琉球王国
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琉球王国(りゅうきゅうおうこく、沖縄語:
注釈
- ^ 中山王としての即位は1421年である
- ^ 形式上は琉球国の領域とされるも直轄統治を受け事実上割譲された奄美群島を除く。また、島津氏による軍事行動を除き、琉球の人民の検束などは「掟十五条」に反するものであっても、代官でも無闇にできるものではなく、例えば貿易に関する不正があった場合も捜査、取り調べおよび検束は琉球王府に断りを入れてする必要があった。
- ^ 建国当時はマジャパヒト王国との交易があったことが知られているが、明のムスリム・鄭和の保護下で新興イスラム国家・マラッカ王国が急速に貿易の主導権を奪い、琉球はマラッカ王国と貿易するようになった。
- ^ (福建人ならびに福建省の客家)
- ^ 三山不統一につき和田久徳は、早期の『明実録』『歴代宝案』で三山統一が明示されたわけではなく、単に南山の遣使が翌年以後に記載を見ないだけであるとして、三山統一の史実が存在しないとした [26]。
- ^ 石井望は、三山統一説の始見は1456年『寰宇通志』巻百十六琉球国條だとする。その條の記述に、永楽年間に冊封を受けたが、「自後惟だ中山王のみ來朝し、今に至るまで絶えず、その山南山北二王は蓋し中山王の併する所となる云」との推測が記載されている。明国では実情が分からず、ただ朝貢が来ないだけだとする。よって石井は、三山時代とはイスラム宦官貿易時代であり、統一と見えるのは鄭和らの宦官貿易時代が終ったに過ぎないとする。1429年以後も争乱が相継ぎ、統一にほど遠いが、金丸尚円時代からは薩摩の貿易統制の結果、琉球の統一性が高まり、尚氏は世襲され、後に第二尚氏と呼ばれるに至る、とする[27]。
- ^ このような姿勢は、漢族や非漢族による、中国地域に成立したいわゆる『中原王朝』に(中原王朝から見て)朝貢していた時代の日本、越南、朝鮮、その他諸国に広くみられる態度である。前近代においては、自国および他国の国家の元首の格付けを、対象とする地域や相手によって、都合よく操作することはよくあることである。
- ^ 実際には、後述の中城王子(王世子)の薩摩藩への上国時に提出させられ、そのまま国王となる事による。直接提出を命じられた国王は尚寧王だけである。
- ^ 組踊「万歳敵討」。敵役である登場人物が、競馬がらみのトラブルで主役の兄弟の父親を殺害している。
出典
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- ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為レ絶故也」。
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- ^ 『琉球王国評定所文書』
- ^ 琉球國王尚泰ヲ藩王トナシ華族ニ陞列スルノ詔
- ^ 琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ被置ノ件(国立公文書館)
- ^ 真境名安興『沖縄一千年史』記載の「職制創設年表」の一覧(318、319頁)には「表十五人」の職制はない。
- ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻、392-394頁参照。
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琉球王国
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」も参照 琉球の中山察度王が明に朝貢、次いで南山王、北山王も朝貢し、朝貢貿易が始まる。
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琉球王国
