ゲーム理論
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研究史
前史
ゲーム理論が誕生する遥か昔からゲームに関する研究は連綿と行われていた。狩りや耕作の収穫を祈るために、古代社会においてはサイコロやクジを用いた占術が洋の東西を問わず広く行われており、それらに関する逸話は『旧約聖書』や『魏志倭人伝』にも見ることができる[227]。このような、他者の戦略が問題とされないようなゲームは「偶然ゲーム(英: games of chance)」と呼ばれるが、偶然ゲームに関する研究はクラウディウス (BC10 - AD54) の『サイコロで勝つ方法』やスエトニュウス (AD69 - AD141)の『ローマ諸皇帝の生涯』にまで遡ることができる[228]。
ゲームの研究は確率論が誕生した17世紀に大きく進展した。17世紀には、ガリレオ・ガリレイが著書『ダイス・ゲームに関する考察』(1613 - 1623) の中で効用概念について先駆的研究をしている[229]。また、ブレーズ・パスカルはピエール・ド・フェルマーとの往復書簡 (1654年) の中で数学的期待値を最大化する戦略を論じている[229]。これらはいずれも偶然ゲームの研究であり、他者の戦略は問題とされていなかった。17世紀後半になると、微分積分学の創始者としても知られるドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツによって初めて確率のみに決定されないゲームが研究された[226]。ライプニッツによって分析された、ボードゲームのような相手の戦略が問題となるようなゲームは、偶然ゲームと区別して「技術のゲーム (英: games of skill)」と呼ばれる。確率論が偶然ゲームの考察から誕生したのに対して、ゲーム理論は技術のゲームから誕生したと言える[230]。17世紀から18世紀にかけては、イギリスのJames Waldegrave (1684 - 1741) がフランスのPierre Remond de Montmort (1678 - 1719) への書簡の中で混合戦略とミニマックス原理のアイデアを論じている[231][† 47]。
18世紀にはイギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームが著書『人性論』(1739年)において国民が私的な動機にしか反応しない場合に公的資源が過剰に使用されることを示唆している。このヒュームの思想は、1968年にアメリカの生物学者ギャレット・ハーディンが雑誌『サイエンス』上に論文 "The Tragedy of the Commons" を発表したことにより広く認知されるようになり、ヒュームの指摘した現象は現代のゲーム理論では「共有地の悲劇」として定式化されている[234]。また18世紀中葉には、アダム・スミスが著書『道徳情操論』(1759年) の中で人間社会を「偉大なるチェス盤」に喩え、「人間社会のゲーム (英: the game of human society)」が成功するための条件を論じている[1]。
19世紀には、フランスの経済学者アントワーヌ・オーギュスタン・クールノーが1838年に発表した論文『富の理論の数学的原理に関する研究』(仏: Recherches sur les principes mathématiques de la théorie des richesses)において寡占市場のナッシュ均衡を分析した[235]。この枠組みは今日ではクールノー・ゲームと呼ばれている。特殊な複占モデルであったとはいえ、クールノーはナッシュ均衡の定義をゲーム理論成立の一世紀以上前に先触れしており、このクールノーの業績はゲーム理論の古典の一つとして数えられ、同時に、産業組織論の一つの基礎ともなっている[236]。クールノーが生産量を「戦略」と解釈して寡占市場を分析したのに対し、ジョゼフ・ベルトランは1883年に発表された論文 "Théorie Mathématique de la Richesse Sociale" において価格が「戦略」であるモデルを分析している[237][† 48]。
20世紀初頭には、ドイツの数学者エルンスト・ツェルメロが「チェスの理論への集合論の応用について」 (独: Uber eine Anwendung der Mengenlehre auf die Theorie des Schachspiels) (1913年)という論文中でチェスのように単純なゲームを分析しており、「ツェルメロの定理」でその名が知られる[239][† 49][† 50]。1920年代にはフランスの数学者エミール・ボレルが三つの論文Borel 1921、Borel 1924、Borel 1927の中でWaldegraveが200年以上前に論じていた混合戦略とミニマックス解を初めて厳密な数学的手法によって分析しようと試みた。ただしボレルは非常に単純なケースのみを分析しており、戦略集合が一般的なケースではミニマックス解が存在しないと予想していたが、この予想は後にフォン・ノイマンによって否定的に証明されている[242]。
「社会的ゲームの理論について」(1928年)
ゲーム理論はフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの大著『ゲームの理論と経済行動』が1944年に出版されることによって誕生したとされるのが一般的であるが、その数学的基礎はフォン・ノイマンが1928年に発表した論文「社会的ゲームの理論について」(独: Zur Theorie der Gesellschsftsspiele[244]) から始まる[1]。この論文では、ゼロ和2人ゲームのミニマックス定理が区間 [0, 1] で定義された点対集合写像の不動点定理を用いて証明されると同時に戦略形 n 人ゲームと戦略の定式化、提携とマックスミニ値を用いたゼロ和3人ゲームの分析など、現代のゲーム理論の基本概念と分析方法が提示されている[† 51]。
このフォン・ノイマンの論文で戦略ゲームの例として挙げられていたのはルーレットやチェス、じゃんけんなどの室内ゲームだけであったが、最初の頁の脚注で「戦略ゲームは与えられた外生的条件の下で利己的なホモエコノミカスはいかに行動するかという古典経済学の主要問題である」と述べられており、「社会的ゲーム」という論文のタイトルとともにこの脚注で示されている問題意識は明らかにフォン・ノイマンがゲーム理論を単に室内ゲームの数学理論でなく経済行動の数学理論として認識していたことを示している[1][246]。フォン・ノイマンのような一流の数学者が経済学的な問題意識に基づいた研究を行った背景としては、当時のウィーンではオーストリア学派のカール・メンガーが主催する数学コロキアムを通じて数学者と経済学者の活発な交流が行われていたことが指摘されている[208]。
『ゲームの理論と経済行動』(1944年)
オーストリア学派の経済学者オスカー・モルゲンシュテルンは1928年に刊行した著書『経済予測—仮定とその可能性についての考察』においてフォン・ノイマンとは独立に、経済学におけるゲーム的状況の重要性を論じていた。この著書の中でモルゲンシュテルンは、経済主体が他の主体の決定を反映していない「死んだ」変数とそうでない「生きた」変数の二種類の変数に直面していることを明らかにし、現実の経済にとって後者がより重要であること、さらに従来の経済理論が「死んだ」変数しか扱えないことなどを指摘していた[248]。さらに、モルゲンシュテルンは1935年に発表した論文「完全予見と経済均衡(独: "Volkkommence Voraussicht und Wirtschsftliches Gleichgewicht")」で当時の思想界から高い評価を受けたが、それをカール・メンガーの主催するコロキアムで報告した際に数学者チェクからモルゲンシュテルンの扱っている問題がフォン・ノイマンの「社会的ゲームについて」で扱われている問題と同じであることを教えてもらった[249]。当時、モルゲンシュテルンはウィーン景気循環研究所の所長であり、現実経済の研究で忙しくゲーム理論の研究には取り組めていなかったが[249]、1938年のナチス侵攻が原因で研究所所長を解雇されるとモルゲンシュテルンはフォン・ノイマンとの共同研究を期待してプリンストンに移住した[250]。モルゲンシュテルンはプリンストン大学に赴任した1939年2月1日には同僚のフォン・ノイマンやニールス・ボーアと数時間に渡ってゲームや実験に関する議論をした[251][252]。やがてモルゲンシュテルンは経済学への応用を念頭にゲーム理論を体系化した論文の草稿「ゲームの理論と経済行動」をフォン・ノイマンに見せるが、フォン・ノイマンは「短すぎてわかりにくい」とコメントし、「この論文を共同で書こう」と提案してきたという[253]。1940年の秋頃、フォン・ノイマンはこの論文は雑誌論文としては長すぎるので分割して発表しようと提案したが、執筆する内にますます文量が増え、独立した100頁の書籍として出版することがプリンストン大学出版局との間で契約された[254]。執筆途中にモルゲンシュテルンがボレルの編著『確率の計算とその応用』(1938年)に収められたジェーン・ヴィルの論文「ゲームの一般理論とプレイヤーの技能について」を偶然読んだことが契機となり、ブラウワーの不動点定理ではなく凸集合の分離定理を用いること着想し、プリンストン高等研究所におけるフォン・ノイマンの部下であった角谷静夫に補題を証明させ、それを用いてミニマックス定理を証明した[213]。このとき角谷によって証明された補題は「角谷の不動点定理」として知られている。1942年のクリスマスにフォン・ノイマンが軍事出張のワシントンからプリンストンに帰った際に最後の数頁が書き終わり、1943年1月1日に序文が書かれ、予定の100頁をはるかに超える1200頁の大著『ゲームの理論と経済行動』(英: Theory of Games and Economic Behavior、略称: TGEB[233])が完成した[255][256][† 52]。この大著は角谷静夫の校正を経て1944年1月18日に出版された[258]。フォン・ノイマンが著者名の掲載順を通例に従いアルファベット順にしようと提案していたが、モルゲンシュテルンはそれを拒否したため、von Neumann and Oskar Morgenstern という掲載順で出版に至った[259]。
『ゲームの理論と経済行動』においてフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンは、まず、2人ゼロ和ゲームを展開形ゲームと戦略形ゲームによって表現し、このゲームにおける2人のプレイヤーそれぞれの最適な行動であるミニマックス行動を与え、その存在を示した(ミニマックス定理)[260]。さらに、2人のプレイヤーの利害が完全には対立しない2人非ゼロ和ゲームを考え、3人以上のプレイヤーからなるゲームについてはプレイヤー間で話し合いが行われ協力行動が起こると考えその表現形式として提携形ゲームを定義し、協力ゲームの解概念である安定集合を定義・分析した[260]。本書後半では安定集合を用いた市場分析などの経済学へのゲーム理論の応用が論じられた[260]。
1944年に出版された『ゲームの理論と経済行動』に対する反響は大きく、以下のような書評が寄せられている[233]。ハーバート・サイモン(1978年ノーベル賞受賞)は「社会理論を数学的に扱うことの必要性を確信している社会科学者たちを—まだ考えを変えていないがその点に対する説得には耳を傾けようとしている社会科学者と同様に—『ゲームの理論と経済行動』を修得するという仕事にとりかかること」を勧めた[261]。サイモンは彼自身が構想していた研究をフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンによって先んずられてしまうのではないかと不安であり、1944年のクリスマス休暇のほとんどを『ゲームの理論と経済行動』を読むことに費やしたという[233]。レオニード・ハーヴィッツ(2009年ノーベル賞受賞)は「著者たちが経済学の問題の処理に用いた手法は十分な一般性を持っており、政治科学にも、社会学にも、また軍事戦略にも用いることができる」とし、「本書のようなすばらしい書が出版されることはめったにないことである」と賞賛した[262][263]。ミシガン大学教授の数学者アーサー・コープランドは「後世の人々は、本書を20世紀前半における主要な業績として評価する」と称賛した[264]。シカゴ大学教授のジャコブ・マルシャックは「この書の注意深く厳密な精神」を賞賛し、「このような書籍は10冊以上出るだろうし、経済学の進歩は確かである」と語った[265][266]。これらの他にも、当時の権威ある様々な学術誌上に以下に引用するような書評が掲載された[267]。
人は本書のほとんどの各ページに、大胆なヴィジョン、厳密な分析および深遠な思想があるのを知り、驚嘆せざるをえない。 — American Economic Review
本書の主たる業績は、さまざまな結果を具体的に導出したというよりも、現代論理の分析用具を経済学に導入し、それによって一般的分析の威力を開陳したことにある。 — Journal of Political Economy
読者は本書を読破することによって、社会科学への応用のためのアイデアや、理論の発展のための基本的な分析用具を潤沢に獲得できるであろう。 — American Journal of Sociology
後世の史家は、この本を20世紀前半を代表する主要な科学業績のひとつとみなすかもしれない。 — American Mathematical Society Bulletin
1947年には第2版が出版され、初版の第3章では論文誌に発表すると予告されていた付録が加えられた[268]。この付録によって初めてフォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用関数が明確に定義され、期待効用理論が誕生した[269][259]。なお、第2版の付録には産業の立地理論への応用や4人以上のゲームの問題などに関する付録も予定されていたが、著者らの多忙により断念された[268]。1953年に出版された第3版と第2版との違いは誤植の訂正だけであり[270]、現在では1947年に出版された第2版が定版とされている[271]。
ベルヌーイが1738年に提唱した期待効用原理は当初からさまざまな批判に遭い長らく受け入れられなかった[† 53]、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンがベルヌーイの思想を期待効用原理として公理化したことによって学界からも広く受け入れられることとなった[276]。『ゲームの理論と経済行動』はその構成からも分かるように[† 54] 公理論的なアプローチを採用している。彼らは経済学に初めて公理論的なアプローチを取り入れたと言われており、その方法・構成・表現は後のゲーム理論研究の模範として踏襲されていった[278]。
