古法時代
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「著作権法 (フランス)」の記事における「古法時代」の解説
フランスにおいて、著作権の概念の前身とも呼べる「特権許可状(フランス語版)」を国王が初めて発行したのは、ルイ12世治世下の1500年頃である。この特権許可状は劇場運営者、文芸業界団体の側面もある王立アカデミー (例: アカデミー・フランセーズ)、大学、印刷業者、書籍商、コメディアン (俳優) といった著作隣接権者に対して与えられるものであった。したがって当初の特権許可状は、著作者本人の保護を目的としたものではなく、むしろ著作者を搾取する側面があった。その後、徐々に特権許可状の発行対象が広がっていき、1777年の王令によって、言語著作物の著作者とその相続人に対し、永久著作権 (無期限の著作権) が認められることとなった。以下、著作物のジャンル別に古法時代を見ていく。 書籍 フランスでは13世紀に入ると、識字率の向上にともなって、手書きの写本の需要が高まった。13世紀前半にはパリ大学が公的な存在となり、大学が書物の修正、監督、価格決定の役割を担うようになっている。一方で当時の著作者たちは、著作物の販売だけでは生計を立てられなかったことから、もっぱら王家や貴族などパトロンの庇護を受けていた。 1445年頃のグーテンベルグによる活版印刷術の発明により、1500年にはパリ市内の印刷業者は50軒以上に達し、当時のパリは欧州で2番目に印刷業が盛んな都市であった。この印刷業者の急増に加え、海賊版印刷が横行した結果、特権がなければ出版業界が経営上成り立たなくなってしまったことが、1500年頃に初めて特権許可状がフランスで発行された背景にある。しかしまだ、著作者本人には特権許可状は与えられていない。当時の印刷出版の対象はギリシャやローマの著作物、あるいは聖書が主体だったため、新作を執筆する著作者を権利保護する必要性がなかったからである。 著作者本人に特権許可状が徐々に与えられるようになったのは、17世紀に入ってからである。書籍商の中でもパリが特権許可状を独占していたことから、都市と地方の書籍商との間で対立が起きた。その結果、著作者たちは地方の書籍商から擁護されるようになる。したがって、著作者本人の権利保護は著作者自らが求めたものではなく、都市と地方の書籍商の抗争の副産物とも言える。この抗争を解決すべく、ルイ16世治世下の1777年8月30日に「特権許可状に関する裁定」が出され、初めて著作者本人の文学的所有権が認められ、書籍商と著作者の権利を分けて捉えられるようになった。また、この裁定 (王令) は、書籍商の永久著作権を10年間に短縮する一方で、著作者とその相続人に永久著作権を認めている。 戯曲 フランスでは、アンリ4世 (在位: 1589年 - 1610年) による国家統治の結果、観劇を楽しむ余裕と社会秩序を回復したことから、17世紀にはフランスで劇場文化が興隆する。当時は有名な劇作家であっても、戯曲の台本を俳優に売却する1回限りの取引が主流であったが、17世紀中頃には、現代で言うところの「ロイヤルティー」に該当する「台本使用料」の考え方を取り入れているケースもあった。1757年になるとようやく、王立劇団であるコメディ・フランセーズと著作者との間で、台本使用料の名目で劇場「利益」の一定割合が著作者にシェアされる協定が結ばれるようになった。 しかし実態は、著作者 (つまり劇作家や伴奏の作曲者) の弱い立場が続いていた。コメディ・フランセーズと著作者間の対立が激化したことから、1777年には演劇法立法促進事務局 (フランス語: Bureau de législation dramatique) が設立された。当組織は世界初の著作権集中管理団体と言われており、著作者の待遇改善をコメディ・フランセーズに求め、最終的には権利保護の立法を目指すことを目的とし、終身会長には『セビリアの理髪師』などで有名なボーマルシェが就任している。なお、この組織は後の劇作家作曲家協会 (SACD)(英語版、フランス語版)として継承されることになる。1780年には、凡庸とも言われるルイ16世 (在位: 1774年 - 1792年) への直接陳情が行われ、国王顧問会議がコメディ・フランセーズへの新たな規制を公布したが、むしろ改悪だと批判された。 音楽 音楽に関しても同様で、著作者である作詞・作曲家に対してではなく、楽譜を出版する印刷業者や書籍商に対して特権許可状が与えられていた。初の音楽特権許可状は、イタリアのベネチアで聖歌集を対象に発行されており、フランスでは1551年にアンリ2世がリュート演奏者のギヨーム・モルレ(英語版、フランス語版)に与えている。しかしモルレ自身は出版できず、楽譜の特権許可状を持つ書籍商に権利放棄せざるをえなかった。作曲者自らが楽譜を出版・販売できる特権許可状が発行されるようになったのは、1723年のことである。 