京都女子大学設立について
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「九条武子」の記事における「京都女子大学設立について」の解説
1912年(明治45年)に、武子が所属する西本願寺仏教婦人会連合本部が、「女子大学設立趣意書」を配布した。「趣意書」では、まず、「国運の発達は、国民の開発に由らざるべからず」として、教育の重要性を訴えている。しかし、当時の教育は「男子に厚くして女子に薄きことなき耶」として女子の教育拡充をもとめている。そのため、「家政及び国漢文、歴史、外国語等教科を設くる所以、教育設備の、女子に薄くせざるの意を拡充し、勉めて常識の発達、趣味の養成、徳性の涵養を図り、女子の職分を尽くさしめて、国体の精華を発揮せんと欲するに在り」として、女子大学の設立を呼びかけた。また、本願寺派の仏教者である武子は「宗門」の女子大学設立ということにこだわった。というのは、既存の女子大学である同志社女子大学などの建学の精神が「異教」(キリスト教)であったためである。 2000年に、武子らが学校設立のために活動した錦華殿(大谷光端自邸)が同大学内に復元された。
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