欧米からの影響の時代
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1960年代なかばごろから1970年代はじめごろ、日本は慢性的な貿易赤字から一転した黒字化の定着など高度経済成長がより進展した。人手不足によって格差の大きな縮小が起きて一億総中流となり、三大都市圏への人口移動が続き、大企業での終身雇用の定着とサラリーマンの企業戦士化が進み、生活の向上と安定が強まることで核家族化が進行し、血縁や地縁(ゲマインシャフト)よりも社縁(ゲゼルシャフト)が強くなっていき、恋愛結婚が見合い結婚を上回った。子供では競争社会から来る焦りで母親から過干渉される子供や、逆に放任されて自宅の鍵を学校へと持っていくカギっ子が増えていった。1960年代に第一次塾ブームが起き、1965年には高校進学が70%に達している。また1966年には文部省の留守家庭児童会育成事業補助要綱によって学童保育(放課後児童クラブ)が広まっていった。 国民車構想によって大衆車が登場したことでモータリゼーションが進み、スーパーマーケットや大型書店の支店が全国に広まった。 また世界の貿易自由化の波に合わせて日本も1960年に貿易為替自由化計画大綱を策定し、それによって国内製紙メーカーが国際競争力を付けるために設備投資を進めていったものの、過剰生産となって紙余りの状態となり、出版界では紙が使いやすくなった。漫画雑誌での紙の量の増大は作品の描写に用いるコマやページ数の増大でもあり、長ページ化とともに画面の展開手法がより流れるようなものへと変化していった。また滑稽性やかわいらしさを排除した劇画の影響を受けた少女漫画も増えていった。 そして少女漫画はビッグ・バン的な発展を生じた。量的には、以前には少女雑誌の一部分でしかなかった漫画が雑誌のほとんど全てを占めていくようになり、雑誌の数も、隔週刊が毎週刊化、週刊誌から月刊別冊が、さらにそれぞれが増刊誌を出したり、新創刊が次々と生まれた。需要の性質と量の急激な変化と相まって、10代で雑誌デビューする女性新人がとくに多かったのもこの時代である。デビューの仕方も、それまでの持込や人脈によるものから雑誌の中の漫画講座・コンクール・漫画新人賞からの率が増えていった。これらによって少女の職業選択に少女漫画家という選択が入ってきた。一方で、格段に増えた少女漫画雑誌と経済発展による貸本屋の退潮によって、貸本出版の少女漫画は衰退消滅していく。 この時期以降の特徴として、生産者(作者)と消費者(読者)の間の強い近さがある。例えばトキワ荘では石ノ森章太郎の女性ファンが集まって石ノ森章太郎の「東日本漫画研究会」に女子部が発足し、少女漫画同人誌の『墨汁二滴』が作られ、そこから西谷祥子、志賀公江、神奈幸子らが輩出されている。 またストーリー漫画が中心になると少女の心を考えて描く必要が出てきて男性作家では難しくなっていった。 もともと映画においてロマンティック・コメディの洋画が人気となっており、1966年にはテレビのレギュラー番組として「土曜洋画劇場」も登場し、少女漫画ではフィクション性の強い外国もののラブロマンス(無国籍漫画)が続いていった。代表的な作品には同名の洋画を翻案した漫画『ローマの休日』(水野英子)や洋画「麗しのサブリナ」を基にした『すてきなコーラ』(水野英子)などがある。 また、水野英子のファンであった男性作家あすなひろしはジュニア文芸誌に漫画を掲載するようになり、その影響を受けてポエムコミックという作風を確立していった。あすなひろしの作風は男性作家立原あゆみにも影響を与えている。また1962年より少女誌「美しい十代」で連載されていた4コマ漫画「小さな恋のものがたり」(みつはしちかこ)は1972年にテレビドラマ化され人気を集めていったが、この漫画は4コマ漫画にイラストポエムを挟む構成となっていた。 そのほか、1965年には『少女フレンド』で楳図かずおによるホラー漫画が連載されはじめて人気となり、貸本の少女漫画からもホラー漫画が増えていった(恐怖漫画ブーム)。 学園漫画では1966年に「青春学園物の草分け」とも言われる『レモンとサクランボ』(西谷祥子)が『週刊マーガレット』へと登場し、また同1966年には「ラブコメの原点」とも言われる『ロマンスの薬』(楳図かずお)が『なかよし』へと登場している。1969年には『週刊マーガレット』に米国舞台のラブコメディ『おくさまは18歳』(本村三四子)が登場し、1970年にはそれが舞台を日本に変更した上でドラマ化され人気となった。同1970年には同誌に米国舞台のラブコメディ『美人はいかが?』(忠津陽子)が登場し、1971年にはこちらも舞台を日本に変更した上でドラマ化されている。 