校地の変遷と継承
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「大分高等商業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立以来の大分市字上野(上野丘)の校地は大分大学経済学部に継承されたが、1969年に同市・旦野原校地に移転し現在に至っている。旧上野丘校地は、1975年から大分県立芸術文化短期大学に使用されている。
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校地の変遷と継承
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「奈良青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の奈良県立青年学校教員養成所から引き継いだ、高市郡八木町 (現・橿原市小房町) 繭検査所内の校地を使用した。八木校地は後身の奈良学芸大学に引き継がれ八木分教場となったが、1951年3月、旧制奈良青年師範学校の廃止と共に分教場も廃止された。旧校地はその後も附属八木農場として1969年まで使用された。跡地は橿原市立図書館・青少年会館・体育館などに使用されている。
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校地の変遷と継承
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「高松高等商業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立以来、高松市宮脇町(現・幸町)に所在していたが、敗戦直前の1945年7月の高松空襲により校舎のほとんどを焼失したため、1946年に県中央部の善通寺市にあった陸軍第11師団の旧兵舎に移転し仮校舎とした(官立高商のうち戦災によって大きな被害を受けたのは高松高商のみである)。その後在校生、同窓会と高松政財界が一丸となって高松への復帰運動を展開、1948年に幸町校地に復帰を果たした。この間の事情は2008年に香川大学経済学部が製作したDVD「学び舎を我らの手で」に詳しい。幸町校地は学制改革により香川大学経済学部、法学部キャンパスとして継承され現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「宮崎県工業専門学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
宮崎市西丸山町118番地 (現・宮崎市霧島1丁目) にあった宮崎商業学校の元校舎・設備を旧制工専廃止まで使用した。霧島町校地は後身の宮崎大学工学部に引き継がれ、1986年9月に宮崎市学園木花台 (現・木花キャンパス) に統合移転するまで使用された。旧霧島町校地には、JAビル・JA AZMホールなどが建設されている。
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校地の変遷と継承
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「三重県立医科大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
校舎 三重県立医学専門学校の校舎は、津市大谷町11番地にあった津市立励精商業学校 (現・県立津商業高校) の校舎を使用した。1945年7月の空襲で附属病院が被災し、医専校舎を仮診療所に充てたため、一時期 安濃郡雲林院村に疎開したが、終戦後の 1945年9月に大谷町に復帰。励精商業の生徒も動員先から復員したため狭隘となったが、励精商業は 1947年7月に津市高茶屋の津海軍工廠跡に移転し、校舎は医専および後身の三重県立医科大学専用となった。大谷町校舎は、1950年発足の新制三重県立大学に引き継がれた。1959年4月、三重県立大学医学部は附属病院隣地の津市鳥居町に移転。1961年3月、旧制学位審査のため残されていた旧制三重県立医大は、この地で終焉を迎えた。その後の変遷については、三重県立大学#校地を参照。 附属病院 三重県立医学専門学校発足に際し、津市栄町 (現在の三重県警本部一帯) にあった津市立病院を附属病院とした。1945年7月の空襲で被災し、コンクリート造の外構のみを残して使用不能となったため、津市大谷町の医専校舎を仮診療所とした。終戦後の 1945年10月、津市高茶屋小森上野の津海軍工廠共済病院の一部を借り受け、附属病院分院とした。1947年1月、附属病院本院の改装が完成し、再び使用可能となった。1948年8月、四日市市の旧海軍燃料廠附属病院を附属塩浜病院とした。これら 3病院は、後身の新制三重県立大学に引き継がれた。その後の変遷については、三重県立大学#校地を参照。
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校地の変遷と継承
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「室蘭工業専門学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
室蘭高工創立当初、室蘭市水元町の本校舎は建設途上だったため、北海道庁立室蘭商業学校 (後の北海道室蘭商業高等学校) 校舎を仮校舎として使用した。翌1940年、まず寄宿舎 (明徳寮) が竣工し、1941年に校舎も竣工し、仮校舎から移転した。水元校地は新制室蘭工業大学に継承され、現在に至っている。 附設工業教員養成所は、新制室蘭工業大学で工業教員養成課程として復活した。
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校地の変遷と継承
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「山形青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の山形県立青年学校教員養成所から引き継いだ南村山郡滝山村 (現・山形市平清水) の校地を使用した。滝山校地は後身の新制山形大学に継承され、教育学部滝山分教場となった。1966年、滝山分教場を廃止して跡地に職員宿舎・学生寮を建設することになり、同年10月、同窓生によって滝山校舎お別れ会が挙行された。旧滝山校地は現在、山形大学職員宿舎、地域教育文化学部附属農場および学生寮 (清明寮) の敷地となっている。
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校地の変遷と継承
