震災後
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大正12年(1923年)関東大震災で浅蜊河岸の本店は焼失し、直後に京都から宮大工を呼んで木造2階建店舗を新築するも、震災復興再開発事業により土地が収公され、翌年現在地の木挽町八丁目に移転した。 大正15年(1926年)丸ノ内ビルヂング1階北側角にスタンドバー付きの和食店を出店した。その後も多店舗展開を進め、昭和初期には以下の東京14軒、大阪10軒の支店が存在した。 東京 body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}銀座西店 - 京橋区銀座すずらん通り入口 銀座東店 - 京橋区尾張町 京橋支店 - 京橋区南伝馬町三丁目5番地第一相互館2階 丸ビル支店 - 麹町区永楽町一丁目1番地丸ノ内ビルヂング1階 丸の内支店 - 麹町区有楽町一丁目東京商業会議所横 有楽町支店 - 麹町区有楽町名物食堂3階 浜町支店 - 日本橋区浜町二丁目21番地明治座隣 新宿支店 - 淀橋区高野果実店(新宿高野)地階 内幸町支店 - 麹町区内幸町高千穂ビル地階 歌舞伎座支店 - 京橋区木挽町三丁目歌舞伎座1階 東劇支店 - 京橋区築地四丁目14番地東京劇場1階 明治座支店 - 日本橋区浜町二丁目21番地明治座3階 東京宝塚劇場支店 - 東京宝塚劇場4階 有楽座支店 - 有楽座3階 大阪 東区瓦町支店 北区渡辺橋支店 南区湊町支店 阪急百貨店内食堂 綿業倶楽部(綿業会館)内食堂 道頓堀三笠屋食料品店(三笠屋百貨店)内食堂 他4軒 多くは岸田劉生は昭和初年の状況を、「竹葉は、有名だが、この頃は食堂風になってしまって、電車道を越した向横町にも出来た。この節は万事御手軽が流行だが、この御手軽という事は何も今はじまった事ではなく、徳川の中期以前から流行したものである。(中略)その他まぐろさしみのぶつ切りや、茶めしの流行など、この御手軽というものはいつもかわらぬ流行で、またこの御手軽主義から、中々御手重料理にはないうまいものが発明されて行く。」と書いている。 また、この頃高浜虚子は丸ビルに事務所を構え、丸ビル店にも通っており、当時の状況を伺うことができる。なお、震災後、丸ビルの食堂では群衆が殺到し、日本初の食券制が導入されていた。 十一時半になると丸ビルの地階、一階、九階の食堂が皆開く。一階の西北隅の竹葉の食堂にはいる。まだ誰も客のいないテーブルの一つに陣取る。ここの壁や柱には万葉の歌が沢山に書いてある。見るともなしにそれを見る。 誰か園の梅の花ぞも久方の清き月夜にこゝだ散り来る ほとゝぎす来啼きどよもす橘の花散る庭を見む人や誰 天の川霧たちわたり彦星のかぢの音聞ゆ夜の更け行けば 今朝啼きて行きし雁金寒みかもこの野のあさぢ色づきにける あが宿の秋萩のへに置く露のいちじろしくもあれこひめやも 率直なる感情を高朗なる調子でうたう万葉の詩人をなつかしく思う。柱の下の瓶には薄紅梅が生けてある。その薄紅梅の花を見ると平安朝の大宮人を連想する。(中略)六十銭のうなどんの食券を女中に渡す。(中略)鰻丼が出来て来た。薄紅梅が一輪散った。
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震災後
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1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災によって、2000系は8編成中5編成30両が被災した。被災編成と被災箇所およびその後の経過については以下のとおり。なお、本系列は同一系列中半数以上の車両が被災しており、全編成が被災した5261形1次車に次ぐ高い被災率である。 2201F:三宮発高速神戸行き急行として運行中、三宮駅 - 元町駅間走行中に被災。車体が側壁および間柱に衝突して全車破損。 2207F:御影駅1番線留置中に被災、脱線。 2211F:石屋川車庫11番線留置中に被災、脱線。 2213F:石屋川車庫7番線留置中に被災、脱線。 2215F:石屋川車庫9番線留置中に被災、脱線。 被災各編成の経過は以下の通り。被災30両のうち、12両が廃車となった。 2201Fは神戸市内地下線復旧工事に伴い、西灘駅西方の地上区間に搬出。その後大阪市西淀川区の埋立地に設けられた仮設の被災車両置き場に搬入、7月6日付で廃車。 2207Fは脱線復旧後、青木駅 - 御影駅間の復旧に先んじて尼崎車庫に収容、5月15日復旧。 2211Fは仮設の被災車両置き場搬出後、尼崎車庫に搬送のうえ修繕。2012 - 2112 - 2212が4月19日に、2211 - 2111 - 2011が4月26日に復旧。石屋川車庫被災車の復旧第1号となった。 2213F・2215Fは仮設の被災車両置き場搬出後、2213・2013・2014・2115が3月31日付で、2114・2214が7月6日付でそれぞれ廃車となった。2213F中ただ1両残った2113を、2215Fで唯一廃車となった2115の位置に組み込んで修繕を実施、2215 - 2113 - 2015が7月17日に、2016 - 2116 - 2216が7月20日に復旧して新2215Fを組成した。 震災後の本系列は2編成減の6編成36両となり、震災後に緊急投入された9000系や8000・3000系などとともに従前どおり急行系車両の主力として運用された。この間、震災前から行われていた先頭車へのスカート取付工事は継続して施工され、全編成への装着が完了した。 震災復旧後、集電状況の長期試験として編成中3基のパンタグラフのうちの1基を上げずに2基のみで運用したところ、パンタグラフ離線による回生ブレーキ失効等の悪影響は発生しなかった。このため、1997年以降全般検査に入場した車両から旧7001形M1車改造の2101形奇数車に2基搭載されているパンタグラフのうち神戸方の1基を撤去する改造を実施、全編成とも施行された。
