ジンメル【Georg Simmel】
ジンメル
ゲオルク・ジンメル
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ゲオルク・ジンメル
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生誕 | 1858年3月1日![]() |
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死没 | 1918年9月26日(60歳没)![]() ![]() |
地域 | ドイツの哲学者・社会学者 |
学派 | 特になし |
研究分野 | 哲学(生の哲学) 社会学 |
主な概念 | 形式社会学 社会化 (社会学) 文化の悲劇 ( 独: Tragödie der Kultur ) |
ゲオルク・ジンメル(独: Georg Simmel, 1858年3月1日 - 1918年9月26日)は、ドイツ・ベルリン出身の哲学者(生の哲学)、社会学者である。ドイツ系ユダヤ人であり、キリスト教プロテスタント(ルター派)の洗礼を受けている[注釈 1]。 ジンメルは、社会学の黎明期における主要人物の一人であり、エミール・デュルケーム[5]、マックス・ヴェーバー[5]、カール・マルクス[6]らと並び称される。また、ベルクソンやディルタイとともに、生の哲学の代表的な思想家としても知られる[1][7]。
生涯
幼少期から学生時代
1858年 プロイセン王国の首都ベルリンのフリードリヒ通りとライプツィヒ通りの交差点の北西の角で生まれた[8]。七人兄弟姉妹の末っ子であった[9]。父はエドゥアルト・マリア・ジンメル ( 独: Eduard Maria Simmel ) でチョコレート会社のフェリックス&サロッティ ( 現在は「サロッティ」と呼ばれている[10] ) の経営者であり[9]、裕福なユダヤ系商人であった[1]。また、若くしてパリにてカトリックに改宗している[8][9]。
彼の母親のフローラ・ボドシュタイン ( 独: Flora Bodstein ) も父親と同じユダヤ人であるがプロテスタントに改宗している[注釈 2])。
1870年 にフリードリヒスヴェルダーシェス・ギムナジウムに入学した[11]。1874年に父親のエドゥアルトが逝去し、その後は、楽譜出版社のペータース経営者であったユリウス・フリードレンダーがジンメルの後見人になった[9]。1876年ベルリン大学に入学。当初は法学を学び弁護士を目指していたが、歴史に興味が移り、歴史や心理学や哲学を学ぶとともに、美術史やイタリア語も専攻した[1][12]。1881年に論文『カントの物理的単子論による物質の本質 ( Das Wesen der Materie nach Kant's Physischer Monadologie ) 』を提出し、哲学博士の学位を取得した[注釈 3][13]。
学者として

1885年に何度かの試験を経た後に教授資格を取得し[13][注釈 4][注釈 5]、 ベルリン大学の「私講師[14]」となり[注釈 6][7][13]、多方面にわたり講義をする[1]。しかし、1900年 ( 42歳 ) でようやく「員外教授[14]」となるが、1908年 ( 56歳 ) にストラスブール大学「正教授[14]」に転じる ( 同地で没するわずか4年前[7][15][16] ) まで恵まれない地位に留まった[注釈 7]。1889年、フリードレンダーの死去に伴い遺産を相続し経済的には安定することになった[13][17]。
1890年に最初の著作である『社会分化論―社会学的・心理学的研究』が刊行される。同年5月に同じ哲学者であるゲルトルート・ジンメル(旧姓:キネル 独: Kine )と婚約し7月11日に結婚した[13]。また、翌年の1891年に息子のハンス・ジンメルが生まれた[18]。
1892年に『歴史哲学の諸問題』(第一版)を刊行した。心理主義的な方法論を用いて、歴史認識に対する包括的な方法論を提唱し、歴史法則の確立を目指した。しかし、第二版では大幅な修正を行っている[13][18]。この頃よりジンメル夫妻と新カント派の哲学者ハインリヒ・リッケルト夫妻の交流が始まる[18]。また同年から翌年 ( 1893年 ) にかけて『道徳入門』を刊行しているが、ジンメル自身が失敗作と認めている[13]。
1894年に論文『社会学の問題』を発表した。この論文は同年にフランス語訳が、翌年 ( 1895年 ) にはシカゴ学派第一世代の社会学者のアルビオン・スモールによる英訳が発表された[18]。
1896年には、『社会科学の方法論のために』を発表している。この論文では新歴史学派のドイツ経済学者のグスタフ・シュモラーが書いた『唯物史観による経済と法』を批判している[18]。また論文『モダン文化における貨幣』も発表している[18]。
1897年には11月11日付の手紙で、シュテファン・ゲオルゲ宛にゲオルゲの朗読会に、後にジンメルと親密な関係になるゲルトルート・カントロヴィチ(1876年10月9日生 - 1945年4月19日もしくは4月20日にテレージエンシュタット収容所にて没[19])を同行させて良いかを聞いている[13][20][注釈 8]。ジンメルとカントロヴィチの間には後にアンギ ( 独: Angi ) という娘が生まれたが、そのことは長らく秘密にされてきた。またジンメルは生涯アンギに会おうともしなかった。当事者以外で唯一その秘密を知っていたジンメルの教え子であったマルガレーテ・ズスマンであったが、彼女はジンメル、カントロヴッチ、アンギ、そしてアンギと同年に亡くなったハンスの死後までこの事を公にしなかった[21]。

1900年『貨幣の哲学 ( 独: Philosophie des Geldes ) 』を刊行する[18]。また、ようやくベルリン大学の員外教授に就任する[注釈 9]。 この頃からジンメルは日本美術の収集に夢中になっていく[注釈 10][18][22]。 1901年には論文『二つの個人主義』を発表している[18]。また、1902年から1903年にかけて論文『大都市と精神生活』を発表し[18]、同年の夏にはプラハで開催されたロダン展を見学し非常に感動している[23]。 1903年にサバティカルを取り、イタリアに長期滞在をする。この間にカント研究を取りまとめるとともに、『社会学』の構想を練った[24]。1904年に前年取りまとめたカント研究に基づき『カント』を刊行した[25]。『カント』はカント哲学との対決を目的としている[26]。
1905年には「流行論」の先駆けとなる『流行の哲学』を刊行した[26]。『歴史哲学の諸問題』(改訂第二版)を刊行した[25]。第一版の実証主義的・心理主義的色合いが払拭され、「精神の歴史的形成力」が中心テーマである[25]。また、65歳になったロダンとの面会を果たした[注釈 11] 1906年『カントとゲーテ』(邦題:『宗教社会学』)を刊行した[25]。1907年『ショーペンハウアーとニーチェ』を刊行した[25]。
1908年社会学論文集の『社会学―社会化の諸形式についての研究』を刊行した[25]。同年、マックス・ヴェーバーがジンメルをハイデルベルク大学哲学正教授に推薦するも成功しなかった[注釈 12]。また、社会主義に共感していたことも原因のひとつと言われている[27]。以降、ヴェーバー夫妻と交友がはじまる[25]。
1909年論文『コケットリーの心理学』と『歴史哲学への寄与』を発表する。テンニースとヴェーバーとともにドイツ社会学会を創設し理事に就任した[25]。 1910年『哲学の主要問題』を刊行した。また、論文『食事の社会学』を発表している[25]。ドイツ社会学会第一回大会では『社交の社会学』について講演をした[注釈 13]。
