丹陽としてとは? わかりやすく解説

丹陽として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 06:39 UTC 版)

雪風 (駆逐艦)」の記事における「丹陽として」の解説

1946年12月30日雪風は特別保管艦に指定され戦時賠償艦として連合国引き渡される事となった。これに伴い仮設乗組施設等撤去された。中華民国イギリスアメリカソ連の四か国による賠償艦艇配分会議先立ち残存する別保管艦の視察点検が行わる事となったが、乗組員たちが最後まで入念に点検整備行っていた雪風は艦の状態が非常に良かった事から、海防艦四阪(日振型海防艦と共に視察を受けるモデルシップ(最優秀艦)に指定された。1947年5月26日芝浦視察点検が行われ、雪風は「敗戦国軍艦でもかくも見事に整備された艦を見た事が無い。まさに驚異である」と感嘆されるなど、立ち会った各国の高級軍人から高い評価得ている。6月18日から開かれた賠償艦艇配分会議結果雪風駆逐艦6隻(松型駆逐艦橘型駆逐艦初梅峯風型駆逐艦波風秋月型駆逐艦宵月)、海防艦17隻(御蔵型海防艦四阪、屋代択捉型海防艦隠岐対馬丙型海防艦丁型海防艦)など計34と共に中華民国への引き渡し決定した当時中華民国海軍日中戦争壊滅した海軍再建のためにイギリスから軽巡洋艦オーロラ重慶改称)や駆逐艦メンディップ(霊甫に改称)を、アメリカからエヴァーツ級護衛駆逐艦及びキャノン級護衛駆逐艦数隻を貸与もしくは供与された他、日本から旧旗艦逸仙返還させるなどしていた。日本からの賠償艦艇多くが再武装した上で中華民国海軍編入されることとなった1947年 7月1日雪風中華民国向けの賠償艦艇第一陣7隻(初梅、四阪、海防艦194号、海防艦67号、海防艦215号)と共に佐世保出発し7月3日上海到着7月6日上海高昌廟で賠償艦艇移行が行われ、雪風ら8隻の艦艇中華民国引き渡された。旧日本艦艇には「接一号」から「接八号と言う仮の艦名与えられ雪風は「接一号」と名付けられている。艦体、機関は勿論、兵器ではない煙草盆に至るまで整備が行届いており「これが敗戦国軍艦か」と中国将校驚かせた。日本乗組員一人ずつ菓子煙草土産貰って帰国した1948年5月1日付で正式に丹陽(タンヤンDD-12)の艦名与えられ他の日本製駆逐艦とともに字号呼ばれるグループ形成した。「丹陽」の名は都市丹陽市から取ったとされるが、これを赤い夕陽または朝陽の意味込められているのではないか推測する者もいる[疑問点ノート]。当時中国国内第二次国共内戦只中であった日本から引き渡され艦艇の内、信陽(旧・初梅DD-15)や恵安(旧・四阪)らは比較早く武装化されたが、丹陽造船所人手不足中国共産党妨害工作による整備能力低下があったため再武装工事を行う事ができず、中国大陸における国共内戦中に就役できなかった。1949年5月中国人民解放軍の上解放作戦が始まると、上海係留されていた丹陽ら未武装状態の艦艇台湾基隆回航された。蔣介石総統が渡台した際には、その乗艦になったとされる。このときの丹陽艦長はこの功績により数階級特進したという。また上海と台湾を三往復して故宮博物院財宝輸送したとされるが、これらの財宝戦車揚陸艦載せて運んだという異説もある。 この間中華民国海軍1949年第二艦隊反乱事件などにより海軍艦艇共産党軍への寝返りが相次ぎ旗艦重慶恵安長治(旧宇治)をはじめとする多数艦艇を失うなどの大損害を受けた1953年時点実働状態にあったのは陽字号駆逐艦駆逐艦2隻(丹陽信陽)、太字駆逐艦6隻(エヴァーツ級護衛駆逐艦及びキャノン級護衛駆逐艦)、軽巡洋艦一隻逸仙)、安字級巡防艦多数御蔵型海防艦屋代択捉型海防艦対馬丙型海防艦丁型海防艦、元カナダ海軍英国キャッスル級コルベット)、その他に砲艦咸寧(旧興津)やLST揚陸艦駆潜艇多数など。この他日本から引き渡され賠償艦には当時中華民国海軍艦艇としては最大汾陽(旧宵月)などがあったが状態が悪かったため係留練習艦として利用された。 