ロシア革命への対応と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 18:27 UTC 版)
「メンシェヴィキ」の記事における「ロシア革命への対応と評価」の解説
1917年の2月に2月革命が勃発し、ソヴィエトがペトログラードに復活した時点では、メンシェヴィキが優勢であり、グルジア・メンシェヴィキに属するニコライ・チヘイゼがソヴィエトの議長であった。政府にたいする「合法反対派」を形成し、労働者多数派の支持を受けていた。 しかし革命が進行するにつれ、組織のゆるさが災いして統一した政策を打ち出すことができなかった。ロシアが戦争政策を継続するかどうか、レーニンをドイツのスパイとみなすかどうかの問題でもマルトフ率いる「国際主義者」と「社会愛国主義者」であるイラクリ・ツェレテリの一派が分裂してしまった。 10月25日にボリシェヴィキが中心となりペトログラード・ソヴィエトが臨時政府を倒した直後に開かれた会議上、マルトフがボリシェヴィキの「純軍事陰謀」を非難。それに対してトロツキーがこう反駁した。 「 君たちはあわれむべき、孤立した個人である。君たちは破産者だ。君たちの役割は終わった。君たちは今からは、歴史の掃きだめへゆけ。 」 トロツキーの返答に、メンシェヴィキたちは議決も待たずに退場する。 1918年1月の憲法制定議会では、ツェレテリがメンシェヴィキを擁護し、「後進国に社会主義経済を導入するというナロードニキ的な企て」を論難した。一方、その年の5月にマルトフは、反革命にたいするボリシェヴィキの闘争に団結する、と宣言した。このように十月革命の正当性に関しても、メンシェヴィキの見解には統一がなかったのである。 1923年のマルトフの死とともに、残りの指導部の人々は次々とロシア国外へ亡命し、1921年に創刊されていた《社会主義・クーリエ》を機関紙として、1964年までアメリカにおける討論と宣伝を続けた。その編集の中心はフョードル・ダンとラファイル・アブラモヴィッチ(英語版)であった。ダンはメンシェヴィキの自己批判を展開し、レーニンをはじめとするボリシェヴィキが歴史の動向を正しくとらえていたことを認めた。 一方アブラモヴィッチは、1917年のロシア革命と1949年の中国革命の意義を全否定し、それらの革命は失敗であり、東洋の専制主義をつくりだしただけだと論じ、アメリカが「核兵器の優勢」を活用してボリシェヴィキのたてた悪の帝国を粉砕することを希望した。
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