くに‐つ‐こ【国▽造】
読み方:くにつこ
⇒くにのみやつこ(国造)
くに‐の‐みやつこ【国▽造】
読み方:くにのみやつこ
《国の御奴(みやつこ)の意》大化の改新以前における世襲制の地方官。地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。大化の改新以後は廃止されたが、多くは郡司となってその国の神事もつかさどった。くにつこ。こくぞう。
こく‐ぞう〔‐ザウ〕【国造】
読み方:こくぞう
⇒くにのみやつこ(国造)
国造
読み方:クニノミヤツコ(kuninomiyatsuko)
国造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 16:38 UTC 版)
国造(くに の みやつこ、こくぞう、こくそう)は、古代日本の地方行政機構において、旧来からの氏姓制に基づき地方を治める官職の一種。また、その官職に就いた人を指す。ヤマト王権が国の範囲を行政区分として認定し、その長として国造を認定した。
- ^ ヤマト王権の命により外征にも動員された。
- ^ 『国史大辞典』国造項 氏姓国造一覧表を参考にして記載。
- ^ 『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、国立国会図書館デジタルコレクション)216コマ。
- ^ 『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、国立国会図書館デジタルコレクション)219コマ。
- ^ 間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考―再構成される諏訪の伝承―」(『国語国文研究』161号、2023年8月)
- ^ 間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考―再構成される諏訪の伝承―」(『国語国文研究』161号、2023年8月)
国造(くにのみやつこ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 11:04 UTC 版)
「古代日本の地方官制」の記事における「国造(くにのみやつこ)」の解説
詳細は「国造」を参照 大和政権は、地方に派遣した豪族や、地方の在地首長を国造などに任命し、政治的・軍事的支配をそのまま認める形(地方行政官的)で、全国的に支配していた。『日本書紀』や『国造本紀』などの史書には神武天皇の時代に最初の国造設置の記事が見えるが、全国的に設置が始まったのは県主と同じく成務天皇の時代とされる。 国造の成立期については、崇神朝から景行朝にかけて行われた全国の平定活動を受けた、次代の成務朝の頃とされている。この全国的な設置以降も、仲哀朝から雄略朝にかけて順次設置されていった。これに従えば、全国的に古墳が出現する4世紀中期から後期に当たる。また、吉備上道国造・吉備下道国造や筑紫国造(527年の磐井の乱)などの反抗もあったが、古代国家統一の情勢にあり、日本の古代国家の成立期に当たると考える説もある。これに従えば、継体朝 (507~531) が終わり欽明朝 (540~571) が始まった時期に当たる。 国造制は、遅くとも6世紀には成立している。『隋書』倭国伝によれば、6世紀末から7世紀初頭頃には約120の国造が存在し、国の下に10の稲置(いなぎ)が属していたという。120という数字は『国造本紀』所載の国造数や、倭王武上表文の「東征毛人五十五国,西服衆夷六十六国」などと近似し、5世紀段階における一定程度の編制が想定される。半島への大規模な出征や巨大古墳の築造を可能とさせた一因であろう。 国造は、国造一族の娘か姉妹を采女(うねめ)として大和政権に従属の証として奉仕させる義務を負っていた。また、贄(にえ)などの貢納物を納め、さらに力役としての人夫を差し出し、兵士の徴発に応じた。戦時には大和政権の国造軍として戦った。これらと並んで重要な奉仕は、「トモ=伴」として大王の身辺のことを司る「舎人」(とねり)、大王の身辺の警護を司る「靫負」(ゆげい)、大王の食膳のことを司る「膳夫」(かしわで)を差し出し、大王や王族の宮に出仕していたトモの養育という名目で各地の特産物を貢献することであった。後者の各地の特産物などを負担する集団は「べ=部」(部民制)とよばれ、「トモ」とあわせて、5世紀から7世紀にかけて「トモ-ベ」制(品部)として王権存立の基礎を成した。このように国造は伴造であり、部の支配者であったと考えられるが、具体的な内容についてはまだ不明な点が多い。
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