台湾沖航空戦とは? わかりやすく解説

台湾沖航空戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/06 07:09 UTC 版)

台湾沖航空戦

アメリカ空母に魚雷を投射した後、超低空で避退する艦上攻撃機天山。1944年10月14日、空母エセックス(CV-9)艦上より撮影
戦争太平洋戦争
年月日1944年10月12日 - 10月16日
場所台湾東方海域
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
寺岡謹平中将
福留繁中将
マーク・ミッチャー中将
戦力
航空機 1,251機 航空母艦 17隻
戦艦 6隻
重巡洋艦 4隻
軽巡洋艦 10隻
駆逐艦 58隻
損害
航空機 312機 重巡洋艦 2隻大破
航空機 89機
フィリピンの戦い

台湾沖航空戦(たいわんおきこうくうせん)は、第二次世界大戦太平洋戦争)中、フィリピンのレイテ島への上陸作戦の布石として、台湾から沖縄にかけての日本軍航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊に対し、日本軍の基地航空部隊が迎撃したことで発生した航空戦。アメリカ軍の損害は軽微なものであったが、日本軍は大戦果と誤認した。

本航空戦はマリアナ沖海戦以後準備されてきた防衛作戦「捷号作戦」の一環として発動[注釈 1]され、台湾沖航空戦以後も作戦はレイテ沖海戦へと続いていくことになる[注釈 2]

経過

背景

マリアナ沖海戦で大敗し、その後マリアナ諸島を失陥した日本軍は、早急に新たな防衛体制の構築をする必要に迫られた。「捷号作戦」と名づけられ新たな防衛計画は8月頃に立案されたが、その中で日本海軍の主力として位置づけられたのは第六基地航空部隊第二航空艦隊を基幹とする部隊)であり、その主目標は「敵空母部隊」とすると定められていた[注釈 3]。一方これまで「日本海軍の主力」と位置付けられていた「空母部隊」や戦艦や巡洋艦を擁する「水上部隊」は脇役となり、マリアナ沖海戦で大損害を受けた空母部隊は基地航空部隊の航空圏内まで敵機動部隊を誘致し、その一部を攻撃する誘引部隊として、水上部隊は基地航空部隊が敵機動部隊に大打撃を与えることで制空権を確保した中で同時に接近してくるであろう敵攻略部隊を捕捉撃滅(既に上陸を開始している場合はその現場に突入)するのを役目としていた。

第六基地航空部隊の中でも「T攻撃部隊」が戦力の中核であった。この部隊はこちらが陸上基地である利点を生かし、敵が活動しにくい夜間、および荒天時の攻撃を行う部隊として編成されていた[1]

1944年7月23日の図上演習において軍令部は、荒天時の昼間攻撃を本旨、その機会がない場合は夜間攻撃するという案を出してきたが[2]、現場の指揮権を持つ第二航空艦隊からは、T攻撃部隊による夜間攻撃を中核とし、昼間攻撃、薄暮攻撃の三者を各部隊に振り分け、その組み合わせによって第1から第4までの作戦を定め、状況に応じてそのいずれかを適用する戦法が示され、意見が割れた。 しかし、1944年9月上旬、第2航空艦隊司令長官福留繁中将が、T攻撃部隊は決戦一撃の夜間攻撃に使用し、悪天候に乗じるのは最後の切り札とすると表明すると、連合艦隊司令長官豊田副武は部隊用法については第二航空艦隊司令長官たる福留に一任することを決定した。豊田は福留に、攻撃不可能と思える時は無理をすることはないと指示した[3]

こうして台湾沖航空戦では軍令部案ではなく、二航艦が図上演習で示した戦法が実施されることとなった。実際の戦闘過程は、作戦指導、報告戦果、損害など二航艦の図上演習と類似した内容となっている。異なる点は、図上演習では索敵線の最先端(600海里)で敵機動部隊を捕捉し、そののち敵の動きを待つ態勢だったが、実際では哨戒を強化していたにもかかわらず、米機動部隊の奇襲空襲を受けて、その後も容易にその所在を突き止められなかった点、そして戦果そのものは誤認であったことであった[4]

一方マリアナ諸島の占領に成功したアメリカ軍は、次の攻略目標の決定には紆余曲折があり、海軍作戦部長アーネスト・キング大将が推す台湾侵攻案と、南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将の推す南西太平洋から南部フィリピン侵攻とに分かれ対立していた。だが太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツらは現状マッカーサー案が妥当であると考えており、キングの推す台湾侵攻案を支持する者は少なかった[5][注釈 4]

8月に入りテニアンやグアムなどマリアナ諸島の主要地点が想定よりも早くに相次いで陥落した事で、米軍側は侵攻作戦の新たな計画を検討、9月9日、統合参謀本部はミンダナオ島攻略作戦「キングⅠ」を11月15日、レイテ島侵攻作戦「キングⅡ」を12月20日に行う事を決定する。

その頃第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼーはその9日から10日にかけ第38機動部隊によるダバオを中心にミンダナオ島各所への空襲を行った。この空襲は10日午前4時、第5基地航空部隊(第一航空艦隊基幹)司令部にサランガニ見張所が「湾口に敵上陸用舟艇が見える」と誤認報告してきた事で端を発した「ダバオ誤報事件」を起こさせ、捷号作戦のために準備していた多くの航空機を失う結果となってしまった

この攻撃でハルゼーは日本軍の反撃力が極めて弱く、またレイテ島に日本軍が存在しないという情報を得た。13日、ハルゼーはニミッツにヤップ島及びパラオの攻略計画を取りやめ、日本軍の反撃力が回復しないうちにレイテ島を攻略することを進言、これが入れられ統合参謀本部は「キングⅡ作戦」を2カ月繰り上げ、10月20日にレイテ島を攻略することに変更してヤップ攻略用に準備されていた第24軍団が攻略部隊に繰り入れされた[6]

航空戦まで

捷一号作戦の準備が進められていく中で、連合艦隊は比島来攻以前の米艦隊を、その前進根拠地で捕捉撃破しようとする企図も持っていた。航空部隊による攻撃を「丹作戦」潜水艦部隊による攻撃を「玄作戦」と呼称したそれらの作戦は、捷号作戦の準備と並行して進められていた[7]が、9月末になり通信傍受により比島方面に行動していた米機動部隊が28日頃にサイパン方面に集結していたらしいという情報を得る。10月1日、連合艦隊は所轄の第七基地航空部隊に丹作戦発動を命じ、3日にまず彩雲5機が硫黄島に進出、4日に直前偵察のためサイパンに向かい、1機が上空に到着するも米機動部隊を見つけられず、偵察情報を報告[注釈 5]して1140時に帰投した[8]

これらの報告を受け、連合艦隊は4日2203時に攻撃取りやめを指令したが、姿を消した米機動部隊はどこに向かったのかが問題となった。また同時期にパラオ守備隊からの報告で、観測されていた米空母部隊[注釈 6]が4日には姿を消し、同日の無線傍受で敵はウルシー方面に大部隊の集結を終えたらしい事も判明した[9]。また9月29日、30日、10月7日に相次いで沖縄に敵偵察機が来襲し、これらの動きは米機動部隊の活動開始を示唆していると考えた連合艦隊も、10月3日に南西方面艦隊参謀長宛ての電文で比島、台湾方面での敵機動部隊襲来に対する警戒の要ありと告げている[10]

だがその緊急度合については連合艦隊と南西方面部隊(南西方面艦隊基幹)とでは温度差があり、連合艦隊ではこれらの機動部隊の行動は単なる「機動空襲」であると考えていた。そのため2日より行われていた豊田長官の比島方面視察はそのまま実施されている[注釈 7]

一方で南西方面部隊では大部隊による侵攻と考え、セレベスもしくは比島南部への攻略作戦を開始したとみて、機動部隊の動きはこれに関連するものであると考えていた[11]

10月4日より、鹿屋、沖縄、台湾、硫黄島の各部隊は連合艦隊の情勢判断により飛行警戒を強化したが敵機動部隊発見の報もなく、来襲もない状況が続いた。10月7日、ウルシー泊地偵察に成功した呂46潜水艦より同泊地が米海軍の艦隊泊地として利用されている事が判明、空母1隻、軽巡2隻、艦種不明4隻、駆逐艦10隻、輸送船13隻の在泊が確認されたが米機動部隊の行方は杳として分からなかった[12]

10月9日、南鳥島が突如米水上部隊(戦艦1隻、甲巡2隻、駆逐艦8隻)の艦砲射撃を受ける。また鹿屋基地から飛び立った哨戒機が0845時に都井岬140度450浬付近で消息を絶ち、帰投予定時間になっても戻らなかったことから、「翌10日黎明敵機動部隊来襲の算あり」と判断し、所轄の第6基地航空部隊(第二航空艦隊基幹)の南九州所在部隊では9日夜より厳戒態勢がとられた[13]

10月10日「十.十空襲」

1944年10月10日、アメリカ軍第38任務部隊が沖縄本島並びに周辺の島々の日本軍拠点に対して航空攻撃を行った。このときの空襲は沖縄本島では十・十空襲として記録されている。 連合艦隊司令部には0830時に現地部隊が0700時に発した「0640敵艦上機沖縄に来襲」の報が届き、連合艦隊司令部は長官不在のなかで「基地航空部隊捷二号作戦警戒」を発令する。当時台湾の新竹にいた豊田長官も1204時に「連合艦隊電令作特5号」を下令し、台湾、南西諸島方面の作戦である「捷二号」だけでなく、フィリピン方面の敵来襲に対応する「捷一号」も作戦警戒を発令する[14]

作戦発動に備え、連合艦隊は本土各地の航空部隊の集結[注釈 8][注釈 9]を指示、早朝から出撃している各偵察機からの敵発見の報を待つが発見の報はなく、だが索敵に出た銀河陸上爆撃機の1機が「ヒ連送」(敵飛行機発見を意味する略号)を発して消息を絶った事から敵機動部隊が遊弋しているのは間違いないと思われた[15]

最初に敵機動部隊を見つけたのはQ37索敵線を飛んでいた艦上偵察機で1520時に都井岬187度400浬に南進中の大型空母2隻、巡洋艦及び駆逐艦約10隻からなる空母群を発見、次いでQ39番線を索敵していた艦上偵察機からも1533時に都井岬195度357浬で別の空母群を発見する。T攻撃部隊は夜間攻撃を企図してより正確な位置を得るために索敵隊を出すがこれら敵空母群の捕捉に失敗、結局この日の攻撃は出来なかった[16]