1968年には多くの漫画雑誌の創刊が行われ、少女漫画誌では『少女コミック』(小学館)が創刊されたほか、週刊マーガレット上位誌の少女誌『週刊セブンティーン』も登場した。 Clip テレビの家庭普及率(黒線は白黒テレビ、色線はカラーテレビ) 白黒テレビが家庭に普及していき、日本でもアメリカのロックバンド「ザ・ベンチャーズ」や「ビートルズ」の来日公演と録画放送によってグループ・サウンズのブームが起きた。 少女漫画や少女向けテレビアニメではヨーロッパやアメリカを舞台した作品が増加していった。1960年代には日本人の海外渡航が自由化され、「裕福」で「おしゃれ」なイメージのフランスを舞台にする少女漫画が増えていった。また留学エージェントの登場によりアメリカへの留学が簡単となり、少女漫画では「週刊少女フレンド」にアメリカ留学をテーマとした『ハリケーンむすめ』(杉本啓子、1969年)や『お蝶でござんす』(漫画:神奈幸子、原作:羽生敦子、1971年)が登場した。 また、少女の憧れの職業としてスチュワーデス(航空機の客室乗務員)が浮上した。1970年にはスチュワーデスをテーマとしたテレビドラマ「アテンションプリーズ」が登場し、1971年にはそれが「少女フレンド」で少女漫画化されている(作者は細川智栄子)。 海外ドラマの影響を受けて魔法少女物の流行も起きている。1965年に魔法使いが主役のディズニー実写アニメーション映画「メリー・ポピンズ」が日本でも公開され、1966年にはアメリカドラマ「奥さまは魔女」及び「かわいい魔女ジニー」が日本でも放送されてヒットし、『奥さまは魔女』は週刊マーガレットで少女漫画化されている(作者はわたなべまさこ)。また国内からも魔法少女物のTBSドラマ『コメットさん』や東映アニメ『魔法使いサリー』が登場したが、どちらも原作は横山光輝であり、前者は週刊マーガレットに、後者はりぼんに漫画が連載されることとなった。これらの国産魔法少女のヒットによって「東映魔女っ子シリーズ」は定番となっていき、りぼんで連載していた赤塚不二夫原作の変身物の『ひみつのアッコちゃん』や週刊マーガレットで連載していた石ノ森章太郎原作のコメディ物の『さるとびエッちゃん』がそのシリーズとしてアニメ化されている。 スポ根ものの少女漫画も登場している。1964年に野球競技を含む「1964年東京オリンピック」が開催され、1966年より少年漫画において野球漫画「巨人の星」を始めとするスポ根が登場して人気を博しており、また、大日本紡績の女子バレーボールチームが「東洋の魔女」として人気となっていたこともあって、少女漫画ではバレーボールのスポ根ものが複数登場した。1968年には週刊マーガレットから『アタックNo.1』(浦野千賀子)が、少女フレンドから『サインはV』(原作:神保史郎・漫画:望月あきら)が登場し、その後、少女コミックでも『勝利にアタック!』(灘しげみ)が登場している。1969年には『アタックNo.1』がアニメ化され、『サインはV』がテレビドラマ化された。 1950年代後半のミッチー・ブームでは軽井沢のテニスコートが出会いの場であったことによりテニスブームが起きており、また、その後のスポ根ブームの影響も受けて、少女漫画ではテニス物も登場した。1969年には週刊マーガレットから『スマッシュをきめろ!』(志賀公江)が、1973年には『エースをねらえ!』(山本鈴美香)が登場し、前者は「コートにかける青春」としてテレビドラマ化され、後者はテレビアニメ化された。 また、1970年代初頭にはジャンボ機が登場して海外旅行が身近となり、また女性添乗員も登場し、それらに伴って女性出国者の数も急激に増加していった。そんな中で1972年に週刊マーガレットからフランスのベルサイユを舞台にした歴史フィクション漫画『ベルサイユのばら』(池田理代子)が登場し、その後、宝塚歌劇団でミュージカル化され、『ベルばらブーム』が起きることとなる。 一方1960年代後半にはベトナム戦争などの影響で米国において社会そのものを見直すカウンターカルチャーが生じてヒッピームーブメントが起きており、それに伴ってメッセージソングが流行していた。週刊セブンティーンではそんな米国を舞台にした作品として1969年に『ファイヤー!』(水野英子)が登場した。 同時期に日本でもフーテン族が登場したり、大学紛争の全共闘運動が起きている。また、この全共闘運動において日本でのウーマンリブ運動が起き、その上、1970年代に「かわい子ちゃん歌手」のブームが起きたこともあって「女性上位社会の到来」が予期されるようになり、同時期の少女漫画ではその反動として弓月光の『にくいあんちきしょう』(1970年) や津雲むつみの『おれは男だ!』