文学の経歴
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「ジェイムズ・ラッセル・ローウェル」の記事における「文学の経歴」の解説
ローウェルの最初期の詩は1840年に「サザン・リテラリー・メッセンジャー」に報酬なしで掲載された。ローウェルは自立のための新しい動きとして、友人のロバート・カーターと共に文学雑誌「ザ・パイオニア」を創刊した。この雑誌は、その内容の大半が過去に他誌で掲載されたものではなく、新しい記事であることと、文学だけでなく芸術や音楽も含む大変真面目な批評を載せていることで特徴があった。ローウェルは、「読書人達の知性と敏感な部分に、3倍に薄められた大量のバカ話に合理的に代わるものを、いやに感傷的な愛の話という形で提供する。我々の人気ある雑誌によって彼らに毎月注がれることになる」と書いていた。彫刻家で詩人のウィリアム・ウェットモア・ストーリーはこの雑誌の高尚さに注目し、「我々のまわりに溢れる子供っぽいミルクあるいは水っぽいいやに感傷的な雑誌よりも、ある姿勢を持ち、高い知的水準にアピールしている」と記していた。この雑誌の創刊号には、エドガー・アラン・ポーの『告げ口心臓』が初出された。ローウェルは創刊号を出した直後に、ニューヨーク市で目の治療を受けており、その留守中にカーターが雑誌の経営をしくじっていた。1843年1月号が創刊だったこの雑誌は僅か3号で廃刊となり、ローウェルは1,800ドルの負債を負った。ポーはこの雑誌の廃刊を悼み、「純粋な嗜好を求める者への最も厳しい打撃」と言った。 「ザ・パイオニア」は失敗したものの、ローウェルは文学世界における関心を継続した。「ロンドン・デイリー・ニューズ」には一連の「アメリカ合衆国における反奴隷制度」という記事を寄稿したが、1846年5月に第4回まで掲載されたところで、編集者が打ち切った。ローウェルはこれらの記事を匿名で出版し、その作品が既に活動中の奴隷制度廃止運動家のものでないと分かれば、より大きな衝撃を与えられると考えていた。1848年春、「全国反奴隷制度標準ニューヨーク」との関係を形成し、毎週詩か散文を投稿することで同意した。しかしそのわずか1年後、投稿回数を半分にし、別の著作家で改革者のエドマンド・クインシーからの投稿を掲載することになった。 ローウェルの最も人気あった作品『批評のための寓話』が1848年に出版された。これは風刺作品であり匿名で出版された。人気を博し、初版3,000部が直ぐに売り切れた。ローウェルはその本で、当代の詩人や批評家に対して優しいジャブを送っていた。しかし、その内容の全てが喜んで迎えられたわけではなかった。エドガー・アラン・ポーは、一部天才といわれ、「5分の2は全くのでっち上げ」といわれていたが、「サザン・リテラリー・メッセンジャー」の作品を見直して、「だらしなく、構想が悪く、弱く創作されている。全体も詳細も。彼があれほど磨かれていないものを出すことに驚いたことを告白する」と言っていた。ローウェルは、この本の成功による利益が比較的少ないことがわかり、自身の財政状態も悪かったが、ニューヨークの友人チャールズ・フレデリック・ブリッグスに提供した。 1846年に、ローウェルは『ビッグロー・ペーパーズ』も出版した。これは後にグロリア・クラブから1848年の最も影響ある本に挙げられた。初版1,500部は1週間で売り切れ、第2版がすぐに発行されたが、鉛版印刷の費用を吸収する必要があったために、利益が出なかった。この本は3人の主要人物が登場し、それぞれがアメリカの生活の異なる側面を表し、その会話では真のアメリカ的方言を話していた。表面下では、は『ビッグロー・ペーパーズ』は米墨戦争と戦争全般の非難でもあった。
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文学の経歴
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「ナサニエル・パーカー・ウィリス」の記事における「文学の経歴」の解説
1820年代後半、ウィリスは雑誌や定期刊行物へ寄稿することが多くなった。1829年、文芸誌「ザ・トークン」の編集者となり、その創刊者のサミュエル・グリスウォルド・グッドリッチを除けば、この雑誌が発行された15年間、唯一編集者であった者となった。同年、ウィリスは「アメリカン・マンスリー・マガジン」を創刊し、1829年4月に発刊され、1831年8月に廃刊となった。その雑誌が失敗した要因として「ボストン文化の財布のひもが固いこと」を非難しており、ヨーロッパに移動して「ニューヨーク・ミラー」誌の国外編集者かつ特派員となった。1832年、イタリアのフィレンツェに居たときに、彫刻家のホレイショ・グリーノーと出逢った。グリーノーは後にウィリスの胸像を制作した。1832年から1836年、ウィリスは「ニューヨーク・ミラー」誌に一連の記事を寄稿した。そのほぼ半分が後に『Pencillings by the Way』として集められ、1835年にロンドンで出版された。ヨーロッパでの生活のシーンやモードについてロマンティックな記述を行い、当時としては一部7ドルと高価な設定だったにも拘わらず良く売れた。この作品は人気を博し、ウィリスの文学的評価を上げて、アメリカ版も間もなく発行された。 