ロシア革命と米国参戦の影響
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1917年(大正6年)春のロシア革命と米国参戦により、デモクラシーの波が日本に押し寄せる。米国ではウィルソン大統領が第一次世界大戦に参戦する理由を「民主主義にとって世界を安全にするために」と演説する。米国が民主主義のために戦うと称したことで日本でも民本主義論がますます盛んになる。また、ロシア革命は世界を震撼させる。日本の新聞雑誌にも革命気分に乗じた記事論説が増える。 同年5月、寺内正毅内閣は内閣訓令第1号を発して曰く、欧州戦役の影響は全世界に波及し、その関係するところは単に政治上経済上にどどまらず思想上風教上にも及び、誠に恐るべきものがある。この時にあたって政務の職司にある者は、すべからく立国の大本に鑑み国体の尊崇すべきを思い、国情の異にする海外の事例に左右されずに帝国憲法の根義に考え、自重して適従するところを誤らず、紀律を守り一意に奉公し至誠を君国に尽くし、それによって国民の模範であるべし、と。また、同月、地方官会議において内閣総理大臣が訓示して曰く、近時言論界の風潮は大変に放漫に流れ、好んで危険過激の言論をもてあそび、卑劣猥雑の記事を掲げて国民の思想を誘惑し、そして国体の本義を誤り皇室の尊厳を汚し純朴な風俗を壊す恐れがある。いやしくも国体を破壊し秩序を紊乱し人心を蠱惑するような記事論説は厳重に防ぐ道を講じなければならない。言論界は外国で勃発した政変(ロシア革命)を引援して我が国体に論及するものがある。地方当局者は適宜善導し安寧秩序を保持すべし、と。 同年9月寺内内閣は臨時教育会議官制を公布する。これより4年前、教育勅語の趣旨を徹底して学制を改革することが十数年来の懸案であったため、貴族院の建議に基づき、文部大臣管下に教育調査会を始めて設けた。教育調査会は調査を進めたが懸案の解決に至らなかった。1917年(大正6年)教育調査会を改め、内閣総理大臣直属に臨時教育会議を設け、組織を改造し調査に周到を期することになる。その官制は3月のロシア革命直前に立案され、翌月閣議決定されたが、その後6か月の時を経て、9月に上諭案を改めて再び閣議決定を取り直し、異例の上諭を付して公布される。その上諭に曰く、朕、中外の情勢に照らし、国家の将来に考え、内閣に委員会を置き、教育に関する制度を審議させ、その振興を図らせる、と。官制公布の翌月、臨時教育会議について寺内総理大臣が演示して曰く、我が帝国は万世一系の天皇を戴き、君臣の分は早くに定まり、国体の精華は万国に卓越する。ここに教育勅語の趣旨が存する。欧州大戦勃発以来、交戦各国は戦火の間に学制の革新を図り自強の策を講じている。我が帝国も教育を一層盛んにして国体の精華を宣揚し堅実の志操を涵養して自強の方策を確立すべし。もし欧米の学制を模倣することばかり急いで知らず知らずに国体の精華を傷つけることがあれば国家の憂患はこれより大きいことはない、と。臨時教育会議の中心人物は総裁平田東助、副総裁久保田譲、貴族院議員小松原英太郎、同一木喜徳郎、同江木千之、そして文部大臣岡田良平である。いずれも元老山県有朋の直参子分である。 1917年(大正6年)10月、内務省警保局長永田秀次郎が私人の資格で「民本主義に対する理解」を発表する。曰く、日本において発達した尊皇愛国の思想は、君民一体、民を本とする(民本)君主主義である。外国のデモクラシーは人民の人民のための人民による政治かもしれないが、これを日本に移し替えれば「民意を暢達せしむる政治」または「万機公論に決する政治」に当たる。前者は我が国建国以来の大精神であり、後者は五箇条の御誓文により我が国で行われている、と。 同月、吉野作造が『大学評論』に「民本主義と国体問題」と題して曰く、民本主義は日本の国体に反しないし、君臨すれども統治せずというような英国流も日本の国体に反しない、と。 同年11月から12月にかけて浮田和民は雑誌『太陽』に「欧州動乱と民主政治の新傾向」と題して曰く、一国の政治は君主国体でも共和国体でも当然に民本主義でなければならない。国家は国民全体の国家であって君主は国民のための君主である。民主政治とは必ずしも国体政体に関する憲法上の意義を有するものではない。徐々に選挙権を拡張すれば民主政治であるといえる。今後世界各国は国体政体の如何に関わらず人民多数が政治上の勢力であることは疑いない。将来の民主政治は男女協同になる傾向がある、と。 この間の同年11月(ロシア暦10月)ロシアで十月革命がおき、マルクス主義政権が世界で初めて誕生する。ロシアは、過激思想に導かれて無秩序に陥り、ほとんど阿鼻叫喚の修羅場と化し、その皇室は悲惨な末路を遂げる。