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「福井高等工業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創立時から廃止まで、吉田郡西藤島村牧の島 (現・福井市文京) の校地を使用した。同校地は後身の新制福井大学に引き継がれた。
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校地の変遷と継承
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「米沢高等工業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創設時に米沢市から寄附された米沢市城南の校地を廃止まで使用した。同校地は後身の山形大学工学部に引き継がれている。1910年7月竣工の旧制米沢高等工業学校本館は、1973年に国の重要文化財に指定された。米沢駅の現在の駅舎は、同本館を模したデザインとなっている。
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校地の変遷と継承
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学校の設置届では東京府麹町区上六番町36番地の宮城浩蔵宅としていたが、幹事斎藤孝治が同区有楽町三丁目1番地の数寄屋橋近くの旧島原藩上屋敷(三楽舎跡)を見つけ、その一部を借用して1881年1月17日に開校した。横長の古い建物で、畳を除去して板の間に机と椅子を並べて講義を行ったという。 明治法律学校の学生数は次第に増加し、手狭な有楽町校舎では収容しきれなくなったため、1886年に神田区駿河台南甲賀町11番地(かつてのお茶の水スクエアC館跡地付近)の400余坪の土地を取得し(南甲賀町校舎)、同年12月11日に移転開校式を行った。 その後も学生数の増加に合わせて校舎を増築したり、1903年に神田錦町の元神田中学校校舎を買収したりしたが(錦町分校)、明治40年代には収容力が限界に達し、本校と分校の分立状態を解消する必要もあって、1910年に駿河台南甲賀町14・15・16番地の小松宮邸跡を借地し、翌年10月に校舎新築落成移転式を行った。 この地が駿河台キャンパスとして現在に至るまで継承されている。 1911年における明治大学校舎一覧 一号館 - 木造3階(校長室・講師室・事務室・教室×9など) 二号館 - 木造2階(教室×2) 三号館 - 木造平屋(道場) 四号館 - 木造2階(図書室・自習室など) 五号館 - 木造平屋(校友会・学友会本部・清国留学生校友会本部) 六号館 - 木造3階(書庫) 七号館 - 木造2階(教室×4、理化準備室) 八号館 - 煉瓦2階(記念館) 九号館 - 木造2階(出版部) 十号館 - 木造2階(倶楽部) 付属棟×2
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校地の変遷と継承
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設立当初の校地は、兵庫県立医科大学予科の学舎として利用されていた篠山の陸軍歩兵第七十連隊兵舎跡に設置された。神戸大学への統合後、農学部キャンパスは1967年10月までに六甲台への移転を完了し現在に至っている。農大跡地には現在三井ミーハナイト・メタル篠山工場が立てられ、近くの兵庫県総合庁舎側の道路脇に「兵庫農科大学発祥之地」の記念碑が立てられている。
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校地の変遷と継承
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「第五高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
開校当初の校地は熊本市東北の龍田山(立田山)麓に置かれ(龍南校地)、寮歌では「武夫原」(ぶふげん)と歌われた。新制熊本大学への包括後、五高校地は同大学の黒髪キャンパス北地区に継承され現在に至っている。赤煉瓦造の旧本館および旧化学実験場、正門(赤門)は1969年(昭和44年)、国の重要文化財に指定され、1993年(平成5年)には旧・本館が「五高記念館」として公開されている。
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校地の変遷と継承
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「大分青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の大分県立青年学校教員養成所から引き継いだ、大野郡大野町字田中の大分県立大野中学校跡(現・豊後大野市大野町田中276-2、大野公民館)で発足した。第二次世界大戦後の 1947年、中津市加来の元神戸製鋼八面寮へ移転した。中津校地は後身の大分大学学芸学部に継承され、中津分教場となった。1951年3月、学芸学部中津分教場は旧制青年師範学校と共に廃止された。
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校地の変遷と継承
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「高知高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創立から廃止まで、高知市江ノ口 (現・高知市小津) の校地を使用した。小津校地は後身の新制高知大学文理学部に引き継がれ、現在の朝倉校地に移転する1960年(昭和35年)まで使用された。現在、旧小津校地には高知大学教育学部附属校 (中学校・小学校・幼稚園)および高知大学の職員宿舎が設置されている。旧制高知高校関係の記念碑は、附属幼稚園構内に残されている。
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校地の変遷と継承
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「東京美術学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立時の校地は東京府下谷区(現・東京都台東区)の上野恩賜公園内に設置され、これが新制大学への移行を経て現在の東京芸術大学美術学部の校地(上野キャンパス)にそのまま継承されている。なお東京音楽学校は戦前は小規模校であり、上野キャンパス音楽学部敷地のうち、美術学部に接する部分半分強は東京美術学校の敷地であり、戦後音楽学部の敷地となった。
