噴火後3年目の青ヶ島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
「還住 (青ヶ島)」の記事における「噴火後3年目の青ヶ島」の解説
青ヶ島島民の八丈島への避難という事態を招いた天明5年の大噴火後、八丈実記には天明7年(1787年)6月には噴火後の様子を確認するために青ヶ島へ渡ったことが記録に残されている。また噴火後、時々青ヶ島に渡り様子を確認していたとの記述もあり、噴火後の島の様子をしばしば確認していたことがわかる。しかし噴火直後の青ヶ島がどのような状態であったのかについては記録が残されていない。 噴火後の青ヶ島についての最初の記録は、噴火後3年目にあたる天明8年(1788年)4月に行われた八丈島役所が行った見分の記録である。このときの見分によれば噴火はおさまっているものの、ようやく草木に緑が戻ってきた段階で、耕作地は火山灰に埋まり水を得にくい状態は続いており、道や船着場も大きく損壊しており、当分人が住めそうもないと判断され、4、5年は青ヶ島の見分は見合わせるべきとの内容であった。
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