この日行われた沖縄本島への空襲は4次にわたって実施され、飛行場・艦船・港湾施設・那覇市街に攻撃が加えられた沖縄に配備されていた唯一の戦闘機隊である西第四空襲部隊独立飛行第23中隊(陸軍航空隊)は三式戦闘機10機で迎撃するが圧倒的な数の差の前に全滅に近い損害を受け、駐留していた海軍航空部隊「西第二空襲部隊」も上空で銀河3機、艦偵1機が未帰還、艦偵1機が自爆、地上で銀河10機、艦偵2機炎上、艦偵2機大破という損害を受け、沖縄方面の哨戒兵力はほぼ失われた。船舶も潜水母艦迅鯨ほか22隻を失った[17]

10月11日 台湾来襲

10月11日未明、台湾東方海面を偵察していた901空及び801空の飛行艇がそれぞれ米機動部隊の1個群を電探で捕捉した。昼には新竹から発進した索敵機が1105時及び1331時に空母3隻を中心とする一群と兵力不詳のもう1群を発見するなど、ようやく米機動部隊の全貌がおよそ4個空母群である事が判明、11日1420時頃よりルソン島北西のエンガノ及びアパリ方面が空襲を受けるが大きな被害はなかった[18]

福留第六基地航空部隊指揮官はこれらの敵に対してT攻撃部隊による攻撃を企図したが南九州の各基地からでは600浬を超える事から台湾もしくは沖縄を中継する必要があった。そのため1141時に6FGB電令作第34号でT攻撃部隊の台湾もしくは沖縄への急速移動準備を指示、1302時には沖縄方面及び石垣島泊地にT攻撃部隊偵察隊の二式大艇の補給施設の急設を指示した。

その後の偵察情報から12日の台湾への米機動部隊による空襲は確実と判断されるようになり、相手の目標となっている台湾への集結は危険を伴うと判断されるようになり、福留長官は翌12日0135時にT攻撃部隊の進出地を沖縄方面とし、戦機をとらえて攻撃を決行すべしと下令、T攻撃部隊による米機動部隊攻撃を明確にした[19]

10月12日

1944年10月12日、台湾への攻撃の準備をする空母ハンコックの乗組員

10月12日0340時、台湾全島に空襲警報が発令され、0648時以降上空に低い雲が垂れ込める中、アメリカ軍の第3艦隊は台湾に延べ1,378機を投入して大空襲を行った。これに対して第6基地航空部隊は西第3空襲部隊及び西第4空襲部隊の約120機に及ぶ陸海軍戦闘機を迎撃に向かわせ撃墜約50機を報じるが、此方も約80機を失った。連合艦隊は1025時に「基地航空部隊捷1号及び捷2号作戦」を発動、以後25日までの間水上部隊の戦いも含む大規模な戦闘が台湾沖、比島沖で繰り広げられることになる[20]

一方、T攻撃部隊は沖縄を中継とする米機動部隊攻撃の手配を終えていたが、この日も沖縄に0900時頃に空襲警報が発令され、沖縄に駐留する西第二空襲部隊の状況も不明であった事から、結局T攻撃部隊は沖縄中継をやめて鹿屋から直接攻撃を行い、そのまま台湾に帰投する事になった。 1030時、第一段索敵隊4機が、次いで1400時に第二段索敵隊3機が台湾東方の米機動部隊を求めて鹿屋基地を発進、一方攻撃隊は1300時に攻撃703飛行隊の一式陸攻18機、攻撃501飛行隊の銀河22機が宮崎基地から、1330時に攻撃708飛行隊の一式陸攻15機が鹿屋基地から出撃して南下した。天候は台湾東方海面を台風が北上していて荒天であり、まさに「期待通り」の天候であった。同部隊が沖縄西方に達すると第一段索敵隊の1機から敵発見の1報が届く[21]。この時点では空母の所在が不明であったが1720時になって漸く空母を含む敵部隊発見の報が届き、興那國島付近上空で旋回待機していた攻撃隊は予想戦場に針路をとった。

1830時に目的地上空に到達した攻撃708飛行隊は1855時に敵機動部隊を発見し攻撃に移る。隊長機ほか7機は攻撃のための散会後消息を絶ったが他の陸攻のうち1機が1947時に地点「へチ4チ」で敵空母らしい目標を発見し雷撃、命中させたと報告した。また他の生還機も帰還途上で艦種不明の轟沈2隻及び火柱の目撃を報じている[22]

攻撃708飛行隊から遅れて20分後の1840時に攻撃501飛行隊の銀河22機も予定地点に到着、直ちに索敵攻撃隊形をとるが攻撃708と異なり同部隊は敵空母を発見する事が出来ず1930時には攻撃を断念して戦場を離脱、2030時から2250時にかけて台南および高雄の各基地に帰投するも1機が東港付近で不時着水(乗員は無事)、基地に降りた15機のうち6機が着陸時に不時着大破(こちらも乗員は無事)となった。残りの6機は未帰還となった。一方攻撃703飛行隊の一式陸攻18機については資料がなく詳細は不明だが、10月13日発電の「鹿屋基地機密第130530電」で報じているものとして「攻703は1920~2020攻撃 効果不明」とある[23]

また陸軍爆撃機飛龍や艦上攻撃機天山による、沖縄を中継した夜間攻撃も行われた。陸軍の飛行第九八戦隊の飛龍21機と攻撃262飛行隊の天山23機が1600時から1630時にかけて沖縄小禄基地に到着、燃料補給のうえ1900時より偵察隊を発進させ出撃の機会を伺っていた。

2115時、偵察を行っていた天山が「二チ4エ」に敵大部隊発見を報告、更に触接を続けた。これとは別の天山も2123時に「ヘヤ2チ」に敵大部隊発見を報告する。攻撃262飛行隊は2015時に出撃「ニチ4エ」の敵大部隊に向かい2224時頃に大型空母に対して雷撃をしかけたが戦果は不明だった。一方の飛行第98戦隊は1900時に先発隊(偵察及び照明を担当)が離陸、次いで2030時に本隊12機が出撃して南下する。2150時に先発隊の1機が「ニト5ト」で敵部隊発見を報じ本隊も目標地点に到達するも、照明弾を担当する隊との連携がうまく取れず暗夜のなかでの無照明攻撃となったので攻撃は不成功に終わった [24]

攻撃後、各基地に帰還した出撃搭乗員の戦果報告は逐次高雄の第六基地航空部隊の司令部に集められた。福留は13日0115時に次の通り戦果を速報する

・6FGB戦果速報(10月12日夜間攻撃)其の2

  1. 13日0100までに判明せる総合戦果
    • 撃沈2 艦種不詳、内1隻空母の算大なり
    • 中破2 艦種不詳、内1隻空母の算大なり
  2. 帰投機数(新竹、台中、台南、高雄)
    • 攻撃501 13機(?を含む) 攻撃703 7機(?を含む) 攻撃708 4機 T11 1機(中村大尉)
    • 他に陸軍飛行場に不時着せるもの若干ある見込み

この速報は鹿屋を経由して大本営にあげられ、他の各部隊も知らされた。久しぶりの撃沈戦果の報に軍内は沸き立つが、一方で損害の多さに不安視する者もおり、遠くルンガ泊地にいる宇垣第一戦隊司令官は自身の日誌「戦藻禄」にて損害に対して戦果が少ない事に「意外」と感じたことを書いている[25]

実際の米軍のこの日の損害はなかった。攻撃は第34.2任務群に対して行われたが、その大部分は軽空母カボットから飛び立った迎撃機や対空砲で撃墜された[26]。ただ乗員達はこの攻撃の激しさで翌日の攻撃のための十分な睡眠が取れなかったと証言している。カール・ソルバーグはこの夜の一式陸上攻撃機による攻撃について、組織的な空襲と言うよりは調整の取れない散発的なものであるというレーダー観測員の感想を残している[27]

10月13日

この日もアメリカ艦隊は延べ947機で台湾を空襲した。主に台湾南部が攻撃されたが一部は台湾北部も空襲、これに対して陸海軍制空隊も反撃に出るが前12日の戦闘で戦力の大部分を失っていたので大きな戦果を挙げることは出来なかった[28]

T攻撃部隊は前夜に続いて台湾東方海面を台風が北上しており、引き続き荒天攻撃を企図していた。 まず彗星偵察機が13日0710時及び0713時に空母2隻からなる敵部隊の2群を発見し触接を続けた。また台湾から飛び立った索敵機も0745以降空母を含む敵部隊2個群をそれぞれ発見した[29]

これらの報告を受けたT攻撃部隊は彗星2機、彩雲1機、銀河1機からなる第二段索敵を発進、更に彩雲1機1145時から随時出撃させると共に下記編成による攻撃隊を1330時より鹿屋方面から出撃させた。

T攻撃部隊編成(10月13日)[30]
飛行隊 機種 指揮官 役割 機数(武装) 備考
攻撃708飛行隊 一式陸上攻撃機 長井彊大尉 攻撃 12機(雷装) うち2機が引き返す
直協 7機 うち1機が引き返す
攻撃703飛行隊 岡庭芳太郎少尉 攻撃 8機(雷装)
攻撃501飛行隊 陸上爆「銀河」 加藤正雄中尉 攻撃 3機(雷装)
3機(爆装) うち2機が引き返す
戦闘303飛行隊 零式艦上戦闘機 不明 直掩 12機

薄暮を待ちながら宮古島上空を大きく旋回した攻撃隊は1620時より相次いで偵察に出た彗星艦爆より空母を含む大部隊の報告が届いた[注釈 10]。更に別の索敵線を飛ぶ銀河からも敵発見の報が届き[注釈 11]、攻撃隊は直協隊を先頭に現地に急行した[31]

1910時、直協隊の1機が石垣島229度140浬に「正規空母4、小型空母3、戦艦3」を中核とする大部隊を発見して報告、別の1機も別の地点で相次ぐ敵発見を報告、1850時には地点「へチ4テ」で敵大型空母1隻の轟沈を目視したと報じてきた。

こうした敵に対するT攻撃部隊の攻撃は夕闇迫る頃に実施された。その戦闘状況は未帰還機多数のため詳細は不明だが、帰還した機による報告では[32]