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校地の変遷と継承
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「松本高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
1919年の開校当初は、県立松本中学(長野県松本深志高等学校の前身)に間借りする形で授業が行われたが、翌20年、新校舎が松本市内・松本駅の東方約1400mに位置する県(あがた)地区に竣工して移転した。このキャンパスは、1949年の新制大学への移行後も、信州大学文理学部に継承され使用された。しかし、1973年3月に信州大学の旭町地区へのキャンパス統合移転により、松本市に移管された(現状については#歴史的建造物としての旧制松本高校参照)。 思誠寮(1920年築)は新制移行に伴い信州大学文理学部の寮として継承されたが、1983年3月市内・横田地区への移転により旧寮は取り壊された。横田新寮は現在も信州大学思誠寮としてその伝統を継承しながら存続している。
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校地の変遷と継承
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「奈良女子高等師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
1908年(明治41年)の設立時、校地は奈良市北魚屋西町に置かれ新制大学への移行まで維持された。女高師の校地は奈良女子大学の校地として引き継がれ現在に至っている。かつての奈良女高師本館は奈良女子大の本部棟・講堂として使用されたが、1980年代、新しい本部棟と講堂が建築されたため「奈良女子大学記念館」となり、1994年(平成6年)から国指定の重要文化財となった。またこの時、旧女高師以来の守衛室・正門(記事冒頭の画像参照)も国指定重要文化財となり、現在に至っている。 文化財の指定にはいたっていないが、正門脇に、かつて奉安殿として使用されていた建物が現存している。
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校地の変遷と継承
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「広島女子高等師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身校である山中高等女学校の校地は、1888年11月の開校時、広島市天神町(現:中区中島町)に所在していたが、同年のうちに新川場町(現:中区小町)正清院に移転、次いで1897年には小町に校舎・寄宿舎を新築し移転した。最終的には1902年4月に国泰寺村(現在の中区千田町二丁目に移転し、以後官立移管までこの地で学校を営んた。1937年12月には創立50周年記念事業として体育館(後出)が建設された。 1945年4月に設立された広島女子高等師範学校は、山中高女から寄付された千田町666番地の校地約7,400坪、校舎約3,000坪をそのまま継承したが、1945年8月6日の原爆投下により校舎が壊滅・全焼したため、翌9月には女高師は広島青年師範学校(広島県高田郡吉田町 / 現在の安芸高田市)内に移転し、附属山中高女は、安芸郡府中町の国民学校その他に分散して疎開、さらに同年12月、両校は賀茂郡安浦町の旧海兵団跡に統合移転され(安浦校地)、1949年5月の新制広島大学への移行を迎えることとなった。しかし安浦校地は翌1950年5月、失火により校舎・学寮が焼失したため、福山市沖野上町に移転(福山校地)し、広島大学附属福山中学校・高等学校の校地として継承され、現在に至っている。 なお、千田町の旧校地には1957年、広島大学の学生寮(女子寮)が建設され、かつてこの地に所在していた山中高女に因んで「山中寮」と命名され、加えて青雲寮(男子寮)・広島大学附属幼稚園も設置されていた。その後大学の統合移転に際して附属幼稚園は1990年に移転し解体、山中寮は1996年、青雲寮は翌1997年に廃止・解体され、現在は千田保育園・広島赤十字研修センター・千田第一公園などが立地している。両校のモニュメントとしては、後述する慰霊碑の他には、広島大学東千田キャンパス内の「広島大学原爆死没者追悼之碑」の脇に「廣島女子高等師範學校記念碑」(1995年建立)、かつての校地の一部であった千田第一公園内には「山中高等女學校址」(1991年2月建立)がそれぞれ建立されている。
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校地の変遷と継承
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「東京女子高等師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
御茶ノ水校舎 1875年11月の東京女子師範学校開校当時の校地は東京府下湯島(のち東京市神田区宮本町に住所変更、現在の東京都文京区湯島一丁目)の昌平坂学問所跡地に所在しており(御茶ノ水校舎)、同じ敷地内に東京師範学校(のち東京高等師範学校、現在の筑波大学)も置かれていた。この校地は女子師範が(東京)女子高等師範学校に改組したのちもそのまま維持されたが、1923年9月1日の関東大震災により校舎が焼失すると、翌日には上野の東京音楽学校内に仮事務所が設置、10月には東京府女子師範学校内に移転され、同時に仮教場および仮寄宿舎も設置された。仮校舎が落成した御茶ノ水校地に復帰することができたのは翌1924年であった。 大塚校舎 1928年11月、東京女高師は文部省から東京市小石川区大塚町35番地の14号および東青柳町28番地の1号を新校地として交付され、設立以来の御茶ノ水を離れ大塚の新校地に移転することとなった。翌1929年から1932年にかけて寄宿舎・集会所(嚶鳴舎)・本館・講堂などが竣工し、女高師および附属学校園は1936年11月までに新校地に順次移転した(大塚校舎)。1945年には4月13日と5月25日の空襲により寄宿舎・嚶鳴舎・官舎などが焼失し、このため生徒は群馬県勢多郡横野村などに疎開を余儀なくされたが、戦争が終結すると順次復帰し授業も再開された。大塚校地は1949年5月の新制大学移行によるお茶の水女子大学設立で同大学のキャンパスとして継承され、現在に至っている(旧・東京女高師本館はお茶の水女子大学生活科学部本館として現在も使用されている)。なお後身校であるお茶の水女子大が現在地の大塚でなく「お茶の水(御茶ノ水)」を校名に冠しているのは、東京女高師創業の地である御茶ノ水を記念してのことである(旧御茶ノ水校地の現状については湯島聖堂を参照のこと)。
