選手兼任監督
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選手兼任監督(せんしゅけんにんかんとく)は、スポーツのチーム競技において、監督業をこなす兼業選手のことを言う。
なお、選手兼任監督と呼ばれるのは選手・監督いずれも同一チームに所属する場合を意味し、選手としての所属とは別のチームで監督を務める場合(時折見られるものとして教員団やクラブチームなど所属の社会人選手が出身あるいは勤務先の大学や高校の監督に就任するというケース)は使われない。
野球
日本
日本では特に昭和期のプロ野球選手に多い。プロ野球の第1号選手兼任監督は、プロ野球創設年の1936年に選手兼任監督になった大東京軍の伊藤勝三である。戦前から戦後初期は選手人員不足から多くのチームで選手兼任監督、あるいは選手兼任コーチ(コーチングスタッフ兼任の選手)が多く存在した(下記参照)。特に苅田久徳は1938年から東京セネタース→翼軍、大洋軍、大和軍、東急フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)と4球団で選手兼任監督を務めている。
阪神タイガースの藤村富美男は審判に「代打、ワシ」と告げ、その打席で現役最後となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を打ったエピソードが有名である。
毎日オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)の湯浅禎夫は通算1試合しか出場していない。
1970年の阪神・村山と南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)・野村克也と共に、西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)が現役を引退したばかりの稲尾和久を監督に就任させたため、この3人は「青年監督トリオ」とも言われた。また、野村は後に実質的な指揮権をヘッドコーチのドン・ブレイザーに任せていた事を語っている[注 1]。
1977年に野村が南海の監督を解任されて以降、しばらく選手兼任監督はいなくなる[注 2]が、2006年に東京ヤクルトスワローズで古田敦也が29年ぶりに選手兼任監督に就任、2年間監督を続けた(「代打、オレ」)。さらに、2014年から中日の谷繁元信が選手兼任監督に就任し[1]、2015年まで2年間は選手兼任として、2016年は監督専任となった。
なお、日本野球機構(NPB)における選手兼任監督不在の時代、公認野球規則に監督がマウンドに向かう回数を制限する条項[2] が加えられており、また捕手などの野手がマウンドに向かう回数はリーグの申し合わせなどで別の基準により制限されていたことから、古田の兼任に際して監督と選手の規則上の扱いの違いの問題が浮上した。このため規則変更が行われ、主な変更点は「監督が捕手として出場する時は、あらかじめベンチコーチの中から監督代行を選んでおく」「監督が捕手として試合出場中はルール上は捕手として取り扱う」「選手・監督いずれかの立場において退場などの処分を受けた場合に処分は両方の身分に対して有効になる[注 3]」などである。
ユニフォームの着替えは、選手ロッカー室は使わず、監督室で行う。監督は管理職であるとして日本プロ野球選手会(労働組合)を脱会することとなっている[注 4]。
選手兼任監督が選手としての出場選手登録を抹消した期間中は、一軍の試合では監督専任で活動することになるが、期間中に選手としての調整を目的に二軍(イースタン・リーグおよびウエスタン・リーグ)の試合に二軍監督の指揮下で一選手としての出場ができるかどうかについては明確にされていない。
