栗塚旭 栗塚旭の概要

栗塚旭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/13 09:34 UTC 版)

くりづか あさひ
栗塚 旭
本名 栗塚 旭
生年月日 (1937-05-09) 1937年5月9日(87歳)
出生地 日本北海道札幌市
職業 俳優
ジャンル テレビドラマ・映画・舞台
活動期間 1957年 -
主な作品
テレビドラマ
新選組血風録
俺は用心棒
帰って来た用心棒

燃えよ剣
暴れん坊将軍
 
受賞
スター新人賞1966年
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北海道札幌市[2]出身。札幌市立向陵中学校京都府立洛北高校卒業。

1965年にテレビドラマで演じた土方歳三が当たり役となり、以降も多くのドラマや映画、舞台で土方を演じた。

来歴・人物

幼少のころに父を亡くし、札幌市立向陵中学校[2]を卒業するころには母も亡くしたため、教師をしていた兄夫婦を頼って1953年京都市へ移り住む[3]

高校へは編入というかたちで入学し、定時制へ1年間通ったのち、全日制へ移った[3](定時制当時は、法然院などへ来ていた映画撮影隊のロケーションを昼間の空いた時間を使ってよく観に行っていた[3])。高校では放送部に所属[3]し、部の新入生の恒例行事として参加させられた『正しい日本語講座』で講師をしていた毛利菊枝との出会いがのちに人生の転機につながる[3]。高校3年生時の文化祭では、三島由紀夫原作の『邯鄲』を上演[3]して次郎役(主役)を演じ、演出も担当した。

高校卒業後、浪人中だった1957年、予備校に通っていたが大学受験の勉強に身が入らず、毛利が主催する劇団くるみ座の稽古場へ見学に行ったところ、「イヤイヤ机に向かっているより青春を賭けるのはこっちだ[4]」と演劇にひかれ、くるみ座付属の「毛利菊枝演劇研究所」に入所。研究生を経て、1958年、正式に劇団員となった。

くるみ座に入った当初は、演劇よりも広告モデルの仕事などの方が多く、大阪そごうデパートクラボウのワイシャツなどの新聞広告・週刊誌広告のモデル仕事をこなし、髙島屋のテレビCMにも出演[5]1960年代前半期にはKHKラジオ(現・KBS京都ラジオ)の『藤井大丸テレフォンリクエスト』のディスクジョッキーを2年間ほど担当した[6]

その間、志願して毛利菊枝の付き人もこなし、毛利に付き従って映画やテレビドラマのさまざまな撮影現場に足を踏み入れ、このときの付き人の経験は「カチンコの音にも慣れ、撮影所の裏表も見ていて対処の仕方を体で覚えていたので、いざ自分がカメラの前に立っても緊張することがなかった」と、のちに自身が映像作品に出演した際に役立ったと述懐している[7]

テレビドラマは、日本電波映画東伸テレビ制作の作品に脇役で何本か出演した後、1964年(昭和39年)に「栗塚旭を明智光秀役で使いたい」と東映から劇団へ連絡が入り[3]NET東映京都テレビプロダクション制作の品川隆二主演『忍びの者』で光秀役に起用され、そこで監督の河野寿一や当時はまだ助監督だった松尾正武らと出会う。その後、同社制作の『つむじ風三万両』、『六人の隠密』、『柳生武芸帳』と、東映京都テレビプロ作品に立て続けにゲストで起用された。

1965年の『新選組血風録』で主役の土方歳三役に抜擢ばってきされ、これが「栗塚=土方」のイメージを決定づけるハマリ役となって評判を呼び、ニヒルな演技と風貌で人気を集め、生涯の当たり役となった[1]。一説によれば、原作者・司馬遼太郎からじきじきに「あなたが土方歳三だ」と称賛されたという[8]

1966年(昭和41年)に京都市民映画祭『テレビ部門主演男優賞』と日本映画製作者協会「スター新人賞」を受賞し、その後も脚本家・結束信二と河野寿一監督、松尾正武監督らの手による『われら九人の戦鬼』、『俺は用心棒』、『帰って来た用心棒』、『用心棒シリーズ 俺は用心棒』、『天を斬る』、『燃えよ剣』などの東映京都テレビプロ作品やTBSテレビ松竹制作の『』といったテレビ時代劇、さらに『ばってら』、『商魂』などの現代劇でも主演を務めた。

一方、松竹映画では『映画版・おはなはん(第1部・第2部)』、『春日和』、『女の一生』などで準主役を務め(岩下志麻の相手役を演じた。)、『釧路の夜』、『霧のバラード』などでは主演を務めた。1978年(昭和53年)から始まった『暴れん坊将軍』シリーズではセミレギュラーの山田朝右衛門役を20年近くにわたって演じた。