1950年代
第二次世界大戦終了後、ジョン・フォン・ノイマンがゲーム理論の講義を担当していたプリンストン大学には若い優秀な学生が集まっており、その一人がジョン・ナッシュ(1994年ノーベル賞受賞)であった。ナッシュは1950年に発表した論文の中で初めて非協力ゲームを定義し、非協力n人ゲームの均衡点(ナッシュ均衡)の存在を証明した[280]。ただし、非協力ゲーム(英: non-cooperative game)という言葉が登場したのはナッシュの博士論文でもあるNash 1951が初めてであった。フォン・ノイマンは非協力ゲームよりも協力ゲームの方が社会的に重要であると考えていたが、ナッシュ均衡がCournot 1838によって分析された寡占市場均衡の一般化であることを理解して初めてナッシュ均衡の概念を受け入れたと言われている[281]。
またナッシュはフォン・ノイマンらの『ゲームの理論と経済行動』において全く論じられていなかった「交渉と妥協点」の理論を構築した(ナッシュの交渉解)(Nash 1953)。このナッシュの研究手法は「公理論的アプローチ」と呼ばれる後のゲーム理論研究の手法の先駆けである[282]。さらにNash 1953の交渉理論は「非協力ゲームの状況からいかにしてプレイヤーが協力ゲームの状況へ移行するか」という問題を提起しており、この問題は「ナッシュ・プログラム」と呼ばれる重要テーマとして現在も研究が続いている[40][282]。
1950年代には米国サンタモニカのランド研究所がプリンストン大学と並ぶゲーム理論の国際的な研究拠点であった。当時のランド研究所にはフォン・ノイマン、モルゲンシュテルン、シャープレー、ミルナー、ナッシュなどが在籍しており、様々な研究が行われていた。特に、囚人のジレンマ実験や協力ゲーム実験などの実験経済学の先駆的研究は有名である[284]。なお、数学者ミルナーはランド研究所における実験がゲーム理論の結果に合わなかったことを理由にゲーム理論の研究を辞めてしまったと言われている[285]。しかし、この「囚人のジレンマ」実験による理論の反証は「実験が同じ2人のプレイヤーの繰り返しによって行われるからであり、それは1回限りのゲームとは異なる状況である」と解釈され、1950年代末には「囚人のジレンマ」型ゲームでも無限回繰り返すことによってパレート効率的な均衡があり得ることが知られるようになった。この定理は誰が最初に証明したのか定かでないため、「フォーク定理(民間伝承定理)」と呼ばれている[286]。1953年には「プリンストン赤本シリーズ」として『ゲーム理論論文集第2巻』がハロルド・クーンとアルバート・タッカーによって編纂・刊行された。この論文集の中で、ロイド・シャープレーがフォン・ノイマンの1928年の研究をn 人協力ゲームに拡張し、シャープレー値と呼ばれる概念の存在を証明している。また、クーンはこの論文集の中で、行動戦略や完全記憶などの概念を導入し今日「展開型ゲーム」と呼ばれる理論の基礎を築いている。さらに、デイヴィッド・ゲールは戦略集合が無限の場合に「ツェルメロの定理」が成り立たないことを証明した[287]。
1953年にGilliesの学位論文の中で初めて登場したコアの概念はタッカーらの編著『ゲーム理論論文集第4巻』(1959年)の中で特集されて初めて学界に認められるようになった。この論文集の中でマーティン・シュービックが一般均衡理論における契約曲線が協力ゲームのコアであることを示しており、これ以来、経済学におけるコアの重要性が認識されるようになった[288]。
教育界では1952年に MacKinsey が Introduction to the Theory of Games という教科書を出版しており、学生でも容易にゲーム理論を学習することのできる環境が整備された。ただしこの教科書の大部分はゼロ和二人ゲームであり、協力ゲームについての解説は少なく、非協力ゲームに関しては懐疑的な記述が見られる[289]。日本においては興津洋一による翻訳が1961年に出版されている[290]。
1960年代
1961年10月4日から10月6日までの三日間、モルゲンシュテルンとタッカーを中心にプリンストン大学でゲーム理論のコンファレンスが行われた[291]。このコンファレンスにおいてシャープレーとスカーフがプレイヤー集合が無限の場合の研究報告したことが契機となり、コアに関する極限定理の研究が1960年代のゲーム理論の中心テーマとなった[292]。これは従来の経済学(一般均衡理論)とゲーム理論の関係性を巡る研究である[293]。ドブルーとスカーフは1963年に共著論文を発表し、生産を伴う経済において経済主体を無限に増やせばコアが競争均衡へ収束するという極限定理を証明した[169]。また、ロバート・オーマンの1964年と1966年の論文により、協力ゲームにおいて経済主体が無限に存在すれば一般均衡理論における市場均衡が存在することが明らかとなった[293]。ゲーム理論の研究が一般均衡理論に新たな展望をもたらし、その研究に大きな転換を招き、より具体的な要素を含む体系の考察を促し、従来の一般均衡理論がゲーム理論の特殊ケースと見なされるようになったことで、ゲーム理論は本格的に一般の経済学者からも受け入れられるようになった[294]。
また、ロバート・オーマン(2005年ノーベル賞受賞)とMaschlerは1961年のコンファレンスにおいて「交渉集合」という協力ゲームの新しい解概念を提案しており、Davis and Maschler 1965の「カーネル」やSchmeidler 1969による仁(英: nucleolus)などの新しい解概念が生まれる契機となった[295]。このコンファレンスで出会ったジョン・ハーサニとラインハルト・ゼルテンによって交渉問題の研究は飛躍的に進歩し、それらの業績によりハーサニとゼルテンは1994年にノーベル賞を受賞している[296]。
1960年代にはジェームズ・ブキャナン(1986年ノーベル賞受賞)を中心としたシカゴ・ヴァージニア学派によって「公共選択論」と呼ばれる分野が誕生した。彼らはゲーム理論を基礎として政党、官僚、投票者などの政治的プレイヤーを分析した[297]。
この他にも1960年代には米ソ間の軍縮交渉が行われていた時代背景から米国政府がモルゲンシュテルンが当時在籍していたMathematica研究所に関連研究を委託したため、動学ゲームの研究が急速に発展した。1966年から1968年の間、モルゲンシュテルンによってクーン、オーマン、マッシラー、スターンズ、ハルサニ、ゼルテン、デブリュー、スカーフ、メイベリらが招集され、不完備情報下における繰り返しゲームが盛んに研究された[298]。また、繰り返しゲーム以外でもルーファス・アイザックスの一連の研究によって「微分ゲーム」と呼ばれる新しい分野が誕生している(それら研究はIsaacs 1965にまとめられている)。微分ゲームは制御工学関連の人々を中心に盛んに研究されている[299]。
1970年代
1970年代にはジョージ・アカロフによる中古車市場の逆選択の分析やマイケル・スペンスによる労働市場におけるシグナリングの分析によって「情報の経済学」と呼ばれる分野が誕生した。当初これらのトピックはゲーム理論に直接結び付いたものではなかったが、ゲーム理論は情報の経済学に格好な言語を提供し、その発展の原動力となった。例えば、シグナリングゲームにおいて複数の均衡が存在することが知られているが、ゲーム理論は均衡選択の問題に本質的な役割を果たしている。情報の経済学は今日でも経済学の中心的話題のひとつであり、アカロフやスペンスらは2001年にノーベル賞を受賞している[11]。
1971年にはモルゲンシュテルンの尽力によって初のゲーム理論専門誌 International Journal of Game Theory が発刊され、ゲーム理論が一つの専門分野として国際的に認知されるようになった[300]。1970年代のゲーム理論研究は展開形非協力ゲームへの関心が高く、1967年に発表されたゼルテンの論文で提唱された不完備情報ゲームの研究が進められた。1974年9月2日から17日間に渡って開かれたゼルテン主催のゲーム理論ワークショップで初めてチェーンストア・パラドックスが報告され、それ以来部分ゲーム完全均衡、限定合理性、展開形ゲームの戦略形への変換などといったテーマが盛んに研究されるようになった[301]。
ハルサニとゼルテンはゲーム理論を経済学の市場理論だけでなく生物学、政治学、哲学、倫理学、論理学などさまざまな分野への応用を試みており、この頃からゲーム理論が広範な分野へ応用されるようになった。例えば、1978年6月13日から6月16日までの四日間に渡ってウィーン高等研究所で開催されたコンファレンスにおいて浜田宏一が国際金融制度と金融政策について二段階ゲームを用いて分析した研究を報告している[302][303]。
政治学への応用としてはニューヨーク大学の政治学教授スティーブン・ブラームスが、国際関係論や投票理論に関する Game Theory and Politics (1975年)、政治におけるさまざまなパラドックスを研究したParadoxes in Politics (1976年) などの著書を刊行しており、1977年には「ゲーム理論と政治学」と題したシンポジウムが米国マサチューセッツで開かれている[304]。1979年には「紛争についてのコンファレンス」がニューヨークで開かれ、シュービックによる非協力ゲームの応用研究などが報告されている[305]。これらコンファレンスにはハルサニ、ルーカス 、ロス (2012年ノーベル賞受賞)、シュービックといったゲーム理論家も多く参加した[306]。
哲学分野では、1971年に出版された哲学者ジョン・ロールズの著書『正義論』がミニマックス原理などのゲーム理論の影響を強く受けており、ハルサニを中心とするゲーム理論の専門家からは強く批判されることとなった[307]。1970年代にハルサニはゲーム理論的見地に基づいた功利主義倫理学の研究を多く残している[308][309][310]。ロールズによれば原初状態の概念を用いると平等主義的な分配に行き着くという。一方、ハルサニはロールズと同じころ独自に原初状態の概念を提案し、それが平等主義的ではなく功利主義的な分配をもたらすことを主張した[311]。ロールズもハルサニも外部強制機関の存在を仮定するが、そう仮定した場合はハルサニの功利主義が妥当であり、ロールズの平等主義は誤りであるとゲーム理論家は考える。ただしロールズ自身の仮定から離れて外部強制機関が存在しない場合を考えると結論が逆転する。その場合、功利主義は適切でなくなり、ロールズ流の平等主義が妥当になる[312]。
生物学の分野では、イギリスの生物学者ジョン・メイナード・スミスが進化ゲームと呼ばれる分野を創始し、進化生物学がゲーム理論によって分析されるようになった[313]。1950年代末にランド研究所の実験によって合理性を前提としない限定合理性の理論への関心は存在していたが、従来のゲーム理論の枠組みでは合理性の前提を緩めることは難しかった。しかし、生物学の中から誕生した進化ゲームが経済学に応用されることによって限定合理性を研究する機運が1980年代以降高まっていくこととなる[314][315]。
1980年代
ゲーム理論が誕生した1940年代当初には、経済学界内外からのゲーム理論に対する期待は異常に高かったものの、1960年代や1970年代前半までに学界からのゲーム理論への関心は薄まっていた[267]。しかし、1980年代に入るとゲーム理論は一般的な分析手法として広く認められるようになり、適用される分野が飛躍的に拡大した。1980年にドイツのボンとハーゲンにおいて開催されたゲーム理論セミナー以降は特に非協力ゲーム理論の研究が進展し、相対的に経済分析への応用における協力ゲーム理論の重要性はかなりの程度低下し、中には協力ゲームなどは無意味だという経済学者も現れたという[316][42]。
1981年に出版されたニューヨーク大学ショッター教授の著書 The Economic Theory of Social Institutions を皮切りに、ゲーム理論を用いた社会制度の研究が盛んに行われるようになる。スタンフォード大学の青木昌彦教授は The Co-operative Game Theory of The Firm (1984年) においてゲーム理論を応用した「比較制度分析」と呼ばれる分析手法を確立した[317]。さらに、ダグラス・ノース(1993年ノーベル賞受賞)らを中心として制度をゲームのルールとみなした経済史研究も行われるようになった(新経済史学派)。
1984年に発表されたロバート・アクセルロッドの研究[318]を契機にシミュレーションを用いた繰り返しゲームの研究が流行した。アクセルロッドはコンピュータプログラムで書かれた「囚人のジレンマ」ゲームの戦略を公募してそれらをトーナメント形式で戦わせたところ優勝した「しっぺ返し戦略 (英: tit-for-tat strategy)[† 55]」が善良・報復・寛容・明快を兼ね備えており人間の協力全般にとって適切なパラダイムである、と主張した[320]。これ以降、「さまざまな戦略をコンピュータ上で戦わせどれが生き残るかをシミュレーションする」という一群の研究が進化生物学、社会学、政治学、コンピュータ科学などで行われるようになった[321]。しかし、アクセルロッドの研究は非常に具体的な設定の下で一つの経験則を得たに過ぎず理論的な根拠が全く示されていないため、理論経済学者やゲーム理論家からの評判は芳しくなかったという[321]。例えば、数学者兼経済学者のケン・ビンモアはAxelrod 1984の書評においてアクセルロッドの分析や主張がゲーム理論に対する無理解に基づいているとして批判している[320]。また、「しっぺ返し戦略」は進化ゲーム理論における進化的に安定な戦略(英: evolutionary stable strategy)の基準を満たしていないため、長期的にはこうした戦略は生存不可能な可能性が高いことが明らかになっている[322][323]。「しっぺ返し戦略」がアクセルロッドのコンピュータ・シミュレーション・トーナメントで優勝できたのは、それに参加したプログラムの種類が限定されていたからに過ぎないのである[324]。さらに、プレイヤーの行動の計算コストを課すことによって限定合理性をモデル化すると、アクセルロッドのコンピュータ・シミュレーション・トーナメントの枠組みにおいてすら「しっぺ返し戦略」が最適戦略でなくなる場合があることが示されている[325]。
