文学への思いと苦悩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 01:59 UTC 版)
老いた祖母を看りながら諏訪高等女学校へ学んだが、祖母の死後2年ほど、函館区長に補任された父のいる北海道へ行っていた。明治42年(1909年)、親に強いられた結婚問題がきっかけとなり、文学への思いを断ちがたく家出を決行、新体詩の選者であった河井酔茗を頼って、その門下生となった。父の危篤のため一端帰郷し、看病に尽くしたが、父の死後再び家出のように上京し、中央新聞社の婦人記者になった。星野水裏に見出され、山田邦子の名で「少女の友」に少女小説を寄稿した。その後、明治44年(1911年)同社の記者今井健彦(後に代議士となる)と結婚、長女節子が生まれた。この時期から作歌を始め、子育て、夫婦生活、文学への思い等、様々な葛藤が短歌の中に歌われている。特に結婚後十数年を経て、夫に愛人のあるのを知り、二児を置いて三度目の家出をし、京都の西田天香の一灯園で毎朝便所掃除に追われる苦しい修行生活をし、十ヶ月ほどで帰宅した。
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