1911年『文化の槪念と文化の悲劇』と『男女同性の問題における相対的なものと絶対的なもの』という2つの論文を発表した。論文集『哲学的文化』(邦題:『文化の哲学』)を刊行した。また、「社会学の創始者」としての功績により、フライベルク大学から国家科学名誉博士の称号が授与された[28]。 1913年『カント ( 増補第三版 ) 』、『ゲーテ』の2作を刊行した。また、論文『個性的法則―倫理学の原理に関する試論』を発表した。この時期から未刊行論文である『個人と自由』が執筆される。また同時期に芸術哲学への関心が高まり、ドイツ社会学会理事を辞任する意思を固めた[28]
1914年に『ドイツの内的変遷』( 講演録 ) を刊行した。また、ストラスブール大学哲学正教授に就任することとなり、生まれた時から長く暮らしていたベルリンを去りストラスブールへ転居した。ドイツの新聞には『ジンメルなきベルリン』というタイトルの記事が発表され、ジンメルに対して冷淡であったベルリンの大学が批判された[28]。1916年『カントとゲーテ』(増補第三版)、『レンブラント』、『歴史的時間の問題』の3作が刊行された。また、ウィーンで『文化の危機』について講演を行った[28]。 1917年『社会学の根本問題(個人と社会)』と『戦争と精神的決意』を刊行した[29]。
晩年及び没後
1918年『モダン文化の葛藤(講演録)』、『歴史的理解の本質について』、『生の直観』を続けて刊行した。9月26日午前9時にストラスブールにおいて肝臓癌のため死去した。享年60歳であった[29]。
1923年、ジンメルの没後5年に、遺稿集『断片と論考』が、ジンメルと親密な関係にあったゲルトルート・カントロヴィチの編纂で刊行された[29]。 1938年、ジンメルの没後20年に、妻のゲルトルート・ジンメルがシュトゥットガルトで死去した[注釈 14][29]。 1943年、息子のハンスがアメリカで亡くなり、娘のアンギがパレスチナで亡くなった[30]。
ジンメルの社会学


社会学は、社会を実証的に解明する学問として、オーギュスト・コントやハーバート・スペンサーによって始められた[31]。ジンメルの時代になると、社会学は他の社会科学との違いや関係性が問題とされるようになった。ジンメルは、社会学は他の社会科学とは異なる独自の方法論によって区別されるべきだと主張した[31]。
ジンメルは、コントやスペンサーによる百科全書的な総合社会学を批判するとともに[32]、極端な社会名目論[33]に立つ個人主義的実在論も批判した[34][35]。
彼の社会学は、個々人を単に寄せ集めたものとしてではなく、個人間の「相互作用(独: Wechselwirkung)」を通じて社会が形成される過程に注目するものであった。
この相互作用の過程をジンメルは「社会化 ( 独: Vergesellschaftung ) 」と呼び、社会とは固定的な実体ではなく、人々のあいだに成立する関係の動態であるとした[36]。こうした相互作用は、「支配と服従」「競争」「模倣」「社交」などの「社会的形式 (独: soziale Formen ) 」として現れる[37]。
ジンメルは、こうした分析を通じて、社会現象を素材(内容)ではなく、その形式に着目して捉える「形式社会学 ( 独: Formale Soziologie )」を提唱した。この方法論は、社会を構成する関係そのものの「かたち」に焦点を当てる点に特徴がある[38]。
また、彼は社会的関係において、個人と個人の間を取り持つ「媒介 ( 独: Vermittlung ) 」の役割に注目し、とくに貨幣や言語といった抽象的媒介が人間関係の様式をいかに変容させるかを探究した。
代表的な研究に『貨幣の哲学 ( 独: Philosophie des Geldes ) 』があり、ここでは貨幣が価値の抽象化を通じて社会構造に与える影響が分析されている[39]。
さらにジンメルは、人間関係における距離の操作にも関心を寄せ、異郷人[注釈 15]、秘密、社交(Geselligkeit)などを通じて、社会的距離の社会学的意味を探究した。この「距離の社会学 ( 独: Soziologie der Distanz ) 」は、後の人間関係論や都市社会学、さらには構造主義的思考への接続も指摘されている[40]。
形式社会学

形式社会学とは、ゲオルク・ジンメルが提唱した、社会の構造をその「形式」に注目して解明しようとする社会学の理論である[41]。
ジンメルは、社会の成立に関わる関係の「形式」を社会学の主要な研究対象と見なし、この立場を提唱した。ジンメルは従来の社会学 ( 初期総合社会学 ) が従来の社会諸科学の成果の集合体で科学としての厳密性に課題があると批判した[42]。社会学の研究対象を社会的なものに求めることによって、社会学に独自の学問的領域を与え、他の社会科学と区別される固有の専門性を確立しようとした[43]。
ジンメルによれば、広い意味での社会は人々の心的相互作用である社会化において成立するが[44]、この社会化の過程は、経済や宗教、政治といった関心や目的に基づく『内容』と、それを実現するための『形式』とに概念的に分けられるとジンメルは考えた[43]。社会の内容的側面については、既に経済学や政治学といった社会科学の対象領域であったが、社会学は、経済学や政治学が担う内容的側面を他の社会科学に委ね、純粋な形式そのものを対象とすべきだとジンメルは主張した[45]。 このように社会学とその他の社会科学を分別することで、社会学は固有の研究対象をもつ専門科学として成立する。こう考えてジンメルは、上位と下位、闘争と競争、模倣と分業などの社会化の形式を抽出して分析した[43]。
この思想により、社会学に独自の研究対象を切り開いていった。また、多くの人々に影響を与え、ドイツではアルフレッド・フィアカントやレオポルド・フォン・ヴィーゼ、アメリカではエドワード・アルスワース・ロス[46]、アルビオン・ウッドベリー・スモール、日本では高田保馬らによって継承、発展させられてきた[47]。しかし、形式社会学が体系化され緻密化されるにつれ、1930年代に入ると形式社会学は、理論の抽象性や実証との乖離という批判も生じた[43][48]。
社会化
ジンメルは「社会(独: Gesellschaft)」を、固定的な実体ではなく、人間相互の関係が一定の形式をとって展開する過程と捉えた[49]。彼はこの過程を「社会化」と呼び、社会的な現象は、人間同士の相互作用が織りなす「形式 ( 独: Form ) 」の中に現れると主張した[36]。たとえば「競争」「支配と服従」「分業」「社交」などがこうした形式の一例である[37]。 ジンメルの社会分析、とくに『貨幣の哲学』における貨幣や抽象的媒介に関する議論は、後の構造主義的な思考と共通する問題意識を先取りしている側面があり、クロード・レヴィ=ストロースによる「非真正な社会」論に先行していると評価する研究者もいる[40]。
相互作用
ジンメルの社会学において中心的な概念は「相互作用 ( 独: Wechselwirkung ) 」である。ジンメルによると、社会学は社会という統一概念を大前提として考え、統一概念のもとの社会の諸規定という考え方では、社会の諸部分の関係性や相互作用を明らかにすることは出来ないとしている[50]。 また、実在するのが個人だけで、社会は単なる個人の総和に対する名前であるとする「社会名目論[51]」においては、実在するものは要素に分解可能であるという要素還元主義という立場をとるのに対して、ジンメルにおいては実在する要素を要素間の関係で把握しようとしており、この関係性への着目こそが、ジンメルにおける「相互作用」概念の核心である[52]。