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校地の変遷と継承
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「秋田県立高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創設から廃止まで、秋田市中島町 (現・千秋中島町) の秋田県立秋田高等女学校 (現・秋田県立秋田北高等学校) の 「あげまき会館」 を仮校舎として使用した。
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「松江高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
1921年の開校当初は、旧制松江中学校 (現 島根県立松江北高等学校) 校舎に間借りした。同年末に八束郡川津村菅田 (現・松江市西川津) に新校舎が完成し移転した。川津校地は旧制松江高等学校の廃止まで使用され、後身の島根大学に引き継がれた (現 松江キャンパス)。
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校地の変遷と継承
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「大倉高等商業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創立時の所在地は、大倉喜八郎邸(現在はホテルオークラ、大倉集古館が建つ)の隣接地の東京市赤坂区葵町(現・港区虎ノ門)であった。しかし空襲による校舎焼失により、1946年1月20日に現在の東京経済大学のキャンパスがある国分寺町へ移転した。なおこの国分寺の土地は大倉財閥系列企業であった中央工業(新中央工業の前身)所有の土地であり、赤坂の校地との引き換えによって取得したものである。赤坂葵町の旧校地には現在、虎ノ門ツインビルディング(旧新日鉱ビルディング)が建設されており、ビル敷地内の緑地には創学の碑がある。
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校地の変遷と継承
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和歌山師範學校男子部 前身の和歌山縣師範學校から引き継いだ和歌山市眞砂町1丁目 (現・吹上1丁目) の校地を使用した。吹上校地は後身の新制和歌山大学学芸学部 (1966年教育学部と改称) に引き継がれ、1986年に現在の栄谷キャンパスに統合移転するまで使用された。現在、旧吹上校地の大部分は和歌山大学教育学部附属小学校・和歌山大学教育学部附属中学校の校地となっており、師範學校時代からの校門が残されている。師範學校附屬小學校の校地だった部分 (北側に隣接) は、1994年から和歌山県立博物館・和歌山県立近代美術館の敷地となっている。 和歌山師範學校女子部 前身の和歌山縣女子師範學校から引き継いだ海南市日方の校地を使用した。旧日方校地は現在、海南市立海南中学校 (旧・海南市立第二中学校) の校地となっている。
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校地の変遷と継承
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「長岡高等工業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創立時から廃止まで、長岡市四郎丸町 (現・学校町) の校地を使用した。同校地は後身の新制新潟大学工学部に引き継がれ、1980年に現在の新潟市五十嵐地区に移転するまで使用された。また、1953年に教育学部長岡分校が市内東神田町(新潟第一師範女子部跡)から工学部の東側に移転し、1981年まで使用した。 現在、旧長岡校地は長岡市民文化公園 (市立体育館・市立中央図書館) となっている。東側の教育学部長岡分校跡は、新潟大学教育学部附属校 (長岡小学校・長岡中学校・幼稚園) が使用している。
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校地の変遷と継承
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岡山師範学校男子部 前身の岡山県師範学校から引き継いだ岡山市門田 (現・岡山市中区東山2丁目) の校地を使用したが、第二次世界大戦末期の1945年6月、空襲で鉄筋校舎1棟・寄宿舎1棟・食堂を残して全焼した。戦後は焼け残りの鉄筋校舎で授業を再開した。1947年6月には、水島にあった予科練の建物2棟を移設し、予科・附属中学校校舎とした。1948年には女子部が転入し、男子部・女子部校地が統合された。 後身の新制岡山大学教育学部は現在の津島キャンパスで発足したが、教員の研究室は門田 (旧師範学校校地)・倉敷 (旧青年師範学校校地) に残っていた。旧制課程の廃止された 1951年以降、徐々に津島に移転した。旧門田校地には、現在も岡山大学教育学部附属校 (岡山大学教育学部附属小学校・中学校、岡山大学教育学部附属幼稚園) が存在する。 岡山師範学校女子部 前身の岡山県女子師範学校から引き継いだ岡山市西中山下 (現・岡山市北区蕃山町、旧藩校跡) の校地を使用したが、1945年6月の空襲で全焼し、赤磐郡佐伯村 (現・和気郡和気町) 青年学校へ疎開した。1946年2月、岡山市海岸通の倉敷絹織 (現・クラレ) 岡山工場に移転した後、同年10月、児島郡福田村 (現・倉敷市水島) の三菱地所三棟寮に仮移転。1948年4月、岡山市門田の男子部校地に統合移転した。 旧西中山下の校地は、元併設校 (県立第二岡山高等女学校 → 新制岡山朝日高等学校) によって 1951年まで使用された。現在は岡山市立岡山中央中学校の校地となり、西南の一角に旧藩校の遺構が残されている。
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校地の変遷と継承