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明への朝貢使による貿易は時期によって異なるものの、1年もしくは2年に1回、時によっては年に2回派遣を行っている。日本に対しては2年もしくは3年に1度使者を派遣していたが、応仁の乱による日本国内の政情不安により次第に堺や博多の商人の方から琉球を訪れるようになった。また、15世紀半ばから周防国の大内氏が対明貿易に乗り出し、当時東南アジアと貿易をしていた琉球王国ともその産物を求めて使節を派遣し交易を行っている。交易ルートは周防国(周防灘)から東九州沖を南下、南九州の東岸(日向、大隅)を経て南島に至るものであった。 日本や明に対する献上品の中には東南アジアなどの南海諸国で採れる蘇木や胡椒があるように、東南アジアにも使者を派遣していたと考えられており、特にマラッカ王国やシャムがその対象であった。 明との交易においては皇帝への朝貢品として琉球で取れる馬や硫黄、日本産の刀剣、東南アジア産の胡椒や蘇木・象牙などが進上され、これに対して明国皇帝からの頒賜品名目で多額の金品が与えられたほか、琉球の使臣・随伴者が持参した商品を明側が買い上げる形であり、事実上の官営貿易であった。このために琉球では、琉球からの品物を載せて運搬する船と、明の沿岸付近でこれを載せ替える接貢船の2種類を用意していた。また、明から入手した銅銭はその需要が高い日本との貿易で用いられた。そのほか、明や日本からは琉球内で必要とされる生活必需品も輸入された。 特に朝貢貿易の相手である明・清へ遣わされる船舶は進貢船と呼ばれた。
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琉球王国
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天正10年(1582年)6月7日、中国大返しに先立って毛利と和睦したため、配下の武将亀井茲矩に約束していた出雲の国での加増が不可能となったので別の場所を所望するようにと秀吉が述べたところ、茲矩は光秀討伐後は国内は皆閣下に靡くであろうから日本において望むべき所はないので「願わくば琉球を賜らん」と返答した。秀吉はこれを喜び、金扇の表に「亀井琉球守殿」と書き裏に署名してこれを与えた。以後、彼は柴田勝家滅亡の頃(天正11年)や小牧長久手の頃(天正12年)の書状では亀井琉球守として署名していた。文禄元年、茲矩は琉球国を賜ったわけであるから今度は「琉球伐使」朱印が欲しいと願い出て、秀吉はやむを得ずこれを許可した。茲矩は出征して活躍したが、戦闘中に大事な金扇を落としてしまい、これは後に李舜臣の手に渡った。出征後は僚友となった島津氏を慮ってか、茲矩は琉球守をではなく中国の地名の「台州守」を名乗るようになった。 琉球王国は明の冊封国であったものの、当時はまだ独立を保っていた。九州征伐後、秀吉は島津氏を介して琉球へ服属入貢の要求を行い、天正16年(1588年)以後複数回要求を繰り返した。琉球は、秀吉の征明軍に加勢せよとの命令を公には拒否したが、実際には日本軍への補給に協力し、島津義久は琉球王に名護屋城築城や遠征の加勢はしないでいいから、代わりに金銀米穀を送るように命じた。しかし他方では、同時に明の臣下でもあった琉球は、日本側には秘密裏に、事前に中城王子を明に派遣して秀吉の征服計画を通報しており、明からも出兵に対して先導役を命じられていた。 詳細は「琉球王国」および「琉球侵攻」を参照
※この「琉球王国」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
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琉球王国
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「バーナード・ジャン・ベッテルハイム」の記事における「琉球王国」の解説
1846年4月30日に香港から琉球王国に到着し、那覇の護国寺を拠点に8年間滞在した。1848年12月8日に生まれた2番目の娘は、記録上沖縄本島で生まれた最初のヨーロッパ人と言われている。 ベッテルハイムの琉球伝道は、難破した英国軍人に温かく接した琉球人への感謝と愛からだとされる。しかし、彼は琉球に住む人々から排斥された。これは琉球の支配者、薩摩と江戸幕府の方針によると指摘されている。 到着当時、琉球王国ではキリスト教は禁教であった。そこで、琉球側はベッテルハイムへ退去要請を行った。それはベッテルハイムの数年前(1844年)に来琉したフランス人宣教師の、フランス海軍の武力を背景とした布教への対応に苦慮した経験からである。しかしベッテルハイムは、自分にもフランス人宣教師と同様の権利があると主張して上陸した。最初の1年半、琉球側のある程度の黙認から比較的自由に行動することができたが、布教や通商のさらなる自由化を要求し、イギリス本国も加えて軍事的圧力を続けた。1847年10月、国王尚育王の国葬に参加しようとしたベッテルハイム夫妻とフランス人宣教師が首里の入口で取り囲まれて殴打された。この事件により琉球側は宣教師達の自由行動を不安視し、その後は厳しく監視して行動にも制限を加えるようになった。いっぽう、医療活動での評価は高かった(仲地紀仁に種痘を伝授したという)。また聖書を琉球語(その内当時琉球王国の共通語とされていた沖縄方言)に翻訳し、それを配布した。『琉球語文典階梯』という琉球文典に関する文献も脱稿しているが、英国でも米国でも刊行できずに終わり、未刊の稿本を大英博物館に寄贈するに留まっている。