1980年代中頃からは、環境問題のゲーム理論による研究も盛んになり、それら研究は Valuation Method and Policy Making in Environmental Economics (1989年) やGame Theory and the Environment (1998年) といった論文集にまとめられている[326]。
経営学の分野では1981年に Competitive Strategies: An Advanced Textbook in Game Theory for Buisiness Studies という教科書が出版されて以来[327]、積極的にゲーム理論が研究に応用されるようになった。また、1980年代にはジャン・ティロル (2014年ノーベル賞受賞) によってゲーム理論が産業組織論に応用されるようになり、ゲーム理論の教育や研究を行う経営学や商学関連の研究者も増えてきた。これらの分野は「企業経済学」、「組織の経済学」等と呼ばれることもある[328]。
会計学の分野ではシャープレー値や仁などの解概念が費用分担問題に用いられるようになった[328]。
政治学の分野では1980年代後半から公共選択論に最新の非協力ゲームが応用されたことによりめざましい学術的成果を生み出し、現実の政策形成に一定の説明力を発揮するようになった[329]。
1980年代に非協力ゲームが急速に発展し、協力ゲームを中心とした従来のゲーム理論が扱うことのできなかった経済学、政治学、オペレーションズ・リサーチ、哲学、社会学、心理学、生物学といったさまざまな分野に非協力ゲーム理論が応用されるようになり、ゲーム理論の学際的な基礎理論として重要性が一層多くの研究者に認識されるようになった。こうしたゲーム理論の発展を背景として、1987年10月1日から1988年8月31日までの期間、西ドイツBielefeld大学のZentrum für interdisziplinäre Forschungにおいて学際研究プロジェクト「行動科学におけるゲーム理論」が開催された[34]。このプロジェクトはボン大学のゼルテンを中心に企画され、西ドイツ、ベルギー、イギリス、イタリア、スイス、オーストリア、イスラエル、アメリカ、カナダ、日本などから約50名の研究者が招聘され、非協力ゲームによってさまざまな分野が学際的に研究された[34]。
1990年代
1990年代になると、行動の進化や学習の研究のほかに、理論を実験によって検証し実証データに基づく新しい行動理論に構築を目指す行動ゲーム理論 (英: behavioral game theory) の分野が誕生した[314]。ゲームの実験研究の目的は単に理論の検定だけでなく、理論と観察の不一致の原因と考えられる人間の動機、認知および推論の心理的要因や社会的要因を組み入れた新しいゲーム理論を構築することであり、伝統的なゲーム理論の分析では不十分であった現実の人間行動に関する重要な特性が明らかになっていった[330]。
1990年代には、進化ゲームや行動ゲームのように限定合理的な経済主体の意思決定の理論の他にも、「合理的な意思決定者が限られた情報の下でどのように行動するか」という問題にも大きな関心が寄せられた。繰り返しゲームの分野では他のプレイヤーの行動を完全に知ることができないようなケース、すなわち不完全モニタリング(英: imperfect monitoring)を持つ繰り返しゲームの研究が精力的に行われた[331]。
これらの他にも、1990年代には不完備契約の理論が盛んに研究された。これら一群の研究は Review of Economic Studies の66巻(1999年)で特集されている。不完備契約の研究はGrossman & Hart 1986とHart & Moore 1988にその起源を持ち、不完備契約理論を金融契約に応用した Aghion & Bolton 1992、不完備契約下での配分問題を考察した Maskin & Tirole 1999、再交渉がある場合の不完備契約を考察した Segal 1999 と Hart & Moore 1999 などが重要である[332][333]。不完備契約は完備契約よりも現実に即したモデルであり、不完備契約理論の発展によってより複雑な所有権、組織、法律、制度などが分析できるようになった。
1999年1月1日にはGame Theory Societyというゲーム理論を専門とした史上初の国際学会が発足し、日本からは奥野正寛東京大学教授が executive committee として参加した。当学会は International Journal of Game Theory および Games and Economic Behavior というゲーム理論研究の学術誌を発行している[334]。
2000年代
2000年代には、直接モデル化された経済主体の行動や組織の内部構造に対してデータから因果的な情報を引き出す構造推定(英: structural estimation)と呼ばれる手法を用いた実証研究が流行した。この背景には、単に匿名化された公的ミクロデータが研究者にとって容易にアクセス可能になったことや統計解析ソフトが普及したことだけでなく、1970年代以降にゲーム理論が産業組織論などの各分野に応用されて構築された理論的蓄積がある[11]。計量経済学においては、現在の意思決定が将来の意思決定に影響を及ぼす可能性のある動学モデルのために進展した構造推定アプローチが1990年代にゲーム理論にまで拡張された[335]。静学的ゲームの推定手法を考察したブレスナハンとレイスの一群の研究[336][337]や動学的ゲームの推定手法を考察したエリクソンとペイクの研究[338]が挙げられる。これらの研究は2000年代にさらに進展し、オークションモデル、法と経済学、政治経済学、医療経済学などさまざまな分野に構造推定アプローチが適用されている[339]。
2000年代のもうひとつの主要な展開としては、マーケットデザインへの応用が挙げられる。マーケットデザイン(英: market design)とは、20世紀に蓄積された理論的な蓄積を活かして人工的に市場(マーケット)を設計(デザイン)することによって具体的な問題を解決することを試みる研究分野である[341]。マーケットデザインの主要分野の一つがオークション理論である。1990年代半ばに米国の連邦通信委員会がそれまで比較聴聞で行っていた周波数の配分をオークションによって決定するように方針を変え、オークション理論の専門家としてポール・ミルグロムに周波数オークションの研究を依頼した[342][† 43]。米国ではたった一回のオークションで200億ドル以上もの政府収益を生み、結果として日本円にして数兆円規模の収益を上げる大成功を収め、ゲーム理論の研究が注目を浴びるようになった[343][202][344]。さらに、ケン・ビンモアらが設計に携わったイギリスの周波数オークションでは、一度に350億ドルもの政府収益が生み出された[344][† 56]。2000年代に入り周波数オークションは日本を除く先進各国で導入されており、また周波数オークションの他に、Googleの収益の大半を生み出している広告オークション[340]、金融政策に用いられる国債オークション[346]、2000年に50億ドル以上の運送契約が結ばれ話題になった物流オークション[347]、ドナーの交換によって移植可能なレシピエント数を最大化する腎臓マッチング[348]、2004年から日本でも導入された臨床研修医マッチングプログラム[349]など、さまざまな現実の問題に対してゲーム理論がマーケットデザインを通じて応用されている。
この他にも、2000年代にはさまざまな分野がゲーム理論や意思決定論に流入し、多くの学際分野が誕生している。2000年代に誕生した学際分野の例として、神経科学と経済学の学際分野である神経経済学(英: neuroeconomics)が挙げられる。2000年代前半に神経経済学が誕生した背景として、脳への外科手術を必要としない機能的磁気共鳴画像法などの技術が発展・普及したことや20世紀に心理学的な特性を活用した行動経済学が経済学において一定の成功を収めたことが挙げられる。神経経済学では、ゲーム実験などで観察されてきた利他的行動や不確実性下の意思決定などに脳のどの部位が関係しているかが分析されている[† 57]。神経経済学は、神経科学から経済学への一方通行的な応用ではなく、「神経精神医学」と呼ばれる新しい精神医学の分野の誕生・発展を促した[351]。
この他の2000年以降に進展した学際交流として、量子ゲーム理論(英: quantum game theory)がある。1998年にカリフォルニア大学サンディエゴ校の物理学者ディヴィッド・マイヤーがマイクロソフトに招待されて量子計算について講演を行った際に、量子物理学でいう「混合状態」にある多元的現実の概念をゲーム理論に導入する、というアイデアを紹介した[352]。マイヤーのこのアイデアを元にした研究論文が1999年に『フィジカル・レビュー・レターズ』上に掲載されて以降、数学者や物理学者たちが数十本の量子ゲームに関する論文を公刊しており、量子的公共財ゲームや量子情報を用いた組み合わせオークションの運営などが分析されている[353]。
日本語圏におけるゲーム理論研究
角谷静夫による貢献
『ゲームの理論と経済行動』を執筆していた1940年頃、フォン・ノイマンらは凸集合の分離定理を用いたミニマックス定理の証明を着想したが、当時の数学は彼らの要請には不十分なものであった。そこで、フォン・ノイマンは当時プリンストン高等研究所に勤務していた日本人数学者角谷静夫に凸集合を用いて一般化されたブラウワーの不動点定理を証明するよう命令し、角谷は1941年に発表した論文 "A generalization of Brouwer's fixed point theorem" においてそれを証明した[213]。
この定理は多値関数に適用するのに非常に適切な形をしており、その後今日まで多くの分野で用いられるようになり、「角谷の不動点定理」として広く知られるようになった[213]。特に、Nash 1950が n 人ゲームのナッシュ均衡の存在を証明するために角谷の不動点を用いたことは有名である[355]。また、1954年にはライオネル・マッケンジーがアロー=ドブルーとは独立に角谷の不動点定理を用いて一般均衡の存在定理を証明している[356][† 58]。 角谷は論文中で自らの不動点定理の応用例として2人ゼロ和ゲームのミニマックス定理を証明しているが、その証明において各プレイヤーが相手の混合戦略に対して最適な混合戦略を選択することが明示的に仮定されている。このことに対して、ハロルド・クーンはジョン・ナッシュの論文集の「解説」の中で「もし角谷静夫が n 人ゲームについて考察を行っていたなら、彼がナッシュ均衡の存在を示してしまっていたであろう」と評価している[357]。
1943年に『ゲームの理論と経済行動』が書き上げられると、フォン・ノイマンは角谷に校正をさせた。フォン・ノイマンは戦時中米国内の日本人は行動を制限されて捕虜のような存在だったのでそういった仕事をさせたと語った[255]。角谷は『ゲームの理論と経済行動』の原稿を読んだ最初の日本人とされる。角谷は戦後、交換船で日本に帰国し大阪大学教授に就任している[354]。
山田雄三による先鞭
一橋大学の山田雄三教授は1935年から1937年にウィーン大学に留学しておりモルゲンシュテルン、メンガー、ワルラスらと交流があったため、山田は1942年に刊行された著書『計画の経済理論』において既にモルゲンシュテルンのゲーム理論的な問題意識を紹介している[358]。1944年に『ゲームの理論と経済行動』が出版されると、山田のもとにはモルゲンシュテルンから本が送られてきた[359]。山田は1947年1月に毎日新聞社編『エコノミスト特集:最近理論経済学の展望』に「経済計画論の一課題:経済的ストラテジーの分析」と題した小論文を寄稿しており[354]、さらに1950年には、当時創刊されたばかりの『季刊理論経済学』の第1巻第2号に「ミニマックス原則の要点」という論文の中で『ゲームの理論と経済行動』の体系を紹介している[359]。これらから、山田によって日本の経済学界にゲーム理論が紹介されたとされている[359]。なお、山田の他にも統計学者の林知己夫が1947年6月にフォン・ノイマンの1928年の研究を紹介する記事を統計数理研究所講究録上に発表しているが、謄写刷で配布されただけであったため他の学者に読まれることはほとんどなかった[354]。
山田は1950年の「ミニマックス原則の要点」の後にも「価格における確定・不確定」(1951年)や「遊戯の理論における価格分析」(1952年)など、ゲーム理論に関する研究論文を発表している[360]。さらに教育者としては1947年には既に一橋大学の学部1年生に対してゼミで『ゲームの理論と経済行動』(原著)を輪読させていた[361]。しかし、オーストリア学派に連なるものとしてゲーム理論を見ていた山田は後のゲーム理論研究の進展に不満を持ち、ゲーム理論の研究を辞めてしまっている。山田は「あんまり数学的すぎてね、途中で放棄しちゃった」と語ったという[362]。
後に日本のゲーム理論研究の中心的役割を担うこととなる鈴木光男は、東北大学経済学部在学中に山田の「ミニマックス原則の要点」を読んだことを契機に、安井琢磨の指導の下、ゲーム理論について卒業論文を書くこととなった[363]。独: Gesellschaftsspieleという単語は1950年頃の独和辞典には掲載されていなかったため、鈴木によって「社会的ゲーム」と訳された[364][† 59]。
当初は多くの日本人経済学者が関心を持っていたゲーム理論であったが、1950年代の日本にとって経済成長が大きな関心の対象であり、ゲーム理論を学ぶ者は次第にほとんどいなくなってしまった。その頃日本で刊行されていた数少ないゲーム理論の書籍として宮澤光一の『ゲームの理論』(1958年)や鈴木光男の『ゲームの理論』(1959年)がある[365]。
東京工業大学における社会工学科の発足
1964年に鈴木光男がプリンストン留学から帰国し東京工業大学に就職した頃、東工大では、理工学部という単一の学部から複数の学部を作る構想が盛んに議論されており、その中に社会工学部構想があった[366]。その背景のひとつに「工学の社会化」があった[367]。すなわち、当時日本が高度工業社会になったことによって環境問題の表面化などにも見られるように社会と工学との関係がより密接になり、社会的な問題を抜きにしては工学が成り立たない状況になっているという認識があった。もうひとつの背景として「社会の工学化」が挙げられる[367]。すなわち、工学の中に社会科学や人文学を取り込むことによって、理工学が開発してきた技術によって社会問題を解決しようという機運が高まっていた。東京工業大学人文社会群に所属していた鈴木光男、永井道雄、川喜田二郎、阿部統らは各々に、「社会工学私見」等という社会工学部設立の構想を当時学長であった大山義年に提出した[† 60]。大山は社会工学部設立の構想を積極的に進め、1967年に工学部社会工学科が設立された[† 61]。設立当初より社会工学科では「計画数理」という講座を鈴木が担当しており、その講座において日本で初めてのゲーム理論の講義が行われた[370][† 62]。