統一概念という大前提からではなく、諸部分の関係や相互作用から「社会」は構成されていると考えるべきであり、社会とは相互作用のまとまりに対する名称にすぎず、そうした相互作用の程度に応じた相対的な概念にすぎないと論じている。 また、個人という概念も相互作用によって構成される二次的な構成物にすぎないと論じている[50]。
個人主義と社会主義、社会科学と人間科学、という二項対立を超越することを目指すジンメルの思想においては、社会学的研究には二つの局面が存在することになる[50]。
第一の局面は、相互作用そのものを分析対象とする初期的な研究段階である[50]。 第二の局面は、相互作用に基づいて構成された「社会」や「個人」といった概念を扱う後続的な研究段階である[50]。
社会的形式
ジンメルは、社会的現象において「内容 ( 独: Inhalt ) 」と「形式 ( 独: Form ) 」を区別することを重視した[31]。社会を社会として成立させるのは諸個人の相互作用の力によるものであり、人々が互いに関連することで社会は形成されている[53]。この相互作用をジンメルは「社会化 ( 独: Vergesellschaftung ) 」と定義している。また、相互作用の目的や関心が社会化の内容であり、相互作用の方法を形式と呼んでいる[54]。 つまり、社会学として考察すべき様々な現実は、目標・興味・衝動などの内容と、多様な形式が社会生活の中では分離されることなく一体として、社会を作り上げている[36]。たとえば「愛」「憎しみ」といった感情が「社会的関係」として成立するのは、それが一定の形式(たとえば献身、闘争、儀礼)をとることによってである[55]。形式は可変であり、異なる内容が同一の形式に則って現れることもあれば、同一の内容が異なる形式で表現されることもある[38]。
社交
ジンメルは、人と人との相互作用 ( 社会化 ) を形式と内容の二つに分類し[56]、社会学の対象は社会化の分析にあると考えている。彼の著書である『社会学の根本問題』では、形式の分析である形式社会学を純粋社会学と言い換えるとともに、純粋社会学の例として「社交 ( 独: Geselligkeit ) 」を挙げている[56]。
ジンメルによると社交とは「社会化のゲーム形式」もしくは「社会化の遊戯形式」であると定義している[57][37]。個人と個人の間の相互作用が具現化されたものが「サロン」や「パーティー[58]」であり、社交はサロンやパーティーの参加者の「自由な相互作用」と「相互の対等な関係」が必要となる。自由な相互作用と相互の対等な関係の二つは、社会化のゲーム形式における社交の根本原理であると論じている[59]。
自由な相互作用は、自由に交流する諸個人の関係であり、生活をするための必要性に基いた具体的な動機づけを必要としない諸個人の関係である[59]。この自由な相互関係を確保するには、社交においては「客観的なもの」と「個人的なもの」が排除される必要がある。客観的なものの排除とは、「個人の資産」「社会的地位」「学歴」「信望」といったものである。個人的なものの排除とは、「日々の暮らし」「その時々の心持」「個々人特有の性格」である[59]。自由な相互関係の維持には、「機転[60]」による社交の雰囲気の変更や、「分別[61]」によって個人の資産や社会的地位や生活感や性格といったものを出さないようにするという工夫が必要であるとジンメルは主張している[59]。
また、社交における相互の対等な関係は、社交が社会化のゲームもしくは遊戯であるので、社交で実現される「社交の民主主義」においては、社交に参加する人は自己の客観的内容を放棄するとともに、自己の外面的・内面的な意義を強調しない社交的人間として対等な関係になる[62]。
また、ジンメルは社交を考察する中でコケットリーについても注目している。ジンメルは「女性」や「愛」に関心をもち、愛を単にプラトン的な「所有と非所有の中間状態」とは見なさなかった。もしそれが単なる中間状態にすぎないならば、愛の対象を所有した時点で愛は完了してしまうことになる[63]。
これに対してコケットリーは、「Yes」か「No」の明確な返答を意図的に保留する行為であり、ジンメルはこれを「神秘的な混和」と呼んでいる。彼によれば、女性は「選択の未決定」において「自由と権力の魅力」を感じており、男性はこの保留状態、すなわち「Yes」の前段階において特有の快感を得る[64]。
ジンメルにとって恋愛関係は、個人と個人とのあいだにおける生の内面的な関係の原型であり、この愛の「保留関係」を人間が生き、かつ享受する存在であるとするならば、他の人間関係においても同様の構造が見出せると考えられる。こうした観点から、ジンメルは「社交」の論理を展開している[65]。
媒介
ジンメル社会学における「媒介」とは、社会的関係が直接的な相互作用にとどまらず、「第三者 (独: der Dritte)」や「三者関係 (独: Triade)」、「象徴」、「制度」などを通じて成立するという構造的な洞察である[66][67]。 ジンメルは、社会の分化が進むにつれて、個人が複数の集団に所属し、それぞれの集団内で相互作用が張り巡らされることで、個人が「糸の交点」として社会構造に位置づけられると論じた[68]。 ジンメルは、社会は糸(相互作用)と交点(個人)から構成される関係の網によって成り立っており、その多くが媒介的に成立していると述べた[69]。 『社会学の根本問題』の中で、ジンメルは、資源の交換関係において、「パトロン」と「クライアント」の間に介在する第三者の「ブローカー」や、「中立者」「媒介者」としての第三者の役割を多角的に分析し、関係の調停、分裂、支配の構造を明らかにした[70][71]。
さらに『貨幣の哲学』では、貨幣を媒介項と位置づけ、それによって無数の客体[72]を交換可能とする関係が生まれることを示した。そして、あらゆる個人が貨幣を媒介として交換可能な客体を関係を持つことが出来るようになると分析している[73]。 また、媒介としての貨幣が価値や分業や信用といった社会的行為に対してどのような作用を及ぼすのかを論じている[74]。
距離の社会学

19世紀中盤はドイツでも産業革命が始まり[75]、自然科学的思考が重視されるようになった。こうした動向を受けて、人間や社会を対象とする人文・社会科学においても、自然科学との方法論的違いが意識されるようになり、その理論的整備が求められた[76]。 物を対象とする自然科学と、人間を対象とする人文・社会科学の方法論の違いがクローズアップされるようになった。新カント派のヴィンデルバントやリッケルトが、自然科学が法則定立的であるのに対して、精神科学は個性記述的であると主張した[注釈 16][76]。 ジンメルは、社会学とは現実の事象から「社会化の形式」を抽出する学問であると考えた。この形式の抽出は、自然科学のように一般法則を導く場合もあれば、歴史学のように個別の事象を記述する場合もある。つまり、法則をとらえるのか個性をとらえるのかは、分析者の方法論的立場に依存するのではなく、観察する者が対象との間にとる「距離 ( 独: Distanz )」によって決定されるとされた[76]。ジンメルの思想は、法則をとらえるのか個性をとらえるのかは、観察する者が対象に接近する距離に応じて決定されるもので、観察する者が対象との距離をどの程度とるかは、観察者の認識の目的によって変化することを意味する[76]。