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琉球王国
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琉球王国
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明との冊封関係で、最も経済面で利益を得ていた国が琉球王国だった。明から朝貢貿易の回数や船の提供などで優遇を受けて琉球貿易は繁栄したが、薩摩藩の琉球侵攻によって朝貢の回数が減ると経済面で打撃となった。尚賢王の即位によって冊封を求める使節(進貢使兼請封使)を明に送ったが、1644年に福州に着いた時には、すでに清が北京を占領していた。使節の金応元らは南京に行き、南明の弘光政権から冊封を認められた。しかし弘光政権は崩壊し、続いて隆武政権から冊封を受けるが、これも短命に終わった。金応元らと入れ替わりに来た琉球使節の毛泰久や金正春らは、清に冊封する方針に変えて、順治帝から了承を得る。しかしその後の交渉は難航し、尚賢王を継いだ尚質王の冊封は、康熙帝の時代まで延期された。冊封を受けた琉球は清と朝貢貿易を行い、18世紀中頃から海産物の輸出が盛んになった。北海道のコンブが琉球経由で清に輸出されるようになると、沖縄料理にもコンブが使われるようになった。明の時代から琉球にいた中国系の人々は、琉球社会に同化が進んだ。
※この「琉球王国」の解説は、「明清交替」の解説の一部です。
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琉球王国
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琉球王国においては、近世期に地方機関である間切を統治する役所のことを指した。地頭代以下の間切役人が交代で番所に詰めた。王府及び地頭への貢租上納や夫遣い、地方行政全般にわたって執り行い、首里との人馬網の拠点としても用いられた。ただし、琉球処分や沖縄戦などの混乱によって間切関連の文書の多くが失われたために不明な点が多い。
※この「琉球王国」の解説は、「番所」の解説の一部です。
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琉球王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 10:19 UTC 版)
尚寧 声:- / 中井和哉 / - / 石川英郎(ラジオドラマ「琉球の章」) 琉球国の王。利沙とはかつて恋仲であったが、王の道を歩まねばならないことから一度は別れた。それでも諦めきれず、一目逢いたいと毛虎親方に利沙を連れて来るよう命じる。再会した際もやはり手放したくないと側室に迎えようとしたが、すでにその時利沙の心の中には慶次がおり、最終的には利沙の意思を尊重した。 王としての資質は高く、文武両道。琉球の舞いを披露した際は慶次も感心するほど流麗かつ輝きに満ちた様子を見せ、「その舞い私にも教えてくだされい」と言わしめた。毛虎親方に幼少の頃から習っていた武芸もかなりのもので、一対一の稽古で1本取れるほどの腕前。 毛虎親方 声:- / 大友龍三郎 / - / 掛川裕彦(ラジオドラマ「琉球の章」) 尚寧王の重臣。王の幼い頃から仕える宰相の一人で尚寧王に忠節を尽くす。武術と妖術の達人であり部下からの信頼も厚い。なお「親方」は「うぇーかた」と読む。 竜嶽親方 声:大場真人(ラジオドラマ「琉球の章」) 尚寧王の重臣。海賊上がりだが、琉球の国庫を任されるほど出世した。双剣を武器とし、毛虎親方の配下五人衆をまとめて倒すほどの腕前。しかし己のためになるなら冷酷非道な行為も辞さず、人の命を使い捨てて奪うことも躊躇わない危険人物。 己の中に湧き立つ感情を抑えることができず、とうとうクーデターを起こしてしまう。