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鳥取師範学校男子部 前身の鳥取県師範学校から引き継いだ鳥取市東町137番地 (現・尚徳町) の校地を使用した。第二次世界大戦後の大学昇格運動の中で、市内立川町にあった旧陸軍47部隊 (歩兵第40連隊) 跡の取得を目指したが、鳥取農林専門学校も同地を所望しており、結局両校とも取得せず引き下がった。その後、鳥取師範・鳥取青年師範・鳥取農専・米子医大の合同による新制鳥取大学への昇格が決まり、本部校地はその立川町の旧陸軍部隊跡に置かれることになった。1950年8月、鳥取師範学校の後身、鳥取大学学芸学部は東町から立川町に移転し、次いで1952年8月には、大学事務局も同地に移転した。1966年8月、教育学部 (学芸学部から改称) は立川町から現在の湖山キャンパスに統合移転した。1985年には、附属学校も東町から湖山に移転した。 現在、旧東町校地には県民文化会館や県立図書館が設置されているほか、1936年に師範学校校門となった箕浦家武家門が残る。 旧立川町校地は三洋電機コンシューマエレクトロニクスに使用されている。 鳥取師範学校女子部 前身の鳥取県女子師範学校から引き継いだ八頭郡国中村大字久能寺 (現・八頭町久能寺) の校地を使用した。1949年、女子部は鳥取市東町の男子部校地に統合された。旧八頭校地は現在、元併設校 (鳥取県立八頭高等女学校) の後身校、鳥取県立八頭高等学校の校地となっている。
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校地の変遷と継承
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「盛岡高等農林学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創立時から廃止まで、盛岡市上田の校地を使用した。後身校の岩手大学も、上田校地を使用し続けている。
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校地の変遷と継承
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英吉利法律学校は1885年(明治18年)に神田区(戦後の千代田区)神田錦町2丁目2番地で開校した。この地はもと旗本蒔田氏の屋敷跡で、維新後に山階宮晃親王邸となっていたのを三菱が買収して三菱商業学校(のちに明治義塾と改称)の校地としたが、経営不振で廃校となったため、岡山兼吉と増島六一郎の斡旋により三菱から4,128円で購入し、英吉利法律学校と東京英語学校が共同使用することになった。しかし学生数の増加ですぐ手狭になったため、1887年(明治20年)に煉瓦造2階建ての新校舎(辰野金吾設計)を建設し、翌年2月に落成式を行った。 そのころの東京法学院は神田錦町にあって、街路に面して建てられた、ルネサンス式の赤煉瓦の二階建てで、アイオニア式の柱頭をもった附柱の並んだ、そのころの学校としてはすばらしく宏壮でもあり、装飾的でもある立派な建物だった。その中央正面のアーチを共同にして、左半分を法学院が使い、右半分は東京英語学校が借りていた。この建物は、岩崎家が三十万円(?)を寄附して出来たものだと、その建てられた当時の新聞で読んだように記憶している。その後二十五年の神田の大火で焼けたので、一階に改造されて、法学院だけが今の駿河台に移るまでそこにあった。 — 長谷川如是閑、『ある心の自叙伝』 講談社学術文庫、163頁 錦町校舎は1892年(明治25年)と1917年(大正6年)の火災、さらに1923年(大正12年)の関東大震災で打撃を受け、そのつど復旧を行ったが、将来の発展を見越して1926年(大正15年)に駿河台南甲賀町の戸田氏共伯爵邸跡に校舎を新築し、錦町の旧校地は電機学校(現・東京電機大学)に売却した(なお、中央大学の法学部を含む文系学部は1978年(昭和53年)以降、駿河台校舎から多摩校舎(東京都八王子市東中野)に移転しており、駿河台の跡地には中央大学の「駿河台記念館」が建てられている)。
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校地の変遷と継承
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設立時の校地は、先述の通り皇典講究所のあった東京市麹町区飯田町(現在の東京都千代田区飯田橋)に所在し、木造2階建ての校舎を昼は國學院が、夜は日本法律学校が使用していた。 山田没後の1895年(明治28年)10月に神田区一ツ橋通町(現・千代田区一ツ橋2丁目)の大日本教育会内の一室を借りて移転したが、間もなく大日本教育会に合併話が持ち上がり、教室の継続使用ができなくなったため、翌年6月神田区三崎町3丁目の練兵場跡地の校舎に移転して皇典講究所から独立した。当初の敷地は約220坪、建坪は約160坪。3つの教室と講師室、事務室などが設けられていたに過ぎなかったが、明治30年代には増築を重ねて6部屋の教室を擁する2階建て校舎となり、1912年(明治45年)にも改築の手が加えられた。 1918年(大正7年)には創立30周年記念事業の一環として新校舎の建設構想が浮上した。大学令による認可条件として施設整備は必須だったため、1919年(大正8年)12月に起工、認可間もない1920年(大正9年)5月に新校舎落成式、大正8年度卒業式、校友大会を兼ねた昇格祝賀会を行った。 三崎町校舎は現在の日本大学神田三崎町キャンパス(法学部・経済学部および両学部管轄の大学院研究科が所在)に継承されている。旧飯田町校舎の所在地は現在、「日本大学開校の地」の碑が建立されている。
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校地の変遷と継承
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「東京高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
東高校地(翠ヶ丘 / 翠陵)は東京府豊多摩郡中野町栄町通一丁目(現在の東京都中野区南台1-15-1)に位置し、米軍の空襲による校舎の焼失後は仮校舎(旧制一高の明寮(現在は廃寮)や旧中央航空研究所(現:東大三鷹国際学生宿舎)など)を転々としている間に学制改革・廃校を迎えることとなった。東高尋常科は東京大学教育学部附属中学校・高等学校(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)に転換され、校地も継承され現在に至り、東大附属の毎年の入学式の際には東京高等学校からの沿革と伝統が学校長講話により新入生に継承され、校内には旧東高を記念するモニュメントや「東高記念館」が建立されている。また、かつての大成寮・野球場の跡地には東大海洋研究所が設置されていたが、2010年4月に柏キャンパスへ移転し、現在は総合教育棟と体育館が配置されている。