  1. 攻撃708の陸攻4機は1831時にめざす敵(大型空母2、巡洋艦及び駆逐艦10)を発見し攻撃を仕掛けるも1機を残して全滅。残った1機は石垣島に不時着した。同島分遣隊が該当機からの情報として「1834に同機は空母2番艦、僚機は1番艦をそれぞれ攻撃し魚雷命中2隻とも炎上撃沈、駆逐艦1隻撃沈を認む。我が方損害1機火災自爆を認るのみ」と報告。
  2. 別の陸攻1機は1905時に地点「ヘト3ク」で甲巡と推定される1隻を雷撃し、効果は確認できなかったが攻撃直前に左方に4本、右方に3本の火柱を確認し、空母らしいのが1隻轟沈するのを目視したと報告。
  3. 攻撃703の陸攻3機は石垣島226度155浬で敵部隊を捕捉、1855時にまず1機が戦艦と思われる目標を雷撃し火柱が立つのを確認する。また同機は攻撃前の1700時過ぎに4カ所が炎上している空母を目視したとも報告している。残りの2機のうち1機は護衛の巡洋艦を攻撃して魚雷が命中して敵艦は轟沈したように見えたと報告、残りの1機は発射装置の故障で雷撃できなかった。
  4. 攻撃501の銀河4機は1845時に友軍の照明弾により敵部隊を発見、爆撃(1機)と雷撃(3機)に分離してそれぞれ攻撃を行う。爆撃をした銀河は「エセックス型大型空母」と思われる敵に降下爆撃をしかけ「やや艦首気味に命中、船体折れ轟沈」と報告。雷撃をした3機は未帰還となった。

この日の攻撃で攻撃隊は一式陸攻、銀河計28機のうち18機が未帰還となり、偵察隊も彗星1機、銀河2機が未帰還となった。

航空戦後の10月18日、タグボートに曳航される重巡洋艦キャンベラ

米側の記録では13日の夜間攻撃は第38.1任務部隊の重巡洋艦キャンベラにまず攻撃が行われた。日没後に「雷爆撃機8機」が襲来、対空砲火で6機を撃ち落とすが1機が雷撃に成功して1835時に被雷、缶室区画に大破孔を生じて乗員23名が死亡、4500tもの浸水が起こり後部缶室と機関室を満水にしてキャンベラは航行能力を喪失した[33][34]。その後重巡洋艦ウイチタに曳航され戦線を離脱している。

その少し前、第38.4任務群の空母フランクリンも「ベッティ」(一式陸攻の米側コードネーム)4機に襲われていた。間近に迫るまで気づかれなかった4機はまっすぐフランクリンのみに進撃し、たまたま着艦待ちしていた戦闘機がこれを見つけて迎撃、対空砲火もこの動きで気づいて反撃を浴びせ1番機を共同で撃墜、2番機も直掩機に撃墜されるも続く3番機は魚雷を投下してフランクリンの艦首すれすれを通り抜けようとしたが撃墜され魚雷も躱す事に成功する。残る4番機は魚雷投下後に被弾炎上し、そのまま飛行甲板に激突し損害を与えている(魚雷は回避された)[35]

T攻撃部隊の生存機は14日未明には鹿屋基地に帰還した。これら生還者の報告を基に14日1026時に「T攻撃部隊戦闘速報」が報じられた。

・T攻撃部隊戦闘速報(10月14日1026発電)

  1. 13日夜間攻撃
    • 鹿屋に帰着した搭乗員(2機)の報告によれば、攻撃隊(陸攻22機、銀河2)は薄暮事の好機雨内に出入りする敵空母群(正規空母4隻其の外4隻計8隻)に対し、目標を確認しつつ極めて有効攻撃を実施せるものの如し 効果確実と予想される帰還機の目視する戦果轟沈2(うち1隻は軽巡もしくは嚮導駆逐艦)

其の1時間後には台湾方面に帰還していた生還機が鹿屋に戻り、その報告も含めた続報を1320時に報告している[36]


・T攻撃部隊戦闘速報(13日夜間攻撃)其の2

  1. 機関搭乗員報告により判明する戦果追加下記の如し
    • 1830時及び1910時航空母艦4隻含む1群内にて魚雷命中火炎7確認するが雨となり戦果確認し得ず
    • 1834空母2隻含む1群の大型空母に対し発射命中確認後、大型正規空母1隻(瑞鶴型の約1倍半)炎上傾斜 航空母艦(艦橋の有無不明)1隻大傾斜 いずれも沈没しつつあるを確認す

一方、第1報が報じられた直後の1046時に、夜間攻撃についての総合報告(T部隊戦闘概報第2号其の2)がなされたが、その中では「南九州地区帰還セル搭乗員全員に未だ調査するを得ざるも」という前置きを入れつつ

  1. 轟沈又は撃沈4隻(航空母艦の算多し)
  2. 炎上確認10隻(艦種不明)
  3. 魚雷命中確認3(上記1,2を含まず)
  4. 第二次攻撃攻撃セリと認るも 未帰還のため不明なるも攻撃機以外に於いて2隻と緯度の炎上みとめたるものあり

と報じている。

この時点で実際に米軍が被った被害と、日本側が判断した戦果の内容に大きな乖離が起こっていた。だが14日の米軍の空襲が弱体化したこと[注釈 12]、敵艦隊が避退していくのが確認された[注釈 13]事から「米軍は大損害を受けて撤退している」と誤解され、12、13日の誇大戦果が信じられる一因となってしまった[37]

10月14日

西第1空襲部隊の編制・攻撃

10月14日、激しい弾幕の中、第38.3任務部隊の空母エセックスを襲撃する天山艦上攻撃機。左後方に見えるのはサウスダコタ級戦艦

この日も米軍による台湾空襲は続いたが、前述のとおりこの日は米機動部隊による空襲は1波のみで打ち切られ、午後からはB-29など陸軍航空隊による大規模空襲が行われた。米機動媚態からの空襲は0700時ごろより約250機が基隆、新竹、台南、屏東の各地区を攻撃したのち避退したが、それも0930時頃には終わり、以後攻撃はなかった。日本側は零戦25機が迎撃に飛び立ち、敵グラマン約20~40機と交戦し5機撃墜、不確実2機を報じたが、零戦13機が未帰還となった[38]。午後になると成都からB-29の編隊が襲来、延べ約100機が1230時頃より台南、高雄各地区を爆撃し大損害を与えている[39]

第六基地航空部隊では前日13日1811時に14日のT攻撃部隊の攻撃要領を通達し、13日に総攻撃に転じる旨を通知した。その後13日の夜間攻撃の戦果が帰還機により報告され、敵機動部隊の一翼は撃破されたように思えたので、第六基地航空部隊は増援の第七基地航空部隊(関東地方で編成されていた第五十一航空戦隊基幹)、および小沢艦隊から転用された第三第四航空戦隊貴下飛行隊を戦力に組み込み「西第一空襲部隊」(指揮官は第51航空戦隊司令官山田定義少将)を編成する[40]。更に西第四空襲部隊として編入されていた陸軍の第八飛行師団にも14日早朝に攻撃を下令する。だが基幹戦力のうち飛行第十四戦隊(97式重爆)は10月初頭に杭州に転進してそこで準備中であり、かつ洋上飛行作戦は未経験であった。もう一つの基幹戦力である飛行第二十戦隊(一式戦による反跳爆撃部隊)は12日から続く台湾空襲の迎撃で戦力を損耗しており、これも戦力になり得ない状態であったため、師団長の山本健児少将は百式司令部偵察機を擁する飛行第十戦隊による索敵協力のみ行い、攻撃は実施しない事にする。この判断は功を奏し、14日索敵に飛び立った1機が米機動部隊を発見する事になる[41]

西第一空襲部隊の総攻撃部署は以下の通りとなった

飛行機隊総攻撃部署[42]
攻撃隊区分 隊区分 戦力 所属 指揮官 中継基地 帰投基地
第一次攻撃隊 第一偵察隊 二式艦偵6機 141空 立川大尉 小禄 高雄
天山艦攻8機 第四航空戦隊 渡邊大尉
第一制空隊 零戦52型32機 221空 林大尉 沖縄中 台南、虎尾、仁徳、高雄
零戦52型8機
紫電16機
341空
零戦52型32機 第四航空戦隊
第一爆撃隊 彗星艦爆24機 攻撃第3飛行隊 池内大尉 沖縄北
彗星艦爆18機 攻撃5
彗星艦爆9機 第四航空戦隊
第一雷撃隊 銀河24機 攻撃405
攻撃406
根岸大尉
第二次攻撃隊 第二偵察隊 二式艦偵2機
天山艦攻14機
第三航空戦隊 小禄 小禄
第二制空隊 零戦30機 戦闘304 鴛淵孝大尉 沖縄北 花蓮港、恒春、高雄、台東
紫電16機 341空
零戦52型32機 第三航空戦隊
第二爆撃機隊(爆撃隊) 99式艦爆56機 攻撃102
攻撃103
江間保少佐 伊江島
第二爆撃機隊(掩護隊) 零戦52機 252空
第二雷撃隊 天山艦攻25機 攻撃256 鈴木大尉 小禄 花蓮港、恒春
天山艦攻21機 攻撃252
天山艦攻15機 第三航空戦隊

総攻撃部隊約380機は第一次攻撃隊が1330時、第二次攻撃部隊が1430時、補給の上それぞれ敵機動部隊を求めて出撃した。

第一次攻撃隊出撃直前の1300時に第八飛行師団の索敵機含む3機の偵察機が石垣島南方約70浬及び南東約120浬に敵機動部隊を発見した。だがこの日の天候はかなりの不良であり、前日に南九州に展開したばかりの混成部隊である総攻撃部隊は集結にも苦労し、次第にバラバラになってしまった[43]

第一爆撃隊の攻撃5飛行隊の彗星6機(指揮官:山田恭司大尉)も編隊に合流できずに単独で進撃、だが6機での編隊飛行も困難となり2機ずつの3個編隊となり進撃を続けたが、1518時に山田大尉指揮の編隊は空母2隻戦艦1隻からなる敵部隊を発見し攻撃に移った。その間第一爆撃隊指揮官からの突撃下令を受信、空母上空に達した時に先着の彗星10数機が超低空で爆撃しているのを目撃、さらに巡洋艦または駆逐艦と目される1隻は炎上していた。