日本の独立リーグでは、ルートインBCリーグとヤマエグループ 九州アジアリーグ、北海道フロンティアリーグ、北海道ベースボールリーグ、さわかみ関西独立リーグ、日本海リーグにて選手兼任監督が見られ、旧関西独立リーグ、日本海オセアンリーグでも見られた。旧関西・大阪の村上隆行やBC・滋賀の上園啓史は選手としてのブランクがありながらシーズン途中に選手に復帰したことで兼任監督になった例であり、これは選手の不足や負担軽減のための緊急対策としての兼任せざるを得なくなったものである。また、監督代行として兼任で指揮を執った者として、長崎セインツの前田勝宏(2008年)[3]、神戸9クルーズの村上眞一(2009年)、明石レッドソルジャーズの藤本博史(2010年)、信濃グランセローズの髙橋信二(2015年)、火の国サラマンダーズの荒西祐大(2024年)がいる。なお、四国アイランドリーグplusは2008年のシーズンオフに規則で原則として監督・コーチの選手との兼任を禁じたことがあり[4]、2009年から2020年までは兼任指導者自体が存在しなかった。2021年に13年ぶりに近藤一樹と伊藤隼太が兼任コーチに就任し、同年の公式戦ルールには選手兼任の指導者を認めることが明記された[5]。
アマチュア野球では、特に社会人野球に多い。主な兼任監督として三菱ふそう川崎硬式野球部の選手兼任監督を務め、引退後は野球日本代表のコーチングスタッフにもなった垣野多鶴[注 5]、2007年の都市対抗野球大会で初出場を果たした岩手21赤べこ野球軍団の平良和一郎がいる。また、西武ライオンズ・中日ドラゴンズでプレーした山野和明もプロ引退後に互大設備ダイヤモンドクラブの監督兼選手となっている。さらに社会人野球初の女性監督となった茨城ゴールデンゴールズの片岡安祐美も選手兼任である。
日本野球機構における選手兼任監督
※現存する球団には、その前身球団の選手兼任監督だった者を含む。
- 中島治康(外野手、1943・1946途 - 1947途・1949)※1949年は監督代行
- 藤本英雄(投手、1944・1946 - 1946途)
- 水原茂(内野手、1950)※引退後も1960年まで監督専任で残留
- 松木謙治郎(内野手、1940 - 1941・1950 - 1951)※引退後も1954年まで監督専任で残留
- 若林忠志(投手、1942 - 1944・1947 - 1949)
- 藤村富美男(内野手、1946・1955途 - 1956)※1955年は監督代行、引退後も1957年の1年間監督専任で残留し、監督退任後の1958年に現役復帰している
- 村山実(投手、1970 - 1972)※1972年はシーズン途中で指揮権を返上し、監督の肩書はそのままながら、金田正泰ヘッドコーチに監督代行を委ねる
- 桝嘉一(外野手、1937春途 - 1937秋・1943)
- 本田親喜(外野手、1941 - 1942)
- 杉浦清(内野手、1946途 - 1948)
- 野口明(捕手、1955 - 1956)
- 杉下茂(投手、1959 - 1960)※登録上は投手兼任監督だったが、実際に試合への登板はしなかったため事実上は監督専任であった。監督退任後の1961年に大毎に移籍して「現役復帰」
- 谷繁元信(捕手、2014 - 2015)※引退後も2016年途中まで監督専任で残留
- 山下実(内野手、1938 - 1939途・1940 - 1940途)
- 井野川利春(捕手、1940途 - 1942)
- 西村正夫(外野手、1943 - 1944、1946 - 1947途)
- 浜崎真二(投手、1947途 - 1950)※引退後も1954年まで監督専任で残留
- 湯浅禎夫(投手、1950)※引退後も1952年途中まで監督専任で残留
- 若林忠志(投手、1953)
- 1950年 - 1952年途中の毎日オリオンズ(ロッテの前身)は名目上の監督は若林であったが、実際の指揮は「総監督」として湯浅が執っており、記録上の監督も湯浅となっている。2人は1952年の平和台事件を受けていったん更迭され、翌1953年に復帰したが、このときは若林が実際の指揮を執っている。
- 別当薫(外野手、1952途 - 終了・1954 - 1957)※1952年は監督代行、引退後も1959年まで監督専任で残留
- 白石勝巳(内野手、1953途 - 1956)※引退後も1960年まで監督専任で残留
- 小玉明利(内野手、1967)
- 小島利男(外野手、1950)
- 苅田久徳(内野手、1941)
- 苅田久徳(内野手、1938 - 1940)
独立リーグにおける選手兼任監督