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校地の変遷と継承
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「名古屋高等商業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
愛知県愛知郡呼続町大字瑞穂字川澄(のち名古屋市南区に編入。現在の瑞穂区瑞穂町川澄)に設立された(桜山校地:所在地は近郊の熱田神宮の神体である草薙の剣にちなみ「剣ヶ丘」「剣陵」と命名された)。この校地は名古屋大学への包括により法経学部経済学科・経営学科に継承された(のちに経済学部)が、名大キャンパスの統合移転に際して名古屋市に売却され、経済学部は1959年(昭和34年)3月までに現在の東山キャンパスに移転した。現在は名古屋市立大学川澄キャンパスとして同大学の医学部・附属病院が置かれ、名高商・名経専を記念する「其湛の塔」が残されている。
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校地の変遷と継承
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「第八高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立当初の校地は名古屋市東区南外堀町(現・中区丸の内三丁目)の愛知一中の跡地に置かれ、その校舎を転用していた。1909年9月 - 12月に同市外の愛知郡呼続町大字瑞穂字山ノ畑(現・名古屋市瑞穂区瑞穂町山ノ畑)に新校舎が完成、順次移転した(瑞穂校地 / 「瑞穂ヶ丘」「瑞陵」と通称)。 1945年3月の空襲による校舎焼失後は、熱田中学校・尾張中学校・愛知県立商業学校などの校舎を借用、地方からの生徒に対しては知多郡河和町(現美浜町)の全忠寺・南部国民学校を宿舎および教室としていた。翌46年9月には同町の旧日本海軍第一航空隊跡地に移転したが、旧校地への復帰運動が起こり、1947年9月には瑞穂校地に校舎が再建された。 新制名古屋大学への包括後、八高の瑞穂校地は同大学の一般教育を担当する瑞穂分校として継承され、1963年正式に教養部が発足した。しかし翌64年3月にはキャンパス統合の一環として教養部の東山キャンパス移転が行われ、瑞穂キャンパスは廃止され名古屋市に譲渡された。 現在、かつての瑞穂校地は名古屋市立大学の滝子(山の畑)キャンパスとなっており経済学部・人文社会学部・総合生命理学部が置かれている。構内には旧八高のシンボルであったソテツの木が残され、旧校庭跡「八高生青春像」が1988年に建立されている。旧八高正門は犬山市の博物館明治村正門として移築保存され登録有形文化財となった。また、八高生が通学のさい通っていた鶴舞公園内の鶴舞図書館前に「八高寮歌伊吹颪の歌碑」が1958年に建立されている。
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校地の変遷と継承
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「福岡高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
校地は福岡市中央区六本松にあり、後身の九州大学に継承されて「第一分校」の校地となった。1955年(昭和30年)に第2分校(久留米工専跡)が廃止・統合されたため「分校」と改称、1963年(昭和38年)に「教養部」となった。1994年(平成6年)の教養部廃止後も、全学教育科目の講義は引き続き六本松地区で行われたが、2009年(平成21年)に六本松地区は廃止され、伊都地区に統合移転となった。跡地は都市再生機構に売却された。
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校地の変遷と継承
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「三重高等農林学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創立から廃止まで、津市上浜町(現・津市江戸橋) から河芸郡栗真村 (現・津市栗真町屋町) にかけての校地を使用した。上浜校地は後身の三重大学に引き継がれた。農専時代の旧校舎は新校舎建設のため1965年頃から取り壊された。1936年9月竣工の同窓会館 「三翠会館」 は現存し、2002年2月、登録有形文化財として登録された。 実験農場 (上浜農場) は三重県立大学医学部・水産学部 (1972年5月から三重大学医学部・水産学部) の用地となり、1970年4月、附属農場は津市高野尾町に移転して現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「大阪高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
開校に際し設立資金として地元から51万円の寄附が集められたが、地価の高い大阪では市南郊の天王寺村(当時は大阪府東成郡 / 1925年に大阪市に合併され住吉区に編入されたのち現・阿倍野区)に10,400坪の校地しか取得できず、他の高校の1/2 - 1/3の面積しかなかった。そのため本館は道路に面し鉄筋コンクリート構造で建設された。新制大学への移行まで存続し、校地・校舎は大阪大学一般教養部南校に継承されたが、1960年同・北校(旧制浪高の旧校地)に統合移転されたため廃止、1962年には跡地に公団阪南団地(現・UR都市機構阪南団地)が建設され、現在に至っている。跡地には「青春の像」「大高跡碑」などのモニュメントが建立され、1972年には開校50年を記念して阪大豊中キャンパス内に「大高の森」が造営されている。大高の建物の中では生徒集会所として使用されていた木造の「黎明館」が、天理外国語学校(天理大学の前身)の創設者、天理教2代真柱の中山正善が大高OBである関係から、1960年に奈良県の天理大学内に移築され現存する。
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校地の変遷と継承
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「和歌山高等商業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
現在は和歌山市内になっている高松校地(設立時の地名は和歌山県海草郡雑賀村大字関戸)に設立された。戦時期、工専への転換にともない、県立西浜工業学校の校舎が校地として充当された。高松校地には学制改革により発足した和歌山大学の本部が設置され、また同大経済学部のキャンパスとして継承されたが、1986年に他学部とともに同市郊外の栄谷校地に統合移転されたため廃止となった。