また、距離の社会学を考えるうえで重要なキーワードに「異郷人(独: Der Fremde)」がある。我々が集団の中で何かを決めるときには多数決か満場一致という手法を取ることになる。ジンメルによれば多数決という「多数の意見=集団の総意」は自明なものではなく特殊な社会観に基づくものであると指摘している。多数決と対照的な決定方法である満場一致は、個々人の意思と集団の意思が充分に分離していない狀態でしか機能しないとも指摘している[77]。個性的なメンバーが多数集まった集団では満場一致が実現されることは極めて希で、多数決が採用されざるを得ない[77]。 ここでジンメルのいう異郷人が、既に成立している集団に外部から参入定着した場合、単なる部外者ではなく内部と外部を兼ね備える2面性を持つ存在となる[77]。ジンメルはこのような存在をネガティブには捉えていない。異郷人は集団の特異な構成や一面的な傾向にとらわれることが少ないため、揉め事の際には中立的な立場で関わることが可能であり、集団内で常識化された固定観念にとらわれず新しい考えを集団に提供できる可能性もあると指摘している[78]。このような異郷人は集団に属しつつも集団に同一化しない「私」であり、このような「私」は他者や集団に対して一定の距離をもち、距離を保つことで自らの個性を発展させることが可能となる。異郷人は集団の閉鎖性に取り込まれないため、近さつまり親密性 ( 独: Nähe ) と遠さ、つまり距離 ( 独: Distanz ) は絵画における遠近法のような効果、換言すると、視点の距離が関係の質を変える効果をもたらし、近すぎれば同一化によって他者性が失われ、遠すぎれば関係そのものが失われてしまう[78]。したがって「親密性と距離」は、社会的関係において常に相補的かつ緊張関係を成立させる[77]。 しかし異郷人は「よそ者」であり、「よそ者」の境遇は「よそ者」を向かい入れる集団のメンバーの側の意思や行動によって左右されてしまう。異郷人は近くに現れた疎遠な存在であり、既存の集団との間には抽象的な共通性しか見いだせない存在であるのも確かである。時として異郷人は排除されたり、集団に忠実でないものとして非難される危険性をつねにはらんでいる[77]。
貨幣の哲学

『貨幣の哲学』はジンメルの主著である。本書は分析編と総合編から成り、貨幣の機能と人間的価値の関係を多面的に探究する構成となっている[79][80]。
ジンメルは貨幣を、人間の欲求とその充足のあいだに立ちはだかるモノによる「抵抗機能」として定義している[79]。 貨幣の起源について彼は、従来の伝統的な見解を踏襲し、貴金属や家畜など、既に価値を備えていた事物から貨幣が生成したと考えた。起源論において独自の理論を打ち立てることはなかったが、媒介としての貨幣の意義については、独自の洞察を示している[15]。
また、価値が形成されるきっかけとなるのは「距離 ( 独: Distanz )」と「交換 ( 独: Tausch) )」であると論じている。ジンメルは客体の特徴が希少性であっても、獲得するために努力が必要なものであっても、客体は希少性や努力によって、われわれとの間に距離を生じさせる。距離は客体に価値を与えるというジンメル固有の立場を示している[81]。この視点はマルクス経済学や近代経済学の視点とは全く異なっている。ジンメルによると主体と客体との間の距離が、経済的意味における価値を成立させると結論付けている[82]。
ジンメルの貨幣論は、近代経済学で「欲求の二重の一致(double coincidence of wants)」と呼ばれる物々交換の困難を媒介によって克服する機能と通じる側面を持つ[15] [注釈 17]。

ジンメルは貨幣制度の変遷について、まず原始的な経済段階では、家畜・塩・奴隷などの使用価値のある事物が貨幣として用いられていたと述べる。これは、直接交換においては素材そのものの価値が重要だったためである。 しかし、やがてこの素材価値の重視は後退し、金や銀に代表される「鋳造貨幣[83]」によって、貨幣はより抽象的な「機能価値」へと進化していった。
さらに、紙幣は「金属の指図証券[84]」から「全く無準備な紙幣」へと移行し貨幣の抽象化は一層進んでいったとしている[15]。
ジンメルにとって、価値とは心理的なものであり[85][86]、それは人間の欲求に対して対象が示す抵抗機能によって構成される[注釈 18]。このとき、価値は単なる主観的な評価ではなく、欲求の実現に必要な犠牲、すなわち対象への接近を困難にする距離やコストを通じて物的に表現される。この犠牲の象徴的媒介として働くのが貨幣である[79]。
人間を取り囲む事物は認識によって成り立ち、自然法則に事物が従う「存在の世界」と、意欲の対象として事物が評価され欲求によって成り立つ「価値の世界」によって構成される。価値の世界で事物は価値の秩序に従い差異あるものとして並び替えられる[87]。
貨幣は実態的な価値を持つものであるが、その価値は実態的な価値から機能的価値に発展するとジンメルは述べている。この発展は、個人の物事を抽象的に把握する知性の発展や、経済圏の堅固さを構成する社会的な相互作用の安定性と信頼性によって成立するとジンメルは論じている[79]。 ジンメルの貨幣観は、物々交換の必要条件である交換当事者間の「欲求の二重の一致」という厳しい制約から開放されるために自然発生的に生まれたという点では、ジョン・ロー、カール・マルクス、カール・メンガーの思想と一致する。しかし、ジンメルはローやマルクスやメンガーのような伝統的貨幣起源論者とは異なり、貨幣に対する信頼もしくは信用を非常に重視した点が異なっている[88]。ジンメルは金や銀といった金属貨幣ですら、単なる「支払いの約束」であるとしており、財やサービスの売買取引における買い手、つまり「貨幣保有者」に対する売り手の信頼を重視するという視点に重きをおいている[89]。 ジンメルは『貨幣の哲学』において以下のように述べている。
金属貨幣は信用貨幣の絶対的な対立物とみなされるのが通常であるが、実際には金属貨幣にも独特な仕方で絡み合っている2つの信用についての前提がある。第一に、日常の取引では、鋳貨の品位の検査は実行されない。あるいはおそらくは鋳貨の名目価値に対してその実質価値を確定できる人々への信頼がなければ、現金取引を発展させることは出来ない。 (中略) 信頼がなければいかに完全な鋳貨もたいていのばあい、その機能をはたすことができない。まさに硬貨の受理についての理由の多種多様性と度々の対立が示しているのは、その客観的な証明力が本質的なものではないということである。 (中略) しかし第二にそこになければならないのは、今受け取られた貨幣は同じ価値のためにふたたび支出されるという信頼である。ここでもまた不可欠で決定的であることは、<銅ではなく信頼> ―経済圏への信頼であり、経済圏は提供された価値量を、そのために受け取った中間価値である鋳貨と引き替えに、いかなる損傷もなくふたたびわれわれに保証するということである。このように二つの側面から信頼をあたえることなしには、だれも鋳貨を使用することができないであろう。 — (『貨幣の哲学』ジンメル著、居安正訳 170頁9行目〜21行目より抜粋引用 [90])
この二重の信頼にしてはじめて不潔でおそらくは識別しがたい鋳貨に一定の価値量を与える。人々の相互の信頼がなければ一般に社会が崩壊するように、 (中略) 信頼がなければ貨幣取引も崩壊するであろう。しかしこの信頼は一定の仕方でニュアンスをもつ。貨幣の価値が基いているのは、交換手段とひきかえに一定の商品を獲得できるという受取人の信頼であるから、あらゆる貨幣は本来は信用貨幣であるという主張は、―まだ完全には啓発的ではない。というのもそのような信頼に基づくのはたんに貨幣経済のみではなく、すべての経済一般であるからである。 — (『貨幣の哲学』ジンメル著、居安正訳 170頁21行目〜171頁7行目より抜粋引用 [91])
