがリミニのマラテスティアーノ教会の設計に携わる。
- リミニの領主シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタによる依頼であったが、依頼主が死ぬ(1468年)と未完のまま放置される。
- 1447年 - 教皇エウゲニウス4世死去、教皇ニコラウス5世即位。
- 1447年 - ミラノのヴィスコンティ家断絶、市民の蜂起でアンブロジアーナ共和国成立(→1450年)。
- 1447年 - ナポリのベネディクト会修道院長アントーニオ・ダ・バールガ『人間の尊厳、および人間の生の優越について』。
- 1447年 - アレッソ・バルドヴィネッティ「受胎告知」。
- 1448年 - 教皇ニコラウス5世がバチカン図書館を開設
- 1448年頃 - バルトロメオ・ファーチョ『人間の優越と卓越について』
- 1449年 - 教皇ニコラウス5世がバーゼル公会議(1431年 - )の閉会を宣言。
- 1450年 - フランチェスコ・スフォルツァが共和国政府を倒し、ミラノ公位を簒奪(→1447年)。
- 1450年頃 - 【フランス】ジャン・フーケ「フランス国王シャルル7世の肖像」。
- 1450年頃 - 【フランス】アンドレ・ディープル「パリ高等法院のキリスト磔刑」。
- 1450年頃 - 【フランドル】ロヒール・ファン・デル・ウェイデン「聖母子を描く聖ルカ」。
- 1450年頃 - 【ドイツ】シュテファン・ロッホナー「薔薇垣の聖母」。
- 1450年頃 - 【ドイツ】ライン地方で『往生術(アルス・モリエンディ)』が出版される。
- 1451年 - ニコラウス・クザーヌスが近視治療のための凹レンズ眼鏡を発明。
- 1452年 - ローマにて神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の戴冠式と結婚式。
- なお次代の皇帝はローマで戴冠式を行なわずこの伝統は途絶、ローマで戴冠した皇帝はフリードリヒ3世が最後となる。
- 1452年 - ジャンノッツォ・マネッティ『人間の尊厳と優越について』。
- 1453年 - ドナテッロ「ガッタメラータ将軍騎馬像」完成(→1434年)。
- 1453年 - 【東ローマ帝国】コンスタンティノープルの陥落(東ローマ帝国滅亡)。
- 1453年 - 【イングランド・フランス】百年戦争終結。
- 1454年 - イタリア五大国がローディの和を結ぶ。
- 1455年 - フランス国王シャルル7世の宮廷御用商人だったジャック・クールが脱獄し、ローマに亡命。
- 1455年 - 教皇カリストゥス3世がジャンヌ・ダルク裁判のやり直しを命じる(→1431年)。
- 1455年 - 【イングランド】薔薇戦争始まる( - 1485年)。
- 1455年頃 - 【ドイツ】ヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷の聖書刊行。
- 1455年頃 - 【フランス】アンゲラン・カルトン「ヴィルヌーブ・レ・ザヴィニョンのピエタ」。
- 1456年 - ヴェネツィア司教であったロレンツォ・ジュスティニアーニ死去(1690年列聖)。
- 1456年 - ウッチェロ「サン・ロマーノの戦い」(→1431年)。
- 1456年 - アンドレア・デル・カスターニョ「ニッコロ・ダ・トレンティーノ騎馬像」。
- 1457年 - 息子の汚職事件にからみフランチェスコ・フォスカリがヴェネツィア元首を辞職させられ、この年に死去。
- 1457年 - フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティがピッティ宮殿の建設に着手(ルカの死とともに1472年工事中断)。
- 1458年 - アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニが教皇ピウス2世として選出される( - 1464年)。
- 1458年 - ニコラウス・クザーヌスとトスカネッリが「円積問題」について対談する。
- 1459年 - マントヴァ教会会議で、教皇ピウス2世がオスマン帝国に対する十字軍遠征を提唱。
- 1459年 - 義兄弟関係にあるジョヴァンニ・ベリーニとマンテーニャがそれぞれ個別に「ゲッセマネの祈り」を描く。
- 1460年 - 【ギリシャ】モレアス専制公領がオスマン帝国に占領される。
