国造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 16:38 UTC 版)
概要
ヤマト王権の行政区分の1つである国の長を意味し、この国は令制国整備前の行政区分であるため、その範囲ははっきりしない。地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。有力な豪族が朝廷によって派遣、または朝廷に帰順して国造に任命され、その多くが允恭朝に臣・連・君(公)・直(凡直)などの姓が贈られた。ヤマト王権直轄の県主と異なり、軍事権・裁判権など広い範囲で自治権を認められた。
国造の最初の設置は神武朝の記事に見え、ヤマト王権が勢力を拡大し始めた崇神朝に四道将軍の遠征ルートに沿って本格的な設置が開始された。その後も景行朝の景行天皇による西国遠征と倭建命の東国遠征に合わせて各地に首長が配置され、次代の成務朝に一気に国造の設置がなされた。これら国造の設置の詳細は『国造本紀』に見えるほか、『記紀』にも成務天皇による国県制定の記事が見える。その後も遅れて応神朝に設置されたり、仁徳朝に分割され再配置されたりした国造もある。
国造が大王から与えられた姓は、
などさまざまであり、一律に行われた編成ではないことが分かる。
国造はそれぞれの国造の祖神たる神祇の祭祀を司り、部民や屯倉の管理なども行った。国造族の子女を舎人や釆女として朝廷に出仕させており、紀国造や上毛野国造などのように外交に従事したりもした。また、筑紫の国造(筑紫国造)のように北九州を勢力下に入れ、ヤマト王権に反抗する者や、闘鶏国造のように解体された国造も存在する。
国造の下に県(あがた)があり、かなり整備された国県制があったとする見解もある。しかし、律令制以前の地方支配の実態は、国造制の実態や中小豪族との関係など不明な点が多い。
古墳時代を通して長らく存続した国造であったが、6世紀の末期(推古朝)から7世紀中期(孝徳朝)にかけて、各地の国造が評督へと変更されていき、大化の改新の後、大宝令の施行によって評が郡へと置き換わり、国造のなかには郡領を兼任した者もいた。
9世紀成立とされる「国造本紀」(『先代旧事本紀』巻10)には、全国135の国造の設置時期と任命された者らの記録がある。
- ^ ヤマト王権の命により外征にも動員された。
- ^ 『国史大辞典』国造項 氏姓国造一覧表を参考にして記載。
- ^ 『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、国立国会図書館デジタルコレクション)216コマ。
- ^ 『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、国立国会図書館デジタルコレクション)219コマ。
- ^ 間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考―再構成される諏訪の伝承―」(『国語国文研究』161号、2023年8月)
- ^ 間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考―再構成される諏訪の伝承―」(『国語国文研究』161号、2023年8月)
国造と同じ種類の言葉
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