山田大尉は急降下に入り敵空母めがけて爆弾を投下、「空母右舷艦橋に命中」を認め空母は「右舷に傾斜」したことを確認した。また直前に別の彗星が別の空母に爆撃を仕掛け「空母中央左舷に命中火柱」を認めた。他の彗星4機は2機が会敵せずに帰還し、残りの2機は未帰還となった。

結局第一次攻撃隊で詳細な戦果報告が出来たのはこの山田機の報告のみであった。攻撃を加えた他の第一爆撃隊所属機を含め、その殆どが未帰還となったためである[44]

第二次攻撃隊も状況は似たようなものだった。第二雷撃隊所属攻撃252の天山17機(指揮官:長曾我部明大尉)は1412時に出撃するも約1時間後には天候不良で前続部隊を見失い、単独で進撃していたが、1540時に宮古島上空付近で敵情報告が届き、幾度かの転進を経て1704時頃、石垣島170度150浬付近で空母3隻を含む敵部隊を発見した。各機は直ちに編隊を解いて攻撃行動に移り、長曾我部機は弾幕をかいくぐって敵の巡洋艦を狙って魚雷を放つがこれは外れてしまった。その後長曾我部機は巡洋艦2隻が炎上しているのを目撃、部下たちの攻撃によるものと判断したが、結局隊長機以外の天山16機は未帰還となった。第二雷撃隊の他の部隊は攻撃252の前方を飛行していたがこの敵を発見できず、その大部分は台湾基地へ帰路につくが1720時に敵戦闘機14機の奇襲をうけて天山2機、護衛の零戦3機、紫電1機を失った。結局総攻撃部隊全体で帰還したのは、14日1900時で戦闘機各種67機、天山28機、99艦爆42機、銀河2機、偵察機4機計143機であった[45]

僅かな帰還機の情報を基に、総攻撃部隊を指揮していた西第一空襲部隊の山田少将は、2213時にW1AB戦闘詳報第3号で「第一次攻撃隊は空母3、第二次攻撃隊は空母2に各々相当なる損害を与えたのは確実」と通達したが、この内容は生還機の報告と比較しても明らかに誇大なものであり、こういった「戦果判断」がこの後も続いていき作戦指導に重大な影響を与える事になる[注釈 14][46]

T攻撃部隊の攻撃

西第一空襲部隊の2回にわたる昼間攻撃に続き、T攻撃部隊による第三次攻撃も実施された。

T攻撃部隊は連日の戦闘で大打撃を受けていたが、それでも14日1044時から1141時にかけて偵察11の彗星1機、彩雲1機、攻撃708の銀河6機が索敵に出撃、次いで攻撃708の一式陸攻7機、攻撃703の一式陸攻8機、攻撃501の銀河9機の計24機が1230時から1412時にかけて鹿屋など南九州の飛行場から出撃、これとは別に台湾に避難していた攻撃501の銀河2機も同地から出撃して攻撃に参加した。また陸軍の飛行第九十八戦隊の四式重爆16機も出撃した[47]

攻撃隊が久米島上空に差しかかった1632時、偵察に出た彩雲が石垣島182度92浬「フチ5フ」で敵部隊発見を報告、同機は更に別の敵部隊発見を報告し、その敵情を「空母1、特空母1、戦艦1他数隻」と報じた。

1900時、予想海域に到達した攻撃708の一式陸攻4機は敵の対空砲火らしきものを遠方に視認したが接近しても敵艦隊を捕捉できず、攻撃708の別の1式陸攻のみ雷撃を加えたが効果は不明だった。また台湾から出撃した銀河2機のうち1機は2024時に敵部隊を発見し、特設空母と思われる1隻を雷撃、攻撃後その南西約30浬に別の機動部隊が放つ高角砲弾の炸裂を認めた事を帰還後報告している(残りの1機は未帰還となった)[48]

飛行第九八戦隊の四式重爆16機は2000時頃に石垣島南方で敵部隊を捕捉し攻撃、第二編隊長は攻撃した敵艦のマストの形状から戦艦と識別し、その轟沈を確認したと主張したが11機の重爆が失われた。

だが攻撃成果の報告はこれだけであった。損害は攻撃501は鹿屋から飛び立った銀河9機は故障で引き返した1機を残して全滅し、攻撃703は一式陸攻8機中3機、攻撃708は一式陸攻7機中1機、偵察に参加した銀河6機中2機を喪失、飛行第九八戦隊も16機中11機を失ったが戦果報告は上記の二つのみであり、その戦果を「特空母らしきもの1隻、戦艦1隻撃沈概ね確実、大型空母1隻、小型空母2隻、甲巡1隻、乙巡2隻が炎上もしくは火炎を確認」とした[49]

だが、実際の米機動部隊には撃沈された艦艇はなかった。この日米機動部隊は前日被害を受けたキャンベラの退避を掩護するため早朝より攻撃を1回のみ行ったのみで終了したのは前述のとおりだが、その後日本軍の空襲を受け空母1隻、軽巡2隻、駆逐艦2隻の計5隻が損傷した。

  1. 空母ハンコック
    • 水平爆撃を受け1発が左舷艦首付近に命中、1発が機銃座を貫通して水中で爆発するも、共に大きな損傷にならなかった
  2. 軽巡洋艦ヒューストン
    • 1845時頃魚雷1本が右舷機関室区画に命中して航行不能、僚艦の重巡洋艦ボストンに曳航されて戦線離脱[注釈 15]
  3. 軽巡洋艦リノ
    • 被弾した敵雷撃機が後部甲板に激突、6番砲塔が爆発して部分的に使用不可となる。
  4. 駆逐艦コーウェル
    • 撃墜機の一部が激突するも大きな損傷とはならず
  5. 駆逐艦カッシン・ヤング
    • 敵機の機銃掃射による損傷

空襲をしのいだ米第3艦隊は、レイテ島近海に接近するキンゲイト提督率いる第7艦隊によるレイテ島上陸を支援するために、14日夜にはフィリピン東方沖に南下し始めた。ここで艦隊はマニラ周辺の空襲を継続する第4群と、補給のため後退する第2群と第3群が分離して、台湾東方沖には第1群のみ留まった。第3艦隊はニミッツが中継した通信傍受情報を受け取り、日本側が虚報を信じ込んでいる事を把握、被弾して味方の魚雷で処分されてもおかしくなかい状態だった巡洋艦2隻にあえて曳航を命じ、それを見て追撃してくるであろう日本側に更なる打撃を加えるための囮とした。実際に、志摩清英中将率いる第五艦隊がこれまでの戦闘で墜落、漂流しているであろう日本側搭乗員の救助及び残敵掃蕩のために派遣されることが決まっていた。

10月15日以降

前日に損傷し艦隊型タグボート パウニー(ATF-74)による曳航中に空襲され航空魚雷が命中した軽巡洋艦ヒューストン
1944年10月16日午後の撮影
音楽・音声外部リンク
台湾沖航空戦に関するニュース歌謡
台湾沖の凱歌 - サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、近江俊郎・朝倉春子の歌唱、日本コロムビア提供のYouTubeアートトラック

これまでの戦闘でT部隊指揮官より報じられた総合戦果判定は12日に空母6~8隻撃沈(うち正規空母3~4隻)、13日3~5隻(うち正規空母2~3隻)であり、これは把握している来襲した米機動部隊の空母の大半であった。前述の通り14日朝以降台湾への空襲が空母艦載機からB-29等の陸上機に移行したこともこの大戦果の裏付けになり、連合艦隊は水上部隊をも投入して戦果の拡充を図る好機と考えた。

14日1216時、連合艦隊は第二遊撃部隊に「連合艦隊電令作第348号」[注釈 16]で残敵掃討を指示、2143時には第5,6両基地航空部隊にも残敵調査と追跡を指示した[50]

翌15日0920時、台湾哨戒区の索敵機が高雄90度255浬の地点に空母2隻を基幹とする敵部隊を、0930時には高雄の98度260浬に停止して油を流している空母1隻、戦艦2隻、警戒する駆逐艦11隻からなる敵部隊をを発見した。マニラ哨戒区でも0800時にマニラの66度240浬に空母4隻他13隻の敵部隊、1122時にはマニラの55度600浬に空母4隻、戦艦7隻他10数隻の敵部隊が、第五基地航空部隊の索敵機により発見された[51]

一方、第六基地航空部隊の福留中将は14日の戦況から翌15日に総追撃戦を行う事を決め、西第一空襲部隊含む台湾、九州、沖縄所在の各部隊に「6FGB電令作第54号」を発令して総攻撃を命じた。連日の戦闘で損耗していたうえに急な追撃命令に各攻撃隊はバラバラに出撃したが、そのさなかに上記の敵発見の報が相次ぎ、第6基地航空部隊は発見した敵部隊への攻撃を指示(6FGB電令作第56号及び57号)、各部隊は荒れる天候の中連携も取れずに進撃したため大部分が敵捕捉に失敗した[52]

台南、高雄から飛び立った甲部隊第一次攻撃隊(銀河10機、零戦9機)は0910時に敵戦闘機8機の奇襲を受け散り散りとなり、零戦2機、銀河1機以外は未帰還となった。第二次攻撃隊(銀河9機、零戦6機)は指揮官機の発動機故障のため攻撃を中止、1640時に帰還した。

新竹、台中から出撃した乙部隊(零戦16機、1式陸攻5機、月光1機)は0955時に出撃したが零戦13機もがエンジントラブル等で脱落、更に敵予想地点まで60浬の地点で敵戦闘機約15機の奇襲を受けて編隊は四散、敵機動部隊を発見できずに各々帰還したが零戦2機、陸攻2機、月光1機が失われた[53]

沖縄方面からは1330時に小禄基地から天山5機、彗星5機、零戦23機が出撃したが敵を発見できずに帰投するも彗星全機が未帰還となる。他に第三航空戦隊所属の天山3機、零戦15機(うち爆装零戦5機)が宮古島から出撃するが0830時に宮古島の210度120浬で敵戦闘機約30機の奇襲を受ける。零戦10機が迎撃し乱戦となる中、戦爆隊が空母5隻、戦艦3隻、他5隻の敵艦隊を発見し攻撃、敵の激しい砲火で命中弾はなかったが、指揮官機(村岡英治大尉)が体当たり自爆をとげたのを僚機が目撃して報告している。結局この部隊はこのほか零戦5機、天山1機が未帰還となった。

九州方面からはT攻撃部隊から1式陸攻16機、天山9機が出撃したが1730時になっても敵発見には至らず攻撃は中止とされた[54]

