文学への関心と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 23:52 UTC 版)
生家が貧しかったために、1924年、板櫃尋常高等小学校を卒業したのち、職業紹介所を通じ、株式会社川北電気企業社(現在のパナソニック エコシステムズ株式会社の源流)小倉出張所の給仕に就職した。掃除、お茶くみ、社員の使い走り、商品の配達などに携わり、初任給は11円、3年後に昇給して15円であった。この時期、新刊書を買う余裕はなく、本は貸本屋で借りるか、勤め帰りに書店で立ち読みしていた。当初清張が興味を持って読んだのは、旅の本であった。特に田山花袋の紀行文を好み、当初清張は花袋を紀行作家と思っていたほどであった。しばらくして、家業の飲食店の経営がやや楽になり、家が手狭になったので、祖母とともに近所の雑貨屋の二階に間借住まいをする。 やがて文学に夢を託すようになる。この頃から春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、15、6歳の頃、特に愛読したのは芥川龍之介であった。ほかに菊池寛の『啓吉物語』や岸田國士の戯曲も愛読した。休日には小倉市立記念図書館に通い始め、ここで森鷗外・夏目漱石・田山花袋・泉鏡花などを読み、新潮社版の世界文学全集を手当たり次第に読み漁った。しかし、当時世評の高かった志賀直哉『暗夜行路』などは、どこがいいのかさっぱりわからなかったという。また、雑誌『新青年』で翻訳探偵小説の面白さに開眼、国内では江戸川乱歩の出現に瞠目、作品を愛読した。 だが1927年、出張所が閉鎖され失職。子供の頃から新聞記者に憧れていた清張は、地元紙『鎮西報』の社長を訪ねて採用を申し入れたが、大学卒でなければ雇えないと拒否された。この頃、一時は繁盛した父の飲食店も経営が悪化し、失職中の清張も露店を手伝い、小倉の兵営のそばでパンや餅などを売っていた。文学熱はさらに高まり、八幡製鉄や東洋陶器に勤める職工たちと文学を通じて交際し、文学サークルで短篇の習作を朗読したりした。また、木村毅の『小説研究十六講』を読んで感銘を受けた。 1928年になっても、働き口は見つからなかった。手に職をつける仕事をしたいと考えた清張は、小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習い工となる。月給は10円であった。しかし、本当の画工になれないと思った清張は、さらに別の印刷所に見習いとして入る。ここで基礎から版下の描き方を学び、同時に広告図案の面白さを知った。この頃、飲食店の経営はさらに悪化、一家は紺屋町の店を債権者に明け渡して、ふたたび工場廃液の悪臭がただよう中島町に戻り、小さな食堂を開いた。しかし全く商売にならず、父は相変わらず借金取りに追われていた。印刷所の主人が麻雀に凝って仕事をしなくなったため、清張は毎晩遅くまで版下書きの仕事に追われた。 1929年3月、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に約2週間留置された。釈放時には、父によって蔵書が燃やされ、読書を禁じられた。
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