(1971年-) のような硬派な男主人公の少女漫画が登場し、後者はテレビドラマ化された。また1972年には新左翼による「あさま山荘事件」が起き、少女漫画では1974年に樹村みのりの『贈り物』が登場している。 また三大都市圏への人口集中が問題となっており、1960年代には全国総合開発計画が打ち立てられて高速道路や新幹線が開通された。1969年には米国のアポロ11号によって人類が月面へと到達したほかスペースコロニー計画も提唱され、また、1970年には日本で大阪万博が開催され、明るい未来が予期されるようになった。この頃の少女漫画では「やさしいママと頼りがいのあるパパと誰からも好かれる良い子」という理想の家庭が描かれていたとされる。これよってノンポリなしらけ世代が生まれ、大学紛争は収束した。 その他、化粧品ブランド「キスミー」のCMソング「セクシーピンク」によって1959年より「セクシー」という俗語の使用が拡大した。1960年代後半には「ミニの女王」と呼ばれたツイッギーの来日と共に日本でもミニスカートが流行し、その後「ハレンチ」が流行語となり、少年漫画では「ハレンチ学園」(永井豪)が人気となってドラマ化されたが、女性向けでも「小説ジュニア」の「ハレンチくん」(土田よしこ、1968年)や、りぼん連載の『赤塚不二夫先生のハレンチ名作』(赤塚不二夫)が登場している。 海外映画ではイタリア映画作家ルキノ・ヴィスコンティが耽美へと傾倒していき、少女漫画でも耽美の影響が強くなっていった。耽美作品における芸術とは何かは、例えばヴィスコンティの耽美映画「ベニスに死す」(1971年)内のセリフに現れている。登場人物アッシェンバッハが『「美と純粋さの創造はスピリチュアルな行為」であり「(現実の)感覚を通して(知恵、真実、人間の尊厳の)スピリットに到達することは出来ない」』としたのに対して、登場人物アルフレッドは「(芸術に現実の)悪徳は必要であり、それは天才の糧である」と反論している(なお、ここでの翻訳はオリジナルの英語版の映画がベースであり、日本語版の映画には「背徳」などの超訳が含まれる[要出典])。 1970年に日本公開されたヴィスコンティの耽美映画「地獄に堕ちた勇者ども」では強姦描写や近親相姦が存在していた。少女漫画の強姦描写では1971年には「りぼん」増刊の『りぼんコミック』において強姦を描いた『しあわせという名の女』(もりたじゅん)や『彼…』(一条ゆかり)が掲載されており、その後、1973年にはりぼん本誌にも強姦描写のある『ラブ・ゲーム』(一条ゆかり)が登場している。また少女漫画の近親恋愛モノでは1970年には「りぼんコミック」に『うみどり』(もりたじゅん)が登場し、1972年には「りぼん」本誌に『おとうと』(一条ゆかり)が登場した。 また、欧米では経口避妊薬の登場によって「性の開放」が起きていた。日本でも欧米の影響を受けて少女小説誌やジュニア小説誌でセックスものが流行していき、1974年には映画でもフランス製ソフトコア・ポルノの「エマニエル夫人」が若い女性にヒットし、1975年には邦画からも「東京エマニエル夫人(英語版)」(日活)が登場した。一方で性教育も問題となり、テレビ番組ではNHKの「こんにちは奥さん」などで性教育が取り上げられるようになった。少女漫画では1970年に初めて性が主題の『真由子の日記』(大和和紀)が『週刊少女フレンド』より登場し、その後も『週刊セブンティーン』掲載の『わたしは萌』(立原あゆみ)のようなセックスありきの漫画が登場している。また1970年には学生妊娠物の『誕生!』(大島弓子)も『週刊マーガレット』より登場している。変身物でも1970年に学年誌などで性教育を隠しテーマとした「ふしぎなメルモ」が登場し、1971年にアニメ化された。 女性同士の恋愛の漫画も登場している。1971年には『りぼんコミック』において『白い部屋のふたり(英語版)』(山岸凉子)が登場し、同年には週刊マーガレットにも池田理代子の『ふたりぽっち』が、1972年にはりぼん本誌にも『摩耶の葬列』(一条ゆかり)が登場した。 ギャグ漫画では、1960年代に赤塚不二夫が「りぼん」「少女フレンド」などの少女漫画誌に連載をもっており、その中から『ひみつのアッコちゃん』『へんな子ちゃん』『キビママちゃん』『ジャジャ子ちゃん』などが登場した。70年代には赤塚不二夫のアシスタントを務めた土田よしこがそのギャグ路線を引き継ぎ『つる姫じゃ〜っ!』などを出したほか、倉多江美の『ぼさつ日記』も登場している。
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