- 村上隆行(大阪ゴールドビリケーンズ、2010年途中)※専任監督から兼任に変更
- マック鈴木(神戸サンズ、2011年)
- 高津臣吾(新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ、2012年)
- 森慎二(石川ミリオンスターズ(2013年 - 2014年)
- 大塚晶文(信濃グランセローズ、2014年)
- フリオ・フランコ(石川ミリオンスターズ、2015年)
- 岩村明憲(福島ホープス、2015年 - 2017年)※引退後も監督専任で残留(2025年から総監督)
- 上園啓史(滋賀ユナイテッドベースボールクラブ、2017年途中)※専任監督から兼任に変更
- 西岡剛(福岡北九州フェニックス→北九州下関フェニックス、2022年 - 2023年)※2024年は専任の総監督
- トニ・ブランコ(士別サムライブレイズ、2022年)※来日前に契約解除し、試合出場なし
- 後藤光尊(石川ミリオンスターズ、2022年 - 2023年)
- 中村勝(KAMIKAWA・士別サムライブレイズ、2023年)
- 金丸将也(宮崎サンシャインズ、2023年途中 - 2024年途中)※専任監督から兼任に変更
- 佐藤明義(すながわリバーズ、2023年途中)※専任監督から兼任に変更
- 山川和大(兵庫ブレイバーズ、2023途中 - )※専任監督から兼任に変更
- 生島大輔(淡路島ウォリアーズ、2024年 - 同年途中)
- 巽真悟(茨城アストロプラネッツ、2024年 - )
- 土肥翔治(旭川ビースターズ、2024年 - )
- 香月良仁(佐賀インドネシアドリームズ→佐賀アジアドリームズ、2024年 - )※準加盟球団
- 松本直晃(北九州下関フェニックス、2024年途中 - 終了)※専任監督から兼任に変更
- 日下部光(SHIGA HIJUMPS、2025年 - )※準加盟球団
- 平間隼人(北九州下関フェニックス、2025年 - )
メジャーリーグベースボール
メジャーリーグベースボール(以下、メジャーリーグ)でも選手兼任監督は過去おり、古くはタイ・カッブやビル・テリーなどの名選手が監督を兼任したことがあるが、当時、アメリカでは大恐慌が起きたために、監督の人件費をあまりかけられない、というオーナーサイドの意向によるものとされる。
ちなみにメジャーリーグで最年少の監督はクリーブランド・インディアンスのルー・ブードローで、やはりプレイングマネージャーとして24歳での就任だった。また、黒人初の監督となったフランク・ロビンソンも兼任として就任した。
なおメジャーリーグで最後の選手兼任監督となっているのは、シンシナティ・レッズのピート・ローズ(1985年から1986年まで選手兼任監督)である。
サッカー
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日本
日本のサッカーでは、日本サッカーリーグ (JSL) 時代に釜本邦茂がヤンマーで選手兼任監督をしていた例があるが、日本プロサッカーリーグ (Jリーグ) では、Jリーグ規約第109条に「トップチームの監督およびコーチは、選手として登録することはできない」と明記があり[6]、監督・コーチと選手を兼任することが出来ないため、正式な肩書での選手兼任監督並びに選手兼任コーチは存在せず、監督やコーチがチーム事情から現役復帰する場合は、事実上兼任する場合であっても、形式上監督およびコーチ登録を解除する[注 6][注 7]。
下部リーグでは、1995年のJFLのブランメル仙台(現-ベガルタ仙台)の選手兼監督だった鈴木武一、2002年から2003年にかけての群馬県リーグ、関東サッカーリーグ時代のザスパ草津の奥野僚右、2004年から2005年にかけての東北社会人サッカーリーグのグルージャ盛岡の選手兼監督だった武藤真一、2009年から2013年にかけての藤枝MYFCの斉藤俊秀、2016年に沖縄SVを創設し代表兼選手兼監督となった高原直泰[9]、2022年の神奈川県リーグ時代のはやぶさイレブン、2023年埼玉県リーグの鴻巣シティFCの永井雄一郎の例がある。
