寛文印知集とは? わかりやすく解説

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寛文印知

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 02:56 UTC 版)

寛文印知(かんぶんいんち)は、寛文4年4月5日1664年4月30日)に江戸幕府日本全国の大名に対して一斉に領知判物・領知朱印状領知目録を交付した法律。また、翌寛文5年(1665年)には、公家門跡寺社などに対しても同様の措置が取られ、江戸幕府の大名領知権と日本全国の土地支配権を名実ともに確立した。全国の大名・公家・寺社などが持っていた朱印状が一斉に回収・再交付されたため、これを特に寛文朱印改(かんぶんのしゅいんあらため)と呼び、これに基づいて交付された朱印状を特に寛文朱印状と呼ぶ。


  1. ^ a b 高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年 ISBN 978-4-642-03461-6 P394-397
  2. ^ a b c 以下の論文によるが、総計など一部を修正した。寛文印知には1836通の判物・朱印状等が収録されているが、覚2通、願書1通、下知状1通を含み、また寛永寺(本表では門跡で集計)と楽人領(本表では集物で集計)は重複しているため、実際の領知判物・朱印状の通数は1830通である。『寛文朱印留』判物・朱印状通数と石高集計の表中の石高は「余」を加算しない。徳川歴代の領印安堵(印知)の年月日の表中の「―」は印知のないことを示す。
    • 大野瑞男, 「領知判物・朱印状の古文書学的研究 ―寛文印知の政治史学的意義(一)―」, 史料館研究紀要, (13号), pp. 1-54 (1981年).
  3. ^ a b 寛文4年の幕府直轄領(天領)の石高は大河内家記録「御取箇辻書付」による。以下の論文参照。
    • 藤田覚, 「江戸時代前期の幕領石高・年貢量に関する新史料」, 『史学雑誌』, 104 (10), pp. 1777-1786 (1995年).
  4. ^ a b c 前田綱紀宛領知判物・目録には富山藩(越中婦負郡・新川郡之内10万石)、大聖寺藩(加賀江沼郡・能美郡之内7万石)、金沢藩預地(能登4郡之内1万石)への言及があるが、富山藩と大聖寺藩には別個に領知判物または朱印状と目録が交付されており、金沢藩の項目からは省略する。
  5. ^ 島津久光宛領知判物には「薩摩・大隅両国並日向国諸県郡之内都合六拾万五千石余、此外琉球国拾弐万三千七百石」とあり、琉球の石高を島津久光所領の都合高に含めずに記載している。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 寛文印知に記載なし。
  7. ^ a b c 国立公文書館蔵『領知目録書抜 一』により、出羽国河辺郡一円の石高を1万3040石から1万3740石に、出羽国平鹿郡一円の石高を3万1440石から3万1420石に改訂。
  8. ^ a b c 京極高国宛領知判物には「丹後国十弐万三千弐百石(目録在別紙)事、加佐郡之内三万五千石京極伊勢守可進退之、丹波郡之内峯山廻壱万石除之、残七万八千弐百石如前々充行之訖、全可領知之状如件」とあり、別に領知朱印状・目録が発給された峰山藩の内の1万石を加えた丹後国内の京極家所領の石高合計の記述はあるが、宮津藩と田辺藩の都合石高の記述がない。領知目録でも宮津藩と田辺藩で個別に郡別村数・石高が記述されている。
  9. ^ a b 国立公文書館蔵『領知目録書抜 一』により近江国蒲生郡之内の石高を3842石0斗3升8合から8842石0斗3升8合に改訂。なお仙台藩の所領62万0056石5斗4升4合が確定するのは正徳2年(1712年)以降である。
  10. ^ a b c 幕末には東白川郡を「白川郡」、西白河郡を「白河郡」と書いて区別していたが、寛文印知では漢字の記述が逆転しており混乱がある。