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校地の変遷と継承
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「徳島高等工業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創立から廃止まで、徳島市常三島町(現・南常三島町)の校地を使用した。1945年、戦災で校舎の大半を焼失し、一時は日の出製糸(徳島市蔵本町)・県立工業学校の一部・撫養商業学校跡の一部を使用したが、校舎再建により常三島校地に復帰した。常三島校地は後身の新制徳島大学工学部に引き継がれている(現・常三島キャンパス)。 1951年4月に工学部から独立した薬学部は、当初は常三島校地を使用したが、1953年7月に徳島市庄町(医学部の西隣)に校舎が一部完成し、順次移転した(現・蔵本キャンパス)。
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校地の変遷と継承
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「静岡第二師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の静岡県浜松師範学校から引き継いだ浜松市名残町 (現・中区布橋) の校地を廃止まで使用した。浜松校地は後身の新制静岡大学教育学部に継承され、浜松分校として1965年3月まで使用された。現在も、静岡大学教育学部附属浜松小学校・同中学校が中区布橋に存在する。
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校地の変遷と継承
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「浜松高等工業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
浜松高等工業学校は、浜松市広沢町 (現・浜松市中区広沢) の校地で発足した。広沢校地が1945年6月の浜松空襲で壊滅したため、市内追分町 (現・浜松市中区城北) の旧軍千葉防空学校浜松分教場跡に移転した。城北校地は後身の新制静岡大学工学部に引き継がれた (現・浜松キャンパス)。 旧広沢校地跡地には、「テレビジョン発祥の地」 記念碑が設置されている (浜松市西部協働センター前)。
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校地の変遷と継承
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「宮城県女子専門学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創立当初は母体となった宮城県第二高等女学校 (現・宮城県第二女子高等学校、仙台市若林区連坊) の校地を使用したが、1934年に市内長町越路3番地 (現・太白区八木山緑町) に新校舎が完成し、移転した。八木山校地は後身の東北大学に継承され、第三教養部が設置された。1952年4月、第三教養部は第一教養部に合併し、跡地は国立仙台電波高等学校 (現・仙台電波工業高等専門学校) の校地となった (のちに移転)。1975年4月には宮城県仙台向山高等学校が設置され、現在に至っている。 旧制女専時代の校舎は、第二次世界大戦後も長期間残っていたが、1984年7月に解体された。
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校地の変遷と継承
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「熊本薬学専門学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の九州薬学専門学校以来、熊本市大江本町の校地を使用し続けた。大江校地は後身の新制熊本大学薬学部に継承され、現在に至っている。
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「姫路高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
姫高の校地は兵庫県姫路市新在家(旧飾磨郡安室村)に存在し、1949年の学制改革により、新制神戸大学姫路分校となった。神大姫路分校は1965年に神戸市灘区六甲台地区に統合移転し、校地は姫路短期大学(後の姫路工業大学環境人間学部、現在の兵庫県立大学環境人間学部)が姫路市伊伝居から移転し継承した。旧制高校本館の一部(現在は、姫路短大・姫路工大環境人間学部・兵庫県大環境人間学部の同窓会館「ゆりの木会館」)と講堂(1926年築)が現存し、登録有形文化財に登録されている。
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「浦和高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
浦高の校地は武蔵野の面影が残る埼玉県北足立郡浦和町砂原に設置され、初代校長により「瑤沙原」(ようさげん / ようさがはら)と命名された(所在地は1934年の市制施行によって浦和市となり、現在のさいたま市浦和区である)。校地は埼玉大学のキャンパスとして継承されたが、1969年浦和市大久保地区に統合移転したため、跡地は整備されて1974年県立北浦和公園・市立浦和北公園が開かれ現在に至っている。県立公園東側には旧制浦高時代の正門が当時のまま保存されており(画像参照)、両公園内には浦高を記念するモニュメントが多数建立されている。また、公園南側に位置する武原寮の跡地は1972年に浦和市立常盤小学校(現・さいたま市立常盤小学校が移転してきており、校内には「浦高記念碑」が建立されている。
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「静岡第一師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