女子サッカーでは、2000年からジェフ市原レディースの監督を務めていた鈴木政江が2002年に選手復帰し兼任第1号として2004年まで指揮を執った。2006年からなでしこリーグに参戦している福岡J・アンクラスの河島美絵監督も当初選手兼任であったが2007年を以って選手引退した。
日本サッカーリーグにおける選手兼任監督
- 釜本邦茂(1978 - 1984)
日本国外
日本国外のサッカーでは、ケニー・ダルグリッシュがヘイゼルの悲劇後に辞任したジョー・フェイガン監督の後任としてリヴァプールFCの選手兼任で就任した。チェルシーFCのルート・フリットも1996-1997シーズンに選手兼任監督としてプレーし、史上初の外国人監督によるFAカップ制覇を達成している。また、フリットの後任監督も選手兼任監督のジャンルカ・ヴィアリである。
ジョージ・ウェアは母国リベリアの代表として2000年から2年間、監督兼選手(兼キャプテン、さらにリベリアサッカー協会会長も兼務)でFIFAワールドカップアフリカ予選やアフリカネイションズカップに出場していた。
バスケットボール
バスケットボールの場合、「プレイングコーチ」「プレイヤーコーチ」と呼ばれるが、ヘッドコーチ(監督)のみならず、アシスタントコーチ兼任も含めて指すことが多い。
日本
旧日本リーグでは千葉ピアスアローバジャーズの岡村憲司が2006-07シーズンにプレイングコーチとなり、日本リーグ優勝を決めてMVPとコーチ・オブ・ザ・イヤーをダブル受賞した例がある[注 8]。バジャーズではそれ以前にも中村彰久がプレイングコーチとなっていた。
bjリーグでは2005-2006シーズンにおいて、埼玉ブロンコスのチャールズ・ジョンソンヘッドコーチが、シーズン途中で故障により選手登録から外れたデービッド・ベンワーに代わりプレイングコーチとして現役復帰したケースがある[注 9]。また、2010年より参入した秋田ノーザンハピネッツでは長谷川誠が監督の肩書たるプレイングマネージャーに就任した。
bjリーグの規定では、プレイングコーチがコート上でプレイしている時間はヘッドコーチとしての権限を失い、代わってアシスタントコーチが代行としての権限を行使する。但し、プレイングコーチ・アシスタントコーチが同時にベンチに入っている時間はプレイングコーチが権限を有する。また、プレイングコーチとしての契約期間はサラリーキャップの対象になる。
一方、福井ブローウィンズヘッドコーチの伊佐勉は、琉球ゴールデンキングスアシスタントコーチ就任前にクラブチーム「レキオスバスケット」で監督兼任としてプレーしていた。
2016年発足のBリーグでは、2017-18シーズン途中より広島ドラゴンフライズヘッドコーチにBリーグ初の兼任として朝山正悟が就任し[10]、続いてバンビシャス奈良で石橋晴行も兼任でヘッドコーチに就任した[11]。また、茨城ロボッツにおいては前出の岡村がスーパーバイジングコーチの肩書を持ち選手兼任ながら実質的な指揮を執っている。
NBA
NBAでも過去にプレイヤーコーチは存在した。
NBA史上最年少コーチはデトロイト・ピストンズのデイブ・ディバッシャーで、プレイングコーチとして24歳での就任であった。また、北米4大プロスポーツリーグ初の黒人コーチとなったビル・ラッセルもボストン・セルティックスでプレイングコーチを務めた。
特に顕著だったのは1970年代である。当時はNBA人気がどん底に喘いでおり、各球団が経営難で人件費をかけられなかったため、レニー・ウィルケンズ、アル・アットルス、デイブ・コーウェンスらがプレイヤーコーチとして指揮を執っていた。
大相撲
大相撲における選手兼任監督に類するものとして、親方として部屋の運営をこなしながら現役を務める「二枚鑑札」と呼ばれる力士がかつて存在した。最も近い例では1959年~1960年に第44代横綱栃錦清隆が現役力士と年寄春日野を兼任していた時がある[注 10]。栃錦が1960年5月場所限りで現役を引退し、年寄春日野として親方に専念して以降は、二枚鑑札は事実上廃止とされた状態になり現在に至っている。現役晩年の琴ノ若晴將が後継予定者として師匠療養中に代行を務めていたことがあり、引退時でも前頭下位クラスの実力を維持していたこともあって二枚鑑札での現役続行を求める声もあったが結局実現しなかった。
