ロシア革命以前のプラウダ
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「プラウダ」の記事における「ロシア革命以前のプラウダ」の解説
プラウダが発行されたのはカール・マルクスの生誕記念日である1912年5月5日というのが公式の見解である。しかし実際の起源は1903年にまで遡る。裕福な鉄道技師ウラジーミル・コジェフニコフ(ロシア語版)によってモスクワで設立され、1905年のロシア革命の最中に出版を開始した。 プラウダの黎明期は政治的な方向性を持っておらず、コジェフニコフは芸術、文学、社会生活の雑誌として始めていたが、すぐにプラウダの「社会生活」雑誌への積極的な寄稿者だったアレクサンドル・ボグダーノフ、N・A・ロジコフ、ミハイル・ポクロフスキー、イヴァン・スクヴォルツォーフ=ステパーノフ(英語版)、P・P・ルミャーンツェフ、M・G・ルンツ等が含まれる優秀な若手作家たちによるチームが形作られた。その後、彼らは雑誌の編集委員となり、後にはロシア社会民主労働党のボリシェヴィキの主要なメンバーとなっていた。 しかしコジェフニコフと編集委員会との間に一定の争いが生まれ、ついにはコジェフニコフがプラウダから去ること求めて来たのでこれを受託し、社会民主労働党のメンシェヴィキが編集委員会を引き継いだ。しかし、彼らとコジェフニコフとの関係は苦々しいものでもあった。 1912年1月にプラハで開催されていた社会民主労働党の第6回党会議で、遂にメンシェヴィキが党から追放された。党の主導権を握ったウラジーミル・レーニンは明確にプラウダを公式の代弁者とした。書類をウィーンからサンクトペテルブルクに移すと同時に1912年5月5日(ユリウス暦1912年4月22日)にレーニン主導により4ページで5コペイカの創刊号が発表された。このとき初めてプラウダが法的にも政治新聞として発行された。社会民主労働党の中央委員会、労働者や個人などと共にマクシム・ゴーリキーは新聞に資金援助をした。これには経済問題、労働運動、ストライキに関する記事があり、プロレタリアートの詩が2作載っていた。サンクトペテルブルク・プラウダの最初の編集者であるマクシム・イェゴーロフとドゥーマの議員であるニコライ・ポレターエフ(ロシア語版)が版元として務めた。
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