文学の道へ
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その後、東京大学修士課程に進んだが肺結核を病み就職への道が絶たれる。1954年、白水社から最初の訳書『大跨びらき』(ジャン・コクトー)を上梓、初めて筆名「澁澤龍彥」を用いた。訳業自体は、すでに大学入学前、浪人時代に着手していたものである。 この頃、父が急死したため経済的に逼迫し、岩波書店で社外校正のアルバイトを始めると共に、のちの妻矢川澄子と知り合った。また1955年には友人の出口裕弘や野澤協、小笠原豊樹たちと同人誌「ジャンル」を結成、『撲滅の賦』『エピクロスの肋骨』などの小説を書いた。公式には、この『撲滅の賦』が小説家としての澁澤の処女作だったとされている。このころ三浦市の市長選に絡んで個人的に日本共産党候補を応援し、対立候補を批判する詩を書いてビラ撒きを手伝ったが、やがて一切の政治的発言を自らに禁ずるようになった。
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文学の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 22:25 UTC 版)
1952年、高松一高に入学。新聞部に入り紙面で革命を蜂起するが、天皇を批判した号が焚書されたため、文芸部・演劇部に移る。1955年 、東京外国語大学を受験するが不合格。牧師を目指して四国クリスチャン・カレッジに入学。英語を学び、図書館でアメリカのハードボイルド小説に出合い、ペーパーバックを読みふけるが、学校クリスチャンの実態に失望し中退。 翌年、早稲田大学教育学部英文科へ入学。射撃部に入り、銃に熱中する一方、神田神保町の古本屋で買ったアメリカン・ミステリを濫読する。1957年、創設されたワセダミステリクラブに加入。 1958年、処女作の『野獣死すべし』が教育学部の同人誌『青炎』創刊号に掲載。ワセダミステリクラブの会長である千代有三の手を経て、名誉顧問の江戸川乱歩に紹介され、雑誌『宝石』7月号に転載、大反響を生む。同じく同誌にて大学在学中の1955年にデビューしていた高城高とともに、ハードボイルド小説の新進作家として脚光を浴びる。 1959年に『街が眠る時』(長門裕之主演)、『野獣死すべし』(仲代達矢主演)の映画化をきっかけに一躍流行作家となる。1960年 、初の長編『血の罠』を刊行。さらに多岐川恭が代表を務める探偵作家の団体「他殺クラブ」に参加するが、長編「火制地帯」が、ロス・マクドナルドの「青いジャングル」からの盗作の疑いをかけられたことで絶版回収となり、会を脱退、日本探偵作家クラブからも除名された。これをきっかけとして、大藪は文壇と距離を置いた執筆活動をするようになる。
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