丹陽として
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1946年12月30日、雪風は特別保管艦に指定され、戦時賠償艦として連合国へ引き渡される事となった。これに伴い仮設乗組施設等は撤去された。中華民国、イギリス、アメリカ、ソ連の四か国による賠償艦艇配分の会議に先立ち、残存する特別保管艦の視察点検が行わる事となったが、乗組員たちが最後まで入念に点検、整備を行っていた雪風は艦の状態が非常に良かった事から、海防艦四阪(日振型海防艦)と共に視察を受けるモデルシップ(最優秀艦)に指定された。1947年5月26日、芝浦で視察点検が行われ、雪風は「敗戦国の軍艦でもかくも見事に整備された艦を見た事が無い。まさに驚異である」と感嘆されるなど、立ち会った各国の高級軍人から高い評価を得ている。6月18日から開かれた賠償艦艇配分会議の結果、雪風は駆逐艦6隻(松型駆逐艦楓、杉、橘型駆逐艦初梅、蔦、峯風型駆逐艦波風、秋月型駆逐艦宵月)、海防艦17隻(御蔵型海防艦四阪、屋代、択捉型海防艦隠岐、対馬、丙型海防艦、丁型海防艦)など計34隻と共に中華民国への引き渡しが決定した。 当時の中華民国海軍は日中戦争で壊滅した海軍の再建のためにイギリスから軽巡洋艦オーロラ(重慶に改称)や駆逐艦メンディップ(霊甫に改称)を、アメリカからエヴァーツ級護衛駆逐艦及びキャノン級護衛駆逐艦数隻を貸与もしくは供与された他、日本から旧旗艦の逸仙を返還させるなどしていた。日本からの賠償艦艇も多くが再武装した上で中華民国海軍に編入されることとなった。 1947年 7月1日、雪風は中華民国向けの賠償艦艇の第一陣7隻(楓、初梅、四阪、海防艦194号、海防艦67号、海防艦215号)と共に佐世保を出発し、7月3日、上海に到着。7月6日、上海の高昌廟で賠償艦艇の移行式が行われ、雪風ら8隻の艦艇は中華民国に引き渡された。旧日本艦艇には「接一号」から「接八号」と言う仮の艦名が与えられ、雪風は「接一号」と名付けられている。艦体、機関は勿論、兵器ではない煙草盆に至るまで整備が行き届いており「これが敗戦国の軍艦か」と中国将校を驚かせた。日本側乗組員は一人ずつ菓子と煙草を土産に貰って帰国した。 1948年5月1日付で正式に丹陽(タンヤンDD-12)の艦名を与えられ他の日本製駆逐艦とともに陽字号と呼ばれるグループを形成した。「丹陽」の名は都市の丹陽市から取ったとされるが、これを赤い夕陽または朝陽の意味が込められているのではないかと推測する者もいる[疑問点 – ノート]。当時、中国国内は第二次国共内戦の只中であった。日本から引き渡された艦艇の内、信陽(旧・初梅、DD-15)や恵安(旧・四阪)らは比較的早く再武装化されたが、丹陽は造船所の人手不足や中国共産党の妨害工作による整備能力の低下があったため再武装工事を行う事ができず、中国大陸における国共内戦中に就役できなかった。1949年5月に中国人民解放軍の上海解放作戦が始まると、上海に係留されていた丹陽ら未武装状態の艦艇は台湾の基隆に回航された。蔣介石総統が渡台した際には、その乗艦になったとされる。このときの丹陽の艦長はこの功績により数階級特進したという。また上海と台湾を三往復して故宮博物院の財宝を輸送したとされるが、これらの財宝は戦車揚陸艦に載せて運んだという異説もある。 この間、中華民国海軍は1949年の第二艦隊反乱事件などにより海軍艦艇の共産党軍への寝返りが相次ぎ、旗艦の重慶や恵安、長治(旧宇治)をはじめとする多数の艦艇を失うなどの大損害を受けた。1953年の時点で実働状態にあったのは陽字号駆逐艦駆逐艦2隻(丹陽、信陽)、太字号駆逐艦6隻(エヴァーツ級護衛駆逐艦及びキャノン級護衛駆逐艦)、軽巡洋艦一隻(逸仙)、安字級巡防艦多数(御蔵型海防艦屋代、択捉型海防艦対馬、丙型海防艦、丁型海防艦、元カナダ海軍の英国製キャッスル級コルベット)、その他に砲艦咸寧(旧興津)やLST揚陸艦、駆潜艇多数など。この他に日本から引き渡された賠償艦には当時の中華民国海軍艦艇としては最大の汾陽(旧宵月)などがあったが状態が悪かったため係留練習艦として利用された。 丹陽の全面的な修理と整備、再武装工事は1951年10月、台湾の左営にて行われたとされる。