三味線
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歴史・関連楽器
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三味線は楽器分類学上「リュート属」に属し、その中でも胴に長い棹を差し込んだ形状をしており、このような楽器は世界各地に見られ、ギターやシタールも同じ仲間と見なされている。いっぽう同じリュート属でも琵琶やリュートなど棹と胴が一体化もしくはそれに近いものとは別の系統とされる。
楕円形の胴に革を張り、棒状の長い棹を取り付けたリュート属弦楽器は、すでに古代エジプトの壁画に見られる。しかしこれが三味線の直接的な祖先かどうかは分からない。一方同じような楽器が中国秦代にも現れ、やがて奚琴となり、トルコ族によって中東に伝えられてラバーブになった。このラバーブが後に中東及びイラン(ペルシャ)のセタールとなったという説がある(胡弓演奏家・原一男による「擦弦楽器奚琴起源説」)。セタールは「3つの弦(糸)」の意であり、これが三味線の祖先とされる。のち中国に入り、三弦(サンシェン)が生まれる。 琉球王国(現在の沖縄県)と中国大陸(福州)との貿易により琉球にもたらされ、宮廷音楽に採り入れられて三線(サンシン)となった。そのため、沖縄県では「サンシン」と「シャミセン」との二つの呼称が併存している。
16世紀末、琉球貿易により堺に宮廷音楽や三線がもたらされ、堺の琵琶法師の仲小路(なかのこうじ)により琉球の“
こうして軽重哀楽の幅広い表現が可能となった三味線を用いて、江戸時代に入るとすぐ石村検校らにより最初の三味線音楽種目である地歌が生みだされた。また、語り物である浄瑠璃の伴奏楽器として取り入れられ、以降の三味線音楽は「歌いもの」「語りもの」の二つの流れに分かれ、さらに分化を繰り返して発展していく。都市の芸術音楽から流行歌、やがて地方の民謡にまで盛んに使われるようになり、様々な近世邦楽をリードし、支え、改良が加えられ、三味線は日本を代表する弦楽器となった。
江戸時代後期、文政年間に長崎の出島に滞在したオランダ商館長のヘルマン・フェリックス・メイラン(在職: 1826年 - 1830年)は、日本の音楽事情について「楽器の中では三味線が一番ひろく用いられる」と記している[8][9]。
- ^ 三味線について|高橋栄水のウエブサイト、2024年2月22日閲覧。
- ^ 「動物皮使わない三味線/葛飾の工房開発/合成紙を代用 欧米からの観光客に人気」『読売新聞』読売新聞社、2018年4月11日、朝刊、都民面。オリジナルの2018年4月14日時点におけるアーカイブ。
- ^ 石井宏樹 (2022年5月14日). “「人工皮革」使い三味線らしい音質を実現 工房営む中野貴康さん開発「動物の皮に頼っては未来ない」”. 東京新聞 TOKYO Web. 中日新聞東京本社. 2022年5月17日閲覧。
- ^ a b 田中, 他 編著 2009、p. 102。
- ^ 「MJ 無線と実験」編集部 編『無線と実験 一九二四 – 一九三五』(復刻ダイジェスト版)誠文堂新光社、1987年6月、29頁。ISBN 4416187130。
- ^ “三弦 海を越えて—アジアから日本へ—|ステージなび”. [どらく] DO楽. 朝日新聞社. pp. 1-2 (2012年9月21日). 2012年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月23日閲覧。
- ^ 伊敷 賢『琉球王国の真実 : 琉球三山戦国時代の謎を解く』琉球歴史伝承研究所、2013年1月、232頁。ISBN 9784990444822。
- ^ 倉田喜弘 1994.
- ^ G.F.メイラン 著、庄司三男 訳『メイラン 日本』 丸善雄松堂〈新異国叢書 第III輯 1〉、2002年1月。ISBN 4-8419-0293-7
- ^ 三味線島(沙弥島・瀬居島(町))の秋|一般社団法人 坂出市観光協会 - Facebook
- ^ hiroyoshi (2017年5月27日). “三味線橋”. 道中は三味線. 2024年2月22日閲覧。 “もう少し暗渠沿いに歩くと、タイルで制作されている中野区による「三味線橋の由来」が道端にはめ込まれていた。”
- ^ 永山 (2011年5月24日). “三味線堀跡”. 東京都台東区の歴史. 2017年4月3日閲覧。
- ^ “検索結果:「三味線堀」”. 江戸マップβ版. ROIS-DS 人文学オープンデータ共同利用センター. 2024年2月22日閲覧。
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