文学カフェ - ポール・フォールの火曜の会
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「クロズリー・デ・リラ」の記事における「文学カフェ - ポール・フォールの火曜の会」の解説
大衆的なこのカフェは、まもなく文学カフェとして知られるようになった。背景には、アカデミー・フランセーズやソルボンヌ大学があるパリ5区・6区で、作家らがカフェを活動拠点にするようになったことがある。ソルボンヌ大学に面したサン=ジャック通り(フランス語版)に、アルチュール・ランボー、ポール・ヴェルレーヌ、エルネスト・ドラエー(フランス語版)がいつも訪れていた「アカデミー」または「アブサン・アカデミー」という酒場があった(ランボーが、「アブサン」(フランス語では「アプサント」)の語尾を彼が生み出した接尾語「オンフ(-omphe)」に変えて「アプソンフ」アカデミーと称したことで知られる)。この酒場では、アカデミー・フランセーズ会員が死去すると、喪に使われる縮緬(ちりめん)で包んだ酒樽を用意して、独自に葬儀を行う習慣があった。また、作家のアルフレッド・ヴァレット(フランス語版)が、6区ジャコブ通り(フランス語版)のカフェ「メール・クラリス(クラリス小母さん)」の常連で象徴派の詩人ジャン・モレアス、レミ・ド・グールモン、アルベール・サマン(フランス語版)、シャルル・クロらとともに『メルキュール・ド・フランス』誌を復刊するなど、文学雑誌が次々と創刊・復刊された。こうした背景から、クロズリー・デ・リラには主に象徴派の詩人が集まり、さらに、後にシュルレアリストらに再評価されることになる詩人・劇作家のサン=ポル=ルーのマニフィシスム(壮麗主義)、デカダン派、エミール・グードー(フランス語版)が結成した「イドロパット(フランス語版)」文学クラブなど様々な流派・運動が共存し、論争を展開した。 画家もまた、早くは新古典主義のドミニク・アングルがしばしば近くのオルフェーヴル通り(シテ島)にあったアカデミー・シュイスのモデルを連れてクロズリー・デ・リラを訪れていたが、特にシャルル・グレールの弟子であった印象派のクロード・モネ、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワールらが、早くから、当時ピカソ、モディリアーニ、マックス・ジャコブらが住んでいたモンマルトルを離れ、モンパルナスを活動拠点としていた。 一方、スウェーデンの劇作家・小説家のアウグスト・ストリンドベリ、アイルランドの詩人オスカー・ワイルドなどパリで活躍した作家はすでにクロズリー・デ・リラの常連であったが、1900年のパリ万国博覧会の開催にあたって、パリの市街地が広がったうえに、国際的に広く知られるようになったことから、カフェの近くに住み、カフェを仕事場(書斎)としていた詩人のポール・フォールが、ここを芸術・文学の国際的拠点としようと、「世界中の詩人、芸術家よ、ここに集まれ」と呼びかけた。ポール・フォールは18歳のとき(1890年)に「芸術座」を創設し、1912年に詩王(詩聖)(プランス・デ・ポエット)の称号を与えられた詩人である(彼は1960年に88歳で死去するまでこの称号を保持した)。こうして、ポール・フォールの呼びかけに応えて、多くの詩人が集まった。そこで彼は象徴派の詩人ジャン・モレアスとともに、毎週火曜に詩の朗読会を行うことにした。この会には約200人もの参加者があった。
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