栽培の歴史
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栽培植物としての歴史は古く、紀元前5000年頃と考えられるスイスの遺跡から本種の種子が発見されている。四大文明が興った頃には既に薬草として栽培されていたとされ、シュメールの楔形文字板にも本種の栽培記録がある。本種の薬用利用はそこから古代エジプトを経て古代ギリシアに伝わったと考えられ、ローマ帝国を経てヨーロッパ全土に広まった。その間に帝国の退廃を映して利用法も麻薬用へと変貌を遂げ、大航海時代を経てアヘン原料として世界各地に広まった。特にイギリスは植民地であったインドで本種の大々的な栽培を行い、生産されたアヘンを清へ輸出して莫大な利益をあげた。 日本では、室町時代に南蛮貿易によってケシの種がインドから津軽地方(現在の青森県西部)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある。その後現在の山梨県、和歌山県、大阪府付近などで少量が産出されたがいずれも少量で高価であり、用途も医療用に限られていた。明治の半ば、大阪府の農民二反長音蔵がケシ栽培を政府に建白。地元の大阪府三島郡で大規模生産に乗り出すとともに、品種改良に尽力し、モルヒネ含有量が既存種の数倍に達する一貫種と呼ばれる優良品種を作出した。日本は台湾統治開始後、台湾においてアヘンの製造と消費が一大産業になっていることを知った。台湾総督府衛生顧問だった後藤新平は台湾のケシ栽培を課税対象とし、段階的に課税を厳格化することで、40年をかけ台湾のケシ生産を消滅させた一方で内地では二反長音蔵のケシ栽培を積極的に後援し、日本国内のアヘンの生産と台湾への輸出・販売を台湾総督府の専売制とし、莫大な利益を得た。1935年頃には全国作付けが100haに達し、5月の開花期には広大なケシ畑に雪白の花が広がり、非常な壮観を呈した。当時のアヘン年間生産量は15tに達し、全国産額の50%は和歌山県有田郡で、40%が大阪府三島郡がそれぞれ占めた。昭和に入ると日本は日本統治時代の朝鮮や満洲の一部(熱河省。現在の河北省、遼寧省、内モンゴル自治区の一部)でケシ栽培を奨励し、第二次世界大戦中は満洲国、蒙古聯合自治政府、南京国民政府などで大規模栽培を行い、生成されたアヘンに高額の税をかけ戦費を調達した。太平洋戦争後の1946年、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)がケシ栽培を禁止し、国内生産は途絶した。あへん法が1954年に制定され、翌1955年から栽培が再開された。しかし戦前のような大規模栽培は復活することなく、現在の栽培量は実験室レベルに留まっている。
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栽培の歴史
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「キャベンディッシュ (バナナ)」の記事における「栽培の歴史」の解説
栽培品種の名称は第6代デボンシャー公ウィリアム・キャベンディッシュ(英語版)に因んでいる。1834年頃、ウィリアム・キャベンディッシュはインド洋のモーリシャスからバナナの荷物を受取り、庭師のジョセフ・パクストンがチャッツワース・ハウスの温室で栽培した。チャッツワース・ハウス産のバナナは、1850年代に太平洋の様々な場所に持ち込まれている。この一方で、15世紀にはすでに北大西洋のカナリア諸島でバナナが生産されていたとする研究者もおり、初期のポルトガル人探検家によって広められたとされる。 アフリカにおけるバナナの生産は、初期のオーストロネシア人の船乗りによって東南アジアからマダガスカルに紹介されたのがきっかけである。1888年、カナリア諸島産のバナナがFyffes(英語版)社によってイングランドに輸出された。この際に輸出されたバナナはドワーフ・キャベンディッシュであることが知られている。 1903年にはすでにキャベンディッシュの商業生産が開始されているが、当時の主要な品種だったグロス・ミチェルが1950年代にパナマ病で荒廃すると、キャベンディッシュが主役の座を奪った。
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栽培の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 17:01 UTC 版)
江戸時代の中ごろから、荒川の原野に野生するサクラソウから本格的な栽培が始まり、種子まきを繰り返すうちに、白、桃、紅、紫、絞りなどの色変わりや、大小さまざまな花形の変わり品が生まれ、名称が付けられた。やがて江戸時代後半になると品種数も非常に増え、文化元年(1804年)から新花を持ち寄り品評することが始まった。栽培者は旗本や御家人など武士階級が多く、「連(れん)」と呼ばれる2~3のグループが成立し、新品種の作出を競い合った。文化から天保(1804年~1844年)にかけてがもっとも盛んな時代であった。熱心な女性の愛好家もいて、寒天を流し固めた重箱に一品種ずつ挿し並べて鑑賞したという文献もある。幕末には各地に広まり、文久2年(1866年)にはサクラソウとしては現存最古の番付が発行されている。現在栽培される約300品種のうち、その半数が江戸時代から株分けで伝えられたもので、その花は多様な花型と繊細な花色が特徴で、他の多くの日本の伝統的な園芸植物と共通している。品種ごとに鉢植えで育て、花時には「花壇」と呼ばれる屋根付きの五段構造の展示台に配色よく飾る。鉢は「孫半土(まごはんど)」という、本来食品容器として作られた瀬戸焼の陶器が使われた。これはサクラソウのデリケートな花色をよく引き立てる。 