1970年前後から日本でも経済学の他分野と同じようにゲーム理論の教科書が出版されるようになる[370][371]。物理学分野出身で日本における行動科学の創立メンバーである戸田正直らによる『ゲーム理論と行動理論』(1968年)、大阪大学基礎工学部の坂口実教授による『ゲームの理論』(1969年)、大阪大学工学部の西田俊夫教授による『ゲームの理論』(1973年)などがある。また鈴木光男『人間社会のゲーム理論』(1970年)のような一般向けの解説書も出版された。さらに1978年には東京図書から『ゲームの理論と経済行動』の日本語訳版が出版された。
1970年代には鈴木光男指導の下東京工業大学ではゲーム理論の研究が盛んであったものの、東京大学を始めとする総合大学の経済学部ではマルクス経済学の勢力が強く、ゲーム理論の研究や教育は皆無であった[372]。1980年代になって初めて鈴木光男門下の金子守によって東京大学にもゲーム理論が流入したとされる[† 63]。
東京工業大学を中心とした1970年代における日本人経済学者の特筆すべき貢献として、中村健二郎の研究が挙げられる。中村は鈴木光男によるゲーム理論の講義が始まった1967年に東京工業大学理学部数学科に進学し[† 64]、1969年から鈴木研究室に所属してゲーム理論の研究を始めた。中村は理学部数学科および大学院理工学研究科数学専攻に所属していたが、当時の東京工業大学には所属学科に関係なく自分の希望する研究室で研究できる制度があったため、中村は鈴木研究室の第一期生として林亜夫や中山幹夫らとともに活躍した[373]。中村は70年代の一連の論文[374][375][376]において社会的選択関数(英: social choice function)が存在するための必要十分条件が
- (1)拒否権を持つプレイヤーが一人存在するか
- (2)選択対象の要素の数が中村ナンバー未満であるか
のどちらか一つの条件が成立していることであることを証明した。この研究は1978年の米国でのゲーム理論シンポジウムで報告され、「中村の定理」と呼ばれるようになった。「中村ナンバー(英: Nakamura number)」はこの中村の報告を高く評価したPeleg 1978によって命名されたものである[377]。
中村健二郎は1979年3月29日に夭折したが(享年32歳)、中村の研究はRouch 1982、Deb, Weber & Winter 1996、Mihara 2000などの後続研究によって発展させられた[378][379]。
日本語圏におけるゲーム理論研究の興隆
東京大学や京都大学を中心とする日本国内の多くの大学の経済学部では戦後長らくマルクス経済学の研究・教育が積極的になされていたが、(1)高度成長を経験し資本主義に対する肯定的評価が普及した、(2)マルクス経済学内部で宇野派と非宇野派の対立が顕在化した、(3)非マルクス経済学の分野で森嶋通夫など国際的に活躍する日本人経済学者が現れた、(4)ソ連や東欧などの共産主義諸国が崩壊し多くのマルクス経済学者は「マルクス経済学」の看板を下ろし学生もマルクス経済学を敬遠した、(5)米国でPh.D.を取得した優秀な非マルクス経済学者たちが帰国した、等の理由から、東京大学経済学部では1980年代にはマルクス経済学の勢力が弱まり、近代経済学(非マルクス経済学)が主流となり、近代経済学としてゲーム理論が教育・研究されるようになった[380][372]。
1988年秋には、京都大学で開催された理論計量経済学会(現在の日本経済学会の前身)研究大会において「情報の経済学とゲーム理論」というタイトルの研究セッションが開かれた。これが「ゲーム理論」という名がついた最初の研究セッションであったと言われている[381]。1960年代より東京工業大学内部で細々とゲーム理論の普及活動に努めていた鈴木光男は、病床でこのセッションについて聞かされ、当時プログラム委員であった酒井泰弘に対して「生きていて良かったね」と語ったという[382]。
比較制度分析
1980年代における日本人経済学者の特筆すべき貢献として、スタンフォード大学教授青木昌彦の研究が挙げられる。青木は1980年代に発表された一群の研究において非協力ゲームの枠組みを用いて制度の多様性を分析し、比較制度分析(英: comparative institutional analysis, CIA)と呼ばれる学問領域を創始した。1980年代以降に比較制度分析が急速に発展した背景として、当時の世界経済の制度関連的な大きな変動が挙げられる。1980年代までには一般的であった「アメリカ経済の凋落と日本経済の勃興」という図式が1990年代に逆転したことによってその背景にアメリカ経済と日本経済の制度的相違が存在することが意識されるようになり、同時にいかにして複雑な経済制度を変革するべきかという問題が生じたことが挙げられる[384]。これら一群の研究は、Toward a Comparative Institutional Analysisとして2001年に出版されたが、1997年にその草稿が一部の経済学を中心にサーキィレートされており、1998年3月には国際シュンペーター学会よりシュンペーター賞を受賞している[384]。1990年には青木、ポール・ミルグロム、アブナー・グライフ、チェン・インイー、ジョン・リトバックらによってスタンフォード大学経済学部に「比較制度分析」という講座が立ち上げられ、比較制度分析研究の拠点となった。また青木は、世界銀行経済開発研究所(現在の世界銀行研究所)のプロジェクトとして「開発経済および転換経済における銀行(メインバンク)の役割[385]」、「移行経済におけるコーポレート・ガバナンス[386]」、「東アジアの経済開発における政府に役割[387]」、「経済開発における共同体と市場[388]」といったプロジェクトが行われた。これらのプロジェクトには14カ国から62人の研究者が参加している[383]。
他の制度研究と比較した際の比較制度分析の特徴として、『比較制度分析に向けて』の訳者である瀧澤弘和と谷口和弘は次の3点を挙げている[384]。すなわち、第一に、制度を共有予想の自己維持的システムとして、あくまでゲームの均衡として捉える立場であり、第二に、経済組織をインセンティブ理論のみから見るではなく情報システムとしての性格付けをも重視する観点であり、第三に、制度配置の多様性とダイナミックスを把握する上で制度的補完性のみならずゲームの連結を強調する観点である。特に、第二の観点からは、物的資産に対する所有権配置を強調する不完備契約理論の立場も相対化されることになり、シリコンバレーなどに見られるタスク間の補完性を削減することによって経済活動のより効率的な配置が実現されているような今日的現象も理解可能となる[384]。
繰り返しゲーム理論への貢献
1990年代以降に日本人経済学者が特に活躍した分野として繰り返しゲーム理論の理論が挙げられる。特に神取道宏(東京大学)が1990年代から2000年代にかけて発表した一群の研究は国際的に高く評価され[389]、サーベイ論文は繰り返しゲームを概観した標準的な資料としてノーベル賞選考委員会からも引用されている[390]。また、私的観測下(英: with private monitoring)における繰り返しゲームの均衡は完全観測や公的観測のケースに比べて均衡を発見するのが格段に難しくそれ自体が長い間有名な未解決問題として残っていたが、1998年に当時東京大学の大学院生であった関口格がそれを解決している[391]。この他にも松島斉(東京大学)がシグナルの精度が低い場合のフォーク定理を証明する等、繰り返しゲームにおいて幾つかの重要な貢献をしており国際的にも高く評価されている[331][392]。また、金子守(当時筑波大学)と松井彰彦(東京大学)は共著論文Kaneko & Matsui 1999において限定合理的なプレイヤーを仮定した繰り返しゲームへの新しいアプローチである"inductive game theory"を提唱した[393]。 均衡点選択の理論では、梶井厚志(京都大学)がモリスとの共同研究[394]によって情報頑健性というアプローチを確立し、国際的に高い評価を受けた[395]。完全均衡点はプレイヤーの合理性の微小な不完全性を想定するが、プレイヤーの知識の不完全性は考慮しない。これに対し、梶井らによる頑健均衡はプレイヤーのもつ知識構造のわずかな不完全性に対して安定な均衡である。Kajii & Morris 1997はリスク支配と関連するp-支配均衡の概念を提示し、p-支配均衡が情報頑健性を満たすことを証明した[396]。
ゲーム理論ワークショップの定例化
2004年3月8日から3月10日までの三日間、京都大学経済研究所のゲーム理論グループ(岡田章、今井晴雄、梶井厚志、関口格)を主宰として第一回ゲーム理論ワークショップが開催された。2004年以降、ゲーム理論ワークショップは日本国内の大学[† 65]で毎年3月に三日間に渡って開催されることが定例化している[398][397]。 ゲーム理論ワークショップは2004年の初開催から岡田章が強いリーダーシップを発揮しており、開催会場も全て岡田の交渉によって決定されている。21世紀COEプログラム等の大型科研費の援助を受けたこともあるが、それらも全て岡田を代表者とする事業として採択されたものであった[398]。
特に一橋大学で開催された第二回ゲーム理論ワークショップ(2005年)に数理生物学の大家である巌佐庸(九州大学)がプログラム委員に加わったことが契機となり、それ以降生物学、政治学、計算機科学など経済学以外のさまざまな分野の研究者が参加するようになり学際交流も盛んになっている。初回の2004年には40名程度だった参加者も2015年には108名まで増加している[398]。
マーケットデザインの実用化
国際的な学界においては2000年代以降「マーケットデザイン」と呼ばれる分野が急速に発達し、20世紀に蓄積したゲーム理論の知見が現実のさまざまな問題を解決するための制度設計として実用化されていったが、日本では各分野において実用化に対して消極的であり、先進諸国に比較しても導入が遅れている[399]。中でも特に、通信事業の免許を販売する周波数オークションは多くの国で既に導入されて数兆円規模の収益を上げているが、日本では未だに導入されていない[202]。日本において周波数オークションが導入されない理由として、池田信夫はテレビ局や携帯電話会社と総務省官僚の癒着を挙げている[206]。
また、ドナー・レシピエント間のABO式血液型不適合、リンパ球クロスマッチ陽性、HLAの完全不適合などが存在する場合にドナーを交換することによってこれらの問題を解決して相互の移植を実現することを目的としたドナー交換腎移植が米国や韓国などで既に導入されているが、日本移植学会は「しかし、ドナー交換腎移植は医学的・倫理的に大きな問題を含むものであり、個別の事例として各施設の倫理審査のもとに行われるべきものである。したがって、ドナー交換ネットワークなどの『社会的なシステム』によりドナー交換腎移植を推進すべきものではない。」という否定的な見解を示しており、日本ではドナー交換腎移植が行われていない[400]。
日本で実用化された数少ない分野のひとつとして研修医マッチングが挙げられる。アメリカで大きな成功を収めていた受入保留方式(英: deferred acceptance algorithm)を用いた研修医マッチングが2004年度から日本においても導入された[401]。導入当初は研修医の希望を尊重して配属病院を決定するマッチング方式が医師の地方偏在を悪化させてしまうという問題が指摘されたが、鎌田雄一郎と小島武仁の研究によって理論的な解決策が示されている[399]。
略年表
年号 | 出来事 |
---|---|
1710年 |
ドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツがAnnortatio de quibusdam ludisを刊行[226]。相手の戦略が問題となるゲームを初めて論じた。 |
1713年 | イギリスのWaldegraveがPierre Remond de Montmortへの書簡でゼロ和二人ゲームのミニマックス解を論じる[233]。 |
1738年 | スイスの数学者ベルヌーイの論文「くじの計算に関する新理論」がサンクトペテルブルクの学術誌に掲載される。「サンクトペテルブルクのパラドックス」が指摘され、期待効用概念の重要性が示唆された[402]。 |
1739年 | イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームが著書『人性論』を刊行する。「共有地の悲劇」が示唆される[403]。 |
1759年 | イギリスの哲学者アダム・スミスが『道徳情操論』(英: The Theory of Moral Sentiments)を刊行する。第6部において「人間社会のゲーム」が論じられた。 |
1838年 | フランスの経済学者アントワーヌ・オーギュスタン・クールノーが『富の理論の数学的原理に関する研究』(仏: Recherches sur les principes mathématiques de la théorie des richesses)を刊行[235]。寡占市場を数学的に分析した(クールノー・ゲーム)。 |
1883年 | フランスの数学者ヨセフ・ベルトランが論文 "Théorie Mathématique de la Richesse Sociale" を発表。寡占市場における価格競争を分析した(ベルトラン・ゲーム)[238]。 |
1913年 | ドイツの数学者エルンスト・ツェルメロが「チェスの理論への集合論の応用について」(独: Uber eine Anwendung der Mengenlehre auf die Theorie des Schachspiels) を発表[239]。「ツェルメロの定理」を証明した。 |
1917年 | ドイツの哲学者ゲオルク・ジンメルが『社会学の根本問題』(独: Grundfragen der Soziologie)を刊行。「社会化のゲーム形式」が論じられる。 |
1921年 | フランスの数学者エミール・ボレルが「ゲームの理論と歪対称核を持つ積分方程式」(仏: "La théorie du jeu et les équations intégrales à noyau symétrique gauche")を発表。 |