ジンメルは2つの側面からの信頼なしには貨幣は利用不能であり、貨幣取引は崩壊すると述べている。ここでいう「貨幣の2重の信頼」とは、貴金属でできている「貨幣自体」への個別的な信用と、貨幣が集団内のすべての人によって使用されることを可能にする経済社会全体に対する信用である[92]。 貨幣が社会において広く受け入れられる交換手段として機能するためには、当該貨幣に対する人々の信頼が前提条件となることは自明である。しかし、ジンメルは貨幣に対する信頼の具体的性質と構造を理論的に解明した点において、貨幣論の発展に一定の寄与をなした[92]。
ジンメルによれば、信用における信頼には、通常の知識に基づく信頼を超えた独特の要素が存在する。この要素は宗教的信仰において最も明確に現れるものである。神への信仰は単なる知識の不完全性を示すのではなく、知識とは本質的に異なる心理状態を表している。「だれかを信じる」という表現が、その対象の具体的内容を明示しない場合があることは、この信頼の特殊性を示している。それは、われわれの認識と対象との間に一定の調和があるという感情であり、概念の一貫性への確信、そして自我がその概念に対して抱く確実性と受容性であるとしている[92][93]。またジンメルは貨幣は社会的信頼のシンボルになり得るとして、以下のように論じている。
貨幣所有が与える個人的な安心という感情は、おそらく国家的・社会的な組織と秩序への信頼の最も集中的で先鋭的な形式と表明である。(中略)実体貨幣から信用貨幣への発展は、思われるほどに根本的ではないということである。なぜなら、信用貨幣とはすでに実体貨幣の中に決定的な仕方で存在していた信用要素の進化と独立化とは分離されて解釈されるからである。 — (『貨幣の哲学』ジンメル著、居安正訳 171頁22行目〜172頁5行目より抜粋引用 [94])
ジンメルは貨幣は社会のシンボルになると主張し、貨幣を発行する国家への参加者集団である民衆の信頼がなければ、もしくは、鋳貨の名目価値についてその実質価値を確定できる人 (国家) への信頼がない場合は、完全な価値を持つ貴金属貨幣であっても貨幣としての機能を果たすことが出来ないと論じている[92][95]。
ジンメルにとって、貨幣に対する信頼は単なる経済的現象ではなく、より根本的な社会的結合の問題であった。彼は貨幣制度が機能するためには、個人を超えた集団的な信頼関係が不可欠であると考えた。この視点から、ジンメルは貨幣論と宗教社会学を結びつけて論じている[96][97]。 このような観点から、ジンメルは『貨幣の哲学』に先立って発表した『宗教社会学』において「信頼」「信仰」「信念」という3つの概念についての類似性と重要性を指摘している。彼によれば、宗教が社会を結合させる強固な存在であり、人間と人間との間の相互作用は宗教によって形成され、この宗教によって形成された相互作用の基盤の上に貨幣への信頼と統一が成立するとしている[97]。つまり、ジンメルは貨幣に対する集団参加者の信頼が重要であり、この信頼が社会関係を形成する根本的な要因であると捉え、「信頼」「信仰」「信念」には強い関連性があると主張している[92]。
ジンメルの生の哲学
ジンメルは晩年 (20世紀初頭) には社会学的研究から哲学的探求へと関心が移っていった[27]。「生の哲学」と呼ばれる独自の思想的立場を展開し、ディルタイ、ベルクソンとともに「生の哲学」者として知られるようになった[7]。彼の生の哲学は、それまでの形式社会学の理論的基盤を根本から問い直す哲学的転回を意味している[1]。
ジンメルにおいて「生 ( 独: das Leben )」は、人間存在の唯一かつ究極的な原理であり「生の形而上学」である[27]。その本質は、一方では「生」がそれ自身にとどまることなく、つねに新たな自己を生成し続けるという「自己超越 ( 独: Selbsttranszendenz )」にあり、他方では、その「生」が自らを外部化し、「形式」として現れることにより自己を疎外するという「自己疎外 ( 独: Entfremdung )」にある[1]。
ジンメルの生の哲学は、単なる抽象的な形而上学ではなく、ジンメルの社会学理論と密接に結びついている。彼にとって、社会的相互作用は「生」の現実化の一形態であり、また個人と社会の対立は「生と形式」の対立が具体化したものでもあった[1]。
このような観点から、ジンメルは近代社会における文化的創造とその限界について独自の批判的考察を展開した[98]。たとえば、文化が高度に制度化・分化することで、個人の「生」の直接性が形式に圧倒される「文化の悲劇 ( 独: Tragödie der Kultur )」を指摘し、個人と文化の対立を哲学的に分析した[99]。
ジンメルにおける生の哲学は、ジンメルの思想体系全体を統一する理論的枠組みとして位置づけられ、彼の社会学的洞察に哲学的深みを与えるとともに、現代社会の文化的危機に対する分析の基盤となっている[27]。
またジンメルの生の哲学は、同時代のベルクソンやディルタイの思想と共通点を持ちつつも、ジンメルはより文化的・社会的相互作用に注目し、独自の展開を見せている[100]。
生と形式の対立
人間の生は、「より多くの、より強力な生」を目指して絶えず生成し続ける[101]。生はそれ自体では純粋で流動的なものであるが、表現されるためには形式を必要とする[102]。ジンメルは芸術、経済、制度といった全ての人間活動を「生の形式」という視点で捉えている[101]。生が表現されるとき、自己は具体的な形 ( すなわち客観化・対象化 ) を取り、それは既存の秩序や形式として現れる。生が既存の秩序や形式に取り込まれることで、自己は疎外感を抱くことになる。ジンメルはこのような緊張関係を、「生と形式の対立」と呼んだ[103]。
生の自己超越と自己疎外
ジンメルは、「生の運動」と「生における時間」が本質的に同じ性格を有すると考えており、「生における時間」は「生の運動」の直接的な意識形態であると解釈している[104]。こうした共通の性格とは、「自己超越」を意味している。 自己を超えようとする傾向が、生という実体そのものに組み込まれているため、「生の運動」は絶えず自分自身を乗り越えようとする力として現れる。すなわち、生は自らの存在の前提を超えて、常に自分自身からの脱却を求め、自身を超えて他者や世界へと広がっていく[105]。 同様に、「生における時間」もまた、現在的な自分自身を超えることを意味しており、時間とはつねに個々の瞬間を超えてゆくものである。その点で、時間もまた本質的に「自己超越」の性格を持っている[105]。

ジンメルは『社会学』において、「距離 ( 独: Distanz ) 」と「接近 ( 独: Nähe ) 」や「無関与 ( 独: Teilnahmslosigkeit ) 」と「関与 ( 独: Teilnahme ) 」について論究し疎外論を展開した[106]。古来からヨーロッパのユダヤ人は地域社会との関係が希薄であるとともに地域社会から隔絶されて、疎外状況の中で暮らしてきたとジンメルは指摘している[107]。しかし、その疎外 ( 独: Entfremdung ) の代償として、ユダヤ人はヨーロッパの歴史において政治、経済、文化といった多方面において、状況観察と認識、行動判断の自由を獲得したとジンメルは考察している[107]。ジンメルはヨーロッパにおける異郷人 ( ユダヤ人 ) である自己を強く自覚しながら、その試練の中で自尊心を保ちつつ生きることに苦しみを抱えていた。その苦悶を文化の創造と破壊作用という考え方で捉え直して突破しようとした。これは、いわゆる異郷人の疎外状況とは一見、まったく異なる姿である。ジンメルは概念における自己疎外の高みから自己の位置と世界(文化)を見おろしたのである[108]。
