噴火史
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活動開始時期は不明で、50万年前頃までには海面上まで成長していたと考えられている。高堂森火山は約10万年前頃までに、野池火山の主部は約1万年前ごろまでに形成され、15,000年前から11,000年前にかけて2回の大規模な火砕噴火を生じた。最近1万年間の活動は、「古岳」「新岳」「鉢窪火山」で発生している。昭和以降、2015年までに10回近くの噴火記録がある。 有史以降の活動 目撃記録は無いが、古岳火口でも江戸時代末まで噴火が発生していた。 1841年(天保12年)5月23日(旧暦4月3日) - 新岳で噴火。 8月1日(旧暦6月15日) - 集落が焼失。死者多数。 1914年(大正3年) - 溶融硫黄噴出、鳴動。 1931年(昭和6年)3月 鳴動。 4月2日 - 新岳の西側山腹(新岳火口西縁)で噴火。土砂崩壊、負傷者2名、馬、山林田畑被害。 5月15日 - 爆発、降灰。硫黄流出、土地隆起。 1933年(昭和8年)から1934年(昭和9年) - 七釜集落は噴石により全滅、死者8名、負傷者26名。 1945年(昭和20年)11月3日 - 新岳火口東外壁で割れ目噴火(水蒸気噴火?)。 1966年(昭和41年)11月22日 - 新岳で噴火し小規模火砕流。空振は、鹿児島市や種子島でも体感。負傷者3名。 1968年(昭和43年)から1970年代 - 新岳で噴火(1968年、1969年、1972年、1973年、1974年、1976年)。 1980年(昭和55年)9月28日 - 新岳東側斜面で水蒸気噴火。爆裂火口多数形成。マグマ噴出量は0.0001DREkm3。火山爆発指数:VEI1。 1990年(平成2年) - 地震計による観測が開始される。噴気、地震、火山性微動が活発化。 2014年(平成26年)8月3日 - 新岳で噴火(34年ぶり)。噴煙高度 800m以上。噴火警戒レベル3。 2015年(平成27年)5月29日 - 新岳で爆発的噴火。噴煙高さ9,000m以上。火砕流が海岸まで到達、噴火警戒レベル5。 詳細は「2015年の口永良部島噴火」を参照
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噴火史
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安政噴火・明治噴火 十勝岳の噴火活動が和人の文献記録に初めて登場するのは1857年(安政4年)のことである。この年、松田市太郎なる人物が石狩川水源踏査の帰途に十勝岳に登頂したとの記録があり、この中で硫気活動についても触れている。松浦武四郎は6月2日「山半腹にして火脈燃立て黒烟刺上るを見る」と記している。 1887年(明治20年)の噴火は黒煙を噴出し、周辺に降灰したと記録されている。 大正噴火 詳細は「1926年の十勝岳噴火」を参照 1923年、溶融硫黄の沼を出現させ活動を再開した。 1925年2月頃より小規模な噴火を繰り返していたが次第に活発化し、1926年5月からは小火口を形成するなど大規模な噴火が発生した。中でも5月24日12時ごろにグラウンド火口の中央火口丘西側で発生した水蒸気噴火では、小規模な火山泥流が発生して現在の望岳台付近まで流下した。5月24日16時18分の2回目の大規模な水蒸気噴火により中央火口丘の西半分が崩壊、これにより生じた岩屑なだれは噴火から約3分で火口から2.4 kmの地点にあった硫黄鉱山の平山鉱業所宿舎を推定速度 40 m/sで飲み込み、さらに山頂付近の残雪を融かしてさらに大きな火山泥流を発生させた。この火山泥流は美瑛川と富良野川を一気に流下し、20分で約25 km離れた上富良野市街に到達した。泥流により、死者・行方不明者144人という大被害が出た。このときの噴火を描いた小説として、三浦綾子の『泥流地帯』及び『続・泥流地帯』がある。 宮本(1989)らの計算によれば、火口壁の崩壊により 2.0 × 106 m3の土砂が生じ、融雪水と混合し流下した土砂は 3.1 × 106 m3。それが 3:7(715:2385) の比率で美瑛川と富良野川に流れ込んだ。流下に伴って流域の土砂を巻き込み、美瑛川白金温泉付近で 4.76 × 106 m3、富良野川 標高700m 付近で 10.26 × 106 m3 まで増加し、美瑛市街と上富良野町(5.1 × 106 m3を堆積)に被害を与えた。 1962年噴火 1952年頃から摺鉢火口北西側で噴気が活発となっており(52年噴気孔群または昭和火口群)、直前には地震も頻発していた。