再武装化に際し、日本から引き渡された艦艇には、戦後、中華民国国軍が旧日本海軍の小型艦艇から接収した兵装や、日本軍が中国本土、台湾島に残していった防空、防衛用の高角砲、機銃が再利用された。丹陽は九六式二十五粍高角機銃を始め、前部の1番砲塔に八九式12.7センチ連装高角砲を、後部の2番、3番砲塔に九八式10センチ高角砲を、それぞれ独自の箱型状の砲塔を付けて装備している(魚雷発射管は無し)。また22号電探が外され、マスト上部に舟艇用のSO対水上レーダーのレドームが設置されたことが写真で確認できる。公式試運転で27.5ノットを記録した。 中華民国海軍の残存艦艇の中では最大最強の戦闘艦となった丹陽は同国海軍の第一艦隊に編入され、国共内戦で失われた軽巡洋艦重慶に代わって中華民国海軍旗艦に就任 。1953年8月に中華民国海軍総司令馬紀壯中将指揮の元で太昭(旧アメリカ海軍キャノン級護衛駆逐艦「カーター」、DE-26)、太湖(旧アメリカ海軍キャノン級護衛駆逐艦「ブリーマン」、DE-25)とともにフィリピンのマニラを訪問し、フィリピン政府・駐比アメリカ軍や現地華僑の歓迎とマグサイサイ比国防長官やスプルーアンス駐比米大使らの訪問を受けた。後年もフィリピンやインドネシアで現地住民と華僑とのあいだで民族衝突事件がおきるとその都度現地に赴き華僑を収容保護していたとされる。 中華民国国軍は1949年6月29日に大陸封鎖を宣告して以降、中国人民解放軍に物資を輸送している疑いのある船舶に臨検を実施し、これを没収する封鎖政策を進めた(関閉政策)。丹陽は中華民国海軍第一艦隊の主力としてエヴァーツ級護衛駆逐艦やキャノン級護衛駆逐艦とともに封鎖警戒の任務にあたり、1953年10月4日、太倉(旧アメリカ海軍キャノン級護衛駆逐艦「ボストウィック」、DE-24)とともに上海に向けて重油を輸送中だったポーランドのタンカーのプラカを拿捕、1954年4月初頭にチェコ船籍の貨物船ユリウス・フチーク号拿捕のために太平(旧アメリカ海軍エヴァーツ級護衛駆逐艦「デッカー」、DE-22)とともに出撃したが発見できず空振りに終わった。1954年5月12日には同じく中国人民解放軍を支援した ポーランドのタンカーのグットワードを太倉、太湖とともに迎撃拿捕した。1954年6月23日にもソビエト連邦油槽船トープスを拿捕し、乗組員を拘束。これは中華民国とソ連の間で外交問題に発展し一部の乗組員は1988年まで拘束された。 詳細は「トープス号事件」を参照 この時期の中華民国の支配地域は台湾以外では浙江省の大陳列島や福建省の金門島ぐらいであり、丹陽も1954年に中国が大陳列島への侵攻(第一次台湾海峡危機)を開始すると10月に孤立状態の大陳守備隊救援のために人民解放軍の橋頭保となっている周辺の島々へ艦砲射撃を行った(最終的に中華民国軍は1955年2月に大陳列島から撤退)。 当時の乗組員によると艦齢20年をこえた丹陽は28.8ノットを発揮するのが限度だったという。1954年からはそれまでソ連製魚雷艇や日本製海防艦の類いしか持たなかった中国人民解放海軍がソ連から4隻の旧式駆逐艦を購入した上で鞍山級駆逐艦として配備した他、ウィスキー型などの各種潜水艦をソ連から購入して配備し、リガ型フリゲートのノックダウン生産を開始した一方、中華民国側も1954年12月の米華相互防衛条約の調印によりアメリカ海軍の空母エセックスをはじめとする第7艦隊の支援が受けられるようになった他、1954年2月にアメリカ海軍から洛陽(旧ベンソン級駆逐艦「ベンソン」、DD-14)や漢陽(旧ベンソン級駆逐艦「ヒラリー・P・ジョーンズ」、DD-15)が編入された。 1955年 、若しくは 1956年 、丹陽は弾薬補給の問題により旧日本海軍の武装からアメリカ海軍の武装に換装した。換装後は主砲砲塔をオープントップの38口径5インチ単装両用砲 3基に変更、魚雷発射管の位置にオープントップの50口径7.6センチ単装両用砲2基を搭載し、ボフォース40ミリ連装機銃4基8門(後にボフォース40ミリ単装機銃10基10門に増強)、爆雷投下軌条を装備となっている。