愛好者層が武士中心であったので、明治維新前後には衰退の危機にも見舞われたが、やがて愛好者も増え、新花の作出も再び盛んになった。この頃に生まれた名花にも今に伝えられているものがある。やがて太平洋戦争により、サクラソウの栽培も下火になったが、戦後次第に復興し、昭和31年(1956年)に愛好者のグループである「さくらそう会」が発足、関西に」と呼ぶこともある。 欧米では植物としてのサクラソウの存在そのものは19世紀から知られ、日本から渡った園芸品種もわずかに栽培されていたが、平成2年(1990年)頃からようやく園芸文化としてのサクラソウが紹介され始めた。平成4年(1992年)にはアメリカで国際プリムラシンポジウムが開催され、世界中からサクラソウ属植物の愛好家、研究者が集まったが、この際に初めて海外に日本のサクラソウ文化が本格的に知られることになった。現在ではアメリカにも愛好会が誕生している。 なお、サクラソウとほとんど同じ時代に、イギリスでもサクラソウ属の植物であるオーリキュラ(Auricula, P. x pubescens)が、カーネーションやチューリップなどと共に育種されて多くの品種が作り出された(これらイギリスの古典的園芸植物をフローリスツ・フラワーと呼ぶ[要出典])。オーリキュラは愛好会や展示方法などにサクラソウとの類似点が多い一方、花の美はサクラソウとめちゃくちゃ正反対の方向に改良されている。このサクラソウとオーリキュラの同時的歴史は、欧米のプリムラ愛好家たちにも興味深い史実として知られている。
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栽培の歴史
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Beta vulgarisは紀元前6世紀頃から栽培されていた。ただし、それは葉を食用とする野菜としてだった。今日でもフダンソウなどリーフビートと呼ばれる葉菜用品種が各地で栽培されている。次いで根の肥大した根菜用品種であるテーブルビートが分化し、さらに根部が肥大した飼料用ビート(英語版)が栽培され始めたのは15世紀である。 砂糖用のテンサイが栽培され始めたのは、1745年にドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフ(英語版)(1709-1782年)が飼料用ビートから砂糖を分離することに成功してからである。その後、マルクグラーフの弟子であったフランツ・アシャール(英語版) (1753-1821) が砂糖の製造試験に成功し、1802年には製糖工場を建設し、工業化への道を開いた。 甜菜糖の普及に一役買ったのがナポレオン・ボナパルトである。1806年から1813年の大陸封鎖による影響で、ヨーロッパへ砂糖が供給されなくなった。そのため、砂糖の自給を目的とし、ヨーロッパ各地に甜菜糖業が広まった。その基礎が確立されたのが1850年頃といわれている。 甜菜糖生産量の上位10か国(単位:100万トン、2014年) フランス 37.8 ロシア 33.5 ドイツ 29.7 アメリカ合衆国 28.4 トルコ 16.7 ウクライナ 15.7 ポーランド 13.5 エジプト 11.0 イギリス 9.4 中国 8.0 総生産量 269.7 典拠: FAO統計 日本における甜菜糖業は、1879年に官営工場が北海道内2箇所(現在の伊達市および札幌市)に建設されたことに始まる。これらの工場は1901年には閉鎖された。第一次世界大戦による砂糖価格の暴騰を受けてビート栽培が本格化し、1919年に北海道製糖(現:日本甜菜製糖)が帯広市郊外に帯広製糖所を建設。ビート輸送のために十勝鉄道が敷設された(帯広製糖所跡の一角には1989年、ビート資料館が開館した)。その後、ホクレン農業協同組合連合会と北海道糖業を加えた2社1団体体制で現在に至る。
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栽培の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 20:27 UTC 版)
原産はオーストラリアのクイーンズランド州。先住民族アボリジニの間ではブッシュ・タッカーとして、好んで食されていた。 1858年には最初の農園が作られ、1892年にハワイ王国に持ち込まれて同地での商業栽培の歴史が始まった。原種は甘味や脂肪分に乏しかったので1921年にハワイ大学で商業生産を目指した品種改良の研究が始まり、20年に及ぶ努力の果てに商品化が成功した。また、この間にハワイ州政府がマカダミアナッツ農園に免税の措置などを講じた結果、1950年代末までに作付け面積でパイナップル、コーヒー、サトウキビなどを抜いて1位となり、ハワイの代表的な農産品としての基盤が確立された。オーストラリア大陸原産の植物は栽培化が進んでおらず、マカダミアナッツは栽培植物となったほとんど唯一のものである。 上記と同時期には日系アメリカ人のマモル・タキタニがマカダミアナッツとチョコレートの相性が良いことに注目し、ナッツをチョコレートで包んだものを製品化してみると爆発的な人気を呼んだ。これが、2014年現在もマカダミアナッツ製品で最も消費量が多いハワイアンホスト社製のチョコレートである。 マカダミアナッツの生産量は世界でおよそ2万トンである。そのほとんどはオーストラリア産とハワイ産が占めており、ハワイ島、マウイ島、カウアイ島などに大農園がある。ハワイの代表的な特産品の1つとして1970年代以降は不動の地位を保っており、缶や瓶詰めにされた塩味のナッツやナッツをチョコレートで包んだマカダミアナッツチョコレートは土産物として人気が高い。
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