震災後の声風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:10 UTC 版)
震災から8日目に市川の兄の家に辿りついた。隅田川の亡骸は伝馬船に引き上げられて火葬された。生き残った木歩の兄や姉妹たちがその火葬の灰のひと握りを求めて、その十月に富田家父祖の菩提寺小松川最勝寺の墓に埋めた。戒名「震外木歩信士」。 三十五日の法要に墓前に集まったのは姉妹と声風たち俳友、門弟、そして木歩のながい間の片恋の妓の小鈴の姿もあった。その寺、最勝寺墓地に木犀が咲いていた。「木犀匂ふ闇に立ちつくすかな」は声風のその日の一句である。 木歩をあの地獄の墨堤に残さなければならなかった瞬間から、自分の詩魂は衰えたと言い、木歩の詩魂を生かし世に伝えるために、後半生を費やした。 木歩の最後の文章『すみだ川舟遊記』は、原稿のまま印刷所で焼失してしまった。こうした悪条件の中で声風は、木歩の作品の散失を防ぐために、木歩の作品の載っている雑誌類を集め、書いた。その甲斐あって、1934年(昭和9年)に「木歩句集」、「木歩文集」、1935年(昭和10年)に「富田木歩全集」、1938年(昭和13年)に「定本木歩句集」、1964年(昭和39年)に「決定版富田木歩全集」などが世に出た。 また、墨田区向島2丁目に、三囲(みめぐり)神社がある。境内には富田木歩の句碑もある。 富田木歩句碑は震災から一周年に、全国の俳人有志60人が浄財を出して、木歩の慰霊の為に建てたものである。建立の日、9月14日には木歩の兄金太郎、姉富子、妹静子も列席したという。句碑は社の裏手、銀杏の大木の前にある。句碑の書は臼田亞浪による。表面には「夢に見れば死もなつかしや冬木風 木歩」、裏面には「大正拾参年九月一日震災の一周年に於て木歩富田一君慰霊乃為建之友人一同」と刻まれている。 1989年(平成元年)3月に、富田木歩終焉の地である枕橋近くに、「かそけくも咽喉(のど)鳴る妹よ鳳仙花 木歩」との句碑が墨田区によって建立された。 声風亡き後も、木歩を偲ぶ会と、追善法要並びに追悼句会は、毎年、命日の9月1日前後の日曜日に、最勝寺の住職や地域の俳人によって小松川の最勝寺で催されている。
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