管轄国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 05:49 UTC 版)
元弘4年(1334年)正月の雑訴決断所条規、『鎌倉大日記』の延元元年(1339年)条により、鎌倉府は関東10ヵ国を管轄したとされている。現在の関東地方に相当する坂東8カ国(常陸・上野・下野・上総・下総・武蔵・相模・安房)、および、甲斐(山梨県)・伊豆(静岡県東部)である。 ただし、鎌倉府初期の管轄国には変動がみられる。暦応・康永期(1338-1344年)、観応2年(1351年)、貞治4年(1365年)~応安3年(1370年)には、信濃(長野県)を含む11ヵ国を管轄していた。信濃守護不在のとき、幕府は信濃を隣接する鎌倉府に預けていたなどの事情が推定されている。一方、貞和5年(1394年)には管轄国が8ヵ国になった。伊豆・相模・上総・下総・上野・下野・安房・常陸である。高師直が国司と守護を兼ねていた武蔵が含まれていない。当時、鎌倉府執事の一人だった尊氏派の高師冬が上京していたため、もう一人の執事・直義派の上杉憲顕に武蔵を支配させないために管轄国を変更したと考えられる。関東10ヵ国に安定したのは、第2代鎌倉公方・足利氏満期以降である。 明徳3年(1392年)には陸奥と出羽が追加されて、12ヵ国となった(『喜連川判鑑』)。当時、京都幕府の将軍・足利義満にとって最大の課題は、西国の大名・山名氏を鎮圧し、政権基盤を固めることだった(明徳の乱)。そこで、西国に集中するため、後方の鎌倉公方・足利氏満に対し、融和策をとったものと考えられる。
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