ジンメルは絶えざる文化形成としての生の形式の交代をマルクスの言う「人間の自己疎外 ( 独: die Selbstentfremdung des Menschen ) 」にならって「生の自己疎外 ( 独: die Selbst-Entfremdung des Lebens ) 」とした。これはヘーゲルの意識としての単純精神が発展的「自己疎外 ( 独: Entäusserung, Entfremdung ) 」を繰り返しながら最も高貴で完全な神の領域にある「絶対精神 ( 独: der absolute Geist ) 」へと進展してゆく弁証法における発展構造との類似性を意識していたと考えられる[108]。
生と宗教

古代以来、宗教は哲学における中心的主題の一つであり、近代においても多くの哲学者が宗教の意義について深い考察を加えてきた[109]。たとえば、パスカルは『プロヴァンシアル』を通じて宗教論争に参加し[110]、カントは宗教を理性の領域において再構成しようとした[111]。ジンメルもまた、これらとは異なる観点から宗教を捉え、「生の哲学」の文脈の中で独自の宗教論を展開している[109]。
ジンメルの両親はともに改宗ユダヤ人であり、父はカトリックに、母はプロテスタントに改宗していた。彼自身はルター派の洗礼を受けており、ユダヤ人の出自を持ちながらプロテスタントとして育った。彼はユダヤ人でありながらプロテスタントとして生きたマージナルマンである[112]。彼の複雑な宗教遍歴が、彼に特有の相対主義的思考手法に影響を及ぼしている[109]。
マルクスは宗教を「アヘン ( 独: Opium )」と捉え、社会の支配階級による抑圧の手段として否定的に評価した。これに対しジンメルは、マルクスの「唯物史観」を、歴史における人間の生活全体を「経済の諸形式」から説明しようとする一面的な枠組みに過ぎないと批判している。また「社会的な関係の諸形式」という独自の視点から宗教を分析し、宗教の意義を肯定的に捉えている[113]。ジンメルがここで問題視するのは、マルクスが経済的要因によって人間の生活を一方的に決定するものと捉えた点である。ジンメルは、人間の「生」そのものがより根源的であり、経済も宗教も芸術も学問も、すべて生から生まれた様々な表現形式に過ぎないと考えた[114]。
ジンメルは、宗教、芸術、学問、道徳、経済といった文化的形式は、本来は人間の生を支える手段として生まれたものであると考える[115]。しかし歴史の中で、これらは自律化し、逆に人間の生を拘束するようになるという「大きな転回」が起こったと指摘している[116]。
彼はこれら自律化した文化領域を「理念の諸王国(独: die Reiche der Idee)」と呼び、宗教は神学的体系に、芸術は美的価値に、学問は純粋な真理追求に、道徳は絶対的な規範にそれぞれ従属するようになったとする[117]。こうした価値体系は本来の生から遊離し、むしろ人間に対して形式の側から従属を強いるものとなった。
この見方は、マルクスが経済的諸形式を通して人間の疎外を論じたことと類似しているが、ジンメルは経済に限らず、あらゆる文化的形式において同様の疎外が起こる可能性を見ている点で、より包括的な視座を提示している[118]。
ジンメルは、宗教を人間の「生」が自己を超え、絶対的な存在と関わろうとする運動の一形態として捉えている。儀礼や制度としての宗教は形式化された生である一方、信仰や宗教的感情は、生の内発的な運動に根ざしている。このように宗教を生の自己超越の現れとして理解することで、ジンメルは宗教現象に独自の哲学的意味を与えた[119]。
文化の悲劇
ジンメルの生きた19世紀末から20世紀初頭は文明の爛熟期であるとともに、楽観が許されない凋落の時代であった。機械化による共用の欠如、粗悪さや俗物による支配、環境破壊が深刻な大都市の誕生、拝金主義といった産業化・工業化の弊害が表面化していった時代であった[98]。 文化とは主観的精神による客観的な形成行為であり、精神はその形成物を介して精神はその形成物を介して、再び主観的精神へと回帰することが期待されている。ジンメルは、主観と客観が相互に合流することによって文化が成立すると考えている。この「文化のパラドックス」において、主観は客観化され、客観は主観化される。ジンメルは、この運動の中においてこそ、「生 ( 独: Leben ) 」のもつ力強さを肯定すべきだと主張している[98]。
生の理念は、主観的側面「文化価値 ( 独: Kulturwerte ) 」と客観的側面「事象・物品価値 ( 独: Sachwerte ) 」とを調和・総合させることで、自己実現する。作品制作という文化形成の具体的な現場に引きつけて考えてみれば、制作者が自身の作品においてより高次の自己を完成させることで満足を得るという事態こそ、文化における生の自己実現の一形態と位置付けられる。このような、作品を通じて高次の自己を完成させることで生が実現されるという、ヘーゲル的な『精神哲学』の楽観主義を、ジンメルは否定している。 [120]。
ジンメルは、文化の悲劇の原点は、制作物に意味性をもたせるのが制作者ではなく、制作物を理解し受け入れる側である点にあると断定している[121]。制作物を理解し受け入れる側が制作物に意味性を与えることで文化は成立するとしており、文化において制作者の意図が正確に反映されると言い難く、制作者の意図は必然的に挫折することとなる。このため「文化の悲劇」が生まれるとジンメルは説いている[121]。
「孤立と疎外」をもたらす「文化の悲劇」の最大の原因は、ジンメルによれば人間の文化制作が基本的に「分業 ( 独: Arbeitsteilung ) 」によって行われる点に原因があるとしている。例えば「都市計画」のように、不特定多数の人間が制作にかかわっている場合、その主観的意味内容が制作物に反映されることは稀である。すなわち都市計画の場合、その作者を言い当てることは不可能に近いとジンメルは主張している[99]。
社会学との関連

ジンメルの社会学はデュルケーム ( 1858年4月15日生 - 1917年11月15日没 ) の社会学とは一線を画している。デュルケームが課題とする「社会分業」に対して、ジンメルの「社会分化」は個性の問題に力点をおいている[122]。
ジンメルは続いて社会学とは一見無関係に見える歴史哲学の研究を進める。この歴史哲学の研究は、ジンメル社会学へ新たな方法論をもたらし、彼の形式社会学が強化されることになった[123]。 ジンメルは歴史を「心的諸事象 ( 独: psychische Vorgänge )」の歴史であると定義している。歴史認識の対象は、「個人の表象[124]」「意志」「感情」などの心的事象であり、歴史認識における客体とはすなわち「心」であると規定した[125]。政治や経済に代表される諸々の外的事象は、心の動きから生じるものではなく、心の動きを呼び出さないのであれば、興味のあるものでもなければ、理解できるものでもないと考えたことによる[125]。このような対象を認識するための手法として、カントの認識論における「いかにして自然は可能であるか[注釈 19]」にならい「いかにして歴史は可能であるか」を問題とした[126]。
カントの認識論におけるアプリオリ ( 羅: a priori ) が認識全般に適用されるのに対して、ジンメルは心的なものを認識するための特殊なアプリオリを想定した。ジンメルの歴史認識に対するアプリオリは、一定の内容だけにしか適用できない特殊な諸形式と定義し、その源泉を心理学に求めている。ジンメルはこれを「心理的アプリオリ (独: Das psychologische Apriori )」と定義している[127]。