他に、将来の分家独立を考えて、現役中から「内弟子」をとって育成することも少なくない。この場合「現役力士の弟子」ということになるが、師匠として表に立つのはあくまでその相撲部屋の師匠である。ただし、稽古のみならず寝食もともにする相撲部屋の形態上、いわば「居候」の身分であるそうした内弟子の扱いは概して冷淡なものになる。現在の様な部屋別総当り制のもとでは、いずれ本場所で対戦する立場になるということもあって、なおその傾向が強くなる。また、いざ独立という段になって、その素質を惜しんだ本家側が内弟子の移籍を認めないなどの軋轢もしばしば生じている。その一方で、白鵬翔のように、内弟子を取っていた部屋付き親方が所属部屋(宮城野部屋)を継承し、代わって定年後の雇用延長の上で部屋付きとなった先代(竹葉山真邦)からの預かり弟子とともに在籍し続ける例もある。
その他のスポーツ
社会人スポーツ
特に社会人スポーツにおいては兼任監督が多くみられ、これまでに、
- ラグビーの森重隆・松尾雄治・桜庭吉彦(新日鐵釜石)
- バレーボールの田中幹保(新日鐵)・柳本晶一(新日鐵・日新製鋼)・眞鍋政義(新日鐵)・増成一志(大分三好)・泉川正幸(ジェイテクト)・加藤陽一(つくばユナイテッド)・丸山由美(小田急)
- アイスホッケーの岩本裕司(雪印)・若林修(西武鉄道)・村井忠寛(H.C.栃木日光アイスバックス。選手の人数不足によるシーズン途中での追加登録)
- ソフトボールの宇津木麗華(日立&ルネサス高崎)・安藤美佐子(湘南ベルマーレスポーツクラブ)
- ハンドボールの西山清(日新製鋼)・山口修(ワクナガレオリック・2010年監督退任と同時に現役も引退・社業に専念)
- 陸上競技の北風沙織(北海道ハイテクAC)
- スキージャンプの葛西紀明(土屋ホーム)
- スピードスケートの加藤条治(日本電産サンキョー)
らが兼任で指揮を執っている。
特殊な例として、主将(キャプテン)が事実上、監督の代行を務めたという、ラグビーのケースがある。神戸製鋼ラグビー部は、東山勝英が主将を務めることになった際、監督制を廃止し、主将が監督の役割を果たすことにチーム組織を改めたが、1988年に林敏之の後を受け継いで同チームの主将となった平尾誠二の下、同チームラグビー部が同年度の日本ラグビーフットボール選手権大会で優勝し、その後も連勝街道を驀進することになると、他のいくつかの社会人チームでも同様の動きが見られるようになった。もっとも、2003年に創設されたジャパンラグビートップリーグが開始されると、ラグビーでもコーチと選手の分業制が進み、現在では同様のケースを取っているチームはほとんどなくなった。なお、当該項目に示す、神戸製鋼ラグビー部における主将主導のチーム体制は、同じラグビーの例でも、上記に示す松尾雄治らが新日鉄釜石ラグビー部の監督兼選手であった頃のものとは意味合いが異なる(神戸製鋼コベルコスティーラーズ#監督制を廃止を参照)。
その他の例
- NFLでは、シカゴ・ベアーズのジョージ・ハラスがチーム創設当時の中心選手であり、兼任を含めて延べ40シーズンに亘り監督を務めた上、チームのオーナーでもあった。
- 自転車ロードレースにおける監督は本来選手兼任で務めるものであり、現在もなお兼任監督は少なくない[注 11]。
脚注
注記
- ^ ブレイザーも専任ではあるが、1979年から1980年途中まで阪神の、1981年から2年間南海の監督を務めている。
- ^ 機運がなかった訳ではなく、2001年オフに西武ライオンズが伊東勤に就任要請をしたものの固辞されている(後に一軍総合コーチ兼選手に就任)。
- ^ 例えば選手として退場処分を受けた場合、以後監督としての指揮も執れなくなる。
- ^ 社団法人格のみ引き続き残留可能。
- ^ なお、垣野はその後監督専任として現場復帰している
- ^ 2017年シーズンに藤枝MYFCGKコーチのシジマール、レノファ山口FCGKコーチの平井直人が、一時的にコーチ登録を解除の上で選手登録を行っている[7][8]。
- ^ Jリーグ発足後の実例はないが、現役選手(S級ライセンスを所持している人を含む)が事実上監督を兼任する場合は、S級ライセンスを所持していないコーチが「総監督」「監督代行」などの肩書で実質的な監督として指揮を執った例(ヴェルディ川崎での李国秀など)と同様、別にライセンスを所持するコーチを登録上の監督とすることが想定される。
