ロシア革命とオスマンとの再戦
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「アンドラニク・オザニアン」の記事における「ロシア革命とオスマンとの再戦」の解説
1917年の二月革命は、ニコライ2世の専制を打ち破ったものとして多くのアルメニア人に歓迎された。やがて南カフカースにはロシア臨時政府によってザカフカース特別委員会(英語版)(オザコム)が設置された。同年4月、アンドラニクはチフリスでオスマン領内のアルメニア人に向けた無党派の新聞『アルメニア』«Հայաստան» の発行を開始している(ヴァハン・トトヴェンツ(アルメニア語版)はこの新聞の編集者だった)。12月までアンドラニクはオスマンからのアルメニア人難民に基礎的な支援を施そうと南カフカースへ留まった。この時期にはおよそ15万人のアルメニア人が荒廃した西アルメニアを復興させようと臨時政府の保護の下オスマンへ戻ったが、やがてロシア軍が瓦解するとその多くはロシアへ舞い戻った。 ほどなく十月革命が勃発すると、オスマンからのロシア軍の退却に伴う混乱は激しさを増した。臨時政府から権力を奪取したボリシェヴィキは12月5日にオスマン帝国とエルズィンジャン停戦協定(英語版)を結び、オスマン=ロシア間の戦闘は集結した。ボリシェヴィキのソビエト・ロシアは1918年1月にオスマンにおけるアルメニア人の自決権を認めていたが、その一方で同年3月3日に中央同盟国と調印したブレスト=リトフスク条約によって、国境地帯である西アルメニアをオスマンに割譲してもいる。 この条約によって西アルメニアのみならず東欧各地がロシアから離れてゆくなか、南カフカースのロシア軍はザカフカース委員部(ロシア語版)の下でアルメニア軍の形成を承認し、およそ2万人の兵士で編成されたアルメニア軍部隊はナザルベキアン将軍の指揮下でヴァンからエルズィンジャンまでの前線に展開した。3師団あるこの部隊のうち、2つの師団はロシアのアルメニア人によって編成されていたが、残る1師団は西アルメニア出身者によって編成されており、これを指揮したのがアンドラニクであった。1917年12月以来、アンドラニクはエルズルムで軍を指揮していたが、翌年の1月に彼はカフカース前線司令部によって西アルメニア師団の司令官に任命され、少将の地位を与えられた。 しかし、この地域にはエルズィンジャンから黒海にかけてグルジア軍も展開していたが、かつてロシアの常備軍がこの3百マイルの前線を5百万人の兵で防衛していたのに比べ、当時前線に展開していた兵力は数千人に過ぎなかった。数で勝るオスマン軍を前にアンドラニクらは敗れ去り、3月12日、エルズルムはオスマン軍によって占領された。アンドラニクらはカルスへ、アレクサンドロポリへ、ヴォロンツォフカ(ロシア語版)へ、ジャラログリ(英語版)へ、ドセフ(アルメニア語版)へと撤退に撤退を重ね、4月にはオスマン軍は大戦前の国境まで到達した。5月18日にはアンドラニクの部隊はドセフまで後退していたが、その時にはすでにサルダラパート(英語版)やアバラン(アルメニア語版)、カカキリサ(ロシア語版)で繰り広げられていた激戦の数々に参加する術すらなかった。
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