1968年(昭和43年)末に劇団くるみ座を退団[2]。俳優業のかたわら、京都哲学の道沿いに購入した300坪[9]の自宅の敷地内で1972年(昭和47年)4月[2]より喫茶店「若王子」を経営していた。しかし長年にわたって店を手伝っていた兄嫁の他界[10]などの諸事情により2002年平成14年)1月に閉店した。

2004年(平成16年)のNHK大河ドラマ新選組!』では、土方歳三の実兄・為次郎役として出演。ドラマ収録時に会った土方歳三役の山本耕史の年齢(当時27歳)が、自身が土方を演じた当時の年齢とほぼ同じなのを知り、「何も恐れることはないし、堂々と演じたらいい」と励ましのエールを送ったという[3]

2005年(平成17年)、主演映画『二人日和』(監督:野村恵一)が岩波ホールでロングラン上映され、同作品は第5回ニッポン・コネクション(ドイツ・フランクフルト日本映画祭)グランプリ、第60回毎日映画コンクール技術賞、第25回藤本賞奨励賞、第2回おおさかシネマフェスティバル撮影賞を受賞した。作品は現代の京都を舞台に、神主や京都御所関係の神官装束を作り続けてきた、栗塚演じる寡黙な伝統職人と、長年連れ添った余命いくばくもない妻(藤村志保)との夫婦の機微が描かれた。

2006年(平成18年)から2009年(平成21年)にかけ、CS時代劇専門チャンネルにて往年の主演ドラマ『新選組血風録』、『燃えよ剣』、「用心棒シリーズ」、『天を斬る』やその他の出演作品が再放送されたことをきっかけに、当時からのファンはもとより、栗塚の全盛期を知らない新たなファン層からも大きな反響を呼び、時代劇専門チャンネル公式ホームページ内には栗塚ファンに向けての専用掲示板が別個に設置されるなど、異例ともいえるほどの好評を博した。

このときの人気再燃ぶりは、読売新聞夕刊2007年(平成19年)12月12日)でも「土方歳三役・栗塚旭ブーム再燃 若い女性層にも広がる」という記事として取り上げられ、その後も時代劇専門チャンネルの広報番組や特別企画番組にゲストとしてたびたび出演するなど、時代劇専門チャンネルのマスコット的な存在となっている。

2017年、100年以上前の日本の着物や古布などの素材をリメイクする洋服ブランド「PXGXF」のモデル[11][10]を務めた。

2018年9月4日、25年ぶりという強い勢力で近畿地方へ上陸した超大型台風21号により自宅の茶室がつぶれ、母屋も半壊して居住出来ない状態になったことから京都市左京区北白川の四階建てビルを購入し転居[10][12]。2019年8月にマスコミの取材を受けた段階ではビルの1、2階部分を栗塚旭記念館[10][9]に、鏡張りの3階は稽古場[9]にする予定で、ファンの遺族から贈られた資料や「兄嫁の行李の中から僕が昔使っていたものが出てきた。大切にとっておいてくれたんです[10]」と語る思い出の品も引っ越しの整理中に見つかり、展示物を選定中[10]だという。

2020年(令和2年)、CDドラマ「土方歳三 劫火の士道 多摩のバラガキ・池田屋事変編」に八木源之丞役で特別出演。

2020年4月、年上の知人が作った[9]という数十年ぶりとなる新曲「ただそれだけで / My Only Love」のCDをリリースした[13]。その前年に受けた取材では「誰にでも口ずさみやすい曲なんですよ。いまの新曲って若い人向けの曲ばかり。我々世代の曲がない。実際にどうなるかはわからないけど80歳を過ぎてCDを出すというのは夢があるじゃないですか[9]」と語っていた。

2022年、子供の運動障害を予防啓発する短編動画「ケガ予防時代劇・肘肩腰三!」に出演。新選組の隊服に身を包み、土方歳三を思わせる肘肩腰三の役を演じた[14]。動画には東映剣会の有志も出演しており、「子供のけが予防チャンネル 京都整形外科医会」の公式YouTubeチャンネルで全5回分が公開されている。

