ロシア革命とその後の亡命生活、修道
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「母マリヤ」の記事における「ロシア革命とその後の亡命生活、修道」の解説
ロシア革命後の1918年、エリザヴェータは南ロシアの町アナパの副市長に選ばれた。白軍がアナパを占領した際、市長は逃亡し、彼女が市長となった。白軍はエリザヴェータをボリシェヴィキであるとの嫌疑から裁判にかけたが、その時の判事は彼女のかつての師、ダニエル・スコブツォフであり、彼女は釈放された。二人はすぐに恋に落ち、結婚した。 ほどなくして、白軍が赤軍に圧され、政治的情勢が再び変わった。危険を避けるため、エリザヴェータ、ダニエル、ガリーナ、そしてエリザヴェータの母ソフィヤは祖国を逃れた。この時エリザヴェータは二人目の子を妊娠していた。初めはグルジアに逃れ(ここで、子であるゲオルギー(ユーリ)・スコブツォフが生まれている)、次にはユーゴスラヴィアに逃れた(ここで娘であるアナスタシアが生まれた)。最終的には1923年にパリに落ち着いた。間もなく、エリザヴェータは神学の勉強と社会活動に熱心に取り組むようになった。 1926年、アナスタシアがインフルエンザで永眠し、一家は深い悲しみに包まれた。ガリーナはベルギーの寄宿学校に送られた。この後少しして、ダニエルとエリザヴェータの結婚生活が破綻した。ダニエルと暮らすことをやめ、ユーリと共にエリザヴェータはパリ市街中心部に移り住んだ。援けを必要とする人々をより直接助けられるようにするためであった。 エリザヴェータを指導する主教は、世間から離れた修道院に住まなくともよいとしつつ、彼女に修道女になることを勧めた。1932年、ダニエル・スコブツォフの容認のもと、教会で離婚が認められ、エリザヴェータは修道誓願を立てた。修道名はマリヤであった。痛悔担当司祭はセルゲイ・ブルガーコフであった。後に、ドミートリー・クレプニン神父が指導司祭として彼女の家に送られた。 母マリヤはパリの貸家の一つを自身の「修道院」とした。そこは亡命者、貧しい者、孤独な者に扉が開かれた場所であった。間もなく家は、知的・神学的議論の中心的存在の一つとなった。母マリヤにとり、貧しい者への奉仕と神学は、相伴うものであった。
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