丹陽全面的な修理整備、再武装工事1951年10月台湾左営にて行われたとされる。再武装化際し日本から引き渡され艦艇には、戦後中華民国国軍旧日本海軍小型艦艇から接収した兵装や、日本軍中国本土台湾島残していった防空防衛用の高角砲機銃再利用された。丹陽九六式二十五粍高角機銃始め前部の1番砲塔八九式12.7センチ連装高角砲を、後部2番3番砲塔に九八式10センチ高角砲を、それぞれ独自の箱型状の砲塔付けて装備している(魚雷発射管無し)。また22号電探外されマスト上部舟艇用のSO対水上レーダーレドーム設置されたことが写真確認できる。公式試運転で27.5ノット記録した中華民国海軍残存艦艇の中では最大最強戦闘艦となった丹陽同国海軍第一艦隊編入され国共内戦失われた軽巡洋艦重慶に代わって中華民国海軍旗艦就任1953年8月中華民国海軍総司令馬紀壯中将指揮の元で太昭(旧アメリカ海軍キャノン級護衛駆逐艦カーター」、DE-26)、太湖(旧アメリカ海軍キャノン級護衛駆逐艦「ブリーマン」、DE-25)とともにフィリピンマニラ訪問しフィリピン政府・駐比アメリカ軍現地華僑歓迎マグサイサイ比国防長官やスプルーアンス駐比米大使らの訪問受けた後年フィリピンインドネシア現地住民華僑とのあいだで民族衝突事件がおきるとその都度現地に赴き華僑収容保護していたとされる中華民国国軍1949年6月29日大陸封鎖宣告して以降中国人民解放軍物資輸送している疑いのある船舶臨検実施し、これを没収する封鎖政策進めた関閉政策)。丹陽中華民国海軍第一艦隊主力としてエヴァーツ級護衛駆逐艦キャノン級護衛駆逐艦とともに封鎖警戒任務にあたり1953年10月4日太倉(旧アメリカ海軍キャノン級護衛駆逐艦「ボストウィック」、DE-24)とともに上海向けて重油輸送中だったポーランドタンカープラカ拿捕1954年4月初頭チェコ船籍貨物船ユリウス・フチーク拿捕のために太平(旧アメリカ海軍エヴァーツ級護衛駆逐艦デッカー」、DE-22)とともに出撃したが発見できず空振り終わった1954年5月12日には同じく中国人民解放軍支援した ポーランドタンカーのグットワードを太倉太湖とともに迎撃拿捕した1954年6月23日にもソビエト連邦油槽船トープスを拿捕し乗組員拘束。これは中華民国ソ連の間で外交問題発展し一部乗組員1988年まで拘束された。 詳細は「トープス号事件」を参照 この時期中華民国支配地域台湾以外では浙江省大陳列島福建省金門島ぐらいであり、丹陽1954年中国大陳列島への侵攻第一次台湾海峡危機)を開始する10月孤立状態の大陳守備隊救援のために人民解放軍橋頭保となっている周辺の島々艦砲射撃行った最終的に中華民国軍1955年2月大陳列島から撤退)。 当時乗組員によると艦齢20年をこえた丹陽は28.8ノット発揮するのが限度だったという。1954年からはそれまでソ連製魚雷艇日本製海防艦類いしか持たなかった中国人解放海軍ソ連から4隻の旧式駆逐艦購入した上で鞍山級駆逐艦として配備した他、ウィスキー型などの各種潜水艦ソ連から購入して配備しリガ型フリゲートノックダウン生産開始した一方中華民国側1954年12月米華相互防衛条約調印によりアメリカ海軍空母エセックスはじめとする第7艦隊支援受けられるようになった他、1954年2月アメリカ海軍から洛陽(旧ベンソン級駆逐艦ベンソン」、DD-14)や漢陽(旧ベンソン級駆逐艦ヒラリー・P・ジョーンズ」、DD-15)が編入された。 1955年若しくは 1956年丹陽弾薬補給の問題により旧日本海軍武装からアメリカ海軍武装換装した。換装後は主砲砲塔をオープントップの38口径5インチ単装両用砲 3基に変更魚雷発射管位置にオープントップの50口径7.6センチ単装両用砲2基を搭載しボフォース40ミリ連装機銃4基8門(後にボフォース40ミリ単装機銃1010門に増強)、爆雷投下軌条装備となっている。