有馬正文少将の戦死

第6基地航空部隊が苦戦を強いられている中、比島の第5基地航空部隊(第1航空艦隊基幹)は0800時に空母4隻等を擁する敵部隊を発見したことで、指揮官の寺岡謹平中将は陸攻隊を空中退避させ、約50機の戦闘機隊に迎撃態勢を取らせる一方、爆装零戦7機と19機の護衛の零戦からなる第一次攻撃隊(指揮官:指宿正信大尉)を0915時に出撃させていた。この部隊は1045時に敵部隊を捕捉し攻撃、迎撃に出た敵戦闘機を7機撃墜、空母1隻に至近弾、巡洋艦1隻に命中弾、発艦作業中の空母飛行甲板に機銃掃射を加えて数機を炎上させたと報告したが爆装零戦6機を失った[55]。敵の空襲は1025時にマニラ地区に地上戦闘機、艦上戦闘機の連合編隊約40機が来襲し零戦約50機が迎撃、陸軍第四航空軍も戦闘機約30機で迎撃した。この戦いで地上施設の被害は殆どなく、敵機撃墜34機(うち陸軍が9機)対空砲火による撃墜2機、撃破3機を報じた(味方の損害は不明)。

マニラ地区での空襲のみであったため、クラーク地区では空中退避していた攻撃機が帰還後ただちに第二次攻撃隊が準備された。クラーク基地から1式陸攻3機、零戦9機、陸軍戦闘機63機が、ツゲガラオ基地からは天山12機、零戦4機がそれぞれ1400時に出撃するが、この編隊には比島第二空襲部隊(第26航空戦隊基幹)指揮官の有馬正文少将が陸攻に搭乗して陣頭指揮をとる、異例の出撃となった。部隊は1540時に多数の敵戦闘機と遭遇し戦闘機隊がこれを迎え撃つ中陸攻隊が突入、空母1隻撃沈、2隻の飛行甲板炎上、敵機30機の撃墜(うち陸軍機の戦果20機)を報告したが、陸攻全機、天山8機[注釈 17]、零戦3機、陸軍機9機を失い、陸攻に搭乗していた有馬司令官も戦死した。続いて第三次攻撃隊(1式陸攻3機、銀河1機)、第四次攻撃隊(艦攻5機※機種不明、零式水偵10機)が出撃したが、これらは天候不良のため全機引き返した。結局第5基地航空部隊は15日の戦闘だけで未帰還機36機をだし、稼働戦力は翌16日の時点で零戦12~16機、彗星1機、銀河2機、1式陸攻3機、天山7機、月光1機にまで損耗した。このことは17日のスルアン島への米軍一部隊上陸から起こるレイテ沖海戦で、同部隊が神風特別攻撃隊を編成する一因となる[56]

実際のこの日の米軍の戦闘状況は、第38.4任務部隊(デヴィソン隊)の空母フランクリンが第一次攻撃隊の爆装零戦3機の攻撃を受け1弾が舷側エレベーターの角に命中して乗員15名が死傷したのが唯一の被害であった[57]

揺らぎだす「大戦果」

第5基地航空部隊の戦果を受け、連合艦隊は1937時に各基地航空部隊の奮戦を賞賛する電文を発すると共に、総攻撃を続行するよう指示した。こうした大戦果に戦局を楽観視する中央に対し、前線部隊である第6基地航空部隊司令部ではこの頃より敵情判断の誤りを疑うようになった[58]

元々第6基地航空部隊側も大戦果を信じ楽観ムードに支配されていたのだが、司令部は台湾の高雄にある一方で、主力を担ったT攻撃部隊は予定の「台湾に進出して作戦に参加する」事が出来ず、遠く南九州で作戦に参加する事になったので第6基地航空部隊司令部の直接指揮は出来ず、偶々中央との折衝を終えて高雄に帰還するため、9日に鹿屋基地にきていた柴田首席参謀がT攻撃部隊の作戦指導を行っていた。そのため戦果判断もT攻撃部隊司令部によって行われ、第6基地航空部隊司令部はそれについて詳細に検討する事は難しい状況であったが、15日に鹿屋を発して高雄の司令部に帰還した柴田首席参謀を交えて検討をした結果、戦果は報告されたものの半分程度(大型空母中型空母合わせて4隻の撃沈)であり、4群いると推察される敵部隊の1群程度の撃滅であると判断、また敵は残存戦力に新手の部隊[注釈 18]を加えて比島攻略を続行してくると判断するようになっていた[59]

15日2205時、福留長官は連日の戦闘で台湾、沖縄、南九州の各基地にバラバラになっていた各飛行隊を集団ごとにまとめて戦力の再集結を命じる「6FGB電令作第61号」を指令、翌16日1100時には当時視察のため新竹にいた豊田連合艦隊司令長官が高雄へ移動してきて6FGB司令部の情勢判断を聞き深刻な状況であることを認め、1209時に「連合艦隊電令作特第11号」[注釈 19]で敵情を警戒すると共に兵力集結をし、敵情を明らかにしたうえでの追撃戦を指示した[60]

16日1030時、鹿屋哨戒区で飛行していた索敵機の1機が、高雄の95度430浬に西に進む空母7隻、戦艦7隻、巡洋艦10数隻からなる大部隊を発見したと報告した。第6基地航空部隊司令部には正午もだいぶ過ぎてから届いたこの情報は同司令部を驚愕させ、1407時には台湾に集結していた同部隊主力を再度沖縄方面に移動させる可能性を通知、豊田長官も戦力の低下している第6基地航空部隊に海上護衛部隊の航空隊(901空、953空など)を移動させ指揮下に加えるよう指令した[61]

この報告は連合艦隊司令部や軍令部にも正午前には届き戦勝ムードは一気に吹き飛んだ。連合艦隊司令部は沖縄列島の東側を南下していた第二遊撃部隊に西側から迂回するよう指示を出し、この「新たな敵」からの攻撃に晒されないようにした。またこの「新たな敵」に対抗できる水上戦力は遠くルンガ泊地にいた第一遊撃部隊(栗田艦隊)しかいないため、1407時に連合艦隊司令部は「出撃準備をなせ」と指示を出している[注釈 20][注釈 21][62]

10月16日の戦い

これまでの戦いの大戦果に疑問符が付きだしたこの日も、前線では基地虚空部隊による米機動部隊への攻撃は続いていた。

0915時に台湾の110度260浬に敵残存部隊と思われる集団を発見したと報が入ると、甲部隊(銀河8機、天山18機、99式艦爆37機、零戦40機)103機が台南を出撃、この敵部隊への攻撃に向かうも、1345時に米戦闘機約30数機と交戦、零戦隊が迎撃する間に銀河、天山は進撃を続け敵部隊を攻撃するも戦果は不明で、零戦搭乗員の一人が空母らしい1隻の炎上を確認するのみであった。また99式艦爆隊は敵を発見することが出来ず全機が帰還した。この戦いで銀河7機、天山14機、零戦9機が失われた[63]。乙部隊は1145時に零戦14機、彗星1機、1式陸攻3機で出撃したが、折からのB-29による空襲とその迎撃戦の中であったため、迎撃に出てた友軍機を敵機と誤認した陸攻隊は退避行動をとったため護衛の零戦隊とはぐれてしまい、結局敵を見つけることも出来ずに帰還した[64]

沖縄、南九州に展開していた西第一空襲部隊も、追撃戦のため攻撃部隊を出撃させていたが、その間に敵空母7隻を擁する大部隊発見の報が入り、指揮官の判断で攻撃中止、台湾への転進が行われた。またT攻撃部隊も敵を発見できずに帰還した[65]

第二遊撃部隊の反転

連合艦隊の命で敵残存部隊掃討に出撃していた第二遊撃部隊は、12時ごろには奄美大島南東150浬付近を進撃しており、戦力は重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦8隻という規模の艦隊であった。艦隊は大和田通信隊情報などからサイパンからの敵索敵機の活動圏外を躱しながら進撃していたが、無電傍受等から敵機動部隊北上の気配があり針路を西に変える。ところが1429時に敵艦載機2機を発見し対空砲火で撃退するが、敵艦上機と接敵した事で敵機動部隊が近距離にいる事と、自部隊の位置を知られたため、小部隊でしかない自部隊が有利に戦うため「夜戦に持ち込む」ことが難しくなった事から、1450時に針路を北に転じて敵からの離脱を図った[66]。その後駆逐艦の燃料が不足しだした[注釈 22]。ため、一旦奄美大島の薩川湾に寄港して補給を行う事にした。部隊は翌17日000時に薩川湾に入港し補給を開始、よく18日未明には作業を終えたが、この頃には米軍のスルアン上陸など情勢が大きく変化しており、同部隊は連合艦隊からの二転三転する命令に翻弄されながら、レイテ沖海戦を迎える事になる[67]

第6基地航空部隊の戦果判定の修正、撃滅したはずの敵機動部隊の出現を受け、連合艦隊での従来の戦果判断に対する検討が行われる(詳細は後述)。16日夕刻に行われた両総長による天皇への戦況上奏では戦果として「轟撃沈6、火災炎上6」という従来の誇大な戦果が上奏されたが、同日1851時発信の第一遊撃部隊宛電報の中には「敵残存兵力は比較的大」という文言もあり、大戦果を挙げつつも、敵は総力を結集して攻勢を続けてきているという認識であり、これは17日、18日になっても変わらなかった[注釈 23]。この考えが淵田美津雄参謀等の調査で「敵空母4隻程度の撃滅」と決着するのは18日の午後になってからであり、既にスルアン島上陸によりレイテ侵攻が確実視され、第一遊撃部隊もレイテ突入に向けて最終補給地点のブルネイへ出撃した後、陸軍も比島地上決戦をルソン島限定からレイテ島に変更した直後であり、もう後の祭りでしかなかった[68]

こうして台湾沖航空戦は米軍のレイテ侵攻の意図が明らかになった事でそれを巡る戦いに移行する事になる

影響

大本営海軍部によって大戦果が誤認であったと再判定された事実は、20日に開かれたフィリピン決戦に向けた陸海軍合同の作戦会議においても陸軍側に伝達されなかった。陸軍は誤認戦果と知らないままルソン島での迎撃方針を、「レイテ島の決戦」に大きく戦略を変更し、決戦兵力をレイテ島へ増派した。しかし、(壊滅したはずの)アメリカ機動部隊などの空襲を受け、第1師団だけは、航空援護もあって無事に上陸することができたものの、そのほかの第26師団や第68旅団などはいずれも装備、物資の過半が海へ沈み、懸命に積み上げてきたフィリピン決戦準備は水の泡となった。さらに、ルソン島の兵力が引き抜かれた穴を補うため、台湾から第10師団をルソン島へ投入、玉突きで沖縄から第9師団を台湾へ移動させた。こうして結果的に沖縄戦での戦力不足の原因ともなった。