- ここを支配していた東ローマ皇族で、皇帝コンスタンティヌス11世の弟トマスは逃亡し、1462年にイタリア・ローマに亡命。
- 1460年頃 - アントネロ・ダ・メッシーナ「書斎の聖ヒエロニムス」、フランドル式の油彩技法はこの画家がイタリアに招来したか。
- 1460年頃 - フランチェスコ・スクァルチォーネ「聖母子」(ベルリン国立美術館)。
- 1460年頃 - 【ポルトガル】ヌーノ・ゴンサルヴェスにより「サン・ヴィセンテの祭壇画」が描かれたか。
- 1461年 - ブルネレスキ(1446年死去)設計によるサンタ・クローチェ聖堂パッツィ家礼拝堂完成(1430年 - )。
- 1461年 - ベノッツォ・ゴッツォリ、メディチ・リッカルディ宮のマギ礼拝堂「東方三博士のベツレヘムへの旅」完成(1459年 - )。
- 1461年 - デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂サクラメント礼拝堂の祭壇完成。
- 1461年 - 【トレビゾンド】最後の東ローマ系政権であるトレビゾンド帝国滅亡。
- コムネノス家の皇帝ダヴィドはオスマン帝国に敗れて捕縛され、1463年に処刑される。
- 1461年 - 【フランス】フランソワ・ヴィヨン『遺言詩集』。
- 1461年頃 - アントニオ・フィラレーテ『建築論』。
- 1462年 - フィチーノがコジモ・デ・メディチよりフィレンツェ近郊のカレッジに別荘を与えられる。
- この時期からいわゆるプラトン・アカデミーの人文主義的サークルが動き出すか(存在の否定説もあり)。
- 1463年 - ヴェネツィアとオスマン帝国との全面戦争勃発( - 1479年)。
- 1463年 - フィチーノ『ヘルメス文書』を翻訳。
- 1464年 - 教皇ピウス2世がアンコーナで死去、後継の教皇はパウルス2世。
- 1464年 - コジモ・デ・メディチ死去、「祖国の父」の称号を贈られる。
- 後継者は息子のピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ、通称は「痛風病み(イル・ゴットーゾ)」。
- 1464年 - レギオモンタヌス『プトレマイオスの天文学大全の抜粋』。
- 1464年 - ミケロッツォ・ディ・バルトロメオによりメディチ・リッカルディ宮殿完成(1444年 - )。
- 1464年 - フィリッポ・リッピによりプラート大聖堂壁画完成(1452年 - )。
- 1464年 - アントニオ・フィラレーテ『建築論』(1461年 - )。
- 1465年 - ドメニコ・ディ・ミケリーノによるフィレンツェ大聖堂の絵画「ダンテ、『神曲』の詩人」。
- 1465年 - 【フランス】ヨハンネス・オケゲムが国王宮廷聖歌隊長となる。
- 1465年頃 - 【フランス】前ナポリ王ルネ・ダンジューの文とバーテルミー・デックの挿絵による写本「囚われし愛の心の書」。
- 1466年 - ピッティ家の陰謀事件、ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチは暗殺を逃れ、反メディチ派を鎮圧。
- 1466年 - ミラノ公の居城スフォルツェスコ城が完成する(1450年 - )。
- 1466年 - ウルビーノ伯のドゥカーレ宮殿の建設にルチアーノ・ラウラーナが着手する( - 1472年)
- 1467年頃 - アルベルティが多アルファベット換字式暗号(ヴィジュネル暗号の原型)を発明。
- 1468年 - 教皇パウルス2世暗殺未遂事件、暗殺に失敗したフィリプ・カリマクスはポーランドに亡命。
- 1468年 - カマルドリの討論会、フィチーノやアルベルティが「至高善」について討議。
- ランディーノの『カマルドリ論談』はこの時の記録。
- 1468年 - 枢機卿ベッサリオンがギリシア語写本を含む蔵書をヴェネツィアのサン・マルコ教会に寄贈。
- 1469年 - ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ死去。
- 後継者はその息子ロレンツォ・デ・メディチ、通称は「偉大なる(イル・マニフィコ)」。
- なおこの年、ロレンツォ・デ・メディチはローマの名門出身のクラリーチェ・オルシーニと結婚。
- 1469年 - ミーノ・ダ・フィエーゾレ「大司教レオナルド・サルターティの胸像」完成(1464年 - )。
- 1469年 - 【スペイン】アラゴン王子フェルナンドがカスティーリャ王女イサベルと結婚。
