因幡国造浄成女とは? わかりやすく解説

因幡国造浄成女

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 09:19 UTC 版)

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因幡国造浄成女(いなばのくにのみやつこ きよなりめ、生年不明 - 延暦15年10月15日796年11月18日))は、奈良時代から平安時代初頭にかけての女性。国造浄成女とも呼ばれる。

経歴

因幡国造氏の一族で、因幡国高草郡鳥取市中・西部一帯)の出身[1]。時期は不明だが、朝廷釆女として貢上され、山部王(山部親王、後の桓武天皇)に仕え、寵愛を受けた[2]。当初は国造浄成女を名乗っていた。

光仁朝において、浄成女は地方豪族出身者としては異例の昇進を遂げた。宝亀2年(771年正月正六位上から従五位下に叙せられ[3]、同年2月には同族の者数名と共に因幡国造姓を賜った。この時、「采女」とある。[1]。また、同年12月には因幡国造令制国造)に任ぜられた[4]。山部親王の即位後も引き続きその寵愛を受け、延暦4年(785年)正月には従四位上に叙せられ[5]、延暦13年(794年)7月にはに屋敷を造営するための稲が与えられた[6]

寵愛を一身に受けた浄成女は、桓武天皇をはじめ周囲からも皇子女の誕生を期待されていたが、延暦15年(796年)10月、遂に産むことはなく死去した。最終的な官位正四位上という顕位にまで叙せられている[2]。一方、因幡国造一族はこれを背景に着実に勢力を増していき、寛弘4年(1007年)の因幡千里(千兼)殺害による勢力の衰退まで権勢を振るったとされている。

官歴

六国史』による

脚注

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  1. ^ a b 『続日本紀』宝亀2年2月9日条
  2. ^ a b 『日本後紀』延暦15年10月15日条
  3. ^ 『続日本紀』宝亀2年正月2日条
  4. ^ 『続日本紀』宝亀2年12月14日条
  5. ^ 『続日本紀』延暦4年正月9日条
  6. ^ 『日本後紀』延暦13年7月9日条

関連項目

参考文献





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