国造の氏姓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 05:43 UTC 版)
5世紀後半から6世紀には、現地の在地首長が支配していた農民や職業集団が「部」の単位で編制され、在地豪族が掌握する部を中央の諸豪族や伴造らが統括し貢物や労役などを奉仕させる部民制が成立し、ヤマト王権が地方部民統括のため地方豪族に対して任命した世襲地位である国造制も整えられたとする説がある。 甲斐国では『正倉院宝物』の調庸白あしぎぬ金青袋の墨書銘や笛吹市一宮町に所在する大原遺跡から出土した墨書土器から、山梨郡には王族に従属する名代・子代系の部である日下部が置かれていたことが確認されている。日下部は東海道や東山道などに広く分布するもので、氏姓に関して関晃は『古事記』に同祖と記される日下部とし、姓(かばね)は地方豪族や、地方国造にも多く甲斐国おける他の部民管理氏族と共有する直であったと推定しており、他の部民管理氏族とは同族関係であったと考えていて、これが通説的な位置づけある。一方、鈴木正信は二条大路出土木簡に「左大舎人甲斐□」とあることや、他の国造の氏姓が管轄国の地名を負うことから、「甲斐直」を推定している。しかし、両者の説は共に現存史料からは何ら確認できず、甲斐国造の系図では国造の氏姓を「甲斐君」としている。
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