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震災後
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1996年(平成8年)4月3日には移動図書館車を4台目車両に更新した。1999年(平成11年)9月1日にはインターネットによる蔵書検索(OPAC)と図書のネット予約サービスを開始。2000年(平成12年)7月1日にはデジタル録音図書(デイジー図書)の貸出を開始した。2002年(平成14年)には「子どもの読書活動優秀実践図書館」として文部科学大臣表彰を受けた。2003年(平成15年)3月28日には移動図書館車の運行を終了した。 なお、1996年2月19日には芦屋市立図書館図書館友の会が発足し、2004年(平成16年)10月1日には芦屋図書館ボランティアの会が発足している。
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震災後
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震災直後の2011年4月には、滋賀県東近江市から移動図書館車「やまびこ号」と5,000冊(児童書3,500冊・一般書1,500冊)の図書が寄贈された。この車両は東近江市がかつて廃車として保管していた車両であり、図書は2011年度末の整理で捻出したものだった。陸前高田市はこのうちの約1,000冊を「やまびこ号」に積み込み、7月20日から移動図書館の運行を再開した。9月から本格的なサービスを開始し、学校、避難所、保育園、病院などを巡回している。 2012年6月にはイタリアの海運会社であるダミコ(D'amico)社から移動図書館車(2代目「はまゆり号」)が寄贈され、7月には移動図書館活動を本格的に再開し、巡回場所を仮設住宅12か所を含む39か所に増加させた。。在日イタリア人を中心とする有志が設立した団体が窓口となっており、発起人の親族が陸前高田市在住だったことから支援先が決定したものである。2代目「はまゆり号」は左右両側に本棚を配置しており、小説・絵本・実用書など約1,700冊を収容する。「はまゆり号」はリクエストなどを基にした様々なジャンルの書籍を積み込み、小中学校などの教育機関や仮設住宅を巡回している。2013年8月時点で、陸前高田市立図書館は2台の移動図書館車を用いて市内の42か所を巡回している。 市立図書館以外では、シャンティ国際ボランティア会が軽トラックを改造した車に図書を積み込んで陸前高田市内の仮設住宅などを巡回した。陸前高田市コミュニティ図書室も手掛けるシャンティは移動図書館を重要視しており、陸前高田市に加えて大船渡市、大槌町、山田町を巡回している。被災した自治体では陸前高田市のほかに、北海道岩見沢市から宮城県名取市に、宮城県角田市から宮城県南三陸町に移動図書館車が寄贈され、熊本市から宮城県東松島市に移動図書館車が無償貸与されている。
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震災後
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ビルも津波被害に遭ったが奇跡的に無事に残り、調査によれば耐久性にも問題がなかった。震災後、周囲に残った建物は解体され始め米沢も公費でのビル解体を勧められたが、家族の形見であり自身の「命の恩人」でもあるビルをなんとか残したいと考えていた。妻の後押しと周囲の要望もあってビルは残すことになり、ビルは震災遺構として有名になった。米沢商店は復興庁からの支援対象になった陸前高田市の「まちなか再生計画」によって再建した。米沢商会ビルの遺構については、米沢は「津波被害に限らず、常に防災意識を持ち続けようという思いが伝われば」として自費での維持を継続する。陸前高田市の中心街はかさ上げ地の上に再建され、米沢商会ビルはかさ上げ地の手前にあって震災前の面影を伝えている。米沢商会ビルは震災を伝える実物教材として、地元小学校の防災教育に活用されている。
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震災後
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「アビゲイル・ウォッシュバーン」の記事における「震災後」の解説
2008年の四川大地震の支援経験に触発され、2009年5月にはShanghai Restoration Projectに参加し、Afterquakeという音楽プロジェクトを設立。震災1周年の2009年5月12日、チャリティーEPをリリース。二週間にわたって、ウォッシュバーンとDave Liangはプロジェクトのプロデュースとレコーディングを行った。これは学生の声と、震災地の音と演奏とをミックスするものである。
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震災後
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「リスボン地震 (1755年)」の記事における「震災後」の解説