- 1470年 - オスマン帝国が大激戦の末、ヴェネツィア領ネグロポンテを占領(→1479年)。
- 1470年 - フェラーラのスキファノイア宮殿壁画完成( - 1469年)。
- 壁画を担当したのはフェラーラ派のコズメ・トゥーラやフランチェスコ・デル・コッサ。
- 1470年頃 - ピエロ・デル・ポッライオーロ「ある女性の肖像」(ミラノのボルディ・ペッツォーリ美術館蔵)。
- 1470年頃 - 【イングランド】トマス・マロリー『アーサー王の死』完成か。
- 1470年頃 - 【フランドル】ペトルス・クリストゥス「若い女の肖像」(ベルリン絵画館蔵)。
- 1471年 - フェラーラが侯爵領から公爵領に昇格し、エステ家のボルソの支配下に置かれる。
- 同年、ボルソ死去により異母弟エルコレ1世がフェラーラ公となり、文化振興策として多数のフランドル楽派の音楽家を招聘。
- アレクサンダー・アグリコラ、ヤーコプ・オブレヒト、ハインリヒ・イザーク、アドリアン・ヴィラールト、ジョスカン・デ・プレなど。
- 1471年 - フィレンツェに服属していたヴォルテッラから明礬の鉱床が発見される(→1472年)。
- 1472年 - ヴェネツィア貴族の娘カタリーナ・コルナーロがキプロス国王ジャック2世と結婚。
- ジャック2世が1473年に、その息子のジャック3世が1474年に死ぬと、残されたカタリーナがキプロス女王となる( - 1489年)。
- 1472年 - 明礬採掘権をめぐりヴォルテッラ市民がフィレンツェの支配に抵抗し武装蜂起(→1471年)。
- ロレンツォ・デ・メディチは司令官フェデリコ・ダ・モンテフェルトロを派遣し反乱を鎮圧する。
- 1472年 - シエナのモンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行が創業(現在営業している銀行では世界最古)。
- 1472年 - 【ロシア】モスクワ大公イヴァン3世と東ローマ皇女ソフィア(ゾエ)の結婚。
- ソフィアは東ローマ最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪で、父はトマス・パレオロゴス(→1460年)。
- この結婚はソフィアの後見人だった教皇シクストゥス4世の東西教会合同の意図が込められていた。
- 1473年 - 【ドイツ・フランス】マルティン・ショーンガウアー「薔薇垣の聖母子」。
- 1474年 - ウルビーノが伯爵領から公爵領に昇格し、モンテフェルトロ家のフェデリーコの支配下に置かれる。
- ピエロ・デラ・フランチェスカの「ウルビーノ公夫妻の肖像」はこの時期のものか。
- この時期ピエロ・デラ・フランチェスカは『算術論』『遠近法論』『五正多面体論』の三著作をウルビーノ公に献呈。
- フランドル人画家ヨース・ファン・ワッセンホフの「12使徒の聖体拝領」もウルビーノ公の依頼でこの年に完成(1465年 - )
- スペイン人画家ペドロ・ベッルゲーテの「ウルビーノ公とその子息グイドバルドの肖像画」もこの時期のものか。
- 1474年 - マンテーニャ、マントヴァのドゥカーレ宮「夫婦の間」壁画完成させる。
- この壁画にはマントヴァ候ルドヴィーコ3世・ゴンザーガの一族が描かれている、家族の集団肖像画としては最初期のもの。
- 1474年 - フィチーノ『プラトン神学』の執筆を終える。
- 1474年 - 地理学者トスカネリがコロンブスと書簡のやりとりを行い、彼のアメリカ到達へ影響を与える。
- 1475年 - トレントの血の中傷事件。
- 3歳の幼児であるトレントのシモニーノ(シモン)の失踪をユダヤ人によるものとして、彼らを処刑・追放した。
- 1475年 - アントニオ・デル・ポッライオーロ「ヘラクレスとヒュドラ」。
- 1475年 - ヴェロッキオ工房「イエスの洗礼」。
- ヴェロッキオの弟子だったレオナルド・ダ・ヴィンチが一部を担当している。
- 1475年 - 教皇シクストゥス4世の発願でシスティーナ礼拝堂の建設始まる。
- 1475年 - フィチーノ『愛について』(プラトン『饗宴』の注釈書)。
- 1475年 - ポリツィアーノ長編詩『(ジュリアーノ・デ・メディチの)騎馬試合のスタンツェ』を執筆。
- 1475年 - 【フランドル】ディルク・ボウツ「皇帝オットーの裁判」(ベルギー王立美術館蔵)。
- 1475年頃 - 【ドイツ】イスラエル・ファン・メッケネム「モリスカダンス」。
