噴火前の青ヶ島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
青ヶ島にいつごろから人が住み始めたのか現在のところはっきりしていない。これはほかの伊豆諸島の島々で発見されている縄文時代や弥生時代の遺跡がまったく発見されておらず、また中世の遺跡も見つかっていないうえに文献資料も乏しいためである。15世紀になってようやく青ヶ島に人が居住しているとの記録が現れる。 青ヶ島は絶海の孤島で周囲を黒潮が流れ、波が荒いことが多く青ヶ島への船の航行は困難を極めた。また島の周囲は約50 - 250メートルの海食崖が発達しており船の接岸も困難であった。15世紀の青ヶ島についての記録の多くは船の遭難に関することであり、この船の往来の困難さは現在に至るまで青ヶ島に住む人々を悩ませ続けている。 往来は困難を極めたが、青ヶ島での生活には利点もあった。これは八丈島、八丈小島と比べて食糧事情がよかったことである。八丈島や八丈小島は19世紀のサツマイモの本格的な普及まで慢性的な食糧危機に見舞われていた。これはおもに台風の襲来による風害によるものであり、ひとたび強い台風が八丈島や八丈小島を襲うと多くの作物に甚大な被害がもたらされ、餓死者が出ることも稀ではなかった。 一方、青ヶ島は大きな成層火山の山頂部が海面上に出ている地形をしており、島の南部には直径1.5 - 1.7キロメートルという成層火山の大きな火口にあたる池之沢がある。池之沢にはかつて大池、小池という淡水の池があり、土地も肥沃であった。何よりも、大きな火口の内側となる池之沢は周囲の山によって強風が遮られるため、作物の被害が少なかった。このような土地であるため、元禄13年(1700年) 11月には激しい飢饉に襲われ青ヶ島へ出発した八丈小島の住民24名全員が行方不明になるという事件も発生した。 しかし池之沢は成層火山の大きな火口内であり、承応元年(1652年)に池之沢内で噴煙が上がり、寛文10年(1670年)から約10年間、池の沢にあった池から細かい砂が約10年間にわたって噴出したとの記録が残されている。いずれの事件も小規模な異変であったと考えられ、青ヶ島の島民に大きな影響を与えることはなかった。 安永3年(1774年)の記録によると、青ヶ島には流人1名を加えて328名の島民が、農業やカツオ漁などの漁業、そして年貢としての生糸を生産するための養蚕を営みながら生活していた。島内で農業や養蚕の最大の拠点は、土地が肥え淡水の池があって風害から守られている池之沢であった。
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