- ^ なお、岡村はその後ヘッドコーチを退き、翌シーズンは選手に専念。そのシーズン後に引退した。しかし、大塚商会で専任コーチの後現役復帰。
- ^ シーズン終了後ジョンソンは退団し、ベンワーは選手復帰した。
- ^ これ自体先代春日野の栃木山守也が栃錦の現役中に没したことなどに配慮した特例措置で、明文化された規則としては、この前年から二枚鑑札は廃止されていた。
- ^ 但し、2005年から実施されているUCIプロツアー制度が導入されて以降、欧米籍の自転車チームについては、コーチと選手の分業化が進んでおり、またコーチングスタッフも、チームディレクター(チーム監督)、レースディレクター(助監督)といった分業体制を取っているところが多い。もっとも、日本の自転車チームは現在も選手兼任監督というケースが少なくない。
出典
- ^ “中日新聞:谷繁選手兼任監督、落合GM、森ヘッド:特集(CHUNICHI Web)”. 中日新聞 (2013年10月9日). 2013年10月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月8日閲覧。
- ^ 公認野球規則 8.06
- ^ “長崎S後期新体制の変更について | 四国アイランドリーグplus” (2008年7月5日). 2016年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月8日閲覧。
- ^ “香川OG 野手コーチ就任のお知らせ | 四国アイランドリーグplus” (2012年1月16日). 2016年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月8日閲覧。
- ^ “2021年四国アイランドリーグplus 公式戦ルール概要” (PDF). 四国アイランドリーグplus (2021年3月21日). 2023年11月22日閲覧。
- ^ Jリーグ規約(平成29年1月25日改正), p109 (PDF)
- ^ 『登録選手追加・変更・抹消のお知らせ(2017/09/01)』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2017年9月1日 。2017年9月26日閲覧。
- ^ 『登録役員追加・変更・抹消のお知らせ(2017/09/01)』(プレスリリース)日本プロサッカーリーグ、2017年9月1日 。2017年9月26日閲覧。
- ^ “沖縄SV立ち上げの高原は「代表兼監督兼選手」…県3部スタートも将来的なJリーグ入り視野”. ゲキサカ. 2023年3月8日閲覧。
- ^ “Bリーグ初!B2広島の朝山正悟が選手兼監督に就任”. 日刊スポーツ. (2017年11月30日)
- ^ “7勝27敗のバンビシャス奈良、パブリセビッチHCとの契約解除を発表”. バスケットボールキング. (2018年2月9日) 2018年7月29日閲覧。
関連項目
選手兼任監督
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飯田の辞任にともない、南海は後任監督の選定を余儀なくされることになった。候補には当初西沢道夫・青田昇ら外部の大物の名前があがっていたが、川勝傳オーナーは、最下位に終わった球団を再建できるのは野村しかいないと熱心に口説いた。野村は当初、捕手、4番と監督兼任では荷が重すぎると就任に難色を示したが、球団が全面的にバックアップすることを条件に受諾し、1969年11月5日、34歳の若さで選手兼任監督に就任した。鶴岡が1960年代前半の時点で「自分の後任は、第一候補は蔭山、第二候補が野村」という構想を周囲に示していたように、野村の監督就任は以前から予期されていたことではあったが、前シーズンこそ酷い怪我に苦しんだとはいえ、まだまだ選手としての実力は衰えていなかったこの時点での監督就任は時期尚早の感があり、永井良和は「鶴岡は自らの後任として飯田、そしていずれは野村という構想をもっていたが、その時期が早まった」と述べている。 