1924年 | ボレルが「偶然とプレイヤーの能力を含むゲームについて(仏: "Sur les jeux où interviennent le hasard et l'habileté des joueurs")」を発表。Waldegraveが扱った問題を分析した。 |
1927年 | メンガーが「価値理論における不確実要素、いわゆるペテルブルクゲームとの連関における考察」というタイトルの口頭発表をする。ベルヌーイの提唱した期待効用原理を公理化する必要性を主張[404]。 ボレルが「歪対称行列式の線形体系とゲームの一般理論」(仏: "Sur les systèmes de formes linéaires à determinant symétrique gauche et la théorie du jeu")を発表。 |
1928年 | オーストリア学派の経済学者オスカー・モルゲンシュテルン が『経済予見ー仮定とその可能性についての考察』(独: Eine untersuchung ihre Voraussetzungen und Moglichkeiten)を刊行。経済学におけるゲーム的状況の重要性を論じた。 ハンガリーの数学者ジョン・フォン・ノイマンが「社会的ゲームについて(独: "Zur Theorie der Gesellschaftsspiele")を刊行。これを以てゲーム理論が誕生したとする見方もある[16]。 |
1930年 | ナチスから米国へと逃れて来る研究者のためにプリンストン高等研究所が設立される。アインシュタイン、フェルミ、ワイルらと共にフォン・ノイマンもここに迎えられた[405]。 |
1931年 | フォン・ノイマンがプリンストン大学数理物理学教授に就任。 |
1934年 | モルゲンシュテルンが『経済学の限界』(独: Die Grenzen dernWirtchaftspolitik)を刊行。 |
1935年 | モルゲンシュテルンが「完全予見と経済均衡」(独: "Volkkommence Voraussicht und Wirtschsftliches Gleichgewicht")を刊行。 |
1937年 | フォン・ノイマンが「経済学の方程式体系とブラウワーの不動点定理の一般化」(独: "Uber ein okonomisches Gleichingssystem und eine Verallgemeinerung des Brouwerschen Fixpunktsatzes")を発表。 |
1938年 | ナチスの侵攻によりモルゲンシュテルンは景気循環研究所所長を解雇される。フォン・ノイマンとの共同研究を期待してプリンストンに渡る[250]。 |
1940年 | フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの共同研究が始まる[254]。 |
1942年 | 山田雄三が著書『計画の経済理論』を刊行。オーストリア学派のゲーム理論的な問題意識が日本にも紹介された[358]。 |
1944年 | フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンによる大著『ゲームの理論と経済行動』(英: Theory of Games and Economic Behavior)がプリンストン大学出版局より出版される。この年にゲーム理論が誕生したとされる。 |
1947年 | 『ゲームの理論と経済行動』の第2版が出版される。期待効用理論を初めて体系的に解説した付録が加えられており、以後、この第2版が定版とされる。フォン・ノイマンはこの年に大統領賞を受けた[271]。 山田雄三が毎日新聞社『エコノミスト特集:最近理論経済学の展望』上に「経済計画論の一課題:経済的ストラテジーの分析」を発表。 |
1950年 | ナッシュが論文"Equilibrium Points in n-Person Games"を刊行。非協力ゲームにおけるナッシュ均衡が定義され、一般のケースにおけるナッシュ均衡の存在が証明された。 ナッシュが論文 "The Bargaining Problem" を刊行。交渉問題に先鞭がつけられる。 |
1951年 | アローが『社会的選択と個人的評価』(英: Social Choice and Individual Values)を刊行。社会選択理論が創始される。 ナッシュが論文 "Non-cooperative Games" を発表。協力ゲームと非協力ゲームの区別がされる。 |
1952年 | McKinseyによる初の学習書『ゲーム理論入門』(英: Introduction to the Theory of Games)が出版される。 山田雄三が論文「遊戯の理論における価格分析」を発表[360]。 |
1953年 | クーンとタッカーによる編著書Contributions to the Theory of Games vol. 2が出版。所収のクーン論文において「展開形ゲーム」が誕生する。 ナッシュが論文 "Two-Person Cooperative Games" を発表。「ナッシュ・プログラム」が提起される。 |
1954年 | アローとドブルーが共著論文 "Existence of an Equilibrium for a competitive Economy" を発表。ナッシュ均衡の存在定理が一般均衡理論に応用される。 |
1955年 | サイモンが論文 "A behavioral model of rational choice" を発表。限定合理性の議論に先鞭がつけられる。 Braithwaite が著書 Theory of Games as a Tool for the Moral Philosopher を刊行。ゲーム理論の哲学分野への応用が進められる。 |
1957年 | 2月8日、フォン・ノイマン死去。享年53歳。 サイモンが著書 Models of Man: Social and Rational を刊行。 |
1958年 | ロールズが論文 "Justice as Fairness" を発表。 宮沢光一が『ゲームの理論』を出版。日本初のゲーム理論の教科書であった。 |
1959年 | ルースとタッカーの編著書 Contributions to the Theory of Games vol. 4 の中で Gillies によって提唱されたコアの概念が特集される[287]。 |
1960年 | シェリングが著書 The Strategy of Conflict を刊行。 オーマンが論文 "von Neumann-Morgenstern solutions to cooperative games without side payment" を発表。 |
1961年 | オーマンが論文 "The core of a cooperative games without side payment" を発表。 ハルサニが論文 "Rationality postulates for bargaining solutions in cooperative and in non-cooperative games" を発表。 |
1962年 | シャープレーとゲールが共著論文 "College admissions and the stability of marriage" を発表。マッチング理論(英: matching theory)誕生する。 ブキャナンとタロックが共著書 The Calculus of Consent: Logical Foundation of Constitutional Democracy を刊行。公共選択論(英: social choice theory)が誕生。 |
1963年 | ドブルーとスカーフが共著論文 "A limit theorem on the core of an economy" を発表。生産を伴う経済のコアが競争均衡へ収束するという極限定理を証明する。 ハルサニが論文 "A simplified bargaining model for the n-person cooperative games" を発表。 |
1964年 | オーマンが論文 "Markets with a continuum of traders" 発表。 シャープレーとタッカーによる編著書 Advances in Game Theory が出版される。 |
1965年 | デーヴィスとマシュラーが共著論文 "The kernel of a cooperative game" を発表。協力ゲームの解概念としてカーネル(英: kernel)が提唱される。 アイザックが著書 Differential Games: A Mathematical Theory with Applications to Warfare and Pursuit, Control and Optimization を刊行。微分ゲーム理論(英: differential game theory)が誕生。 |
1967年 | ハルサニが論文 "Games with incomplete information played by "Bayesian" players" を発表。 東京工業大学に社会工学科が発足し、鈴木光男によるゲーム理論の講義「計画数理」が開講される。鈴木による編著書『ゲーム理論の展開』が刊行される。 |
1968年 | ハーディンが論文 "The Tragedy of the Commons" を発表。Hume 1739が示唆した共有地問題が「共有地の悲劇」として定式化される[234]。 ハルサニが論文 "Games with incomplete information played by "Bayesian" players" の "Part II" と "Part III" を発表する。 |
1969年 | Farquharson が著書 Theory of Voting を発表。投票者行動が分析される。 シュマイドラーが論文 "The nucleolus of a characteristic function game" を発表。協力ゲームの解概念として仁(英: nucleolus)が提唱される。 |
1970年 | アカロフが論文 "The market of lemons: quality uncertainty and the market mechanism" を発表。逆選択(英: adverse selection)の発見。 |
1971年 | 初のゲーム理論専門誌 International Journal of Game Theory が発刊される。 ロールズが著書 A Theory of Justice を刊行。 |
1973年 | ゼルテンが論文 "A simple model of imperfect competition, where 4 are few and 6 are many" を発表。 日本では鈴木光男による編著書『ゲーム理論の展開』が出版される。 |
1974年 | 9月に16日間に渡って International Workshop on Basic Problem of Game Theory at Bad Salzufeln by Bielefeld University が開催される。 |
1975年 | ブラームスが著書 Game Theory and Politics を刊行。 ハルサニが論文 "Can the maximin principle serve as a basis for morality?" を発表。 |
1976年 | 東京工業大学理学部で鈴木光男により「ゲーム理論」という授業名の講義が始まる。 ハルサニが著書 Essays on Ethics, Social Behaviour, and Scientific Explanation を刊行。 |
1977年 | 7月26日、モルゲンシュテルン死去。享年75歳。 ハルサニが著書 Rational Behavior and Bargaining Equilibrium in Games and Social Situations を刊行。 |
1978年 | 東京図書より初の『ゲームの理論と経済行動』の日本語訳版が刊行される。銀林浩、橋本和美、宮本敏雄らによる監訳。 Ordeshook による編著書 Game Theory and Political Science が刊行される。 |
1979年 | ブラームスらが編著書 Applied Game Theory を刊行[411]。 |
1980年 | ドイツのボンとハーゲンでゲーム理論セミナーが開催される。以後、研究の主流が協力ゲーム理論から非協力ゲーム理論に移行する[316]。 ブラームスが著書 Biblical Games: Game Theory and the Hebrew Bible を刊行[412]。 |
1981年 | ショッターが著書 The Economic Theory of Social Institutions を刊行。ゲーム理論を用いた制度分析に先鞭がつけられる[317]。 |
1982年 | メイナード・スミスが著書 Evolution and the Theory of Games を刊行。これにより進化ゲーム理論が広まる。 センが著書 Choice, Welfare and Measurement を刊行。1989年には『合理的な愚か者』という邦題で日本語訳版も出版されている。 |
1984年 | アクセルロッドが著書 The Evolution of Cooperation を刊行。 シュービックが著書 A Game-Theoretic Approach to Political Economy を刊行。 |
1985年 | オーマンとマシュラーが共著論文 "Game theoretic analysis of a bankruptcy problem from the Talmud" を発表。銀行の破綻処理問題にゲーム理論が応用される。 ブキャナンが論文 "Some extensions of a claim of Aumann in an axiomatic model of knowledge" を発表。 |
1986年 | グロスマンとハートが共著論文 "The costs and benefits of ownership: A theory of vertical and lateral integration" を発表。不完備契約の理論に先鞭。 Moulin が著書 Game Theory for the Social Sciences を刊行。 |
