ロシア革命と監禁
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「マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)」の記事における「ロシア革命と監禁」の解説
1917年2月23日(グレゴリオ暦で3月8日)に首都ペトログラードにおいて二月革命が勃発した。この前日にニコライ2世は最高司令官の職務を果たすべくモギリョフにあるスタフカに向かうために首都を離れたばかりだった。この大混乱のさなかにニコライ2世の5人の子供全員がはしかに襲われた。5人の子供の中で最も健康で、最後に罹患したマリアは皇室に忠誠を尽くすよう兵士達に嘆願するために2月28日(グレゴリオ暦で3月13日)夜にアレクサンドラと一緒に外に出た。まもなく病気になり、瀕死の状態になった。彼女は回復の兆しを見せるまで父親が退位したことを知らされなかった。このはしかが治った後、マリアは非常に細身の体型になった。アレクサンドラから退位を知らされた時の様子をマリアは「ママは嘆き悲しみました。私も泣きました。でも、その後のお茶の時にはみんなで笑おうと努めました」とアンナ・ヴィルボヴァに語っている。 まず1917年3月21日(以降グレゴリオ暦)にアレクサンドラとその子供達がツァールスコエ・セローの宮殿で逮捕され、翌22日はニコライ2世も宮殿に戻り、一家は自宅軟禁下に置かれた。次いで列車と汽船『ルーシ』号でシベリアのトボリスクまで移送され、1917年8月26日からこの地の旧知事公舎で生活を開始した。トボリスクの警護兵は友好的であり、大公女達も彼らとよく話をしたが、その中でもマリアは直ぐに彼らの妻や子供の名前を全部記憶してしまった。マリアは外を自由に散歩することが出来る場合に限り、いつまでもこの地に住んで幸せになるというコメントをトボリスク滞在時に残している。それでも、彼女は常に監視されていることは認識していた。全権委員がトボリスクに向かっているというニュースを聞いたマリアは所有物が探索されることを警戒してアナスタシアと一緒に、手紙だけで無く、自分達の日記まで焼き捨てている。 トボリスク滞在時の4人の大公女ははしかに罹った際に髪の毛を全部剃ってしまったためにまだ短い髪のままだった。ニコライ2世は母親のマリア皇太后や妹のクセニアに頻繁に手紙を書いたが、アレクサンドラはアンナ・ヴィルボヴァら知人には熱心な信仰に関する思いを書き連ねていた手紙を送っていたものの、マリア皇太后には一通も手紙を送らなかった。母親に感化されていた娘達も祖母には一通も手紙を送らなかったと言われている。トボリスクでのマリアの様子を記憶しているクラウディア・ビットナーは回顧録の中で次のように述べている。 「 マリア・ニコラエヴナは最も美しく、典型的なロシア人であり、気立てが良く、陽気で、穏やかで、心優しい少女だった。彼女はみんなと、とりわけ一般人、兵士との会話を好み、会話をすることが出来た。彼女はいつも兵士達と似た所が多かった。彼らは彼女の容貌や強さがアレクサンドル3世に似ていると述べた。彼女はとても力強かった。病気のアレクセイ・ニコラエヴィチを移動させる必要があった時は彼が「マーシャ、僕を背負って! 」と大声で叫び、彼女はいつも彼を背負っていた。人民委員パンクラトフは非常に彼女を愛し、あからさまに彼女を敬い慕っていた。描画や裁縫の能力に優れていた。 」 ニコライ2世夫妻が身柄をトボリスクからエカテリンブルクへ移送された際には、大公女の中でマリアは唯一同伴した。タチアナはアレクセイの面倒を見るために残る必要があり、アナスタシアはまだ若過ぎたし、オリガは病気がちになっていた。マリアは大好きな両親と運命をともにしたいと考えて同伴を決断し、「私が行くわ」と名乗り出た。アレクサンドラの友人のリリー・デーン(英語版)は革命が彼女を「子供から女性に変えた」と書いている。
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