ウィリスはこのような人気を得たにも拘わらず、批評家によっては私的な会話を伝えるときの無分別さを批判されていた。ある時には当時「メトロポリタン・マガジン」の編集者だったフレデリック・マリアットと無血の決闘を行った。ウィリスがマリアットの私信を同じく編集者のジョージ・ポープ・モリスに送り付け、モリスがそれを掲載したことが原因だった。1835年、ウィリスはまだ人気があったので、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローをイングランドで詩人バイロン卿の娘、エイダ・ラブレスなど文学的に重要な人物に紹介することができた。 ウィリスは海外に居る間に友人に宛てて、「私はイングランドで結婚した方が良い」と書き送っていた。それから間もない1835年10月1日、1か月間の婚約期間の後に、ウーリッジのウィリアム・ステイス将軍の娘、メアリー・ステイスと結婚した。二人はパリで2週間の新婚旅行を行った。夫妻はロンドンに移動し、1836年、当時「モーニング・クロニクル」のために働いていたチャールズ・ディケンズと出逢った。 1837年、ウィリス夫妻はアメリカ合衆国に帰国し、ニューヨーク州のオウィーゴ・クリークがサスケハナ川に合流する地点のすぐ上流にある小さな荘園に入った。ウィリスはそこの家をグレンマリーと名付け、広さ200エーカー (0.81 km2) ある田園部の景色が『橋の下からの手紙』を書かせることになった。1838年10月20日、ウィリスは『ロンドンからの新しい一連の手紙』と題する記事の掲載を始めた。そのうちの1つが作家レティシア・エリザベス・ランドンと編集者ウィリアム・ジョーダンとの不倫を暗示していた。この記事がスキャンダルを呼び、ウィリスの出版社が謝罪しなければならなかった。 1839年6月20日、ウィリスの戯曲『高利貸しのトーテサ』がフィラデルフィア市のウォルナット通り劇場で封切られた。エドガー・アラン・ポーはこの劇を「アメリカの作家のペンで書かれたこれまでの最良の劇」と評した。同年、ウィリスは短命に終わった定期刊行物「ザ・コルセア」の編集者も務め、ウィリアム・メイクピース・サッカレーを発掘してフランスの短いスケッチを書かせた。1839年から1840年にロンドンを短期間訪問している間に、新たな大作『夫のために死ぬ2つの方法』を出版した。アメリカ合衆国に戻ってから間もない1840年12月4日、最初の子供が死産となり、その生活が悲しみに包まれた。その後の1842年6月20日、2人目の娘、イモジェンが生まれた。 その年後半、ウィリスはニューヨークでチャールズ・ディケンズの栄誉を称える舞踏会に出席した。ディケンズの妻とダンスをした後で、ウィリイスとディケンズは「ラム・トディと炙った牡蠣」のために出て行った。この時点までにウィリスの名声は十分高くなっており、講義を行ったり詩を朗読するために招かれることも多かった。その中には、1841年8月17日、イェール大学でリノニア協会のために行ったプレゼンテーションもあった。ニューヨークで発行部数2万部を誇った刊行物「ブラザー・ジョナサン」では、毎週コラムの執筆を依頼され、これを1841年9月まで続けた。1842年までに、ウィリスは年間4,800ドルという異常に高い原稿料を稼いでいた。後のジャーナリストが言っているように、「相当に報酬のあった最初の雑誌寄稿者」ということになった。 1842年、ウィリスはハリエット・アン・ジェイコブスを雇用した。ジェイコブスはノースカロライナ州から逃げてきた奴隷であり、家政婦兼乳母として雇った。ジェイコブスの元所有者がそのプランテーションに戻すよう求めてきたとき、ウィリスの妻がその自由の身分を300ドルで贖った。それから20年近く後に、ジェイコブスはウィリスの家庭の中で働きながら書き溜めていた材料をもとに、フィクション化した自叙伝『奴隷少女の人生における出来事』を書くことになった。その中で彼女は「ナサニエル・パーカー・ウィリスは奴隷制度擁護派だと確信して」いた。この本の中で、ウィリスは「ブルース氏」と呼ばれ、魅力の無い南部の同調者と描かれている。ウィリスが書いた物語の1つ、『奴隷の夜の葬儀』では、南部を訪れた奴隷制度廃止運動家が登場し、その反奴隷制度の見解を後悔する。奴隷制度廃止運動家のフレデリック・ダグラスは後にこの作品を使って、奴隷制度擁護派だった北部人を批判している。
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文学の経歴
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「アデレード・アン・プロクター」の記事における「文学の経歴」の解説