1987年 | 西ドイツBielefeld大学で10月1日から11ヶ月に渡って学際研究プロジェクト「行動科学におけるゲーム理論」が開催される[34]。 ビンモアが論文 "Modeling rational players" を刊行。 |
1988年 | ティロルが著書 The Theory of Industrial Organization を刊行。ゲーム理論が応用された「新産業組織論」の教科書。 ハルサニとゼルテンが共著書 A General Theory of Equilibrium Selection in Games を刊行。 |
1989年 | ゲーム理論の専門誌 Games and Economic Behavior が発刊される。 |
1990年 | Krepsが著書 A Course in Microeconomics Theory を刊行。ミクロ経済学の教科書でゲーム理論が特集される。 ビンモアが著書 Essays on the Foundations of Game Theory を刊行。 |
1991年 | ゼルテンが論文 "Evolution, learning, and economic behavior" を発表。 CanzoneriとHendersonが共著書 Monetary Policy in Interdependent Economies: A Game-Theoretic Approach を刊行。 |
1992年 | ギボンズが教科書 Game Theory for Applied Economists を刊行。1995年には『経済学のためのゲーム理論入門』という邦題で日本語訳版が出版されている。 オーマンとハートによる共編著書 Handbook of Game Theory with Economic Applications の第1巻が刊行。 |
1993年 | 神取道宏、MailathとRobが共著論文 "Leaning, mutation, and long run equilibria in games" を発表。 ゼルテンが論文 "In search of a better understanding of economic behavior" を発表。 |
1994年 | オーマンとハートによる共編著書 Handbook of Game Theory with Economic Applications の第2巻が刊行。 ビンモアが著書 Game Theory and The Social Contract を刊行。 |
1995年 | オーマンとマシュラーが共著書 Repeated Games with Incomplete Information を刊行。 マスコレルらによる共著書 Microeconomic Theory を刊行。 |
1996年 | ナッシュが著書 Essays on Game Theory を刊行。 ロスが論文 "A theory of partnership dynamics" を発表。 |
1999年 | 1月1日に初のゲーム理論の国際学会である Game Theory Society が発足し、ゲーム理論専門の論文誌である International Journal of Game Theory と Games and Economic Behavior が同学会の公式論文誌となる[334]。 |
1994年 | ジョン・ナッシュ、ジョン・ハルサニ、ラインハルト・ゼルテンがノーベル経済学賞を受賞[417]。 |
2005年 | ロバート・オーマンとトーマス・シェリングがノーベル経済学賞を受賞[418]。 |
注釈
- ^ アメリカ経済学会が出版する Journal of Economic Literature において採用されているJEL分類コードによれば、ゲーム理論は「交渉理論」(英: bargaining theory)と並んでC7に分類されている[4]。
- ^ 『ゲームの理論と経済行動』が出版された1944年にゲーム理論が誕生したとする見解 [5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15] が一般的である一方で、1928年にゲーム理論が誕生したとする見方もある[16][17]。1928年は、フォン・ノイマンが論文「社会的ゲームについて(独: "Zur Theorie der Gesellschaftsspiele")」を発表し、モルゲンシュテルンが著書『経済予見ー仮定とその可能性についての考察(独: Eine untersuchung ihre Voraussetzungen und Moglichkeiten)』を刊行した年である。例えば、酒井泰弘(滋賀大学名誉教授・経済学説史家)は、ゲーム理論が「1928年に、二人独自の研究によって誕生し、1944年出版の共著『ゲーム理論と経済行動』によって確立した[18]」としている。
- ^ ゲーム理論のルーツについては、フォン・ノイマンらに始まる協力ゲーム(提携とコアの理論)、ジョン・ナッシュに始まる協力ゲーム(交渉の理論)、ナッシュに始まる非協力ゲーム理論(均衡の理論)の3流派に分けて論じられることもあり、今日「ゲーム理論」と言えばナッシュの「非協力ゲーム」を指す場合がほとんどである[19]。しかし、数学者であるLuce & Tucker 1959はPrefaceでフォン・ノイマンをcreator of the Theory of Gamesと評しており、また、マイヤーソン(2007年ノーベル賞受賞者)はフォン・ノイマンらをゲーム理論の先駆者としている一方でナッシュを「中興の祖」として位置付けている[20]。このように、ナッシュがゲーム理論の創始者とされることは稀である[21]。
- ^ 「戦略的状況」はゲーム的状況(英: game situations)[6]や戦略的環境(英: strategic environment)[26]と呼ばれることもある。
- ^ 日本語圏へのゲーム理論の導入や普及に尽力した経済学者の一人として知られる鈴木光男は東北大学経済学部在学中の1952年1月に「ゲームの理論の構成とその経済学への応用」という卒業論文を提出しており、口頭試問の際に指導教官であった安井琢磨から「ゲームとは、一言でいえば何だ」と質問されて「相手がいるということです」と答えている[27]。
- ^ Oxford English Dictionaryによれば、game theoristという語彙は1950年代に誕生した[29]。
- ^ 岡田 1989, 表2.1を元に作成。
- ^ a b 協力ゲーム理論の基礎概念であるcoalitionは山田雄三によって「結託」という訳語が充てられたが、学生からの評判が悪かったため鈴木光男によって「提携」という訳語が充てられ、それが定訳となった[30]。なお、1人から成る提携もあり得るという理由から、当初は「提携」という訳語も批判された[31]。
- ^ ただしマルティン・オズボーンやアリエル・ルービンシュタインのように、一方の理論がもう一方の理論よりも「基礎的」であるという考え方に対して否定的な見解を示しているゲーム理論家も存在する[41]。
- ^ a b 利得関数の組 の代わりに選好関係の組 を用いて戦略形ゲームを定義する場合もある[46]。選好関係について合理性(英: rationality)などの適当な公理が仮定されるとき、その選好関係と等しい情報を持つ利得関数が存在するため、合理性などの標準的な仮定の下では利得関数と選好関係のどちらを用いて戦略形ゲームを定義しても本質的な違いはない[47]。
- ^ 戦略形ゲームは標準形ゲーム(英: games in normal form)とも呼ばれる。この「標準形ゲーム」という用語法はvon Neumann & Morgenstern 1944によるものとされている[49]。
- ^ このような双行列を利得行列、利得行列によって表すことの可能な2人戦略形有限ゲームを双行列ゲームと呼ぶ場合もある[54]。
- ^ 例えば、同時手番ならば各プレイヤーが自分の手番が回ってきたときに他のプレイヤーの選択を知らないと仮定すればよく、逐次手番ならばあるプレイヤーが他のプレイヤーの選択を知った上で自分の戦略を選択すると仮定すればよい[41]。
- ^ 「提携形ゲーム」はvon Neumann & Morgenstern 1944によって定義・命名されたものである[60]。
- ^ 展開形ゲームにおける「戦略」と「行動」の区別はクラウゼヴィッツ『戦争論』第2編第1章における「戦略」と「戦術」の区別に対応しており、それぞれの用語法は整合的である[86]。
- ^ なお、戦略の組に対してではなく帰結に対して利得関数が定義される場合もある。例えば寡占市場を分析する際、プレイヤーは企業、戦略は価格であるが、企業にとっての利得は価格ベクトルではなく利潤に対して定義されると解釈するのが自然である[88]。このようなケースでは、戦略の組から帰結への関数 を定義し、帰結の集合 C 上の実数値関数として利得関数が定義される[88]。
- ^ これらの用語はケン・ビンモアによって造られたものである[99][100]。
- ^ なお、ゲーム理論ではしばしば、n 人ゲームの戦略の組 の第 i 成分を除いた戦略の組 を s−i で表す[102]。これはプレイヤー i 以外の n − 1 人のプレイヤーの戦略の組を意味している。この記号法は、 といった具合に用いられる。本記事でも解概念を解説するにあたってこの記号法を用いている。
- ^ 適切な仮定の下では、被支配戦略逐次排除均衡が一意的に存在するゲームにおいてナッシュ均衡が被支配戦略逐次排除均衡と一致することが知られている[107]。
- ^ ゲーム理論研究においてこのような考え方は、均衡の精緻化(英: refinements)と呼ばれる[112]。
- ^ 動学ゲームを表現するための展開形ゲームにおいて、各手番から始まるプレイヤー間の駆け引きは元の大きなゲームの中の小さなゲームとして解釈することが可能であり、これをサブゲーム(英: subgame)と呼ぶ。すなわち、サブゲームとは(1)一つの分岐点から始まる、(2)その後の分岐点と枝を全て含む、(3)情報集合が外にはみ出していない、の条件を全て満たしている展開形の一部分である[113]。
- ^ 元の情報不完備ゲームとそのベイジアンゲームは本来異なるゲーム的状況を意味しているが、プレイヤーの戦略選択を分析する上では両者を同値なものとしてみなされるのが、ハルサニの理論である。この仮定はベイズ同値仮説と呼ばれる[125]。
- ^ ハルサニの理論ではこれに加えて各プレイヤーの主観的確率分布の族が適当な同時確率分布と整合的であることが仮定される[126]。これは、各プレイヤーの知らないタイプが偶然手番によって決定され、「情報を知らない」プレイヤーは偶然手番によってタイプが確定する以前の共有事前確率(英: common propor)に基づいて期待利得が計算されると考えられる[127]。
- ^ ベイジアン均衡、ベイズ均衡、ベイジアン・ナッシュ均衡、ハルサニ・ベイジアン均衡などと呼ばれることもある[128]。
- ^ 1960年代に当時のゲーム理論研究の拠点であったプリンストンに留学しており草創期の多くのゲーム理論家と交流があった鈴木光男によれば、実際に初期のゲーム理論家のほとんどがユダヤ人であったという[131]。
- ^ 公理論的アプローチについては公理論的アプローチの節を参照。
- ^ ある経済主体が完備的であるとは、彼が任意の二つの選択肢 x と y に対して、「 x よりも y が好き」、「 y よりも x が好き」、「 x も y も同程度に好き」のいずれかの判断を下されることを意味する[142]。
- ^ ある経済主体が推移的であるとは、彼が任意の三つの選択肢 x と y と z に対して、「 x が y と同程度以上に望ましく」かつ「 y が z と同程度以上に望ましい」とき必ず「 x が z と同程度以上に望ましい」ことを意味する[142]。
- ^ ただし選択肢が無限に存在する場合、完備性と推移性に加えて連続性(英: continuity)と単調性(英: monotonicity)が選好関係の公理として仮定される必要となる[143]。
- ^ 売り手と買い手が無数に存在する完全競争市場では各意思決定主体の市場への影響力が無視できるほど小さいため意思決定の戦略的な側面は問題にならなかったが、より現実的な不完全競争市場を考える際には意思決定者が市場を通じて他の主体に与える影響力が大きな役割を果たす[144]。
- ^ 新古典派のモデルには「一定とされる価格」を決定するルールが明示されていなかった。こうした新古典派モデルに対するひとつの解釈として「買い手と売り手が需要関数と供給関数を『競り人』に提出し、競り人が均衡価格を計算する」というものがある[145]。オークション理論は新古典派モデルが捨象した均衡価格決定のプロセスを研究するものであるが、このオークション理論はゲーム理論の応用分野として発展している[146]。
- ^ ラヴォア 2008の表1. 1を元に作成。ただし、表内の一部項目の名称については前掲書の解説において用いられているより厳密なものを用いている。
- ^ 前提条件(英: presuppositions)とはモデル化や定式化ができない各学派の必須要素であり、それらから導かれる仮説や理論よりも先行するものである。「前提条件」と呼ばれる概念の研究はアクセル・レイヨンフーヴッドによって1976年に提唱された枠組みである[149]。
- ^ a b c 「道具主義」に対置する概念としてのrealismは「現実主義」の他に「実在論」と訳されることもある[150]。
- ^ 具体的には、異端派経済学者は非線形性やストレンジ・アトラクタを基礎にしたカオス動学といったアプローチが用いている[157]。
- ^ これらの新古典派経済学の主張には「数々の非現実的な仮定の上に構築された信頼性の薄い主張」とか「パイの大きさが何パーセント変わるかという矮小な話よりもパイを公平に分配し社会的弱者を救済することこそが重要だ」といった批判があり、当時のミクロ経済学は「おもちゃの豆鉄砲」と揶揄されていた[163]。
- ^ 経済学説史家の川俣雅弘は1980年代にゲーム理論が急速に普及した理由として、経済学界全体の認識の変化を挙げている。すなわち、抽象的かつ一般的な序数主義的一般均衡理論に基づく研究からは経済学的に有益な命題を導出不可能であるという認識が広まり、1970年代から具体的な応用分野の専門誌が刊行されるとともに、Journal of Political Economy(1892年 -)、Quarterly Journal of Economics(1891年 -)、Review of Economic Studies(1933年 -)などの理論志向の強い一流誌においてもそういった編集方針の転換が起こっていた[173]。川俣 2016はそのような経済学界の潮流の中で、一般均衡理論が分析できない広範な問題を分析可能なゲーム理論が主流になっていったと主張している[174]。