- 1476年 - ミラノのサント・ステファノ教会にてミラノ公ガレアッツォ・マリーアが暗殺される。
- 長子ジャン・ガレアッツォが公位を継承、その叔父ルドヴィーコ・イル・モーロが摂政となる。
- 1476年 - ジュリアーノ・デ・メディチの愛人シモネッタ・ヴェスプッチ死去。
- 1476年 - フィレンツェのサルタレッリ事件。
- 金工師ヤコポ・サルタレッリにからみレオナルド・ダ・ヴィンチが同性愛者として匿名で告発されるが、証拠不十分で保釈。
- 1477年 - 【ブルゴーニュ】ブルゴーニュ公シャルル突進公がナンシーで戦死。
- 1477年 - 【ブルゴーニュ】アントワーヌ・ル・モワトゥリエ帰属とされる「フィリップ・ポーの墓」( - 1483年)。
- 1478年 - パッツィ家の陰謀事件、弟ジュリアーノ・デ・メディチが襲撃され殺害される。
- 一命を取りとめた兄ロレンツォ・デ・メディチにより、フィレンツェの反メディチ家派が処刑される。
- 陰謀失敗の後、反メディチ派の教皇シクストゥス4世は、ナポリ王国と組んでフィレンツェを攻撃(パッツィ戦争)。
- 1478年 - 教皇シクストゥス4世がスペインのカトリック両王に異端審問官任免権を与える。
- 「スペイン異端審問」はスペインの王権強化の手段として発展した、異端審問所長官となったのはトマス・デ・トルケマダ。
- 1479年 - オスマン帝国との戦争(1463年 - )終結の講和。
- 1479年 - バルトロメオ・プラティナ『教皇伝』。
- 1479年 - 【ロシア】イタリア人建築家フィオラヴァンティがモスクワ・クレムリン内のウスペンスー大聖堂を建設。
- 1480年 - ナポリに単身乗り込んだロレンツォ・デ・メディチと、ナポリ王フェルディナンド1世との和平交渉成立。
- 1480年 - オトラントの戦い、オスマン帝国軍がイタリア南部に上陸( - 1481年)。
- 1480年 - ヴェネツィア派の画家ジェンティーレ・ベリーニがオスマン帝国の都イスタンブールに出向く。
- 1480年 - ヒューホー・ファン・デル・フースの「ポルティナーリの祭壇画」がフィレンツェに運ばれる(完成は1475年)。
- 1480年 - フィレンツェのヴェスパジアーノ・ダ・ビスティッチが書籍商から引退。
- 以後、没年(1498年)まで聖職者や政治家や文化人たちの想い出をまとめた『15世紀有名人列伝』の執筆にいそしむ。
- 1480年頃 - メロッツォ・ダ・フォルリによりローマのサンティ・アポストリ教会後陣の丸天井壁画「奏楽天使」完成。
- 1481年 - バチカン図書館館長バルトロメオ・プラティナが図書目録を作成、この図書館の蔵書は3500点を数えた。
- 1482年 - フェラーラ戦争で、フェラーラ公エルコレ1世・デステが教皇・ヴェネツィア連合軍と戦う( - 1484年)。
- 1482年 - オスマン帝国のスルタン・バヤジット2世の弟ジェムがキリスト教側のロドス島に亡命する。
- 1482年 - フィチーノ、「プラトン全集」翻訳完成、『プラトン神学』出版(1474年 - )。
- 1482年 - ミラノ公国摂政ルドヴィーコ・イル・モーロがレオナルド・ダ・ヴィンチをミラノに招く( - 1499年)。
- レオナルドの長期滞在はこの地にミラノ派と呼ばれる追随者を生み出す、代表はベルナルディーノ・ルイーニ(→1531年)。
- 1482年 - ペルジーノによるシスティーナ礼拝堂壁画「聖ペテロへの天国の鍵の授与」完成(1480年 - )。
- 1482年頃 - ボッティチェッリ「春(プリマヴェーラ)」(ウフィツィ美術館蔵)。
- 1482年頃 - フランチェスコ・マルティーニの『市民建築および軍事建築に関する理論書』。
- 1483年 - ルイジ・プルチ『モルガンテ』最終版出版。
- 1483年 - ヴェロッキオ「バルトロメーオ・コッレオーニ像」完成(1479年 - )。
- 1484年 - 教皇インノケンティウス8世の回勅「スンミス・デジデランテス(限りなき願いをもって)」。
- 1484年 - 世界最古のタロットカードの「ヴィスコンティ・スフォルツァ版」はこの年のもの。
- 1484年 - 【フランス】タペストリー「貴婦人と一角獣」連作(パリ中世美術館蔵)が製作されたか( - 1500年頃)。
- 1485年 - 【イングランド】薔薇戦争が終結し、ヘンリー7世が国王に即位してテューダー朝成立。