その後、大規模な印刷装置が必要だった活版印刷ではなく、美術業界で使用されていた彫版印刷が楽譜に用いられるようになった。彫版印刷によって、特権許可状も設備投資の余力も有しない中小業者にも楽譜の印刷が可能となったことから、18世紀に入ると楽譜印刷の海賊版が出回るようになり、特権許可状の効力が弱まることになった。そこで、楽譜の著作者本人を法的に保護し、版権を著作者から出版業者に譲渡させることで、出版業者を間接的に保護するスキームへの転換が必要認識されるようになった。 美術 絵画、版画、彫刻などの美術品については、(楽譜を含む) 言語著作物とは歴史が異なる。美術作品にも著作権が認められるようになったのはフランス革命以降であり、古法時代には著作権が成立していない。 14世紀から16世紀にイタリアのルネサンスがフランスにも流入し、フランス美術業界が質・量ともに向上した。画家や版画家、彫刻家は王室や貴族などのパトロンから直接の庇護を受ける者と、それ以外は業界ごとに設立された組合に属せざるをえない者に二分された。前者は「特権享受者」と呼ばれていたものの、後者の組合は1623年に初めて団体として特権享受者として認められるようになる。しかし、アンリ3世 (在位: - 1589年) の頃には、才能のない芸術家を組合から除名するよう命じたり、フランス王朝の最盛期を築いたルイ14世 (在位: - 1715年) の頃には、組合における特権享受者の削減を要求している。フロンドの乱 (1648年 - 1653年) の最中、組合はアカデミー・ロワヤル (フランス語: Académie Royale de Peinture et de Sculpture) とアカデミー・ド・サンリュック(英語版) (フランス語: Académie de Saint-Luc) に二分され、対立と和解を繰り返すようになる。1654年にアカデミー・ロワヤルがデッサン教育の特権許可状を取得し、プロの芸術家のみを会員に限定することとなったが、アカデミー・ド・サンリュックはアマチュア芸術家、住宅の装飾家、配管工にも会員資格の門戸を広げていた。1777年にはアカデミー・ド・サンリュックが職人組合として認定される宣言が出された。
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古法時代
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フランス革命より前のフランス法を「古法」という。 もともと476年にゲルマン人の一支族であるフランク人が西ローマ帝国を滅ぼしてフランク王国が成立するまでは、現在のフランス地域(ガリア)では、文明化された最初の法体系であるローマ法が適用されていた。フランク王国では、当初、ローマ帝国の市民であったラテン系先住民には旧来のローマ法を適用し、フランク人にはフランク法を適用する属人主義をとっていた。 843年 、フランク王国がローマ・カトリックを受容してラテン系先住民との宥和政策をとると、キリスト教を媒介としてフランク人とラテン系先住民は、(特にフランス南部では)徐々に融合していき、8世紀半ばカロリング朝が成立し、カール大帝が800年にローマ帝国皇帝の冠をローマ教皇から授かって皇帝理念の継承者となると、更にその傾向は強まっていった。 843年ヴェルダン条約によってフランク王国は西フランク王国・東フランク王国・中フランク王国の3つの王国に分割され、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原形が成立したが、さらに870年中フランク王国が再分割されて西フランク王国と東フランク王国が成立したことによってドイツ法と区別されるフランス法の歴史が始まることになる。 西フランク王国末期になると、ラテン系先住民と融合が進み、当初の属人主義が崩れ、属地主義がとられるようになり、987年にカペー朝が成立する頃には、フランス北部ではゲルマン的慣習法が、フランス南部ではゲルマン法と混交した、卑俗法(Droit vulgaire)と呼ばれるローマ法が適用される傾向が表れ、それぞれの地域ごとに、封建領主が裁判権を行使していた。もっとも、封建制に存立基盤を有するカペー朝の王権は当初弱体であったため、ローマ法に由来する合理的で公平な教会法に基づく教会裁判所での裁判に服することを民衆は好んだ。このように、中世のフランスは、教会が支配する法、の時代であったといえる。 1100年頃ボローニャに法学校ができ、やがて大学へと発展して、1240年に註釈学派のアックルシウス(Accursius)によってローマ法大全の「標準注釈」(Glossa Ordinaria)が編纂されると、全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、フランスでは、パリ大学で、ローマ法が教授されるようになった。