他者を理解しようとする行為は、日常生活において無意識のうちに行われている。その場合「心的アプリオリ」が前提にあり、これをもって他者を理解している。ジンメルは無意識に行われている理解についての心理的な前提をジンメルは明確化している[127]。
批判と評価
デュルケームによる批判
同時代の社会学者であるデュルケームは、ジンメルの社会理論に対して明確な批判を行っている。ジンメルが「現代社会における個人と社会」や「分化社会における社会的な糸の交点としての個人」という視点から議論を展開したのに対し、デュルケームはその個性化の議論が一般的な形式にとどまり、具体的な「社会分業」の問題が取り上げられていないと指摘している[122]。
デュルケームにとって、社会分業とは社会の統合と連帯の構造を解明するための核心的なテーマであり、そこには労働や機能の配分、制度の整備といった実態的な分析が求められる。これに対し、ジンメルの分化論は個人の内面に焦点を当てた形式的分析であり、分業を通じて形成される社会秩序の説明としては不十分であるというのが、デュルケームの主張である[122]。
カッシーラーの文化の悲劇に対する批判
カッシーラーは、文化は悲劇ではないと断言し、ジンメルが「文化には終幕がある」と考えていた点を批判している[128]。
カッシーラーによれば、ジンメルは啓蒙的合理主義に対するルソーの批判を継承している。ルソーは、人間の不幸や不平等の起源を文化や理性に求めたが、ジンメルもまたこのような「文化の悲観主義」を受け継いでいるとされる[129]。
しかしジンメルにはルソーが理想化した「自然」のような出口戦略は存在しない。彼にとって文化における自己疎外や、魂と世界との緊張関係は、生の深層から湧き上がる避けがたい力であり、それによって精神の無力さが導かれるのだとしても、悲劇から逃れる術はないと結論づけている[130]。
これに対しカッシーラーは出口を示すのではなく、「この道を歩み続け、終着点に至ること」を提案する[130]。 もし制作者が自己を作品に投影できず、制作が常にその手を離れていくことが「文化の悲劇」の源であるならば、その先にこそ「悲劇を超える契機を見出すべきだ」と彼は主張する[130]。
文化において制作者の意志が反映されにくいのは意味や意志が欠けているからではなく、むしろ多様な受容者が新たに意味を創出する力を持つからである。 受容者は制作者とは異なる基準を持っており作品の意味は作品自体ではなく、それを媒介とした受容行為の中で常に生成されていく。 したがって、文化とは弁証法的な「ドラマ」であり、開かれた発展的過程にあるかぎり「悲劇」と断定することはできない。 「ドラマ」には終わりがなく、それが悲劇か否かの判断は、幕が降りて物語が閉じたときにのみ可能となる。文化の歴史的プロセスには終わりがない、とカッシーラーは結論づけている[130]。
社会化の形式に関する誤解
ジンメルの社会学は生前から注目されていた。『社会学の諸問題』が発表された翌年には、フランス語や英語に翻訳されていたことからも明らかである。しかし、「社会化の形式を抽象する」というジンメルの社会学における方法論を正確に理解する研究者は少なかった。ジンメルが抽象しようとしたものは「心的相互作用」であるが、「ジンメルの社会概念の本質は心理的要素を全く排除したところに成立する。」といった曲解のもとで、「ジンメルの形式社会学において重要なのは形式としての社会概念であり、この概念によって社会は内容を排除した形式に変化させられ、社会学は形式のみを対象とし社会の全体を把握することが出来ない。」といった間違った解釈をされることがあった[注釈 20][131]。
また、タルコット・パーソンズはヴェーバーの用いた「理念型」とジンメルの「社会化の形式」を混同して解釈をしている。ジンメルの社会化の形式は現実から抽出された結果であって、ヴェーバーの理念型のような「現実を分析するツール」=「説明的カテゴリー」ではない。パーソンズの理解はヴェーバーの方法論的個人主義の枠組みと理論で、無理やりジンメルを理解した結果ということが出来る[48]。
ジンメルの影響
第二次世界大戦後、社会学の中心はヨーロッパから米国に移った。このためジンメルの社会学はアメリカで継承されるケースが多い[132]。 ジンメルの都市論を受け継いだ研究者としてはアメリカの社会学者であるパークがあげられる。パークのドイツ留学中に指導をしたのがジンメルであり、ジンメルの論文『大都市と精神生活』の影響を受けて、都市を「社会的実験室」と捉えて、都市に生活する人々の人間性 ( 独: human nature ) に注目している。 また、ジンメルの『社会的闘争』の理論を発展させたのが、ルイス・コーザーである。コーザーはジンメルの『社会学』において論じた「闘争」の問題を再定義している。コーザーは否定的に捉えられることが多い闘争について、闘争の積極的意義をジンメルの社会学から抽出し機能主義の視点で単純化して示した。 さらに、方法論的関係主義を発展させたのがピーター・ブラウであり、ブラウはジンメルの方法論的関係主義を継承し、二者間の相互作用から新たな理論を構築した。ブラウは自らの著作の中で、自著がジンメルの理論的伝統を継承するものであり、ヴェーバーやパーソンズとは異なる理論であることを明示的に記述している[132]。
ジンメルの哲学的社会学は、マルクス主義哲学者のゲオルク・ルカーチや知識社会学の創始者カール・マンハイムにも大きな影響を与えた。ルカーチは青年期においてジンメルの個人主義的な文化哲学に傾倒し、後の『歴史と階級意識』における疎外論の出発点となった。またマンハイムはジンメルから「社会的存在が認識に影響を与える」という視点を受け継ぎ、それを「知識の社会学」として展開していった[133]。
主要著書
- 1881, Das Wesen der Materie nach Kant's Physischer Monadologie
- 1890, Über sociale Differenzierung: Sociologische und Psychologische Untersuchungen
- 1892, Die Probleme der Geschichtsphilosophie
- 生松敬三、亀尾利夫訳『歴史哲学の諸問題』白水社
- 1900, Philosophie des Geldes
- 元浜清海、向井守、居安正訳『貨幣の哲学』上巻1978年・下巻1981年
- 居安正訳 新訳版(全1巻)1999年、新装版2016年 各・白水社
- 1908, Soziologie: Untersuchungen über die Formen der Vergesellschaftung
- 居安正訳『社会学 社会化の諸形式についての研究』白水社(上下)、1994年、新装版2016年
- 1917, Grundfragen der Soziologie
- 居安正訳『社会学の根本問題(個人と社会)』世界思想社 2004年
- 1906, Kant und Goethe
- 1910, Hauptprobleme der Philosophie
- 生松敬三訳『哲学の根本問題 現代文化の葛藤』白水社
- 1918, Lebensanschaung, Vier metaphysische Kapitel, München und Leipzig
- 茅野良男訳『生の哲学』白水社
主な訳書
- 『ジンメル著作集』 全12巻、白水社(一部は単行版で新装再刊)、1977-1981年、一括復刊1994年、2004年
- 『歴史哲学の諸問題』生松敬三・亀尾利夫訳
- 『貨幣の哲学(上)』元浜清海、向井守訳