プロクターの詩はその信仰心と慈善事業に強く影響されていた。ホームレス、貧困および売春婦の女性が主題になることが多かった。その詩集の前書きでは、貧乏人が生活する状態の惨めさが強調された。「ホームレスの貧しさ」と題された詩は次のようになっていた。 In that very street, at that same hour,In the bitter air and drifting sleet,Crouching in a doorway was a mother,With her children shuddering at her feet. She was silent – who would hear her pleading?Men and beasts were housed – but she must stayHouseless in the great and pitiless city,Till the dawning of the winter day. (51–58) まさにその通りで、同じ時刻に無情の大気と霙が吹き寄せる中で戸口に屈んでいるのは母でありその足元で震えているのは子供たちだった 彼女は沈黙していた。誰が彼女の願いを聞き入れるだろう?男と野獣は家の中に居るが、彼女はこの大きな慈悲の無い町で家も無いままである冬の日が明けるまで プロクターのカトリック信仰もそのイメージと象徴の選択に影響した。聖処女マリアに言及することが多く、例えば「天の命令がビクトリア期の性理論の権力構造を批判する可能性に世俗とプロテスタントの読者を誘導する」と言っていた。 戦争についても幾つかの詩を書いた。この主題で『ハウスホールド・ワーズ』に掲載された詩の大半はプロクターが創作したものだった。ただし直接この主題を扱うことは稀であり、戦争を「背景に置き、言葉で表すよりも何かを暗示させる」やり方を好んだ。これらの詩は概して「階級区分で分裂した国を統一できるかもしれない」何かとして紛争を描いている。 批評家のジル・グレゴリーに拠れば、フェリシア・ヒーマンズやレティシア・エリザベス・ランドンのような当時の女流詩人とは異なり、プロクターは「詩人、特に女流詩人と名声に到達することを悲しませる問題をあからさまに考えようとはしていなかった」としている。その代わりに主に労働者階級、特に労働者階級の女性に関心を寄せ、「十分に表現ができていない女性の敵対者の感情を」心配していた。プロクターの作品はヴィクトリア期の美的な感傷を具体化することが多かったが、フランシス・オゴーマンに拠れば、「特別の強さ」をもってそうしていた。プロクターは単純化することなく感情を表し、「複雑化とニュアンスに対して...(緊張した)感情エネルギーを」保っていた。その言葉遣いは単純であり、誤解されたり、誤って解釈されたりする恐ろしい恐怖を友達に表明していた。またその詩は「表現の単純さ、直截さ、鮮明さ」が特徴となっている。
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文学の経歴
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「アルフォンス・ドーデ」の記事における「文学の経歴」の解説
1866年、ドーデがパリ近郊のクラマールにて書いた作品で、プロヴァンスのフォンヴィエイユにある風車をイメージさせる『風車小屋だより』が成功した。1868年に初めての長編となる『プティ・ショーズ』を出版したが、大きな話題にはならなかった。1872年には『陽気なタルタラン』および3幕の戯曲『アルルの女』を書き上げた。 彼を世界中に有名にしたのは『若いフロモンと兄リスレール』(1874年)である。その作品は、英語圏にはもちろん、母国フランスにとっても新しい文学を打ち出した。ここに、笑いと涙を生み出す才能にあふれ、哀愁や悲しみの感受性も豊かであり、さらに道徳的な美しさまで兼ね備えた作家が登場した。彼は創造力にあふれ、彼の作品の登場人物は現実味があり、初めの勢いが竜頭蛇尾に終わるような特徴的な人物が名人の筆でいきいきと描かれた。彼の本は生きていた。それは現実世界の幻影を映し出した。 1876年に出版された『ジャック』は、母親のわがままに絶えず悩まされる私生児の物語で、先の本で与えた印象をさらに深めた。これ以後の生涯、彼は知識人として大成功し、『ナバブ』(1877年)、『亡命の諸王』(1879年)、『ヌマ・ルメスタン』(1881年)、『サッフォー』(1884年)、『不滅』(1888年)など次々と小説を出版したり、時々は舞台の脚本を書いたり、回想録として『パリ30年』(1887年)や『ある文学者の思い出』(1888年)を世に残したりした。タルタランの3部作『陽気なタルタラン』『アルプスのタルタラン』『ポール・タラスコン』と、見事な短編の数々(その多くは有名になる前に書かれた)は、彼のライフワークとなった。またドーデは、古い船と乗組員の物語『ベル・ニヴェルネーズ号』など、子供向けにもいくつかの魅力ある物語を書いた。 ドーデは、ディケンズの真似はしていないと自らを弁護していたものの、主題も様式も良く似た箇所が多い。しかし、彼の文体は間違いなく彼自身のものだった。それはまさに「印象主義」と呼ぶにふさわしい文体で、光と色彩にあふれ、古い流行を追った書き方ではなく、絵具の色のような言葉を見事に並べ上げて計算された効果をきらめかせている。彼の作品をゾラは「魅惑的」と評価した。ドーデは基本的に自然主義文学に属し、エドモン・ド・ゴンクール(彼の家で亡くなった)、フローベール、ゾラらと親しくしていた。彼の自身の体験、彼の周囲の環境、出合った人々、いろいろな役者、パリの生活の全てが彼の作品に盛り込まれた。彼は記憶にある素材に生命を与えた。ただし、彼は実力があったにもかかわらずアカデミー・フランセーズには所属せず、作品『不滅』にはそこに対する批判も見られる。
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