ロシア革命とオスマンとの再戦とは? わかりやすく解説

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ロシア革命とオスマンとの再戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:32 UTC 版)

アンドラニク・オザニアン」の記事における「ロシア革命とオスマンとの再戦」の解説

1917年二月革命は、ニコライ2世専制打ち破ったものとして多くアルメニア人歓迎された。やがて南カフカースにはロシア臨時政府によってザカフカース特別委員会英語版)(オザコム)が設置された。同年4月アンドラニクチフリスオスマン領内アルメニア人向けた無党派新聞アルメニア』«Հայաստան» の発行開始している(ヴァハン・トトヴェンツ(アルメニア語版)はこの新聞編集者だった)。12月までアンドラニクオスマンからのアルメニア人難民基礎的な支援を施そうと南カフカースへ留まった。この時期にはおよそ15万人アルメニア人荒廃した西アルメニア復興させよう臨時政府保護の下オスマン戻ったが、やがてロシア軍瓦解するとその多くロシアへ舞い戻ったほどなく十月革命勃発すると、オスマンからのロシア軍の退却に伴う混乱激しさ増した臨時政府から権力奪取したボリシェヴィキ12月5日オスマン帝国エルズィンジャン停戦協定英語版)を結び、オスマンロシア間の戦闘集結したボリシェヴィキソビエト・ロシア1918年1月オスマンにおけるアルメニア人自決権認めていたが、その一方で同年3月3日中央同盟国調印したブレスト=リトフスク条約によって、国境地帯である西アルメニアオスマン割譲してもいる。 この条約によって西アルメニアのみならず東欧各地ロシアから離れてゆくなか、南カフカースロシア軍ザカフカース委員部(ロシア語版)の下でアルメニア軍形成承認し、およそ2万人の兵士編成されアルメニア軍部隊はナザルベキアン将軍指揮下でヴァンからエルズィンジャンまでの前線展開した。3師団あるこの部隊のうち、2つ師団ロシアのアルメニア人によって編成されていたが、残る1師団は西アルメニア出身者によって編成されており、これを指揮したのがアンドラニクであった1917年12月以来アンドラニクエルズルムで軍を指揮していたが、翌年1月に彼はカフカース前線司令部によって西アルメニア師団司令官任命され少将地位与えられた。 しかし、この地域にはエルズィンジャンから黒海にかけてグルジア軍展開していたが、かつてロシア常備軍がこの3百マイル前線を5百万人の兵で防衛していたのに比べ当時前線展開していた兵力数千人に過ぎなかった。数で勝るオスマン軍前にアンドラニクらは敗れ去り3月12日エルズルムオスマン軍によって占領された。アンドラニクらはカルスへ、アレクサンドロポリへ、ヴォロンツォフカ(ロシア語版)へ、ジャラログリ(英語版)へ、ドセフ(アルメニア語版)へと撤退撤退重ね4月にはオスマン軍大戦前の国境まで到達した5月18日にはアンドラニク部隊はドセフまで後退していたが、その時にはすでにサルダラパート(英語版)やアバラン(アルメニア語版)、カカキリサ(ロシア語版)で繰り広げられていた激戦数々参加する術すらなかった。

※この「ロシア革命とオスマンとの再戦」の解説は、「アンドラニク・オザニアン」の解説の一部です。
「ロシア革命とオスマンとの再戦」を含む「アンドラニク・オザニアン」の記事については、「アンドラニク・オザニアン」の概要を参照ください。

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