現在も関西を中心に活動している。

エピソード

  • ニヒルでクールな役柄が多いが、性格は全く正反対のネアカであり、自他ともに認める笑い上戸(本人いわく「ゲラ」)。そのため『新選組血風録』の収録のとき、監督の河野寿一から「おまえは喋るな、動くな、笑うな[15][16]」ときつく演技指導されていた[16]
  • 『新選組血風録』の企画書には当初、栗塚旭は篠原泰之進役に想定され、土方歳三役は品川隆二[17][18]であったという。同時期に仕事が入ったことで品川が降板、栗塚が土方役に選ばれたという。ただし、プロデューサーの上月信二の証言[要出典]によれば、当時このような事実はなかったとのことで、この話を否定しているが真偽は不明である。
  • 幼少のころは、音楽・映画・演劇鑑賞や絵を描くことは好きだったが、学校の体育の授業をほとんど見学で過ごすほど体力がなく、学芸会で何かやれと言われると泣いてしまうような子供だったという[3]。本人いわく「映画少年」で、学校を休んで映画を観に行き、映画館から出てきたところを先生に見つかって怒られたこともあった[16]。映画・芝居好きは舞台や映画館によく連れて行ってくれた母や祖母の影響[19]。中学卒業の頃にその母を亡くして京都の兄夫婦の元へ引っ越した際は『日本のハリウッド』と呼ばれた京都に住めることが嬉しく、その思いが母を亡くした悲しみを乗り越えさせたという[10]
  • 高校時代は学校が終わると鞄を置いて嵐電に乗って東映太秦撮影所へ行き[20]、撮影所内を覗いては近くに行き過ぎて守衛に追い払われたり[21]しながらも、撮影所内を歩く桜町弘子花園ひろみ丘さとみなどの東映お姫さま女優たちを見かけることもあった[22]。「まさかそんな人たちと共演できるなんて考えてもみなかった[23]」と2001年のインタビューで振り返っている。
  • 『新選組血風録』の原作者・司馬遼太郎は、自身の原作を元に1963年(昭和38年)に制作された市川右太衛門主演の東映映画『新選組血風録 近藤勇』の内容に不満を持っており、当初は東映によるテレビドラマ化には難色を示していたが、司馬とは新聞社で同僚[24]だった東映の田村嘉プロデューサー[25]が「新選組の生きた人間像を描きたい[19]」と熱心に説得したこともあって態度を軟化させ、さらに司馬を納得させるために田村プロデューサーが嵐山の料亭[26][19]で土方の扮装[27][19]をさせた栗塚を司馬夫妻に引き合わせたところ、夫妻は「いい青年ですね[19]」と満足そうな様子を見せ、司馬は「頑張って下さい[28]」と栗塚を励まし、栗塚が持参した原作本にサインをしてくれたという[29]
  • 『新選組血風録』で共演した坂口祐三郎は、栗塚の素顔はナヨナヨした人で、撮影中すぐに機嫌が悪くなる監督の河野寿一の機嫌をとるために2人でオネエ言葉で会話しながらふざけてみせると、それを見た河野が「こいつら、またそんなことやって」とあきれながらも機嫌がよくなって撮影が早く進むため、ダレているときや撮影を急がなければならないときは、河野の前でオネエ会話を2人でやってくれと、助監督の松尾正武から頼まれたと著書で述べている[30]
  • 現在にいたるまで独身であるが、トークショーイベントの中で、「土方さんに殉じています」と語っている。2019年の取材では「以前は『独身は土方に殉じて』と言っていましたが、忙し過ぎて結婚できなかっただけ」と茶目っ気タップリに語っている[10]
  • 京都と東京を往復していた多忙な頃は、飛行機と新幹線の中だけが睡眠時間で何年も布団の中で寝れなかったという[10]
  • かつては「栗塚旭=土方歳三」のイメージが世間に定着したことが不満で悩んだ時期もあったが、2019年の取材には「土方しかできない役者だとレッテルを貼られたこともあります。だけどレッテルは代表作ともいえる。役者として代表作があるのは、むしろありがたいですよ[9]」とにこやかに語っている。
  • 時代劇専門チャンネル情報番組『瓦版』の1コーナー「時代劇体操」のテーマソングである「あっぱれ!みなさま」の歌詞の合間には、時代劇専門チャンネルでも再放送された栗塚主演のテレビドラマ『天を斬る』の主題歌中に流れる栗塚の発したものと同じ「斬る!」という短い台詞が入るが、これはこの曲(CHINO版・瀬川瑛子版ともに)のために新たに録り下ろした栗塚自身の声である。また、2012年12月からリニューアルされた「時代劇体操」のNEWバージョンには、歌う瀬川瑛子の後方にある高い台の上に置かれた大型テーブルの前でターンテーブルミキサーを動かすクラブDJのような動き(スクラッチ)を見せて踊る「DJ土方」役として出演。久しぶりに土方の扮装をする依頼を受けて最初は丁重に辞退したものの、自分が死んだときの遺影写真が何もないので冥土のみやげに一度扮装をして末期まつごのときには飾らせてもらおうと思って参加させていただいた、とインタビューで語った[31]
  • 上記の台風で半壊した旧宅の敷地に置かれたままになっていた御影石の観音像(「土方役で多くの人を斬ったので、その供養に」と1970年頃に庭へ設置した物[13])を2020年に壬生寺に寄贈[13]した。台風後に引っ越したものの、庭の観音像はその大きさのために移動できず置かれたままになっていたが、栗塚が壬生寺で講演を行った際に住職に相談し[13]、同寺への寄贈が決まった。栗塚も取材に対し「土方を演じてきた私の観音様なので、壬生寺という場所に収めていただけたのは何より。コロナが収まり、また新選組のファンの方が壬生寺を訪れたときに観音様も一緒にお参りしていただけたら[13]」と語った。観音像は新選組局長近藤勇の遺髪塔や胸像、局長芹沢鴨の墓のすぐ側に設置[13]された。