また、海軍発表の戦果に疑問のあることが堀参謀から第14方面軍司令官の山下奉文大将に報告され、第14方面軍司令官として赴任する前の「決戦はルソン島で行なう」という事前取り決めを幻の大戦果に浮かれて急遽変更した大本営陸軍部第一部(作戦)との方針対立を招く一因となった[69]

日本はこの航空戦で捷号作戦で期待されたT攻撃部隊のほとんどを消耗してしまった。それでも搭乗員80組が残っており、ただちに再編に着手するが、早くても10月末まで回復の見込みがなく、捷号作戦のレイテ沖海戦で、第六基地航空部隊は精鋭のT攻撃部隊の活躍を期待できず、練度の低い混成の実働機300機にも及ばない航空兵力を主力として臨まなければならなくなった[70]。また、T攻撃部隊の作戦として予定していた、米機動部隊が停泊して活動が不十分な夜間に奇襲する丹作戦の実行も不可能になった[71]

同航空戦中、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が新竹で味方の飛行機がバタバタ落とされるのを見て、技術的劣勢を知ったことが神風特攻隊創設理由の一つとする説がある。しかし、副官の門司親徳によれば、大西の見える距離でそのような展開はなかったという[72]

評価

米空母同乗のUP通信特派員は、「今日、日本軍の雷撃、爆撃、戦闘機大編隊が前後10時間にもわたってこの大機動部隊に襲いかかってきた。今次大戦でも最大の海空戦の一つというべく、その激しさの点では4か月前のマリアナ沖海戦をさえはるかにしのいだといえよう。わが艦隊はおそらく海上に浮かんだ最大の軍隊集団と言えようが、この大艦隊は来襲する日本機に対して面もむけられぬような対空砲火をあびせた。この恐るべき防空砲火は日本機を撃墜したが、日本機の編隊は後から後から大波の打ち寄せるようにわれわれの頭上に殺到した」と報じている[73]

アメリカの戦史研究家サミュエル・モリソンは、日本軍の空襲を最も激しい規模であると評価しつつ、「わが空母部隊の防御力が、自らを護るのに十二分であることを、六月に続いて再度立証した」と紹介している[74]


参加兵力

日本軍

第六基地航空部隊(第二航空艦隊基幹)

※10月1日時点での各部隊編成及び戦力[75]

  • 指揮官:福留繁中将(第二航空艦隊司令長官)
    • 参謀長:杉本丑衛大佐
    • 参謀:柴田文三大佐 山口盛義中佐
  • 西第1空襲部隊(在南九州戦力)
    • 指揮官:山田定義少将(第51航空戦隊司令官)
    • 第1第2連合集団(第二航空艦隊司令部直轄)
      • 141空 司令:埴田照之大佐
        • 偵察第3第4飛行隊:陸上偵察機 18機(うち稼働数12機)
        • 戦闘804飛行隊:月光夜間戦闘機 26機(うち稼働数18機)
      • 221空 司令:斎藤正久大佐
        • 戦闘308、313、407各飛行隊:零式艦上戦闘機 121機(うち稼働数81機)
      • 341空 司令:舟木忠夫中佐
        • 戦闘402飛行隊:紫電局地戦闘機 30機(うち稼働数25機)
      • 763空 司令:佐多直大大佐
        • 攻撃405飛行隊:銀河陸上爆撃機 35機(うち稼働数17機)
        • 攻撃406飛行隊:銀河陸上爆撃機 31機(うち稼働数16機)
        • 攻撃3飛行隊:彗星艦上爆撃機 33機(うち稼働数17機)、99式艦上爆撃機 13機(うち稼働数7機)
    • 第13連合集団(第51航空戦隊司令部直轄)[注釈 24]
      • 252空 司令:藤松達次大佐
        • 戦闘302.315.316.317各飛行隊:零式艦上戦闘機 126機(うち稼働数49機)
      • 752空
        • 攻撃5飛行隊:彗星艦上爆撃機 48機(うち稼働数31機)
        • 攻撃256飛行隊:天山艦上攻撃機 34機(うち稼働数30機)
      • 701空 司令:永石正孝大佐
        • 攻撃102、103各飛行隊:99式艦上爆撃機 55機(うち稼働数54機)
    • 第11.12連合集団(機動部隊本隊より)[注釈 25]
      • 653空 司令:木村軍治中佐[注釈 26]
        • 戦闘164、165、166各飛行隊:零式艦上戦闘機 88機(うち稼働数48機)
        • 攻撃263飛行隊:天山艦上攻撃機 40機(うち稼働数37機)、99式艦上爆撃機 9機(うち稼働数8機)
      • 634空 司令:天谷孝久大佐
        • 戦闘157、163各飛行隊:零式艦上戦闘機 59機(うち稼働数43機)
        • 634空直轄:天山艦上攻撃機 17機(うち稼働数9機)、彗星艦上爆撃機 17機(うち稼働数6機)、瑞雲水上爆撃機 18機(うち稼働数16機)
  • 西第2空襲部隊(在沖縄戦力)
    • 指揮官:菊池朝三少将(第25航空戦隊司令官)
    • 偵察第3飛行隊:二式艦上偵察機 7機(うち稼働数3機)
    • 攻撃406飛行隊:銀河陸上爆撃機 14機(うち稼働数12機)
  • 西第3空襲部隊(在台湾戦力)
    • 指揮官:城島高次少将(第21航空戦隊司令官)
    • 攻撃708飛行隊:一式陸上攻撃機 9機(うち稼働数7機)
    • 戦闘312飛行隊:零式艦上戦闘機 48機(うち稼働数32機)
    • 戦闘401飛行隊:紫電局地戦闘機 32機(うち稼働数29機)
    • 戦闘804飛行隊:月光夜間戦闘機 6機(うち稼働数3機)
    • 第14連合航空隊:零式艦上戦闘機 約30機、99式艦上爆撃機約20機、97式艦上攻撃機 約20機、96式陸上攻撃機 約10機
    • 901空 司令:上出俊二大佐

第五基地航空部隊(第一航空艦隊基幹)

※10月1日時点での各部隊編成及び戦力[76]

  • 指揮官:寺岡謹平中将(第一航空艦隊司令長官)
    • 参謀長:小田原俊彦大佐
    • 153空 司令:高橋農夫吉大佐
      • 偵察102飛行隊:二式艦上偵察機 2機(うち稼働数0機)、零式艦上戦闘機 1機(うち稼働数0機)
      • 戦闘901飛行隊:月光夜間戦闘機 11機(うち稼働数3機)、零式艦上戦闘機 1機(うち稼働数1機)
    • 201空 司令:山本栄大佐
      • 戦闘301飛行隊:零式艦上戦闘機 5機(うち稼働数0機)
      • 戦闘305飛行隊:零式艦上戦闘機 43機(うち稼働数31機)
      • 戦闘306飛行隊:零式艦上戦闘機 23機(うち稼働数13機)
      • 戦闘311飛行隊:零式艦上戦闘機 34機(うち稼働数27機)
    • 761空 司令:前田孝成大佐
      • 攻撃105飛行隊:彗星艦上爆撃機 13機(うち稼働数8機)、99式艦上爆撃機 3機(うち稼働数0機)
      • 攻撃251飛行隊:天山艦上攻撃機 30機(うち稼働数30機)
      • 攻撃704飛行隊:一式陸上攻撃機 25機(うち稼働数21機)
    • 1021空 司令:小川又雄大佐:輸送機(機種不明)22機(うち稼働数5機)
    • 第二十二航空戦隊:零式艦上戦闘機 7機(うち稼働数4機)、月光夜間戦闘機 10機(うち稼働数6機)
第二遊撃部隊

アメリカ軍

第3艦隊

旗艦:戦艦ニュージャージー 以下204隻

第38任務部隊(TASK FORCE 38)

旗艦:空母レキシントン

第1群(TASK GROUP 38.1)
第2群(TASK GROUP 38.2)
第3群(TASK GROUP 38.3)
第4群(TASK GROUP 38.4)

損害

  • 航空機 312機

※参考 台湾沖航空戦期間中の第6基地航空部隊航空兵力の推移一覧[77]

第6基地航空部隊
軍隊区分 T攻撃部隊 西第1空襲部隊 西第2空襲部隊 西第3空襲部隊 第14連合航空隊 901空
第1.2連合集団 第13連合集団 第11連合集団 第12連合集団
航空隊 762空 801空 752空 陸軍 141空 221空 341空 763空 252空 752空 701空 653空 634空
飛行隊 攻撃708 攻撃703 攻撃262 戦闘701 戦闘303 偵察11 飛行艇隊 偵察301 攻撃501 飛行98 偵察3.4 戦闘804 戦闘308他 戦闘402 戦闘405 戦闘406 攻撃3 戦闘302他 攻撃5 攻撃102他 攻撃256 戦闘164他 攻撃263 戦闘157他 直轄機 偵察3 攻撃406 直轄機 攻撃708 戦闘312 戦闘401 戦闘804
機種 1式陸攻 天山 紫電 零戦 彩雲 二式艦偵 百司偵 二式大艇 瑞雲 零水偵 銀河 四式重爆 陸偵 月光 零戦 紫電 零戦 銀河 銀河 彗星 99艦爆 零戦 彗星 99艦爆 天山 零戦 天山 彗星 零戦 天山 彗星 瑞雲 二式艦偵 銀河 零戦 紫電 彗星 天山 1式陸攻 零戦 紫電 月光 零戦 99艦爆 97艦攻 96陸攻 97大艇
所属機数(稼働数) 10月1日 64(34) 52(43) 41(37) 35(33) 41(40) 23(10) 7(6) 4(2) 21(19) 21(10) 48(35) 36(22) 18(12) 26(18) 121(75) 30(25) 35(17) 31(16) 33(17) 13(7) 126(49) 48(31) 55(54) 34(30) 88(48) 40(37) 9(8) 59(43) 17(9) 17(6) 18(16) 7(3) 14(12) 9(7) 48(32) 32(29) 6(3) 約30 約20 約20 約10 13(10)
10月12日 22(4) 10 23 8 5 1 6 23(16) 5(4) 4 22 14(3) 10 51 20 10 25 15 6 南九州に展開中 3 6 8 2 12 2 1
10月13日 19(4) 9 19 2 2 1 4 5 7 10 32 40 24 30 52 25 55 40 26 29(5) 32 10 12
10月14日 6(7) 12(5) 24(9) 18(4) 32(20) 10 3 1 9 22 8(0) 15(7) 101(20) 8(4) 4(2) 14(13) 18(8) 10(4) 18(14) 22(10) 14(7) 3(3) 6(5)
10月15日 ?(5) 17(14) 9 12 5 8(0) 15(7) 105(34) 53(14) 14(13) 26 22(13) 17(15) 25 3(3) 18 1 3 24 7 7 18
アメリカ軍