艦橋下部が前に延長され、船首楼も第一煙突直前まで延長され、方位盤及び測距儀が撤去され探照灯が設置され、さらにマスト上部にSC対空レーダーが取り付けられるなど、上部構造の印象は雪風時代から大きく変わった。 装備を一新した丹陽はその後も1958年の八二三金門砲戦など中国人民解放軍との間で発生した幾度かの実戦に参加したとみられる。1958年9月3日の料羅湾海戦(九二海戦)(中国語版)では中国人民解放軍の魚雷艇の攻撃で損傷した砲艦「沱江」(アメリカ製173フィート型駆潜艇)の救援に当たり、無事基地に帰着。その功績により表彰を受けている。この年の末、丹陽はアメリカ製の旧式駆逐艦の南陽(旧グリーブス級駆逐艦「プランケット」、DD-17)が中華民国海軍に編入された事に加えて老朽のため第一艦隊から除かれ、1959年から1964年は主に台湾海峡北区の巡羅支隊に配属となり、福建省の馬祖列島及び烏坵島において駐屯、防衛の他演習の任務に当った。それでも翌年の1959年8月3日には章江、涪江、資江(いずれもアメリカ製173フィート型駆潜艇)とともに中国人民解放軍海軍のコルベット2隻と交戦し、1隻撃沈、1隻撃破の戦果をあげた。1964年5月1日にも船団旗艦として5隻を連れて航行中、中国人民解放軍海軍の巡視艇(Patrol Craft)8隻、貨物船(PTC)4隻と遭遇、撃退したと伝えられる(敵船1隻を大破、2隻を小破)。 1960年のアイゼンハワー米大統領の訪台時には歓迎艦隊の旗艦としてアイゼンハワー大統領の座乗する重巡洋艦セントポールを迎えた他[要出典]、1964年12月に行われた観艦式でも旗艦として雄姿を見せたが、機関の老朽化によって1965年12月16日に退役。1966年11月16日付で予備艦に編入され、 高雄の海軍軍官学校に繋留された状態で練習艦(停泊練習艦)として使用された。この頃になるとアメリカ海軍からフレッチャー級の引き渡しが始まっていた(1967年以降)他、4隻の鞍山級駆逐艦が主力だった人民解放海軍も新時代の兵器であるミサイル艇(コマール型、オーサ型)や通常動力弾道ミサイル潜水艦(ゴルフ型)を配備するようになっていた。1970年に正式に軍を除籍となり、翌年の1971年12月31日(後述する台湾側の発表によれば1970年前半)に解体が完了した。 旧乗員が中心となって1966年に結成された「雪風永久保存期成会」(会長:野村直邦)や雪風返還運動議員連盟(会長:岸信介)などの活動もあり、「最後の日本海軍艦艇」の日本への返還が希望され、実現一歩手前までこぎつけたとも言われる。1967年には蒋経国国防部長に請願書が送られた。翌年には代議士の志賀健次郎が渡台して蒋経国に返還を打診した。 しかし艦艇研究家の田村俊夫が調査した所では、中華民国側は雪風を日本へ返還しない事を決めていたという。その後の1970年6月20日に中華民国側から1969年の台風による浸水で損傷した為、1970年前半に解体が行われ、作業は完了したため部品は残っていないとの連絡があった。あまりに突然の連絡だったため、マスコミでは“生存説”が流れた。1971年12月8日、横浜港において中華民国政府より舵輪と錨のみが返還された。田中内閣による日中国交正常化交渉とそれに伴う日台断交の約10ヶ月前だった。雪風の舵輪は江田島の旧海軍兵学校・教育参考館に、錨はその庭に展示されている。また、雪風のスクリューは台湾の左営にある海軍軍官学校に展示されている。 戦後、彼女の日本への返還運動が起こり、結局里帰りは実現しなかったとはいえ、マスコミや政界も巻き込んだ大きな運動となった。それは彼女が地道に任務を果たし続けた姿が日本人の心の琴線に触れ、戦場をくぐり抜けて戦後も生き続けた姿が焼跡から復興した日本そのものの姿に重なるのかもしれない。雪風は単なる幸運艦ではない。派手さはなくともやるべきことをやり遂げ、決して諦めないこと。人にも国にも必要なそんな彼女の精神を江田島の古びた錨は、現代のわれわれに訴えかけているのかもしれない。 雪風の艦名は、戦後初の国産護衛艦である「はるかぜ型」の2番艦は「ゆきかぜ」と命名されるなど、海上自衛隊でも伝承されている。 雪風の錨。
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