  1. ^ a b c d 「"出を待つ"新年度の新人スターたち 松竹、各人のキャラクターを活した企画に留意 ☆栗塚旭」『映画時報』1967年1月号、映画時報社、36–37頁。 
  2. ^ a b c d キネマ旬報社 編『日本映画人名事典』 男優篇 上巻、キネマ旬報社、1996年、575頁。ISBN 4-87376-188-3 
  3. ^ a b c d e f g h i 「新撰組と私」『洛北高校同窓会誌 あかね』第42号、洛北高校同窓会、2004年。 
  4. ^ 黒須洋子 2000, p. 224
  5. ^ 黒須洋子 2000, p. 225
  6. ^ 黒須洋子 2000, pp. 226–227
  7. ^ 黒須洋子 2000, p. 226
  8. ^ 新選組血風録(主演:栗塚旭)”. 時代劇専門チャンネル. 2021年10月22日閲覧。
  9. ^ a b c d e f 土方歳三役で一世を風靡した栗塚旭、82歳のいまも現役!元気の秘訣は… デイリースポーツ(まいどなニュース)2019年8月13日配信
  10. ^ a b c d e f g h i ミスター土方歳三役 俳優・栗塚旭は記念館設立目指す デイリースポーツ 2019年8月12日配信
  11. ^ 栗塚 旭さんが PXGXF公式HP 2017年10月26日閲覧
  12. ^ 栗塚氏の英断 PXGXF公式HP 2019年8月21日
  13. ^ a b c d e f 土方歳三俳優 栗塚旭、新選組ゆかりの壬生寺に観音像寄贈 デイリースポーツ 2020年6月1日配信
  14. ^ 栗塚旭・阿比留昭太 主演 時代劇映像「肘肩腰三!」のツイート2022年7月28日閲覧。
  15. ^ 西口徹 2001, 横山登美子「燃えよ剣を観る」 p=137
  16. ^ a b c ラジオ深夜便 サンデートーク(2004年、NHKラジオ第1)
  17. ^ ペリー荻野の月刊「旭ジャーナル」第5回 栗塚さんもびっくり「土方は別人を予定!?」 時代劇専門チャンネル 2024年7月13日閲覧
  18. ^ 黄金の「昭和テレビ時代劇」主役をオール直撃! アサ芸プラス 2017年9月7日配信
  19. ^ a b c d e 燃えよ新選組 2003, 「特別インタビュー 栗塚旭語る」 p. 47
  20. ^ 西口徹 2001, p. 132
  21. ^ 西口徹 2001, p. 132
  22. ^ 西口徹 2001, p. 132
  23. ^ 西口徹 2001, p. 132
  24. ^ 西口徹 2001, p. 120
  25. ^ 西口徹 2001, p. 120
  26. ^ 黒須洋子 2000, p. 232
  27. ^ 黒須洋子 2000, p. 232
  28. ^ 黒須洋子 2000, p. 233
  29. ^ 黒須洋子 2000, 「キャスト・インタビュー 栗塚旭」 pp. 232-233
  30. ^ 坂口祐三郎 1999, p. 82
  31. ^ 時代劇専門チャンネル「時代劇ニュース オニワバン!」第5回(2012年12月放送)
  32. ^ NHKクロニクル - 検索結果”. NHK. 2024年7月7日閲覧。
  33. ^ NHKクロニクル - 検索結果”. NHK. 2024年7月7日閲覧。
  34. ^ NHKクロニクル - 検索結果”. NHK. 2024年7月7日閲覧。
  35. ^ NHKクロニクル - 検索結果”. NHK. 2024年7月7日閲覧。
  36. ^ NHKクロニクル 検索結果”. NHK. 2024年7月7日閲覧。


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