1962年6月29日22時40分ころ、中央火口丘南側にあった湯沼火口付近で水蒸気爆発が発生。翌30日2時45分には大規模なブルカノ式噴火が発生、噴煙は高度12,000 mにも達した。東側の広い範囲に降灰し、千島列島中部でも降灰が観測された。大正火口付近の硫黄鉱業所には火山弾が直撃し、死者・行方不明者5名、負傷者11名を出した。この噴火は同年8月末には終息し、湯沼火口を通って北西-南東方向に伸びる線上に4つの火口(62-0, 62-1, 62-2, 62-3)を残した。最も活発だった62-2火口は中央火口丘とほぼ同じ高さのスコリア丘を形成している。1968年、1969年の群発地震以降は一連の活動は次第に沈静化していき、1974年5月ころから、62-1火口からの噴気を再開させるが翌年6月には沈静化する。 人的被害とは対照的に、1962年噴火では大正噴火をはるかに上回るエネルギーが放出されている(『十勝岳』(北海道防災会議、1971)参照)。 1983〜1987年 群発地震と小噴火を繰り返す。 1988〜89年噴火 1988年 群発地震を繰り返し、12月62-2火口から小噴火。 1989年 小噴火、群発地震の発生を繰り返す。火砕流、火砕サージ(火砕流の先端部で発生する高温ガス流、熱雲)の発生を確認。周辺140 kmにわたり降灰。美瑛町、上富良野町の住民約300名が一時避難。3月以降、群発地震を伴いつつも噴火降活動は沈静化。 この噴火により1990年(平成2年)まで入山禁止となった。 1997年以降 空振を伴う火山性地震や噴気を観測するが激しい噴火活動は観察されていない。2004年2月と4月には有色噴煙や振幅の小さな火山性微動を観測。2012年8月および2013年6月には大正火口で発光現象が観察されている。 2014年12月、気象庁は噴火警戒レベルを1(平常)から2(火口周辺規制)に引き上げた。
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噴火史
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ボウイ海山は、約11万年前に始まり1万年から1万5千年前に終了した最終氷期、別名“ウィスコンシン氷期”を通して、海底の割れ目噴火により生じた。太平洋のほとんどの海底火山は100万年以上前に誕生しているが、ボウイ海山は比較してかなり新しい。海山の基盤岩は100万年に近い年月を経ているが、山頂部の生成は18,000年よりも新しいことを示す火山活動の痕跡がある。地質学の見地からすれば、これは非常に最近で火山活動が現在でも進行している可能性も有している。 ボウイ海山の海中の山頂に接近しているため、過去の海岸線は波浪の活動により途切れており、海浜堆積物はこの海底火山がかつて、単独の火山島あるいは火山活動による小規模な群島として海上に顔を出していたことを示している。ボウイ火山が誕生した最終氷期の間、海水面は現代よりも少なくとも100メートルは低かったと見られている。
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噴火史
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御鉢は高千穂峰が形成された後、今から3000年前以降に活動を開始した。有史以降の霧島山において最も活発に活動している火山である。以下、主要な噴火について述べる。他にも多数の噴火記録がある。
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噴火史
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島の南西側にある尖った形状の地形(キャッスルロック)は、1796年の噴火時に形成された溶岩ドームである。島はその後も、1796年から1804年、1806年から1823年、1883年から1895年、1906年から1907年、1909年から1910年、1926年から1928年、1992年と、2016年から2017年に噴火を起こしている。2016年から2017年の噴火では、非溶結の火砕流および火砕サージの堆積や、火口の形成によって島の形が変化し、島の面積は噴火前に比べて3倍に増大した。
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噴火史