野村はヘッドコーチにドン・ブレイザーを据え、投手コーチに日通名古屋の監督であった古谷法夫、打撃コーチには日刊スポーツ、TBS専属の野球評論家の沼澤康一郎を招聘した。野村は以前からブレイザーの野球への知識に感銘を受け、共感できる部分が多いと考えており、「ブレイザーがヘッドじゃなきゃ監督は引き受けなかった」と語っている。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「4番打者」「捕手」「監督」の3つの重責をひとりで担うことになった野村は、後年このときの年俸は選手、監督分を合わせて1億円を超えていたと明かしている(当時の南海は給料を税金分天引きした手取りで渡していたため、1億円を超えていなかったが税金分を含めた給料は1億円を超えている)。 監督就任1年目の1970年は、新人・佐藤道郎を抑えでフル回転させ、何とか投手陣をやり繰りして2位となった。選手としては67年以来公式戦全試合出場を果たした。前年不振だった打撃も復調し、東映の大杉勝男と最後まで本塁打王を争った。ともに42本でそれぞれのシーズン最終戦を迎え、ここで大杉が2本塁打を放ち、44本として野村に2本差をつけた。これに対し野村は打席数を増やすためにそれまで全試合座っていた4番を捨てて1番打者として出場したが、本塁打を記録できず、大杉が初の本塁打王となった。 2年目の1971年は、勝率が5割を切って4位で終わる。ここで野村は他球団で燻っていた投手たちの獲得を目指すことにした。トレードで東映から江本孟紀を獲得した。 1972年、トレードで獲得した江本は前年0勝から飛躍して16勝を挙げてチームのエースに成長し、野村の手腕は高く評価された。一方、チームでは一部選手が野村の指導にはついていけないと首脳陣にこれまでの方針撤回を迫り、クーデターが起こった。それに対して野村は代表して意見を具申してきた三浦清弘に対して、強制的に任意引退の手続きを取るという強硬な手段に打って出た。最終的に三浦は、同じ大分出身の稲尾和久が監督を務める太平洋クラブ・ライオンズへトレードで移籍した。 1973年、パ・リーグは前後期制とプレーオフ制度を導入した。南海は前季にロッテ・オリオンズと優勝争いを繰り広げ、ロッテを制し前期優勝を達成した。しかし後期は、前年まで2年連続優勝していた阪急ブレーブスに対し全敗となる13連敗を記録した。プレーオフでは実力は南海より上と見られていた阪急を3勝2敗で下し、1966年以来7年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、日本シリーズでは巨人に1勝4敗で敗れ、V9を許す結果となった。監督兼任でありながら選手としても.309、28本塁打、96打点の成績を残し、1966年以来5度目となるパ・リーグMVPに選出された。 1975年オフには、巨人から水面下で選手兼任ヘッドコーチとして移籍を打診されるが、実現しなかった。この年巨人は球団史上初の最下位に終わり、巨人の球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五(いずれも当時の肩書)が戦力補強とコーチ陣のてこ入れのため野村と極秘に接触して交渉した。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた野村は快諾したが、監督の長嶋茂雄が同意しなかったため、“巨人・野村克也”は幻に終わった。 1976年は、1月に阪神タイガースとの間でトレードの交渉をまとめ、その結果、江本孟紀、島野育夫、池内豊、長谷川勉ら主力の4選手を放出し、阪神のエースだった江夏豊と望月充の2選手を獲得した。だが江夏は移籍1年目に思うような成績が挙げられなかったことから、江夏をリリーフ専任投手として再生することを決断。江夏はリリーフへの転向を拒んでいたが、野村は「プロ野球に革命を起こそう」と口説き、江夏はその言葉に心を動かされて、1977年6月からリリーフに転向することに同意した。この年19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。