当時の大学はローマ・カトリックは切っても切り離せぬ関係であった。このような背景の下、中世後半になると、ヴェネツィアを中心に商業が発達し、それがヨーロッパ全土に拡大していったが、このことが封建的な地域ごとの慣習法を忌避する機運を更に高め、国を超えて商人だけに適用される慣習法の発達を促すことになるが、フランスでは神聖ローマ帝国(ドイツ)に対抗するという政治的な理由から、フィリップ2世が1219年ローマ法の適用を禁止する。このことも後にフランス法固有の慣習法の存在を意識させる一因ともなる。 その後、14世紀になると封建制は解体を始め、徐々に王権に権力が集中し始める。まず、フィリップ4世は、教皇に対抗するため、1302年に聖職者、貴族、平民の代表者を集めて全国身分会議(l'États généraux)を開催し、1303年のアナーニ事件をはじめとするバビロン虜囚をきっかけに教皇、ローマ・カトリック教会の権威は失墜し、教会法は徐々に影響力を低下させていった。また、ローマ法の研究が進む中、教会法は、カトリック信者でありさえすれば、地域どころか国を超えた普遍性を有するものとして一般法(jus commune、ユス・コムーネ)の概念を成立させた。フランスは、ローマ法との微妙な緊張関係を保ちつつもローマ法を継受(Rezeption)したのであった。 シャルル7世は、ジャン・ボダン、ニッコロ・マキャヴェッリの影響の下で、国王の主権の概念を持ち出し、1438年に教皇庁に対しフランス教会の自立を主張し、1454年にモンティル=レ=トゥールの王令を発し、フランス全土の慣習法の編纂を命じた。このことが後にイタリア起源のローマ法からの離脱を促す。 15世紀中頃、英国との100年戦争が終わると、封建制に基盤にしていた諸侯はその力を失い、その後、国王が自身の経済的基盤となる産業を保護する重商主義政策をとったことにより徐々にフランスの絶対王政は確立する。これに伴い、教会裁判所および封建領主の裁判所は衰退し、これに代わって国王の裁判所がその地位を確立したのである。 フランソワ1世は、1539年にヴィレル=コトレの勅令よってフランス語を法及び行政の言語(公用語を参照)に選定した。このことが後にフランス法の独自性を自覚させることになる。 絶大な権力を得た国王は、全国身分会議を嫌い、1614年のブロワ会議を最後にこれを開催しなくなってしまうが、これを不満として貴族は、当時中世的特権が保障されていた裁判官という職業に目をつけ、官職売買によって裁判官となり、国王に対抗するようになった。そのため、高等法院は、賄賂と不正の温床となり、後のフランス革命においては、旧体制の不正のシンボルとなる。 16世紀中には、フランス国内のほとんどの慣習法の編纂作業が終わり、その結果適用範囲がその地域に限られている「局地慣習法」と適用範囲の広い「普通慣習法」の違いがあることが判明した。普通慣習法の中でも、とりわけ重要なものを「大慣習法」と呼び、特にパリの慣習法が重視される傾向が生じた。同時期に人文主義法学が発展し、フランスの法曹によって慣習法の研究が進むと共に註解学派に対する批判が生じ、ゲルマン法ともローマ法とも異なるフランス固有の法原理を確立しようとする試みがなされた。その結果、フランスでは、神聖ローマ帝国(ドイツ)とは反対にローマ法の影響力は低下していった。 その後、国王は、自らの法律制定権に基づき、1667年に「民事訴訟王令」(Ordonnance civile touchant la re´formation de la justice)、1670年に「刑事訴訟法令」(Ordonnance criminelle)という二つの手続法を制定し、また、1673年には「サヴァリ法典」と呼ばれる商事実体法である陸上商事王令を制定した。このことが後の近代法の整備に繋がっていく。 1679年、法学教育においてフランス語を公式に採用したサン=ジェルマン=アン=レーの勅令が発布され、フランス王国内の大学では、フランス法を教える学部と「フランス法教授」を必ず置くものとした。これにより、フランス語による法教育を受けた法曹の手によって一般のフランス人にもわかりやすい法律を制定することができる準備が整った。 以上のような絶対主義の確立に伴いフランス法は独自の発展を遂げたのであるが、国王の絶対主義の政治思想及び重商主義政策は、一部の大商人等の特権階級を利するだけで、個人の自由な商業活動を阻害するものであった。啓蒙時代を迎えると、絶対主義、重商主義に対する批判が強まり、シャルル・ド・モンテスキューの著作、特にペルシア人の手紙と法の精神は、精神状態が変化している現実と上流階級が特権に満ちている状況との間の食い違いを示し、ジャン=ジャック・ルソーは苦心の末主権概念と社会契約説を結びつけて人民主権の理論を産み出した。このことがフランス革命の一因となった。
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