- 1485年頃 - ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」(ウフィツィ美術館蔵)。
- 1485年 - 1490年頃 - ロレンツォ・コスタ「合奏」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。
- 1486年 - ピコ・デラ・ミランドラが自選の「900の命題」をもとにローマで哲学・神学討論会を企画する。
- 1486年 - レオナルド・ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」(ルーヴル美術館蔵)完成(→1506年)。
- 1486年 - フィリッピーノ・リッピ「聖ベルナルドゥスの幻視」(バディア聖堂蔵)。
- 1486年 - カルロ・クリヴェッリ「聖エミディウスのいる受胎告知」(ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)。
- 1486年 - ジョスカン・デ・プレがローマ教皇庁礼拝堂付属聖歌隊の一員となる。
- 1487年 - 亡命ギリシア人であり、フィチーノのギリシア語の師であるヨハネス・アルギュロプロス死去。
- 1487年頃 - レオナルド・ダ・ヴィンチ「ウィトルウィウス的人体図」。
- 1488年 - ギルランダイオの工房へミケランジェロが入門する。
- 1489年 - キプロス王国の女王カタリーナがキプロスの支配権をヴェネツィアに譲渡する(→1472年)。
- カタリーナは女王の位を退いてヴェネツィアに帰国し、一市民に戻って1520年に死去。
- 1489年 - フィチーノ『三重の生について』。
- 1489年 - パオロ・コルテージ『学識ある人々について』。
- 1489年 - 古代ローマ美術の秀作「ベルヴェデーレのアポロン」が発掘される。
- 1489年 - 【フランドル】ハンス・メムリンク「聖ウルスラの聖遺物箱」(ブリュージュのメムリンク美術館)。
- 1490年 - マントヴァ公フランチェスコ2世・ゴンザーガとフェラーラ公女イザベラ・デステの結婚。
- 1490年 - レオナルド・ダ・ヴィンチ「白貂を抱く貴婦人」完成、モデルはチェチーリア・ガッレラーニ。
- 1490年 - ギルランダイオによるサンタ・マリア・ノヴェッラ教会壁画「聖母マリアの生涯」完成(1486年 - )。
- 1490年 - 【ハンガリー】ハンガリー国王マーチャーシュ1世死去。
- アルプス以北で最大と言われた蔵書・コルヴィナ文庫を残す。
- 1490年頃 - 【フランドル】ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス「荒野の洗礼者ヨハネ」(ベルリン絵画館蔵)。
- 1491年 - ミラノ公国のルドヴィーコ・イル・モーロ(バーリ公)とフェラーラ公女ベアトリーチェ・デステの結婚。
- 1491年 - ベルナルディーノ・カイミによりピエモンテ最古のサクロ・モンテであるヴァラッロのサクロ・モンテが造営される。
- 1492年 - フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチ死去。
- 後継者はその息子ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ、通称は「不運なるピエロ(ピエロ・ロ・スフォルトゥナート)」。
- 1492年 - 教皇インノケンティウス8世死去、ボルジア家出身の教皇アレクサンデル6世が即位( - 1503年)。
- 1492年 - フィチーノ、新プラトン主義哲学者プロティノスの著作『エネアデス』の翻訳を出版。
- 1492年 - 【スペイン】グラナダが陥落し、最後のイスラム国家ナスル朝滅亡、レコンキスタの終結。
- 1492年 - 【スペイン】ジェノヴァ人コロンブスのアメリカ大陸発見。
- 1492年 - 【スペイン】キリスト教への改宗を拒否したユダヤ人がスペインから追放される。
- 多数のユダヤ人が地中海周辺諸都市に亡命(→1535年)、また改宗して残留したユダヤ人はマラーノと呼ばれ蔑視された。
- 1493年 - 教皇アレクサンデル6世により教皇子午線が決定される。
- 1493年 - 【ドイツ】ハルトマン・シェーデル『ニュルンベルク年代記』。
- 1494年 - ナポリ王フェルディナンド1世死去、息子のアルフォンソ2世が後継の国王となるが、王位継承にフランスが干渉。