艦橋下部前に延長され船首楼第一煙突直前まで延長され方位盤及び測距儀撤去され探照灯設置され、さらにマスト上部SC対空レーダー取り付けられるなど、上部構造印象雪風時代から大きく変わった装備一新した丹陽その後1958年の八二三金門砲戦など中国人民解放軍との間で発生した幾度か実戦参加したとみられる1958年9月3日の料羅湾海戦(九二海戦)(中国語版)では中国人民解放軍魚雷艇攻撃損傷した砲艦沱江」(アメリカ製173フィート型駆潜艇)の救援に当たり、無事基地帰着。その功績により表彰受けている。この年の末、丹陽アメリカ製旧式駆逐艦南陽(旧グリーブス級駆逐艦プランケット」、DD-17)が中華民国海軍編入された事に加えて老朽のため第一艦隊から除かれ1959年から1964年は主に台湾海峡北区の巡羅支隊配属となり、福建省馬祖列島及び烏坵島において駐屯防衛の他演習任務に当った。それでも翌年1959年8月3日には章江、涪江資江(いずれもアメリカ製173フィート型駆潜艇)とともに中国人民解放軍海軍コルベット2隻と交戦し、1隻撃沈、1隻撃破戦果をあげた。1964年5月1日にも船団旗艦として5隻を連れて航行中中国人民解放軍海軍巡視艇Patrol Craft)8隻、貨物船PTC)4隻と遭遇撃退した伝えられる敵船1隻を大破、2隻を小破)。 1960年アイゼンハワー米大統領訪台時には歓迎艦隊旗艦としてアイゼンハワー大統領座乗する重巡洋艦セントポール迎えた他[要出典]、1964年12月行われた観艦式でも旗艦として雄姿見せたが、機関老朽化によって1965年12月16日退役1966年11月16日付で予備艦編入され高雄海軍軍官学校繋留された状態で練習艦停泊練習艦)として使用された。この頃になるとアメリカ海軍からフレッチャー級引き渡し始まっていた(1967年以降)他、4隻の鞍山級駆逐艦主力だった人民解放海軍新時代兵器であるミサイル艇コマール型、オーサ型)や通常動力弾道ミサイル潜水艦ゴルフ型)を配備するようになっていた。1970年正式に軍を除籍となり、翌年1971年12月31日後述する台湾側の発表によれば1970年前半)に解体完了した。 旧乗員中心となって1966年結成された「雪風永久保存期成会」(会長野村直邦)や雪風返還運動議員連盟(会長岸信介)などの活動もあり、「最後の日海軍艦艇」の日本への返還希望され実現一歩手前までこぎつけたとも言われる1967年には蒋経国国防部長に請願書送られた。翌年には代議士志賀健次郎が渡台して蒋経国返還打診した。 しかし艦艇研究家田村俊夫調査した所では、中華民国側雪風日本返還しない事を決めていたという。その後1970年6月20日中華民国側から1969年の台風による浸水損傷した為、1970年前半解体が行われ、作業完了したため部品残っていないとの連絡があった。あまりに突然の連絡だったため、マスコミでは“生存説”が流れた1971年12月8日横浜港において中華民国政府より舵輪と錨のみが返還された。田中内閣による日中国交正常化交渉とそれに伴う日台断交の約10ヶ月前だった。雪風舵輪江田島旧海軍兵学校教育参考館に、錨はその庭に展示されている。また、雪風スクリュー台湾左営にある海軍軍官学校展示されている。 戦後、彼女の日本への返還運動起こり結局里帰り実現しなかったとはいえマスコミ政界巻き込んだ大きな運動となった。それは彼女が地道に任務果たし続けた姿が日本人の心の琴線触れ戦場をくぐり抜けて戦後生き続けた姿が焼跡から復興した日本そのものの姿に重なるのかもしれない雪風単なる幸運艦ではない。派手さはなくともやるべきことをやり遂げ決し諦めないこと。人にも国にも必要なそんな彼女の精神江田島古びた錨は、現代のわれわれに訴えかけているのかもしれない雪風艦名は、戦後初の国産護衛艦である「はるかぜ型」の2番艦は「ゆきかぜ」と命名されるなど、海上自衛隊で伝承されている。 雪風の錨。

※この「丹陽として」の解説は、「雪風 (駆逐艦)」の解説の一部です。
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