ベルばらブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 17:15 UTC 版)
「ベルサイユのばら (宝塚歌劇)」の記事における「ベルばらブーム」の解説
1970年前後、宝塚歌劇団はスターを輩出し、ブロードウェイ・ミュージカルの翻訳上演も行なうなど、新機軸を打ち出してもいたが、テレビの普及や娯楽の多様化の影響を拭い去るには至らず、赤字決算となっていた。平日には客席に閑古鳥が鳴く日も増えており、歌劇団存続を危ぶむ声が歌劇団内部にも広がり始めた。危機感を感じたスタッフ(歌劇団専属演出家も含む)たちには「舞台に主に責任を持つ専属演出家をはじめ、ほぼ歌劇団内部の人間のみで舞台作りに携わる旧来からの制作体制では、現在の観客の嗜好に対応するのは困難では」との認識があり、その結果、新しい方向性を求めて外部からの演出家の招聘が行なわれ、その一環として、戦前からの宝塚ファンでもあった長谷川一夫も招かれ、1971年、宝塚歌劇団で『我が愛は山の彼方に』の演出を手がけた(脚本・共同演出:植田紳爾)。 10世紀朝鮮半島を舞台にした『我が愛は山の彼方に』は長谷川一夫演出ということで話題作となり、観客動員で一定の成果を挙げ、宝塚歌劇団は長谷川一夫に更に演出を依頼、長谷川が、宝塚歌劇団での2作目は洋物(外国を舞台にした作品)を手がけたいと希望、また脚本・共同演出担当として、評価していた植田を指名した。 長谷川の要望を受け題材の選定作業に入った植田は、交流のあったファンから、約半年前に「『ベルサイユのばら』は宝塚歌劇団にぴったりの作品」と聞かされており、題材として検討(もっとも植田自身、ファンから初めて聞いた時は、宝塚歌劇団で漫画を舞台化した例もほとんどなかったため、真剣に考えていなかったという)。 原作を通読した植田は「この作品は舞台化すればいける、ぜひ手がけたい」と手応えを感じ、企画案を長谷川に相談、はじめ長谷川は「描かれているのは王妃の浮気の話。清く正しく美しく(が方針)の宝塚ではやったらあかん」と指摘、主に物語の内容面から乗り気でなかったという。植田は「宝塚歌劇らしい作品にします」と脚本での工夫などを改めて言明して説得、なんとか長谷川の賛同を得て上演計画が動きだしたという。 企画を聞いた宝塚歌劇団内部では首脳陣から「漫画が原作ではだめだ」と反対の声もあがったが、長谷川の賛同を得ていたこともあってなんとか上演が決定、原作者・池田は宝塚歌劇好きで、舞台化を快く了承(植田の回想によると「安めの原作料の支払いだけで上演許可をくれた」という)。多忙な長谷川が稽古や演出のために時間をとれる時期を考慮して、月組公演として公演時期も正式に決定する。 しかし、宝塚歌劇団から上演・配役が公表されると、原作ファンから「原作での八頭身のオスカルを日本人が演じるのは無理、イメージが壊れるから上演は中止してほしい」などと批判的な投書が多数届き、植田のもとにもたびたびカミソリを入れた脅迫の投書が送られてくる事態となる。 上記のような逆風の中稽古が始まり、演技を磨くのはもちろん、生徒たちは、鬘や衣装がよく馴染むよう入念に調整、原作の絵柄を化粧台に置き、参照しながら化粧するなど、「原作のイメージが壊れる」と訴えるファンたちにも舞台を見て納得してもらおうと、様々な努力を払った。 演出の長谷川も「漫画の舞台化なのだから、原作と全く同様に目を輝かせるのは無理でも、照明を活かして役者の目に星を飛ばせないものか」と着目、照明のあたり方を研究した末、2階席に視線を送れば照明が目にうまく写り込むことに気づき、最も照明を活かせる位置の座席番号を把握した。そして生徒たちにその座席番号まで指示して視線の配り方を徹底指導し(その際、2階席の手すりから1階席に落とし込むよう視線の配り方を指導した)、照明や衣装を活かして最大限に美しく演じる二枚目俳優らしい切り口で、劇画から飛び出してきたような舞台を追求していった。 また、若き日に歌舞伎界で女形修業を積んだ後、映画界に転じて二枚目大スターとなった長谷川は、その経歴を生かして登場人物の男女を演じわけ、観客から見て美しいラブシーンを生徒たちに見せ「役者が苦労してこそ、観客には美しく見える」という彼ならではの美学により、体の捻りを多用した演技を指導。彼の指導により生み出された数々の演技・所作は、長谷川の遺産ともいえる“型”として、最近の上演にまで受け継がれている。 宝塚大劇場で迎えた初日は開幕前、出演者全員が一言も発しない異様な集中力が漲っていた。そして終演後、「3階席から歓声が降ってきました」と喜ぶ榛名由梨たちの声を聞いて、植田は作品の成功を確信したという。初日観客数は約9割の動員であったが、翌日から連日満員御礼の盛況が続き、思わぬ反響に歌劇団は沸き、「翌年に第2弾を」と決定する。翌年の上演は一本立て上演となり、花組公演に決定、トップスターの個性等からオスカルとアンドレを中心とし、一本立てとなってより長い公演時間を確保できることもあって、「今宵一夜」の場面等を植田が加筆、大当たり作品の第2弾とあって、植田がオスカル役に安奈淳を推したことが論議を呼んだりもした(当該公演の項目参照)が、結果は初演版以上の大ヒットを記録。結局76年まで、更に雪組、星組、月組による各本公演が続く大ブームとなった。 ベルばらブームが歌劇団の話題のみにとどまらず、社会現象にまで膨らんだこともあって、「ブームは一過性のもの」との評も聞かれ、植田は「次に作る作品がベルばら以上の作品でなければ、ベルばらブームはたまたまのものだったと言われる」と痛感、次回作にはベルばらに物語、スケール、知名度等で匹敵する作品を、と考慮を重ねた結果、77年、植田脚本・演出で宝塚版「風と共に去りぬ」を上演、ベルばらに次ぐヒットを記録。以降「風と共に去りぬ」は78年まで全4組により上演、ベルばらも80年まで毎年地方公演で上演され、ブームの継続に貢献、2作品はその後折に触れて再演され続け、21世紀の現在に至るまで、歌劇団の財産となっている。
※この「ベルばらブーム」の解説は、「ベルサイユのばら (宝塚歌劇)」の解説の一部です。
「ベルばらブーム」を含む「ベルサイユのばら (宝塚歌劇)」の記事については、「ベルサイユのばら (宝塚歌劇)」の概要を参照ください。
- ベルばらブームのページへのリンク