<損傷>

航空戦後の10月27日に撮影されたヒューストンの破損個所。舷側に大穴が開いた上に上の甲板も吹き飛び丸見えの状態になっている

航空機89機喪失、戦死約100名


大本営発表での戦果

昭和19年10月12日17時20分
「本10月12日7時頃より優勢なる敵機台湾に来襲、15時半頃彼我交戦中なり。我部隊の収めたる戦果中13時までに判明せる撃墜敵機約100機なり」
昭和19年10月13日11時30分
「一、我が航空部隊は10月12日夜台湾東方海面に於て敵機動部隊を捕捉し夜半に亙り反覆之を攻撃せり。我方の収めたる戦果中現在迄に判明せるもの左の如し」
  • 撃沈 航空母艦1隻 艦種不詳1隻
  • 撃破 航空母艦1隻 艦種不詳1隻
「二、我方若干の未帰還機あり」
昭和19年10月14日17時
「我航空部隊は爾後引続き台湾東方海面の敵機動部隊を猛攻中にして現在迄に判明せる戦果(すでに発表せるものを含む)左の如し」
  • 轟撃沈 航空母艦3隻 艦種不詳3隻 駆逐艦1隻
  • 撃破 航空母艦1隻 艦種不詳1隻
昭和19年10月15日15時
「台湾東方海面の敵機動部隊は昨14日来東方に向け敗走中にして、我が部隊は此の敵に対し反覆猛攻を加へ戦果拡充中なり。現在までに判明せる戦果(既発表のものを含む)左の如し」
  • 轟撃沈 航空母艦7隻 駆逐艦1隻(註)既発表の艦種不詳3隻は航空母艦3隻なりしこと判明せり
  • 撃破 航空母艦1隻 戦艦1隻 巡洋艦1隻 艦種不詳11隻
昭和19年10月16日15時
「我部隊は潰走中の敵機動部隊を引続き追撃中にして現在迄に判明せる戦果(既発表の分を含む)左の如し」
  • 轟撃沈 航空母艦10隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 駆逐艦1隻
  • 撃破 航空母艦3隻 戦艦1隻 巡洋艦4隻 艦種不詳11隻
昭和19年10月17日16時
「我航空部隊は明16日台湾東方海面に於て新たに来援せる敵機動部隊を追撃し、航空母艦、戦艦各1隻以上を撃破せり」
昭和19年10月19日18時
「我部隊は10月12日以降連日連夜台湾及「ルソン」東方海面の敵機動部隊を猛攻し其の過半の兵力を壊滅して之を潰走せしめたり」
「(一)我方の収めたる戦果綜合次の如し」
  • 轟撃沈 航空母艦11隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 巡洋艦若(もしく)は駆逐艦1隻
  • 撃破 航空母艦8隻 戦艦2隻 巡洋艦4隻 巡洋艦若は駆逐艦1隻 艦種不詳13隻
  • 撃墜 112機(基地における撃墜を含まず)
「(二)我方の損害 飛行機未帰還312機」
「(註)本戦闘を台湾沖航空戦と呼稱す」
昭和19年10月21日19時
「大元帥陛下には本日大本営両幕僚長を召させられ南方方面陸軍最高指揮官連合艦隊司令長官台湾軍司令官に対し左の勅語を賜りたり」
「勅語 朕カ陸海軍部隊ハ緊密ナル協同ノ下敵艦隊ヲ邀撃シ奮戦大ニ之ヲ撃破セリ 朕深ク之ヲ嘉尚ス 惟フニ戦局ハ日ニ急迫ヲ加フ汝等愈協心戮力ヲ以テ朕カ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ」

台湾沖航空戦での誤認について

同航空戦では戦果を大きく誤認する事態が多発したが、誤認の原因としては以下が挙げられている。

  1. 出撃期の大部が未帰還となり報告自体の数が少なく検証材料に乏しかった[78]
  2. 夜間攻撃に予定されていた照明隊が吊光投弾使用の困難からほぼ実施されず、夜間索敵となったが、接触機もなく、攻撃避退、戦果確認が至難であり、自爆機の海面火災も誤認の原因となった[79]
  3. 捷号作戦では夜間攻撃が重視されていたが、元来夜間攻撃は目標戦果認識困難である上、練度も上達する時間的余裕がなかった[80]
  4. 米側にしてもそういった事情は同じであり、ハルゼー自身も攻撃を受けた際に米艦隊が炎上した様子を見て大損害を受けたと誤認したりしており、日本の米機動部隊撃滅報告も無理のないことだった[81]
  5. 戦果確認の際に帰還報告を行う搭乗員に対して、担当した参謀が「火柱はこうでなかったか?」「艦の形容はこうであっただろう」などあたかも肯定するのを無理強いするような調子で報告を聴取するという、一種の誘導尋問が行われていたため、曖昧な報告もいつのまにか命中とか撃沈とかに変わってしまっていた[82]

第6基地航空部隊司令部は10月15日の時点で戦果の誤認に気づいていたが、この戦果判断の重大な訂正は大本営にも、連合艦隊司令部にも報告されなかった[83]。二航艦長官福留繁中将は、米戦略爆撃調査団の質問に「台湾沖航空戦の戦果を4隻くらいとみていた」と証言している[84][注釈 27]

10月16日には索敵機が台湾沖で空母7隻を含むアメリカ機動部隊を発見したとの報告が入り、壊滅したはずの米戦力が発見されると連合艦隊司令部で、連合艦隊航空参謀淵田美津雄中佐、軍令部航空参謀鈴木栄二郎中佐、第二航空艦隊兼T攻撃部隊航空参謀田中正臣少佐、連合艦隊情報参謀中島親孝少佐の4人で再検討が行われた。1949年7月31日に淵田美津雄がマッカーサーからの質問に答えた陳述書によれば、田中を招致して、淵田と鈴木で田中の持参した資料を検討し、中島の意見も求め、その結果いくら上算しても空母4隻撃破程度で撃沈はまずあるまいと結着した[85]。軍令部で現地に派遣調査させた三代辰吉も同様の判断をした。

連合艦隊参謀淵田美津雄大佐によれば、誤認について18日の「捷一号作戦」発令においても敵空母10隻健在のもと対処するように参謀長申進として通達した[86][注釈 28]。捷一号作戦発動下令は18日1732時であり、17日0946時発の同司令部の無電[注釈 29]には楽観的な判断がされている事から、16日に淵田らが判断した戦果判断はすぐには連合艦隊内では確定事項とは認知されず、17日0946時から1732時の間で決着したことが分かる[87]。そして18日夕刻の両総長の上奏[注釈 30]には戦果の訂正が反映されていない事から「実際の戦果は敵空母4隻撃破程度」という判断が連合艦隊、軍令部で決着を見たのは、どんなに速くても18日の夕刻であったと思われる[88]

ブイン、ブーゲンビルの戦闘ですでに戦果報告の十分の一が実際の戦果であり、戦果誤認は以前から問題になっていた。中澤佑軍令部部長によれば、連合艦隊司令部の報告から不確実を削除し、同司令部に戦果確認に一層配慮するように注意喚起していたが、同司令部より「大本営は、いかなる根拠をもって連合艦隊の報告した戦果を削除したのか」と強い抗議電が参謀長名(福留繁中将)で打電され、結局反論なくうやむやになっていたという[89]。軍令部参謀藤森康男によれば、疑念もあり軍令部作戦課はさらに検討を加えたが、さしあたり公的には現地部隊報告を基礎に資料作成するほか名案もなかったという[90]

陸軍の大本営情報参謀であった堀栄三の回想によれば、フィリピン出張の途上で台湾沖にて航空戦中であることを耳にして、「今までの戦法研究で疑問符のつけてある航空戦だ、この眼で見てみよう」と思い立ち、鹿屋で実際の航空兵から戦果確認方法について聞き取り調査を行ったが、戦果に対しての疑問は解消できず、「この成果は信用出来ない。いかに多くても2、3隻、それも航空母艦かどうかも疑問」と大本営陸軍部第二部(情報)長宛に打電した[91]。その後作戦課へ報告されたが、省みられることがなかったという。 堀は、10月15日にマニラに到着後、17日に南方総軍司令部第2課で台湾沖航空戦の戦果に再検討を加え、米軍の健在な空母を12隻と計算し、第14方面軍司令官の山下奉文大将、参謀副長の西村敏雄少将に報告し、さらに航空戦の戦果ほど怪しいものはなく、ブーゲンビル島の地上戦で敗北したのは海軍のろ号作戦の過剰な戦果報告が原因だと報告した際、米軍艦載機によるマニラ空襲が行われており、山下大将と西村少将は堀の報告を信じたという[92]