日本でロシア革命の関係により発禁処分を受けたものは1917年中に7件あり、そのうち1件は日本の国体を呪い、ロシアに倣うべしと主張するものであった。大阪朝日新聞はロシアの革命と過激派を推奨する記事を頻りに載せる。早稲田大学では学生が騒擾を起こし早稲田革命などの語を用い、まるでロシア革命を真似たかのような観を呈する。 同年12月尾崎行雄が『立憲勤王論』を著して曰く、皇室の尊栄と国民の幸栄により日本は世界無双である。その原因の一つは「君意民心の一致」にある。君意民心の一致のためには議会を設け民心を聴くとともに、声望ある人物を多数党の中から挙げて行政長官に任命する。政党内閣の主張の根拠はここにある、と。以上のように主張する同書は尾崎行雄の年来の主張の結晶であり、尾崎は今こそ適時であると見て同書を発行したといわれる。同書は世間の注目を惹き、後藤武夫らは反対論を著して、尾崎行雄の論は仮面勤王論であり、実は民主主義を鼓吹するものであって我が国体を誤るものであると批判する。 1918年(大正7年)1月、吉野作造が「民本主義の意義を説いて再び憲政有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」と題する長大な論文を発表する。吉野作造はこの2年前に民本主義論を提唱してから民主主義論議の中心であったが、この時になって、これまで思想に多少の混乱があり発表の方法も宜しくなかったといって、この論文を『中央公論』誌に掲げたのである。この論文は2年前の論文を確かめるものにすぎないが、要は憲政の本義として参政権拡充主義である民本主義を主張することである。この論文は再び言論界で問題となり、これに対する批評を誘発する。批評の主なものは、北一輝の弟で早稲田大学教授の北昤吉による「吉野博士の民本主義を評す」である。北昤吉の評によると、吉野作造の民本主義論は主権論に触れないようにしていることから、その論は矛盾・曖昧・不徹底・誤謬を含む。主権論を回避すること処女のごとく、参政権拡張主義をもって虎視眈々と天下を志すこと奸雄のごとし、という。 1918年(大正7年)2月、井上哲次郎が『増訂国民道徳概論』を出版する。これは1912年出版の『国民道徳概論』を増補改訂したものである。1912年版と1918年版の間の異同をみることで、この6年間で井上哲次郎の国体論がどう変化したかが分かる。国体に関しては次の箇所が注目される。 「第三章 国体と国民道徳」で日本の国体を他国と比較して議論している箇所において、1912年版では「露国などは少し日本と似たところがある。露国は一種特有なる政教一致の国体を成しておる」などと書いて、帝政ロシアの国体と日本の国体の類似性を示唆していたが、1918年版ではロシア革命の勃発を受けたためか、その箇所を全て削除する。その一方で孔子の子孫やローマ法王など代数が長い系譜との比較を増補する。のちの昭和期に日本の国体は隔絶性を高めていくが、第一次世界大戦期においては必ずしも隔絶性を強調しない形で議論されていたことがわかる。 「第四章 神道と国体」で天壌無窮の観念を外国のそれと比較している箇所において、1912年版では外国における唯一の例外として秦の始皇帝の例を挙げていたが、1918年版では周王朝やヘブライ人に天壌無窮の観念があった例を追加する。いずれにしても外国における天壌無窮の観念は現実に無窮でなかったので、日本の天壌無窮とは大きく異なると論じる。また神道と国体の関係について、1912年版では神道に真の威力があるとすればそれは国体に関する側であると述べ、神道は宗教として幼稚であると断定していたが、1918年版ではこうした口調をやや弱め、「これまでの神道は幼稚な感があります」、「宗教としては見劣りがする。もっとも今度神道を革新して大に発展せしめたならば、どうなるか分らぬけれども、今までの神道はそう偉いものではない」と書き改める。さらに神道を革新するために、淫祀邪教的な神道はむしろこれを撲滅すべしといって強圧的態度を示す。 「第十章 忠孝一本と国民道徳」で民主主義・民本主義と君主主義の関係について論じる箇所において、1912年版では民主主義も民本主義も同じものであると理解し、民主主義は君主主義と調和できると断言していたが、1918年版では重要な改変を行い、民本主義は君主主義と調和できるが民主主義は君主主義と両立できないと主張する。井上哲次郎はこの6年間の大正デモクラシーの進展をみて、1912年版の説明では対応できないと考えたのである。 1918年(大正7年)3月、浮田和民が『太陽』誌に「国際上の民主主義と日本の国体」と題して、連合国の戦争目的である民主主義というのは国際上の民主主義であると述べ、これが日本の国体に反しない所以を説く。これは国際上の民主主義を実際的に説いた初めての論説である。