文学の場として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 08:27 UTC 版)
逗子が保養地としての性格を強めつつあった1887年に徳富一敬・久子夫妻(蘇峰・蘆花の両親)が前述の養神亭の前身である貸別荘に滞在している。この際にある兄妹に部屋の一室を貸したが、その妹がのちの蘆花の妻・原田愛子である。 1889年に横須賀線が開通し、1892年には徳富蘇峰、徳冨蘆花兄弟が逗子を訪れた。蘆花は逗子に借家を求め、1897年1月7日、養神亭に宿泊した。蘆花は川向うの柳屋や養神亭の客室十六番にて小説不如帰を執筆したため、柳屋とともに不如帰の執筆宿として文人や避暑、避寒客が多く訪れる高級旅館としての地位を確立した。 1923年4月10日の島田清次郎が、舟木錬太郎予備役少将の娘・芳枝を強盗監禁したとされる騒動も養神亭の三十六番客室における出来事であった。この日はちょうど裕仁親王が葉山御用邸へ行啓する予定であったので逗子は厳重な警備下にあった。島田と芳枝が養神亭に宿泊した理由は、徳富蘇峰に結婚の媒酌を頼むためであったが断られていた。 1978年、九一式航空魚雷プロジェクトのメンバーが養神亭に集まり、小さな会を立ち上げ、金を募って自費出版サービスで小さな本『航空魚雷ノート』を作ることを決めた。
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