京都・室町幕府からの自立
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文和2年(1353年)7月、足利尊氏は初代鎌倉公方・足利基氏に対し、所領の安堵権や宛行権、裁判権を付与して京都に戻った。遠隔地の京都よりも、鎌倉から関東を直接統治した方が安定すると考えたことによるが、鎌倉府自立化の下地となった。そして、第2代鎌倉公方の足利氏満期(貞治6年・1367年~)、第3代・満兼期(応永5年・1398年~応永16年・1409年)に、その傾向が明確になる。例えば、鎌倉府管轄国の守護に対する指揮権は、基氏期までは京都の幕府にあったが、氏満期以降は鎌倉府に移ったと考えられている。将軍・管領から各国守護に宛てた文書がみられなくなり、鎌倉府と寺社宛の文書のみになる。守護の補任権についても、関東管領・山内上杉氏以外は鎌倉公方が把握しており、幕府が持っていたのは推挙権であった。諸国の国人に対する所領安堵についても、貞治年間(1362-1367年)までは、鎌倉公方が安堵推挙状を幕府管領に発しており、幕府が掌握していたことが分かるが、応永6年(1399年)の応永の乱前後を契機として、鎌倉公方が直接に安堵権を行使するようになる。このころには、所領安堵権を持つ鎌倉公方と関東武士の間に主従関係が確立するとともに、幕府は鎌倉府に対して指令する権限を失った状態になった。
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