- ^ 契約理論の基本モデルは展開形ゲームのサブゲーム完全均衡やベイズ完全均衡に対応するため、契約理論はゲーム理論の一分野とみなされることがある。しかし、契約理論はゲーム理論的な均衡概念を明示せずに価格理論的な条件付き最適化問題としてモデルを分析しており、さらに価格理論やゲーム理論がカバーしていない特有の概念や解法を有しているため、JEL分類コードのカテゴリーにおいても2005年6月からD86(Economics of Contracts)という独立した項目が設けられている[177]。
- ^ 例えば「不況時における財政出動がどれほどの景気浮上効果を持つか」というマクロ経済学の問題に対して実験を行うことは不可能であり、実際に財政出動をした場合としなかった場合を統計学的に比較することによって決着がつけられる。また、冷戦時代に並存した資本主義国と社会主義国の比較のような大規模な自然実験は可能な機会が稀である上に膨大な社会的コストが必要となる[185]。
- ^ 特に一回限りの「囚人のジレンマ」の実験研究は一般的な構造を有しているため、経済学者だけでなく心理学者、社会学者、政治学者、教育学者も行われており、その事例数は膨大な数にのぼる[188]。
- ^ 偶然手番に関して適切なベイズ的事前分布が仮定されている場合、限定合理的な個人は完全合理的な個人と理論的に同一視されることが証明されている[193]。
- ^ 例えばVan Dam et al. 1996は、オランダの砂丘に自生するある植物が虫除けのために分泌するアルカロイドという化学物質がさまざまな年齢の葉に対して最適に割り振られていることを明らかにしている[73]。
- ^ a b 米国における周波数オークションの成功に貢献したポール・ミルグロムは1995年にマーケットデザインに関するコンサルティング会社Market Design Inc.を設立しており、マーケットデザインという分野の名前もこの企業名に由来する[342]。
- ^ 研修医マッチングプログラムには、ゲーム理論家のロイド・シャープレーらが発明した「受け入れ留保アルゴリズム」が用いられる。このアルゴリズムによって配属先が決定される医学生は、日本では毎年8000人、米国では2万人以上にのぼる[197]。
- ^ このような日本の現状を打開することを目的として結成された研究者集団としてAMF(オークション・マーケットデザイン・フォーラム)がある[201][204]。AMFは松島斉(東京大学教授)、神取道宏(東京大学教授)、柳川範之(東京大学教授)、横尾真(九州大学教授)、小島武仁(スタンフォード大学助教授)らが発起人となり、2012年1月に結成され、現在では日本国内外の50人余りのゲーム理論家が賛同・参加している[205]。
- ^ 一般に、集合 X から X 自身への写像 f: X → X について x = f(x) を満たす x ∈ X を写像 f の不動点と呼び、特定の条件の下で不動点の存在を保証する定理を総称して不動点定理と呼ぶ[211]。したがって、最適反応関数が不動点定理の条件を満たすことは、均衡が存在することを意味する。
- ^ Waldegraveによるこの論考は、"Minimax solution of a 2-person, zero-sum game, reported in a letter from P. de Montmort to N. Bernouilli, transl. and with comments by H. W. Kuhn" という名が付けられ、1968年に出版された論文集[232]に掲載されている[233]。
- ^ クールノー・モデルとベルトラン・モデルの解は一般的にはそれぞれ異なるが、どちらも「ナッシュ均衡」として統一的に説明することが可能である[238]。
- ^ 「ツェルメロの定理」が「完全情報を持つゼロ和二人ゲームに純戦略で最適戦略が存在する」と要約される[239]。
- ^ 「ツェルメロの定理」は1953年に刊行されたクーンの展開形ゲームに関する論文「展開形ゲームと情報の問題」で初めて言及されて以来、ゼロ和2人ゲームの古典としてツェルメロの論文が引用され続けてきたが、実際にはツェルメロは「ツェルメロの定理」どころかそのような問題を扱ってすらいなかったことが明らかになっている[240]。ツェルメロ論文の原典はドイツ語で書かれており、後世の研究者が原典を読まずに引用していたのである[241]。
- ^ この論文においてフォン・ノイマンが用いた不動点定理は後に「角谷の不動点定理」[245]として一般化される[1]。
- ^ 書名を General Theory of Rational Behavior にする案もあったが、モルゲンシュテルンの最初の草稿のタイトルである『ゲームの理論と経済行動』が採用された、という逸話がある[257]。
- ^ ダニエル・ベルヌーイは1738年に「リスクの測定に関する新しい理論」というラテン語で書かれた論文を『ペテルブルク帝国科学アカデミー論文集』に寄稿したが、当時の自然科学者の多くは人間行動のモデル分析に関心を持っておらず、政治経済学者は数学分析に弱かったため、ベルヌーイの「サンクトペテルブルクのパラドックス」や期待効用のアイディアが注目されることはなかった[272]。このベルヌーイの論文は1934年にカール・メンガーがドイツの一流学術誌『国民経済雑誌』上で紹介したことにより注目されるようになった[273]。ベルヌーイの分析はフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの『ゲームの理論と経済行動』の中でようやく復権し[274]、その後ラテン語で書かれた「リスクの測定に関する新しい理論」の英語版は『エコノメトリカ』に掲載された[275]。
- ^ 以下に『ゲームの理論と経済行動』の第2版の目次を掲げる[277]。
『ゲームの理論と経済行動』(第2版)目次第1章 経済問題の定式化- 1. 経済学における数学的方法
- 1.1 序言
- 1.2 数学的方法の応用の困難さ
- 1.3 対象の必要な限界
- 1.4 結論としての注意
- 2. 合理的行動の性質上の議論
- 2.1 合理的行動の問題点
- 2.2 「ロビンソン・クルーソー」経済と社会的交換経済
- 2.3 変数の数と参加者の数
- 2.4 変数が多数の場合:自由競争
- 2.5 「ローザンヌ」学説
- 3. 効用の概念
- 3.1 選好と効用
- 3.2 測定の原則:前置き
- 3.3 確率と数量化された効用
- 3.4 測定の原則:詳論
- 3.5 数量化された効用の公理的扱いの概念的構造
- 3.6 公理とその解釈
- 3.7 公理に関する一般的な注意
- 3;8 限界効用の概念と役割
- 4. 理論の構築:解と行動基準
- 4.1 1人の参加者についての最も簡単な解の概念
- 4.2 すべての参加者への拡張
- 4.3 配分の集合としての解
- 4.4 「優越」または「支配」の非推移的な概念
- 4.5 解の正確な定義
- 4.6 「行動基準」からのわれわれの定義の解釈
- 4.7 ゲームと社会組織
- 4.8 結びにあたっての注意
第2章 戦略ゲームの一般的・本格的な記述- 5 導入部
- 5.1 経済学からゲームへの重点の移行
- 5.2 分類と方法の一般原理
- 6 ゲームの単純化された概念
- 6.1 専門的用語の説明
- 6.2 ゲームの要素
- 6.3 情報と既知性
- 6.4 既知性、推移性とシグナリング
- 7 ゲームの完全な概念
- 7.1 各手番の特徴の多様性
- 7.2 一般的な記述
- 8 集合と分割
- 8.1 ゲームの集合論的な記述の望ましさ
- 8.2 集合とその性質およびその図による説明
- 8.3 分割とその性質およびその図による説明
- 8.4 集合と分割の記号論理学的な説明
- 9 ゲームの集合論的な記述
- 9.1 ゲームを表す分割
- 9.2 分割とその性質の議論
- 10 公理論的な定式化
- 10.1 公理とその説明
- 10.2 公理の記号論理学的な議論
- 10.3 公理に関する一般的注意
- 10.4 図による表示
- 11 戦略とゲームの記述の最終的な簡単化
- 11.1 戦略の概念とその定式化
- 11.2 ゲームの記述の最終的な簡単化
- 11.3 簡単化されたゲームにおける戦略の役割
- 11.4 ゼロ和制限の意味
第3章 ゼロ和2人ゲーム:理論- 12 序論
- 12.1 一般的な視点
- 12.2 1人ゲーム
- 12.3 偶然と確率
- 12.4 次の目的
- 13 関数解析
- 13.1 基本的定義
- 13.2 最大、最小の演算
- 13.3 交換問題
- 13.4 混合した場合、鞍点
- 13.5 主要な事柄の証明
- 14 厳密に決定されたゲーム
- 14.1 問題の定式化
- 14.2 劣関数ゲームと優関数ゲーム
- 14.3 補助的なゲームの議論
- 14.4 結論
- 14.5 厳密な決定の分析
- 14.6 プレイヤーの取り替え、対称性
- 14.7 厳密には決定されないゲーム
- 14.8 厳密な決定のくわしい分析のプログラム
- 15 完全情報をもつゲーム
- 15.1 目的の記述、帰納法
- 15.2 正確な状態(第1のステップ)
- 15.3 正確な条件(完全な帰納法)
- 15.4 機能的ステップの正確な議論
- 15.5 機能的ステップの正確な議論(続き)
- 15.6 完全情報の場合の結果
- 15.7 チェスへの応用
- 15.8 代替的な言葉による議論
- 16 線形性と凸性
- 16.1 幾何学的な背景
- 16.2 ベクトル演算
- 16.3 支持超平面の定理
- 16.4 行列に関する代替的な定理
- 17 混合戦略、すべてのゲームの解
- 17.1 2つの基本例についての議論
- 17.2 この観点の一般か化
- 17.3 個々のプレイに適用された場合のこの方法の正当性
- 17.4 劣関数ゲームと優関数ゲーム(混合戦略に関して)
- 17.5 一般的な厳密な決定
- 17.6 主要定理の証明
- 17.7 純戦略と混合戦略による取り扱いの比較
- 17.8 一般的な厳密な決定の分析
- 17.9 良い戦略のさらに深い特性
- 17.10 失敗とその結果、不変最適性
- 17.11 プレイヤーの取り替え、対称性
第4章 ゼロ和2人ゲーム:例- 18 いくつかの基本的なゲーム
- 18.1 最も簡単なゲーム
- 18.2 これらのゲームの詳細な数量的な議論
- 18.3 性質上の特徴
- 18.4 いくつかの個々のゲームの議論(コイン合わせの一般形)
- 18.5 いくつかのやや複雑なゲーム議論
- 18.6 偶然と不完全情報
- 18.7 以上の結果の説明
- 19 ポーカーとハッタリ
- 19.1 ポーカーの説明
- 19.2 ハッタリ
- 19.3 ポーカーの説明(続き)
- 19.4 ルールの正確な定式化
- 19.5 戦略の説明
- 19.6 問題の記述
- 19.7 離散的問題から連続的問題への移行
- 19.8 解の数学的な決定
- 19.9 解のくわしい分析
- 19.10 解の説明
- 19.11 ポーカーの一般的な形
- 19.12 離散的な手札
- 19.13 m通りのビッドが可能な場合
- 19.14 代替的なビッド
- 19.15 すべての解が数学的な表現
- 19.16 解の解釈、結論
第5章 ゼロ和3人ゲーム- 20 予備的な解説
- 20.1 一般的な観点
- 20.2 提携
- 21 3人の単純多数決ゲーム
- 21.1 ゲームの記述
- 21.2 ゲームの分析:「協定」の必要性
- 21.3 ゲームの分析:提携、対称性の役割
- 22 さらに詳しい例
- 22.1 非対称的な分配、補償の必要性
- 22.2 強さの異なる提携、議論
- 22.3 不等式、公式
- 23 一般的な場合
- 23.1 徹底的な議論、非本質的ゲームと本質的ゲーム
- 23.2 完全な公式
- 24 反論についての議論
- 24.1 完全情報の場合とその意義
- 24.2 詳細な議論
第6章 一般理論の定式化:ゼロ和n人ゲーム- 25 特性関数
- 25.1 動機と定義
- 25.2 概念の議論
- 25.3 基本的な性質
- 25.4 直接的な数学的結果
- 26 与えられた特性関数をもつゲームの構築
- 26.1 構築
- 26.2 要約
- 27 戦略上同等、非本質的ゲームと本質的ゲーム
- 27.1 戦略上同等、節約形
- 27.2 不等式、数量γ
- 27.3 非本質性と本質性
- 27.4 種々の基準、非加法的効用
- 27.5 本質的な場合における不等式
- 27.6 特性関数についてのベクトル演算
- 28 群、対称性および公平
- 28.1 置換、その群とゲームに対する影響
- 28.2 対称性と公平
- 29 ゼロ和3人ゲームの再考
- 29.1 性質上の議論
- 29.2 数量的な議論
- 30 一般的な定義の正確な形
- 30.1 定義
- 30.2 議論と要約
- 30.3 飽和の概念
- 30.4 3つに直接的な目標
- 31 第1の結果
- 31.1 凸性、平坦性および支配に関するいくつかの基準
- 31.2 すべての配分の体系、1要素からなる解
- 31.3 戦略上同等に対応する同形
- 32 本質的ゼロ和3人ゲームのすべての解の決定
- 32.1 数学的問題の定式化、図による表現
- 32.2 すべての解の決定
- 33 結論
- 33.1 解の多様性、差別とその意味
- 33.2 静学と動学
第7章 ゼロ和4人ゲーム- 34 予備的な概論
- 34.1 一般的な観点
- 34.2 本質的ゼロ和4人ゲームの形式
- 34.3 プレイヤーの置換
- 35 立方体Qのいくつかの特別な点についての議論
- 35.1 頂点I(およびV、VI、VII)
- 35.2 頂点VIII(およびII、III、IV)、3人ゲームと「ダミー」
- 35.3 Qの内部に関してのいくつかの注意
- 36 主対角線に関する議論
- 36.1 頂点VIIIの近傍:発見的な議論
- 36.2 頂点VIIIの近傍:厳密な議論
- 36.3 対角線上の他の部分
- 37 中心とその周辺
- 37.1 中心の周囲の状況に関する最初の方向づけ
- 37.2 2つの代替案と対称性の役割
- 37.3 中心における最初の代替案
- 37.4 中心における第2の代替案
- 37.5 中心に2つの解の比較
- 37.6 中心における非対称的な解
- 38 中心の近傍の解と族
- 38.1 中心における最初の代替案に属する解の変形
- 38.2 厳密な議論
- 38.3 解の解釈