投手分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在や、江夏のこの活躍などがあってリリーフの役割の重要性を球界に認識させ、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけとなった。 1977年9月28日、シーズン終了まで2試合を残して監督を解任された。当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時は伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由である。同僚投手の江本孟紀(のち参院議員)によれば、沙知代は大阪球場に電話をかけてきて「なんであんな選手を使ってるの!」「コーチを出しなさい」などと怒鳴り、選手起用が悪いからバッティング・コーチを電話口に呼び出せと言ったという。選手たちも「えらいこと言うオバハンやな」「公私混同でひっかきまわないでくれや」とうんざりしていたという。1975年オフ、選手会は緊急の会合をもち、「野村監督に忠告しよう」と決議したもののベテランは尻込みし、中堅選手も次々に腰が引けたため、結局最後まで残った江本、西岡三四郎、藤原満の3人が大阪のホテルで野村に直談判した。3人は「監督、プレーイングマネージャーなんですから、公私の区別をきっちりつけて選手が納得できるよう収めてください。」と話し、野村は神妙な面持ちで聞き「やっぱり話の分かる人だな。」と江本らは安心して引きあげた。しかし、江本、西岡は同年オフにトレードで移籍した。 野村は球団から監督を解任を通告された後、マスコミの前から姿を消していたが、10月5日に大阪ロイヤルホテルにて記者会見を開いた。会見の冒頭で「私は鶴岡元老にぶっ飛ばされた。スポーツの世界に政治があるとは思わなかった」と切り出し、自分が解任されたのは球団OBの鶴岡一人による介入だと主張した。また「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」についても、沙知代はコーチ会議に出した覚えもないし、それほど常識のない女とも思っていないと発言し、球団が自身を解任した理由には正当性がないと主張した。鶴岡は、野村の主張は事実無根であると南海に対し抗議し、南海も野村に対し発言を撤回するよう訓告文を送付した。野村と南海は大きく対立したが、野村は14日、球団に対し「表現に行き過ぎがあった」と認め、南海も野村の謝罪を「誠意あるもの」であると受け入れ、騒動は一応の決着がついた。 1977年11月、監督の金田正一から誘いを受け、ロッテへの移籍が決定した。南海の選手のうち、野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊がトレードを主張した。南海は他球団と交渉し、江夏は広島への金銭トレード、柏原は日本ハムとのトレードが成立した。江夏は広島への移籍に同意したが、柏原は野村が移籍したロッテへのトレードを訴え、受け入れられない場合は任意引退も辞さないと強硬に主張した。しかし、柏原は翌1978年1月に日本ハムへの移籍を受け入れた。 南海は野村、柏原、江夏ら主力選手の流出によって戦力が大幅に低下し、翌年以降はBクラスに低迷し1988年限りでダイエーに身売りした。
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「選手兼任監督」の例文・使い方・用例・文例
- 古田選手がスワローズの選手兼任監督に
- 古田選手は来季も引き続き捕手を務め,29年ぶりの選手兼任監督となる。
- 以前の選手兼任監督は野村克(かつ)也(や)氏だった。
- 明治安田生命保険によって行われた調査によると,理想の男性上司はヤクルトスワローズの古田敦(あつ)也(や)選手兼任監督だった。
- 東京ヤクルトスワローズの古田敦(あつ)也(や)選手兼任監督は2年連続で理想の男性上司に選ばれた。
- 9月19日,ヤクルトスワローズの古田敦(あつ)也(や)選手兼任監督(42)が引退を発表した。
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