この際は1本の剣で慶次と互角以上の戦いを繰り広げたが乱入した尚寧に阻まれ、そのまま尚寧の手で斬り捨てられる。斬られる瞬間は固まったまま一切抵抗せず、まるでそれを望んでいたかのような晴々とした表情をし、尚寧から「信頼する重臣」と呼ばれ、純粋に琉球と尚寧王を想う毛虎に対して「お前が羨ましかった」と告げて絶命する。 火嘉宇堂 声:- / 鈴木賢 地頭代の弟で「マムシの火嘉」と呼ばれる(本名で呼ばれることは少なく、作中ではほぼマムシで通っている)。残忍で横暴な性格をしており、地頭代の威を借りて悪辣非道な行為をしていた。利沙に対して変態的な愛情を抱いており、彼女を強引な手段で奪おうとするが慶次に半殺しの目に遭わされる。手下からも陰口をたたかれるなど人望はあまりない。その後、罪を犯したことが兄に知れて成敗された。宝山に斬り捨てられた後、慶次は彼の死に哀悼の意を表した。原作の密陽府使・朴晋の弟の朴義に相当するキャラクター。 火嘉宝山 声:- / 大場真人 火嘉宇堂の兄。利沙たちが暮らす南海の孤島の地頭代であるが、仕事を部下に任せて海人に姿を変えて釣りに没頭する。それゆえ住民はその部下を地頭代だと信じていた。自分が知らない間に弟・宇堂が悪行をなしていた事実を知るや、即座にその弟を切り捨て、その態度は慶次を感服させた。利沙が連れ去られた時、毛虎親方五人衆の錦と戦った。慶次の首里への旅に同行する。原作の密陽府使・朴晋に相当するキャラクター。 美耶 利沙に仕える侍女。最初は慶次をカルロスの手先と誤解して警戒していた。マムシに短刀で立ち向かうが逆に重傷を負わされる。果敢で利沙への忠誠心も強いが、人を見る目がない上に頑迷であるため結果的に利沙の足を引っ張ってしまう。 最長老 声:- / 佐藤正治 利沙たちが住む孤島の長老。昔は七つの海を渡り歩いた海族。利沙と慶次の仲を公認するが、逆恨みしたマムシに襲われる。その後、慶次にかつて使っていた鉄製の強弓を託し利沙の手を慶次の手に合わさせ「自由な海を行け」と残し安らかに絶命する。 虞 琉球の役人。武が挨拶を済ましたらしい。 宗元 声:- / 岸野幸正 慶次たちが琉球で会った琉球士族出身の役人。最初は慶次を密偵と疑うが、慶次の心を知り飲み明かす。原作の釜山の武将・鄭撥に相当する。 駿、応魁、善継、鏘、胤芾、遵 宗元の部下。慶次と宗元が飲んでいた店で他の客のふりをして慶次を監視していた。 長英 宗元の従弟。琉球王族の血を引いている。しかし、宗元が会った長英は毛虎親方が変装していた。 琢全 琉球の役人。がめつい性格で賄賂がないと何もしない。松風を気に入り我が物にしようとしたが、逆に松風に腕を噛まれて振り回される。 寵 琉球の評定所の役人。琢全より高位とみられる。 尚懿 尚寧の父で先の琉球の王。尚寧のことを宰相の毛虎に託した。 概、毫、錦、嶺、張 毛虎の配下の五人衆。岩兵衛を倒し利沙を孤島から連れ出した。それぞれがかなりの使い手だが竜嶽に倒された。 寿徳 琉球王府の長老。反乱を画策する竜嶽を諌めたが殺された。 朴仁 竜嶽に雇われた殺し屋。明の名家・朴氏の出身だが、倭寇の捕虜となり過酷な拷問を受け続けていた。そこを海賊時代の竜嶽に救われ、以来彼に従う。全身に拷問で受けた無数の傷痕がある異様な風貌をしている。過去に受けた仕打ちから心を固く閉ざしており、心を読んだ岩兵衛が「あいつは人間じゃない」と評するほど。殺害を命じられていた利沙の優しさに触れ、人としての心を取り戻すが用無しと断じた竜嶽に殺された。
※この「琉球王国」の解説は、「花の慶次の登場人物」の解説の一部です。
「琉球王国」を含む「花の慶次の登場人物」の記事については、「花の慶次の登場人物」の概要を参照ください。
琉球王国
「琉球王国」の例文・使い方・用例・文例
- 琉球王国のグスクおよび関連遺産群
- 琉球王国の城(グスク)跡とほかの関連遺産群には,首(しゅ)里(り)城(じょう)跡,今(な)帰(き)仁(じん)城(じょう)跡,座(ざ)喜(き)味(み)城(じょう)跡,勝(かつ)連(れん)城(じょう)跡,中(なか)城(ぐすく)城(じょう)跡,斎(せい)揚(ふぁ)御(う)獄(たき)(沖縄で最も神聖な地),園(その)比(ひ)屋(ゃ)武(ん)御獄石門(園比屋武御獄への石門),玉(たま)陵(うどぅん)(王家の壮大な墓),識(しき)名(な)園(えん)(中国からの使者をもてなす王家の別荘)が含まれる。
- 城と聖地は琉球王国の歴史には不可欠なものである。
固有名詞の分類
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