- 『貨幣の哲学(下)』居安正訳
- 『カント カントの物理的単子論』木田元訳
- 『ショーペンハウアーとニーチェ』吉村博次訳、新装版2001年
- 『哲学の根本問題 現代文化の葛藤』生松敬三訳
- 『文化の哲学』円子修平・大久保健治訳
- 『レンブラント』 浅井真男訳
- 『生の哲学』茅野良男訳
- 『芸術の哲学』川村二郎訳、新装版1999年/白水Uブックス(抜粋版)、2005年
- 『断想』土肥美夫・堀田輝明訳
- 『橋と扉』酒田健一・熊沢義宣・杉野正・居安正訳、新装版1998年、2020年
- 川村二郎編訳『ジンメル・エッセイ集』平凡社ライブラリー、1999年
- 北川東子ほか編訳『ジンメル・コレクション』ちくま学芸文庫、1999年
- 深澤英隆訳『ジンメル宗教論集』岩波文庫、2021年
- 清水幾太郎訳『社会学の根本問題』岩波文庫、1979年
- 清水幾太郎編訳『愛の断想、日々の断想』岩波文庫、1980年
- 斎藤栄治訳『芸術哲学』岩波文庫 1955年、復刊2009年ほか
- 高橋義孝訳『レンブラント-芸術哲学的試論』岩波書店、1974年
- 大鐘武編訳『ジンメル初期社会学論集』恒星社厚生閣、1986年
関連書籍
- 『21世紀への橋と扉 展開するジンメル社会学』 ( 世界思想ゼミナール ) 居安正ほか編 世界思想社教学社、2001年6月1日発刊 ISBN 978-4790708803
- 『ジンメル・つながりの哲学』菅野仁著「NHKブックス」日本放送出版協会、2003年5月1日発刊 ISBN 978-4140019689
- 『ジンメルの社会学』<社会学史研究叢書>いなほ書房 : 星雲社、2000年6月25日発刊 ISBN 978-4434003592
脚注
注釈
- ^ 『ユダヤ人を両親とする彼は、プロテスタンティズム(ルター派)の洗礼を受けた。』とある。(『ゲオルク・ジンメルの思索―社会学と哲学―』189頁3行目〜4行目より引用(思索 2004, p. 189))
- ^ 『母は娘時代にプロテスタンティズムに改宗していた』とある。(『ゲオルク・ジンメルの思索―社会学と哲学―』189頁4行目より引用 (思索 2004, p. 189))
- ^ 当初は『音楽の始まりについての心理学的―民俗学的研究』を提出しようとしたが、あまりに不評だったため『カントの物理的単子論による物質の本質』に差し替えることになった。(学ぶ人 2008, p. 3)
- ^ ジンメル自身が以下のように述べている。「それまで、学部審議会での口述試験には、有史以来誰も落ちたことがなかった。」(北川東子著 『ジンメル―生の形式―』289頁5行目〜6行目より引用。(北川 1997, p. 269))
- ^ 口述試験では学者としての作法を遵守しないジンメルの不遜で横柄な態度が問題にされている。ジンメルの非礼な態度に対して、半年間大学への立入禁止という重い処分を受けている。(学ぶ人 2008, p. 4)
- ^ 私講師 ( 独: Privatdozent ) はドイツ固有の制度である。博士号 ( 独: Privatdozent ) を取得しており教授職ではないが、教授資格取得試験 ( 独: Habilitation ) に合格した研究者に与えられる称号。国からの俸給はない。講義を受ける学生が私講師に授業料を支払う制度であり、授業料に応じた収入が得られる制度。(古川 2017, p. 32)
- ^ ジンメルがユダヤ人であったことと、ディルタイとの確執が原因と言われている。(世界大百科事典a 2007, p. 483)
- ^ 手紙の原文は以下の通り
„Herrn Stefan George. Ich habe durch Lepsius gehört, daß eine neue Lesung stattfinden wird. Ich möchte sie mit Frau Lou Andreas-Salomé besuchen. Sollte das nicht angängig sein, würde ich Fräulein Gertrud Kantorowicz mitnehmen, eine überaus geistvolle und hochgebildete junge Dame.“ (Brief von Georg Simmel an Stefan George, 1897)
Rudolf Kühn (Hg.): Georg Simmel – Stefan George. Ein Brief In: George-Jahrbuch, Bd. 1 (1934), S. 236. - ^ ジンメルの講義は常に超満員で、非常に人気があった。女性や亡命ロシア人などの外国人も聴講していた。(北川 1997, p. 270)。
- ^ 茶碗、壺、根付けなども収集したが、特に日本の布のコレクションは素晴らしかったと言われている。(北川 1997, p. 270)
- ^ ジンメルによると「ロダンは、小柄な肩幅の広い男性だったが、大変な肉体力の持ち主で、わたしが持ち上げるのもやっとの大理石の彫像をおもちゃのように扱っていた。」(北川東子著 『ジンメル―生の形式―』271頁4行目〜5行目より引用)(北川 1997, p. 271)
- ^ ジンメルが「イスラエル人」であり、宗教的には「相対主義的」であることが哲学正教授不採用の理由とされている。(学ぶ人 2008, p. 302)
- ^ 翌年1911年に講演録として学会誌に掲載された。(学ぶ人 2008, pp. 302–303)
- ^ ゲルトルート・ジンメルはマリア・ルイーズ・エンケンドルフ ( Maria Louise Enckendorf ) というペンネームで幾つかの著作を残している。(学ぶ人 2008, pp. 299–300)
- ^ 異郷人は「異郷者」、または「よそ者」とも訳される。
- ^ 法則定立的 ( 独: nomothetisch ) / 個性記述的 ( 独: idiographisch ) はヴィンデルバントの造語で、経験科学を「自然科学」と「歴史科学」に分類した際の分類原理における認識目的の形式的な相違をさす。科学的認識が「普遍」を目指すか「特殊」を目指すかという相違である。自然科学が様々な現象の出現を支配する普遍的な「法則」を目指すのに対して、歴史科学は歴史的に規定された「個性」的な形態を目指すことを意味する。(丸山:哲学思想 1998)。
- ^ この表現はジンメル自身によるものではなく、後世の経済学者であるウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズによる用語である。
- ^ ジンメルの原文ではドイツ語の「 独: Widerstand ( 抵抗 ) 」という語が繰り返し用いられている。これに対応する訳語として「抵抗機能」「抵抗関数」などが使われることがあるが、いずれも「対象への接近が困難であることが、かえって対象を価値あるものとして感じさせる」という構造を表している。
- ^ 正確には「いかにして総合的アプリオリな認識は可能であるか? ( 独: Wie sind synthetische Urteile a priori möglich? ) 」である。
- ^ 新明正道著 『形式社会論』
出典
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関連項目
外部リンク
- ゲオルグ・ジンメル「愛の断想」(1921年)- ARCHIVE。吹田順助訳(ドイツ語原文も収録)。
- Georg Simmel online(独語)
ジンメルと同じ種類の言葉
- ジンメルのページへのリンク