  11. ^ 上杉綱勝宛領知判物には「出羽国置賜郡弐百五拾七箇村拾八万六千九百九拾石余、陸奥国信夫郡六拾箇村四万八千五百三拾石余、伊達郡八拾六箇村六万四千四百七拾石余、都合三拾石事、如前々充行之訖、全可領知之状如件」とあるが、領知目録を欠く。これは上杉綱勝の急死と末期養子の不備による15万石への減封に伴う混乱により、領知目録が交付されなかったためである。領知判物には寛文4年旧暦4月5日の日付が入っているが、「削封日記」によると実際の判物の下賜は旧暦5月22日付で、その際に米沢藩は長井郡(置賜郡)18万6994石5斗8升4合、伊達・信夫両郡11万3005石9斗1升6合、都合30万石6斗の高辻帳を提出した。それから間もない旧暦閏5月7日に上杉綱勝は急死している。
  12. ^ 寛文4年当時久世広之は老中を務める江戸定府大名であり、下総国結城郡結城本村に陣屋が置かれていたが、藩庁と呼べるかどうかは不明。
  13. ^ a b 国書刊行会編本により近江国蒲生郡之内の石高を1万3211石6斗2升4合から1万3217石6斗2升4合に改訂。
  14. ^ 国立公文書館蔵『正保飛騨国絵図』により郡別石高の端数を補った。
  15. ^ a b 寛永16年(1639年)付の「寛永十六年 三河国村々高附」(大須賀初夫編『三河国村々高附・額田県布告集』収録)により三河国渥美郡之内の石高の端数を補った。
  16. ^ 摂津国嶋下郡味舌村に陣屋が置かれていたが、藩庁と呼べるかどうかは不明。
  17. ^ 領知目録を欠く。
  18. ^ 宇和島藩の石高・所領は貞享元年(1684年)旧暦9月21日付の伊達文化保存会蔵「宇和島藩主宛領知判物(写)」(『愛媛県史 資料編 近世下』(1988年)収録)による。
  19. ^ 伊予吉田藩の石高・所領は貞享元年(1684年)旧暦12月13日付の太田渓二氏蔵「徳川綱吉領知朱印状写」(『愛媛県史 資料編 近世下』(1988年)収録)による。
  20. ^ 甲府藩の石高・所領は「甲州 弐拾五萬石割」(『竹橋餘筆 巻一』収録)による。なお都合石高との比較により信濃国内の石高を3万0730石1斗7升9合から3万7030石1斗7升9合に改訂。
  21. ^ 館林藩の石高・所領は「館林 弐拾五萬石割留」(『竹橋餘筆 巻一』収録)による。なお「秋田領」は「新田領」に改訂(『群馬県史 通史編4 近世I』参照)。
  22. ^ 尾張藩の石高・所領のうち、諸国の石高は「御高問答」所収の寛文11年(1671年)の「寛文十一亥年御領高」(徳川義親著『尾張藩石高考』(1959年)収録)、尾張国内の石高・所領は「寛文村々覚書」(『名古屋叢書続編』第一巻(1964年)、第二巻(1964年)、第三巻(1966年)収録)、美濃国内の石高・所領は「美濃国尾張領村々覚書」(『岐阜県史 史料編 近世四 付録村・町絵図共』(1968年)収録)、三河国・近江国・摂津国の村数と木曽定納の石高は『地方古義』所収の寛永12年(1635年)付の「寛永取調知行目録」(『名古屋叢書続編』第三巻(1966年)収録)による。また「寛文十一亥年御領高」(尾張国分48万2250石5斗9升7合 、美濃国分12万7020石2斗4升5合)と「寛文村々覚書」、「美濃国尾張領村々覚書」との間における尾張国・美濃国内の郡別石高の合計との違いは本表では過高・違高として処理した。
  23. ^ 紀州藩の石高・所領のうち、紀伊国内の石高・所領は国立公文書館所蔵『正保紀伊国絵図』、大和国内の石高・所領は寛永16年(1639年)付の奈良県立図書館蔵玉井家文書『寛永十六年 給所御代官替之分大和州著聞記』、伊勢国内の石高・所領は慶安元年(1648年)付の明治大学博物館蔵板倉家文書『慶安元年 伊勢国高郷帳』による。
  24. ^ 水戸藩の石高・所領は寛永12年(1635年)付の「寛永拾弐年 水戸領郷高帳先高 亥ノ三月」(『茨城県資料=近世政治編I』(1970年)収録)による。





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