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古期榛名火山:約50万年前頃から開始し、約24万年前頃まで。約20万年間の活動休止期を経て、約5万年前から新期榛名火山の活動に移行。 新期榛名火山:約5万年前の八崎降下軽石・白川火砕流の噴出で開始し、榛名カルデラを形成。その後、榛名富士、蛇ヶ岳、相馬山、水沢山、二ッ岳など少なくとも5個の安山岩溶岩ドームを形成したが、いくつかが山体崩壊し榛名山東側及び南側山麓に扇状地状地形を形成。 5世紀に活動を再開し、マグマ水蒸気噴火を起こす。(二ッ岳有馬火山灰噴火) 489年 二ッ岳渋川噴火で大規模なマグマ水蒸気噴火と泥流。マグマ噴出量は0.32 DREkm3。火山爆発指数:VEI4 525年から550年 大規模マグマ噴火、マグマ水蒸気噴火、マグマ噴火泥流。マグマ噴出量は0.74 DREkm3。火山爆発指数:VEI5 有史以降の記録は残っていないが、古墳時代後期にあたる6世紀代には二ツ岳で大規模噴火が度々発生しており、北東山麓では6世紀初頭の「榛名山二ツ岳渋川火山灰(Hr-FA)」と、6世紀中頃の「榛名山二ツ岳伊香保軽石(Hr-FP)」の降下による分厚い堆積層が形成されている。渋川市黒井峯遺跡や中筋遺跡、高崎市三ツ寺遺跡など、火山灰や火砕流で被災した古墳時代後期の遺跡は多く発見されており、当時の群馬県域(上毛野地域)に甚大な被害があったことが解っている。渋川市の金井東裏遺跡(国道353号建設工事に伴う調査)では、6世紀初頭のHr-FA火砕流に巻き込まれた小札甲を着装した成人男性人骨1体(甲を着た古墳人)と、その家族と思われる成人女性人骨1体と幼児人骨1体、乳児頭骨1点が発掘されており、人的被害が出ていたことが裏付けられている。
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噴火史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/20 17:02 UTC 版)
ベーレンベルク山は、記録に残っているだけで、1732年、1818年、1851年に噴火を起こしている。この他、山の側面から1970年、1973年、1985年に、それぞれ噴火を起こした。このうち1970年の噴火では、わずか1ヶ月弱の間にヤンマイエン島の面積が、約3平方キロメートル増えた。そして、この1985年の噴火が、現在のところ最後に起こった噴火である。
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噴火史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 01:39 UTC 版)
子持山は、古い火山活動による古子持火山が、その後の火山活動によって埋没したうえ、長い年月をかけて浸食・開析されたものと考えられている。古子持火山の活動時期については研究者による学説がいくつかあり、おおむね90万年前から50万年前ほどのものと推定されている。また、1960年代の研究では、子持山は複数の側火山をもつ複式火山とみなされていた。その後、岩石の年代測定技術の進歩により、1990年代になると側火山とみられていたものは大きく時代が離れていることがわかり、子持山とは別の火山活動によるものと推定されるようになった。
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噴火史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 15:08 UTC 版)
4つの主なデイサイト - 流紋岩質の溶岩の組成の噴火は後期更新世と完新世との間に起こり、火砕流や国内のほとんどを覆う火山灰を発生させた。カルデラはごく最近、西暦410年から535年(噴火によって直接に影響した植物の放射性炭素年代測定に基づく)に崩壊し、広い範囲に火砕流を発生させマヤの都市を荒廃させた。 噴火はおおよそ25 km3の体積の火山灰(1980年のセント・ヘレンズ山噴火の20回分に相当)を噴出し、火山爆発指数(VEI)は6と評価された。火山灰の雲は降下し少なくとも10,000 km2の範囲を腰の深さまで軽石と灰が覆った。数十年の期間この地域でのすべての農業努力を止めてしまった。 その後の噴火は湖の内部や岸の近くにいくつかの溶岩ドームを形成した。唯一の歴史的記録に残る噴火は1879年12月31日から1880年3月26日まで続き、溶岩ドームを生成しVEI 3と評価された。溶岩ドームは湖の表面に達しケマダス島(Islas Quemadas)が形成された。
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