脚注

  1. ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 307-309頁
  2. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 290頁、戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで309-310頁
  3. ^ 戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで321頁
  4. ^ 戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで209-210頁
  5. ^ 谷光太郎『アーネスト・キング』第11章。
  6. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』第三章 米軍、レイテ島攻略を繰り上げる。他にこの件について触れた文献は『太平洋戦史シリーズ レイテ沖海戦』マッカーサーの比島への道などがある。
  7. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 583-586頁
  8. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 586頁
  9. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 589頁
  10. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 590頁
  11. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 591頁
  12. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 594頁
  13. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 598頁
  14. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 599-600頁
  15. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 605頁
  16. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 606頁
  17. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 607-609頁
  18. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 615頁
  19. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 620頁
  20. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 622頁
  21. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 628-629頁
  22. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 632頁
  23. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 632-633頁
  24. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 633-634頁
  25. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 634-635頁
  26. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 739頁
  27. ^ 『決断と異議』P93
  28. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 635-636頁
  29. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 637頁
  30. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 638頁
  31. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 638-639頁
  32. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 640-642頁
  33. ^ サミュエル・エリオット・モリソン『モリソンの太平洋海戦史』光人社310頁
  34. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで643頁
  35. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで643頁
  36. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 644頁
  37. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 645頁
  38. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 648~649頁
  39. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 649頁
  40. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 650-654頁
  41. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 655-656頁
  42. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 657-658頁
  43. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 663頁
  44. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 663-666頁
  45. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 667-668頁
  46. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 669-671頁
  47. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 671-672頁
  48. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 672-673頁
  49. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 672-675頁
  50. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 677-678頁
  51. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 678頁
  52. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 679-680頁
  53. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 680頁
  54. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 681-682頁
  55. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 681-682頁
  56. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 683-685頁
  57. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 685頁
  58. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 686-687頁
  59. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 688-691頁
  60. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 691-693頁
  61. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 693頁
  62. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 694-695頁
  63. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 697頁
  64. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 697-698頁
  65. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 698頁
  66. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 700-701頁
  67. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 701-702頁
  68. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 726-729頁
  69. ^ 「大本営参謀の情報戦記」 186頁
  70. ^ 戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで712頁
  71. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期545-547頁
  72. ^ 門司親徳『回想の大西滝治郎 第一航空艦隊副官の述懐』光人社25頁
  73. ^ 『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫338頁
  74. ^ 『モリソン戦史』(History of United States Naval Operations in World War II),柳田邦男『零戦燃ゆ』5巻P223
  75. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 附属資料「第六基地航空部隊(6FGB)航空兵力(所属・機種別)一覧表」
  76. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 528-529
  77. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 附属資料「第六基地航空部隊(6FGB)航空兵力(所属・機種別)一覧表」
  78. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 721頁
  79. ^ 戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448-449頁
  80. ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 721-722頁
  81. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 722頁
  82. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 723頁
  83. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 713頁
  84. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 715頁
  85. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 716頁
  86. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 728頁
  87. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 728-729頁
  88. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 729頁
  89. ^ 戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 726頁
  90. ^ 戦史叢書45巻大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 447頁
  91. ^ 「大本営参謀の情報戦記」 160頁-164頁
  92. ^ 「大本営参謀の情報戦記」 171-172頁

注釈

  1. ^ 捷号作戦のなかで、「敵機動部隊のみ捕捉された場合、基地航空隊のみで行う『基地航空部隊捷〇号作戦』を行う」とされており、台湾沖航空戦はこの「基地航空部隊捷1号及び2号作戦」が発動されて行われた
  2. ^ レイテ沖海戦では改めて「捷1号作戦」が発動され実施された。また米軍側は台湾沖航空戦もレイテ沖海戦も一つの作戦「キングⅡ作戦」として実行されたものである
  3. ^ 水上部隊はこの基地航空部隊の空母撃滅による敵航空機の脅威からの解放のもと敵上陸部隊を攻撃すると定められており、捷号作戦自体は空母部隊の撃滅を主軸に上陸部隊撃滅はそれが前提で成り立っている作戦である
  4. ^ 当時マリアナ諸島攻略を指揮していたレイモンド・スプルーアンス第5艦隊司令長官、上陸戦の指揮を取っていたリッチモンド・K・ターナー第51任務部隊指揮官もフィリピン侵攻を推すなど、同じ海軍内でもキングの案を推す者は少なかったと言われている
  5. ^ 「敵空母なし0900」「大型輸送船10隻其の外数隻にして空母を認めず0930」「サイパン上空約4000 雲量8 我れ高度8000米にて偵察確実なり0950」
  6. ^ 10月1日早朝にコスソル水道で確認された空母4隻、巡洋艦4隻、駆逐艦12隻と、パラオ東方海面に確認されていた空母3隻、駆逐艦4隻
  7. ^ 但し長官の発熱により3日間の静養が余儀なくされたため、長官のマニラ到着は10月7日午後となった
  8. ^ 本土北東方面に配備されていた第51航空戦隊の関東地区進出、その関東地区に待機していた攻撃501飛行隊の南九州進出、第3.4航空戦隊の空母航空兵力の基地作戦参加準備など
  9. ^ この際作戦可能航空兵力の全てを基地作戦に転用されることになった機動部隊本隊に対して、連合艦隊は「連合艦隊参謀長10月10日1035発電」において「基地航空部隊捷二号作戦発動を発令する予定だが、機動部隊はただ今のところ現体制のまま待機させる予定である」と説明している。だがこの約束は後日破られる事になる
  10. ^ 三番索敵線を担当していた彗星(佐々木上飛曹機)より、1620時地点「ツチ1ア」空母3隻含む1群、更に1624時に地点「キチ3ス」に大型空母4隻を基幹とする別の1群を報じる。同機はその後1720時に「兵力配備敵は3群なり・・其の外約7隻」との報告を最後に消息を絶つ
  11. ^ 1番索敵線を飛ぶ銀河(徳永飛曹長機)より、1720時地点「ニウ4セ」に兵力不明の敵部隊、次いで1730時「確認せる敵の兵力は空母1隻、巡洋艦1隻、0度速力8ノット地点ニウ4テの南東方約5浬」との連絡が報じられる。なお同機もこれを最後に消息を絶つ
  12. ^ 実際は14日は台湾を空襲する計画の日ではなかったため、100機程の攻撃を1回行ったのみで、あとは陸軍航空隊のB-29による爆撃に引き継いでいた
  13. ^ これも前述した巡洋艦キャンベラの退避を誤認した
  14. ^ 戦史叢書では同司令部のこの戦果判断についてかなりの字数を用いて批判している
  15. ^ 戦史叢書では同艦を攻撃したのは鹿屋から出撃した攻撃501の銀河の1機であると推察している
  16. ^ 本文「第二遊撃部隊(第21戦隊、第1水雷戦隊)は準備出来次第速やかに出撃 台湾東方海面に進出 好機に投じ敵損傷艦の捕捉撃滅並びに搭乗員の救助に任ずべし」
  17. ^ 天山隊は本隊とは別に行動するも敵を発見できずに帰還、しかし8機が未帰還となった
  18. ^ 当時台湾に来襲したのはスプルアンス提督が率いる部隊であると第6基地航空部隊は判断しており、ハルゼー提督が指揮する部隊とは別と考えていた
  19. ^ 本文「1、敗退中の敵は全力を集中して損傷艦の援護に努め 一部は反撃に出る算なしとせず 2、基地航空部隊は敵情を明らかにし 出来る限り兵力を集中して敵を追撃げきめつすべし 3、第二遊撃部隊は敵情に留意しつつ航空部隊に策応すべし 4、潜水艦は極力出撃 敵を攻撃せよ
  20. ^ 元々第一遊撃部隊を投入する事は15日の段階で軍令部から連合艦隊へ要請されていたが、連合艦隊はこれに反対し議論がされている最中の「新たな敵」の報告であったという
  21. ^ 結局翌17日の米軍によるスルアン島戦力から始まるレイテ沖海戦において、この指令で出撃準備を始めていたことが18日のルンガ泊地出撃が間に合う事になった
  22. ^ 1429時に敵機と接触した際、部隊は巡洋艦から駆逐艦への燃料移設途上であり、中断しての北上だったため、特に第7駆逐隊の燃料が厳しくなっていた
  23. ^ 17日0946時発信の連合艦隊参謀長から連合艦隊司令長官への敵情判断報告や、18日の軍令部総長による上奏からも、連合艦隊はこの時点でも敵に大損害は与えているという認識を持っていたことが分かる
  24. ^ 10月10日時点では関東に展開、以後南九州に移動し13日より参戦
  25. ^ 10月10日時点では機動部隊に所属、以後南九州に移動し13日より参戦
  26. ^ 中佐自身は機動部隊本隊に残りレイテ沖海戦に参加、10月25日戦死
  27. ^ ただし、この時点では豊田連合艦隊司令長官が台湾にいて高雄の同部隊司令部におり、この第6基地航空部隊の判断を豊田も把握しているので、「長官には伝えてあるから敵に傍受される可能性もある通信デつ和える必要はないだろう」と考えて敢えて通信しなかった可能性もある
  28. ^ 戦後、田中正臣はこの再検討の際に話し合われた内容について「覚えていない」「そういうこと(忘れてしまうこと)もある」と話している(NHK製作テレビ番組『幻の大戦果 大本営発表の真相』インタビュー)
  29. ^ 17日0946時発の日吉にいた草鹿連合艦隊参謀長より、台湾にいた豊田連合艦隊司令長官への敵情判断無電のこと。この中で草鹿は「機動部隊の損害大なるにも拘わらず予定の計画により比島攻略作戦を開始せるものの如く」としており、この段階でも米機動部隊へ大打撃を与えたと判断していたことが分かる
  30. ^ 17日夕刻に陸海軍両総長により天皇に対して行われた上奏。ここでは「台湾方面におきまする敵機動部隊の被りましたる大なる損害の結果、敵の比島攻略開始時期は若干遅延するにあらずやとも一応考察せらるる…」という一文がある

参考文献

堀の情報を握り潰した件について戦後謝罪を受けたという堀の回想が、P130付近にある。
誤認戦果について資料批判を交えつつその原因について評論。
  • 堀栄三 「Ⅳ」『大本営参謀の情報戦記』 文藝春秋〈文春文庫〉、1996年(初出1989年)、ISBN 4167274027
  • 碇義朗 「台湾沖航空戦・幻の戦果」『レイテ沖海戦(歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』 学習研究社、1995年、ISBN 4054012655
  • カール・ソルバーグ 『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』 高城肇訳、光人社、1999年(原書は1995年の単行本)、ISBN 4769809344
著者はTIME誌記者を経て軍に志願、空中戦闘情報(ACI)将校として南西太平洋軍に勤務、本海戦時は第3艦隊司令部に配属され旗艦ニュージャージーに乗組み従軍した。
同名の番組(NHKスペシャル、2002年8月13日総合テレビにて放送)を元にまとめたもの。
  • 神野正美 『台湾沖航空戦 T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘』 光人社、2004年、ISBN 4769812159
  • 大井篤 「第7章 南方ルート臨終記」内「25 台湾沖航空戦祝盆の陰に」『海上護衛戦』 学習研究社学研M文庫〉、2001年(初出1953年、以後1975年、1983年、1992年にも再版。)、ISBN 4-05-901040-5

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