国王一家は、運の強いことに震災においてけがひとつしなかった。国王ジョゼ1世らは、当日未明にリスボンを出て日の出の時刻にミサに出席したあと、王女の願いを聞いて街から離れ、祭日を過ごそうとしていたのである。ただ地震のあと、ジョゼ1世は壁に囲まれた空間に対する恐怖症となり、破壊された宮殿には戻らず、宮廷を郊外のアジュダの丘に立てた大きなテント群に移した。ジョゼ1世の閉所恐怖症は死ぬまで治らず、娘のマリア1世の時代に木造幕舎が火災に遭うまで宮殿は造られなかった(テント宮殿の焼け跡にマリア1世はアジュダ宮殿を建て、今日まで残っている)。 宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(のちのポンバル侯爵)は王室同様に地震を生きのびた。彼は地震直後「さあ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる。彼は、後年ポルトガルに君臨したときと同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建に取りかかった。彼は消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理するよう軍隊に命令した。教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。廃墟の町に無秩序、特に略奪が広がるのを防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、30人以上の人々が処刑された。軍隊は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。震災直後は物資不足が問題となったが、まもなくリスボンに在住していた貿易商などの外国人によってヨーロッパ各地に震災の被害が報告されたため、彼らを支援するための物資がリスボンに集まり、復興物資を確保することができた。 震災からまもなく、宰相と王は建築家や技師を雇い、1年以内にリスボンから廃墟は消え、いたるところが建築現場になった。王は新しいリスボンを、完璧に秩序だった街にすることにこだわった。大きな広場と直線状の広い街路が新しいリスボンのモットーとなった。今では「麗しのリスボン」といわれる。当時、こんな広い通りが本当に必要なのかと宰相に尋ねた者もいたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答えた(現在のリスボンの交通混雑は、彼の先見性を示している)。 当時、宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は、ヨーロッパ初の耐震建築でもある。まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられた。こうしてリスボンの新しいダウンタウン、通称「バイシャ・ポンバリーナ」(ポンバルの下町)が作られ、新興階級であるブルジョアジーが都市中心部に進出していった。アルガルヴェ地方のスペイン国境付近にあるヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオなど、ポンバル侯爵のリスボン都市計画を応用して再建された都市はポルトガル各地にある。
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震災後
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1995年1月の阪神・淡路大震災後、親族のいる千葉県に移り、芸歴を引退した。2009年5月3日多臓器不全のため死去。享年93歳。
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震災後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 07:40 UTC 版)
2011年5月、台湾の企業3社より宮城県内沿岸4地区へ、消防車と救急車が寄贈され、消防車は遠藤の名をとって「未希号」のプレートが掲げられた。 震災から半年後、当時の内閣総理大臣である野田佳彦が所信表明演説が遠藤を引き合いに出して、「この国難のただ中を生きる私たちが、決して、忘れてはならないものがあります。それは、大震災の絶望の中で示された日本人の気高き精神です」「自らの命さえ顧みず、使命感を貫き」「身をもって示した、危機の中で『公』に尽くす覚悟」と称えた。翌2012年には埼玉県の公立の小中高校で使われる道徳の教材に「天使の声」と題して、使命感や社会へ貢献する心を教える物語として掲載された。 しかし野田の演説に対しては、遠藤の父により「尽力した職員はたくさんいるのに、どうして娘だけ名前を挙げるのか」と疑問の声があった。道徳の教科書にしてもインターネット上では違和感の声があり、「『予備電源とJ-アラート自動放送がついた防災無線を装備しましょう』という結論にはなりません」などの意見もあった他、震災からわずか1年後に発行することについて「そっとしておいてほしいというのがご遺族の気持ち。表に出してしまってもいいのか」「ご遺族や関係者の許可がとれるだろうか」といった懸念の声もあった。 震災に遭った防災対策庁舎は、遠藤の母が「解体されると、津波の高さが分かる物が無くなり、震災が風化する」と憂慮していたところ、宮城県が震災20年後の2031年3月まで同庁舎を所有し、管理する「県有化」を提案し、南三陸町は当面「震災遺構」として保存することで合意した。 震災から3年後、彼女の両親は彼女のことを語り継ぐための場として民宿を始める。民宿の名は彼女の名をとり、「未希の家」と名付けられた。
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