- 1494年 - フランス王シャルル8世のナポリ王国侵攻(→1495年)。
- 翌年までには首都ナポリを占領。ローディの和約以後、安定していたイタリア五大国体制は崩壊(1454年 - )。
- 1494年 - フィレンツェからメディチ家を追放、メディチ家の財産は没収され、メディチ銀行は破綻。
- 1494年 - ポリツィアーノ死去、ピコ・デラ・ミランドラ死去。
- 1494年 - サヴォナローラによるフィレンツェの神政政治( - 1498年)。
- 1494年 - ミラノ公ジャン・ガレアッツォ死去(毒殺説あり)、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロが公位を継承。
- 1494年 - ルカ・パチョーリ『算術、幾何、比および比例に関する全集』で複式簿記を学術的に説明。
- 1494年 - アルドゥス・マヌティウスがアルド印刷所を設け、ヴェネツィアがヨーロッパの出版産業の中心地となる。
- 1494年 - デューラーの第1回イタリア旅行( - 1495年)。
- 1494年 - 【ドイツ】セバスチャン・ブラント『阿呆船』。
- 1495年 - フォルノーヴォの戦いで、フランス王シャルル8世はヴェネツィア・ミラノ連合軍に敗北。
- シャルル8世は1年にも満たない支配でナポリを放棄、復活したアラゴン王家のフェルディナンド2世がナポリ王に即位。
- 1495年 - カプアにてオスマン帝国の帝位請求者ジェム・スルタン死去、ボルジア家による毒殺か(→1482年)。
- 1495年 - ボイアルド『恋するオルランド』出版。
- 1495年 - ヴィットーレ・カルパッチョ連作「聖ウルスラ物語」完成(1490年 - )。
- 1495年 - ヤコポ・デ・バルバリ「ルカ・パチョーリの肖像」(カポディモンテ美術館蔵)。
- 1495年頃 - ボッティチェッリ「アペレスの誹謗(ラ・カルンニア)」。
- 1496年 - ジェンティーレ・ベリーニ「サン・マルコ広場での聖十字架の行列」。
- 1497年 - ペルジーノの工房へラファエロが入門する。
- 1497年 - サヴォナローラの「虚栄の焼却」、教皇アレクサンデル6世がサヴォナローラを破門。
- 1497年 - 【イングランド】ジェノヴァ人カボット父子がカナダに到達し、ニューファンドランド島やラブラドル半島を発見。
- 1498年 - サヴォナローラがシニョリーア広場で火刑に処される(→1494年、→1497年)。
- 1498年 - レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」(ミラノ・ドミニコ会修道院)。
- 1498年 - ピントゥリッキオ、バチカン宮殿「ボルジアの間」壁画を完成させる(1493年 - )。
- 1498年 - ヴィテルボのアンニウス『古代論諸説解説』出版(後に『古代雑篇』として再編集)。
- 1498年 - 【ポルトガル】ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊、インドのカリカット(コーリコード)に到着。
- 東回りインド航路の開通に伴い、香辛料などの東方貿易を独占していたイタリア諸都市は緩やかに没落し始める
- 1499年 - フランス王ルイ12世のミラノ公国侵攻、スフォルツァ家のルドヴィーコ・イル・モーロを幽閉しミラノ占領。
- 1499年 - フランスの支援を受けヴァレンティーノ公となったチェーザレ・ボルジアがロマーニャの統一に乗り出す。
- 1499年 - フィチーノ死去。
- 1499年 - 匿名作家(フランチェスコ・コロンナ?)による『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』がヴェネツィアで出版される。
- なおグーテンベルク活版印刷の発明から15世紀末までに出された初期印刷本インキュナブラの代表作でもある。
- 1499年 - 【スペイン】フェルナンド・デ・ロハス『ラ・セレスティーナ』出版。
- 1499年頃 - 【ドイツ】ヨハンネス・トリテミウス『ステガノグラフィア』執筆。
- 1 イタリア・ルネサンス年表とは
- 2 イタリア・ルネサンス年表の概要
- 3 1500年 - 1599年
- 4 1600年以降
- 5 関連項目
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