第8章 n≥5なる参加者の場合についてのいくつかの注意- 39 種々のクラスのゲームにおけるパラメーターの族
- 39.1 n=3, 4の場合
- 39.2 n≥3の場合のすべての状況
- 40 対称5人ゲーム
- 40.1 対称5人ゲームの定式化
- 40.2 2つの極端な場合
- 40.3 対称性5人ゲームと1, 2, 3-対称4人ゲームとの関連
第9章 ゲームの合成と分解- 41 合成と分解
- 41.1 すべての解が決定されうるn人ゲームの探求
- 41.2 第1のタイプ、合成と分類
- 41.3 厳密な定義
- 41.4 分解の分析
- 41.5 修正の望ましさ
- 42 理論と修正
- 42.1 ゼロ和条件の一部放棄
- 42.2 戦略上同等、定和ゲーム
- 42.3 新理論における特性関数
- 42.4 新理論における配分、支配、解
- 42.5 新理論における本質性、非本質性、分解可能性
- 43 分解分割
- 43.1 分離集合、成分
- 43.2 すべての分離集合の体系の特徴、分解分割
- 43.3 すべての分離集合の体系の特徴、分解分割
- 43.4 分解分割の性質
- 44 分解可能なゲーム、理論のより一層な拡張
- 44.1 (分解可能な)ゲームの解とその成分の解
- 44.2 配分および配分の集合の合成と分解
- 44.3 解の合成と分解、主要な可能性と推測
- 44.4 理論の拡張、外部的要因
- 44.5 超過量
- 44.6 超過量に対する制約、新しい構成におけるゲームの非孤立的配分
- 44.7 新しい装置E (e_0)、F (e_0)の議論
- 45 超過量の限界、拡張された理論の構造
- 45.1 超過量の下限
- 45.2 超過量の上限、孤立的配分および完全孤立的配分
- 45.3 2つの極限値Γ1、Γ2についての議論、その比率
- 45.4 孤立的配分と種々の解、E (e_0)、F (e_0)に関する定理
- 45.5 定理の証明
- 45.6 要約と結論
- 46 分解可能なゲームにおけるすべての解の決定
- 46.1 分解の基本的な性質
- 46.2 分解とその解との関連
- 46.3 続き1
- 46.4 続き2
- 46.5 F(e_0)における完全な結果
- 46.6 E(e_0)における完全な結果
- 46.7 結果の一部の図上
- 46.8 説明:正常な範囲、種々の性質の遺伝性
- 46.9 ダミー
- 46.10 ゲームの埋め込み
- 46.11 正常な範囲の重要性
- 46.12 譲渡現象の最初の発生:n=6の場合
- 47 新理論における本質的3人ゲーム
- 47.1 本議論の必要性
- 47.2 予備的考察
- 47.3 6つの場合の議論、ケースI-III
- 47.4 ケースIV:第1の部分
- 47.5 ケースIV:第2の部分
- 47.6 ケースV
- 47.7 ケースVI
- 47.8 結果の解釈:解における曲線(1次元の部分)
- 47.9 続き:解における領域(2次元の部分)
第10章 単純ゲーム- 48 勝利提携、敗北提携とこれらがおこるゲーム
- 48.1 41.1の第2のタイプ、提携による決定
- 48.2 勝利提携と敗北提携
- 49 単純ゲームの特徴づけ
- 49.1 勝利提携と敗北提携の一般的概念
- 49.2 1要素集合の特別な場合
- 49.3 実際のゲームにおけるW、Lの特徴づけ
- 49.4 単純性の厳密な定義
- 49.5 単純性のいくつかの基本的な性質
- 49.6 単純ゲームとそのW、L、最小勝利提携
- 49.7 単純ゲームの解
- 50 多数決ゲームとその主要な解
- 50.1 単純ゲームの例:多数決ゲーム
- 50.2 同質性
- 50.3 解を形成する際の配分の概念のより直接的な使用
- 50.4 直接的な接近方法の議論
- 50.5 一般理論との関連、厳密な定式化
- 50.6 結果の再定式化
- 50.7 結果の解釈
- 50.8 同質性多数決ゲームとの関連
- 51 あらゆる単純ゲームを数え上げる方法
- 51.1 予備的な注意
- 51.2 飽和性による方法:Wによる数え上げ
- 51.3 WからW^mへ移る理由:W^mを用いることの困難さ
- 51.4 接近方法の変更、W^mを用いることの困難さ
- 51.5 単純性と分解
- 51.6 非本質性、単純性と合成、超過量の扱い
- 51.7 W^mによる分解可能性の規準
- 52 小さなnに関する単純ゲーム
- 52.1 計画:n=1, 2は何の役割も果たさない、n=3の取り扱い
- 52.2 n≥4の場合の分析:2要素集合とそのW^mの分類における役割
- 52.3 Cの場合の分解可能性
- 52.4 [1,..., 1, l-2]の以外のダミーをもつ単純ゲーム
- 52.5 n=4, 5の処理
- 53 n≥6の場合の単純ゲームの新しい可能性
- 53.1 n<6の場合にみられた規則性
- 53.2 6つの主要な反例(n=6, 7の場合)
- 54 適当なゲームにおけるすべての解の決定
- 54.1 単純ゲームにおいて主要解以外の解を考える理由
- 54.2 すべての解が知られているゲームの列挙
- 54.3 単純ゲーム[1, ..., 1, n-2]を考える理由
- 55 単純ゲーム
- 55.1 予備的な注意
- 55.2 支配、主要プレイヤー、ケースIとII
- 55.3 ケースIの処理
- 55.4 ケースII:Vの決定
- 55.5 ケースII:Vの決定
- 55.6 ケースII:AとS
- 55.7 ケースII'とII"、ケースII'の処理
- 55.8 ケースII":AとV'、支配
- 55.9 ケースII":V'の決定
- 55.10 ケースII"の処理
- 55.11 完全な結果の定式化
- 55.12 結果の解釈
第11章 一般非ゼロ和ゲーム- 56 理論の拡張
- 56.1 問題の定式化
- 56.2 仮想プレイヤー、ゼロ和拡張Γ
- 56.3 Γの特質に関する問題
- 56.4 Γの使用の限界
- 56.5 2つの可能な方法
- 56.6 差別解
- 56.7 代替的な可能性
- 56.8 新しい構成
- 56.9 Γがゼロ和ゲームである場合の再考
- 56.10 支配の概念の分析
- 56.11 厳密な議論
- 56.12 解の新しい定義
- 57 特性関数と関連した問題
- 57.1 特性関数:拡張された形と制限された形
- 57.2 基本的性質
- 57.3 すべての特性関数の決定
- 57.4 プレイヤーの除去可能集合
- 57.5 戦略上同等、ゼロ和ゲームと定和ゲーム
- 58 特性関数の解釈
- 58.1 定義についての分析
- 58.2 利得を得る望み対損失に課す望み
- 58.3 議論
- 59 一般的な考察
- 59.1 これからの議論の進め方について
- 59.2 縮約形、不等式
- 59.3 種々の話題
- 60 n≤3なるあらゆる一般ゲームの解
- 60.1 n=1のケース
- 60.2 n=2のケース
- 60.3 n=3のケース
- 60.4 ゼロ和ゲームとの比較
- 61 n=1, 2の結果の経済学的解釈
- 61.1 n=1のケース
- 61.2 n=2のケース、2人市場
- 61.3 2人市場の議論とその特性関数
- 61.4 58の立場の正当性
- 61.5 分割可能性、「限界 ペア」
- 61.6 価格、議論
- 62 n=3の結果の経済学的解釈:特殊なケース
- 62.1 n=3のケース、3人市場
- 62.2 予備的な議論
- 62.3 解:第1のケース
- 62.4 解:一般形
- 62.5 結果の代数的な形
- 62.6 議論
- 63 n=3の結果の経済学的解釈:一般のケース
- 63.1 分割可能財
- 63.2 不等式の分析
- 63.3 予備的な議論
- 63.4 解
- 63.5 結果の代数的な形
- 63.6 議論
- 64 一般の市場
- 64.1 問題の定式化
- 64.2 いくつかの特別な性質、売り手独占と買い手独占
第12章 支配および解の概念の拡張- 65 拡張、特別な場合
- 65.1 問題の定式化
- 65.2 一般的な注意
- 65.3 順序、推移性、非循環性
- 65.4 解:対称的関係について、全循環性
- 65.5 解:半順序について
- 65.6 非循環性と狭義の非循環性
- 65.7 解:非循環的関係について
- 65.8 解の一意性、非循環性と狭義の非循環性
- 65.9 ゲームに対する応用:離散性と連続性
- 66 効用の概念の一般化
- 66.1 一般化、理論的取り扱いの2つの側面
- 66.2 第1の側面についての議論
- 66.3 第2の側面についての議論
- 66.4 2つの側面を統合する希望
- 67 例についての議論
- 67.1 例の記述
- 67.2 解とその解釈
- 67.3 一般化:異種の離散的効用尺度
- 67.4 交渉に関する結論
付録- A.1 問題の定式化
- A.2 公理からの誘導
- A.3 結びとしての注意
- 1. 経済学における数学的方法
- ^ この「しっぺ返し戦略」はゲーム理論家のラポポートによって考案・提出された。tit-for-tat strategyは「オウム返し戦略」と訳されることもある[319]。
- ^ 英国『ニューズウィーク』誌はビンモアらのことを「無慈悲でポーカー好きの経済学者が電気通信産業を破壊した」と書き立てたが、その後の研究によって、オークションを通じてより高い生産性を持つ企業が電気通信の免許を購入することに成功しており、結果として国民厚生が改善されたことが分かっている[345]。
- ^ 例えば、不確実性が大きな場合に前頭葉最下部の眼窩前頭皮質、扁桃体、前頭前皮質などの主に大脳辺縁系が活性化することが確認されている[350]。
- ^ なお、二階堂副包は1956年にアローやマッケンジーらとは独立に一般均衡の存在定理を証明している[356]。
- ^ なお、1979年に岩波文庫から出版されたジンメルの『社会学の根本問題』(1917年)の清水幾太郎訳では独: Gesellschaftsspieleが「社会的遊戯」と訳されている[364]。
- ^ 鈴木によって提出された「社会工学私見」は鈴木 2007に全文が掲載されている。鈴木は、(1)社会と科学技術との関連についての哲学的歴史的基礎に関する人文社会部門、(2)意思決定論や経営工学・経済工学などを含む社会組織工学部門、(3)都市計画や環境政策などを扱う社会工学部門、(4)統計学やコンピュータ科学を扱う情報工学部門を統括する社会工学部の設立を提案している[368]。
- ^ ただし、社会工学部の構想は実現せず、理学部に情報科学科、工学部に情報工学科、大学院にシステム科学専攻などが設立される形となった。鈴木はこのことについて、「多分時期が早すぎたのだろうと思います」と振り返っている[369]。
- ^ これら講座の内容は『人間社会のゲーム理論』として1970年に勁草書房より刊行されている。
- ^ ただし松島斉は金子によって東大にゲーム理論が持ち込まれたとする通説を否定している[372]。松島は1980年夏学期に小林孝雄教授の担当した「組織の経済学」という講義でゲーム理論が扱われており、それが東大にとって「今までにない画期的な内容」であったと先輩の神取道宏から聞いたと証言している。
- ^ ただし中村は鈴木の講義を履修しておらず、社会工学科に在学していた友人の林亜夫などから講義内容を聞いて、ゲーム理論に関心を持つようになった[373]。
- ^ 過去には京都大学(2004年、2006年、2008年、2015年)、一橋大学(2005年、2007年、2009年、2013年)、九州大学(2010年)、名古屋大学(2011年)、静岡大学(2012年)、東京工業大学(2014年)、東京大学(2016年)で開催された[397]。
- ^ 岡田が1994年から6年間京都大学経済学部において担当していた授業「経営数学」では1学期に最適化理論を、2学期にゲーム理論を扱っており、本書はゲーム理論パートの講義ノートを書籍化したものである[415]。2011年には同じく有斐閣より第2版が刊行されている[416]。
- ^ 1970年代の代表的文献として例えば、警察・消防・救急などの緊急支援システムに関するオペレーションズ・リサーチの研究を66編紹介しているChaiken & Larson 1972やシカゴの犯罪発生率の高い地域における地元警察の出動件数の調査を通じて都市型犯罪の発見率を高める街区内巡回経路決定をマルコフ決定問題として議論しているOlson & Wright 1975などがある。これらはB. O. クープマンによって創始された探索理論を基礎とする応用数学であった[434]。
- ^ 大まかな傾向としては、1980年代までは一般均衡理論を中心とした数理経済学者の受賞が全盛であったが、1990年代以降ではゲーム理論を始めとする学際的な新領域の開拓に貢献した経済学者の受賞が目立つようになっている[451]。
- ^ 受入保留方式は、発明者である2人の名前を冠してゲール=シャープレー・アルゴリズムとも呼ばれる。
- ^ 「結婚問題」だけでなく「大学入学許可問題」と呼ばれるマッチング市場のモデルにおいても選好がresponsivityの仮定を満たせばコアと安定マッチングが対応することがロスによって証明されている[478]。
- ^ 伊藤秀史の指摘によれば、この「契約理論」という呼称はエコノメトリック・ソサイエティの第5回世界大会(1985年)においてハートとホルムストロムが"The Theory of Contracts"というタイトルの招待講演を行ったのが最初の事例であり、それが影響で「契約理論」という呼称が広まったとされている[177]。
- ^ ただし実際には、ゲーム理論家の間では1990年代以降、不完全観測(英: imperfect monitoring)下の繰り返しゲームの研究が精力的に行われている[396]。東京大学教授の神取道宏は「完全観測下でのトリガー戦略」だけが繰り返しゲームであるかのような認識について、「残念な誤解」、「良くある誤解の一つ」と述べている[482]。
- ^ 引用文の和訳は以下の通りである。
繰り返しの状況に関する最近の理論モデルの予測では、各個人は最適な均衡を形成するような混合戦略を外部から強制されることなく選択する。しかし、そのような戦略が選択されるためにはかなりの情報がプレイヤーに必要であるが、そのような状況が現実に観察されることは稀である。 - ^ 鼎談の収録日は2015年6月15日[485]。引用部分に続いて岩井はアダム・スミスらが肯定的に論じた分業が「知識の分業」にまで拡大している現状に対して「情報の非対称性」や「専門家倫理」という観点から警鐘を鳴らしている[484]。
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