以下のように言う(大意)。 今後の外交は秘密主義をやめ公開主義でいかなければならない。公開主義の外交はいわゆる民主主義の外交である。 国際上の民主主義というのは、決して各国の内政に干渉し、その国体や政体を変更しようとする主義ではない。英仏の主張は国際上の民族の自由や小国の独立を擁護することを主義とし、これを民主主義と称するのだから、たとえ同盟国中に万世一系の皇室を戴く日本があっても、英仏の主張に少しも矛盾しない。 連合諸国にいわゆる民主主義はドイツ至上主義に反対する立場である。むしろこれを自由主義または民族主義といったほうが穏当で正確であるが、自由主義といっても前代のように消極的なものではなく積極的に人民の意思を成就しようとするものだから民主主義といわなければ世論が満足しない。また民族主義というのは両刃の剣であり、強大民族が弱小民族を強いて屈服させ同化させる意味もあるので、いよいよ国際上に民主主義という語が流行するようになったわけである。 このように民主主義の意味を解すれば、国際上に民主主義の味方であることは決して日本の国体に悪影響を及ぼさない。ましてや民主主義を民本主義と解すれば、それは井上哲次郎の言うように、建国以来の日本の国是である。 浮田和民は翌月にも同誌に「参戦目的と出兵問題」を載せ、日本の参戦目的は国際上の独裁主義を破ることであり、国際上の民主主義のために戦うものにほかならないと説く。この月(1918年4月)は民本主義論が最も賑わった月であり、多くの論者が様々な論説を発表した。その中で例えば稲毛詛風は『雄弁』誌同月号に「外来思想と国民生活」を載せ、民本主義の各種概念と国体の関係を次のように分類する。 広義の民本主義人道的人格主義(普遍的人格主義)… 日本では極めて幼稚であったが是非必要なものである。 個人的人格主義(特殊的人格主義)… 排他的になる弊害があるが、権利思想を承けるものであり、日本国民には必要なものである。 狭義の民本主義(政治上の民本主義)極端なもの(民主主義)絶対的民主主義 … 全く外来的であり日本の国体に許容されない。 相対的民主主義 … 皇室の存在を認めるものであるが、人民を主権者とし君主を機関視する点において日本の国体に許容されない。 穏当なもの政治の目的に関するもの(一般国民福利)… 日本も古来この主義である。 政治の運用方針に関するもの(国民の意向に従う)… 日本では十分に発達していないが、国体に許容されないものではない。ただし為政者が自発的に採用するものであって、民衆が主権者に強制するものであってはならない。 1918年(大正7年)6月、『太陽』誌が臨時増刊号「世界の再造」を刊行する。同号は世運に関する各種問題を集めたものであり、その中では美濃部達吉「近代政治の民主的傾向」が民主主義と国体の関係について論及している。曰く、もし民主主義を法律上の意味に解して国民を法律上の最高統治権者とするならば、明らかに日本の国体と両立しない。これに対して、政治上の意味における民主主義は、少しも日本の国体に抵触するものではなく、むしろ更に国体の尊貴を発揮する所以である。この意味における民主主義、すなわち民政主義は明治維新以来の国是であって、五箇条の御誓文に「広く会議を興し万機公論に決すべし」というのは最も直截簡明に民政主義を表現したものである、と。 1918年(大正7年)8月、白虹事件が起こる。大阪朝日新聞は前年以来ロシアの革命と過激派を称賛する論説を頻りに載せ、またシベリア出兵や米騒動に関して寺内正毅内閣を攻撃していた。8月25日に「日本は今や最後の審判を受くべき時期にあらずや」という記事を載せる。記事中に「白虹日を貫けり」という故事成語を引く。この句は、白虹を武器、日を君主の象徴として、臣下の白刃が君主に危害を加える予兆とされる。同紙は新聞紙法第41条安寧秩序紊乱により起訴され、社長は右翼から暴行を受ける。 1918年(大正7年)9月、非立憲的な寺内正毅内閣が米騒動の責任をとって崩壊し、立憲政友会の原敬内閣が誕生する。同年11月、内務省警保局が『我国に於けるデモクラシーの思潮』を出版する。同書は表紙に「秘」と記される秘密文書である。同書本文は同局事務官安武直夫の私稿を別冊として付ける形式である。警保局名義の序文に曰く、世界は今やデモクラシーを中心に回転している。我が国でも、これに関して論議しない新聞雑誌はない。ほとんど現代思潮の中心を為し、一般人心もその影響を著しく受ける。しかし論説の内容は様々であって、デモクラシー・民本主義の観念を補足することは容易でない。これらの論議や思潮の傾向を窺うための参考として本書を出版する、と。
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