静岡第一師範学校男子部 前身の静岡県静岡師範学校から引き継いだ駿府城内 (現・静岡市葵区駿府町) の校地を使用したが、1945年6月の空襲で全焼した。第二次世界大戦後の1945年9月、女子部とともに磐田郡磐田町見付兜塚 (現・磐田市富丘) の旧陸軍通信学校跡 (第一航空情報連隊跡) に移転したが、まもなく進駐軍命令で退去を余儀なくされた。1946年2月から県内数ヶ所に分散して授業を継続したのち、1947年5月に静岡市小鹿 (現・駿河区小鹿3丁目、静岡大学小鹿宿舎・雄萠寮) の三菱重工業工場跡地に移転した。1948年10月には駿府城内 (現・静岡市葵区駿府城公園) の旧陸軍東海第25部隊跡 (陸軍歩兵第34連隊跡) に移転した。 後身の新制静岡大学教育学部は前身諸校の校地を引き継いで発足し、静岡本校は駿府城内の旧陸軍東海第25部隊跡に置かれた。1950年6月、教育学部静岡本校は静岡市より提供を受けた静岡市大岩 (現・葵区大岩本町、城北公園) の新校地に移転した。大岩校地は1970年に大谷地区 (現・静岡キャンパス) に移転するまで使用された。 1945年6月空襲までの旧校地 (駿府町) は、現在は静岡大学教育学部附属静岡小学校・同中学校・市立城内中学校によって使用されている。 静岡第一師範学校女子部 前身の静岡県女子師範学校から引き継いだ静岡市沓谷 (現・葵区沓谷1丁目) の校地を使用したが、1945年6月の空襲で、塀と同窓会記念館を残して全焼した。第二次世界大戦後の1945年9月、男子部とともに磐田郡磐田町見付兜塚 (現・磐田市富丘) の旧陸軍通信学校跡 (第一航空情報連隊跡) に移転したが、まもなく進駐軍命令で退去を余儀なくされた。1945年12月からは、代用附属校でもあった静岡市千代田国民学校 (現・千代田小学校) を借用して授業を継続し、1947年4月に三島市の旧陸軍東海第70部隊跡 (野戦重砲兵連隊跡、現・文教町) に移転した。三島校地は後身の新制静岡大学教育学部に継承され、三島教場となった。三島教場は1952年3月で廃止され、静岡本校に統合された。
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校地の変遷と継承
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徳島師範学校男子部 前身の徳島県師範学校から引き継いだ徳島市南常三島町1丁目の校地 (常三島校地) を使用したが、1945年7月の空襲で守衛室以外を焼失した。第二次世界大戦終戦後は、麻植郡鴨島町 (現・吉野川市) の筒井製糸工場で授業を再開した。一時、徳島市田宮町 (現・北田宮) の県立渭城中学校 (現・徳島県立城北高等学校) に移転した後、1947年12月に元の常三島校地に復帰した。常三島校地は後身の新制徳島大学に引き継がれ、現在に至っている (現・常三島キャンパス。なお、旧制師範学校跡地は現・総合科学部で、東側の現・工学部一帯は旧制徳島高等工業学校の跡地である)。 徳島師範学校女子部 前身の徳島県女子師範学校から引き継いだ徳島市徳島本町2丁目 (現・中徳島町) の校地を使用したが、1945年7月の空襲で校舎を焼失した。疎開を経て、第二次世界大戦終戦後の1945年、麻植郡西尾村西麻植 (現・吉野川市) の江川遊園地 (のちの吉野川遊園地) に移転した。1947年11月に徳島市中昭和町の徳島医専跡 (現・富田中学校) に移転した後、1949年3月、男子部校地 (常三島) に移転し、男子部・女子部が統合された。中徳島町の旧校地は現在、元併設校 (旧制徳島県立高等女学校) の後身校、徳島県立城東高等学校の校地となっている。
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校地の変遷と継承
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「千葉医科大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
1890年、第一高等中学校医学部時代に現在の亥鼻地区に移転して以来、同地を使用し続け、後身の新制千葉大学医学部に引き継がれている。附属薬学専門部の後身、新制千葉大学薬学部は1966年に現在の西千葉キャンパスに移転した(その後2011年に薬学部は亥鼻キャンパスに再移転している)。薬学部跡地には1978年に新附属病院が竣工し、旧附属病院本館 (1936年竣工) は1980年から医学部本館となって現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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宮崎師範学校男子部 前身の宮崎県師範学校から引き継いだ現・宮崎市花殿町の校地を使用した。第二次世界大戦末期、1945年の空襲で校舎を焼失し、戦後の授業開始時は川南村 (現・川南町) の軍施設を使用したが、1947年9月に宮崎市に復帰した。旧男子部校地は、現在は宮崎大学教育学部附属中学校・宮崎大学教育学部附属小学校の校地となっている。 宮崎師範学校女子部 前身の宮崎県女子師範学校から引き継いだ現・宮崎市船塚1丁目の校地を使用した。1945年の空襲で校舎を焼失し、戦後の授業開始時は宮崎神宮徴古館を借用した。旧女子部校地は後身の宮崎大学学芸学部 (1966年から教育学部) の校地として引き継がれ、同学部が1988年9月に現在の木花キャンパスに統合移転するまで使用された。旧女子部校地は、現在は宮崎公立大学の校地となっている。
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校地の変遷と継承
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「東京高等師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
1872年、「師範学校」として設立された際、東京府下湯島の昌平黌(当時は東京府第四大区五小区宮本町。高師設立時は東京市神田区宮本町(現・文京区湯島一丁目)の敷地・校舎を使用していたが、1903年松平大学頭(陸奥守山藩)邸の跡地であった大塚(当時は東京市小石川区大塚窪町。現・文京区大塚三丁目))に移転し、同邸の名園であった「占春園」は校内の憩いの地として親しまれ、校長・嘉納治五郎の銅像が建立された。東京高師(および東京文理大)の大塚校地は後身校たる新制東京教育大学の本部キャンパスとして継承され、同キャンパスは東教大の筑波大学への改編以降、筑波大の東京キャンパス大塚地区や教育の森公園として整備された。 附属学校(小学校・中学校)は発足時には湯島の東京師範学校内に置かれたが、1890年には一ツ橋(東京市神田区一ツ橋通町、現・千代田区一ツ橋二丁目)に移転し、1904年から1909年にかけて東京高師の大塚新校地に再び統合された。その後附属中学のみ1940年に小石川区大塚町56(現・大塚二丁目)の新校舎に移転。両校は東京高師を引き継ぐ東京教大の筑波大への改組・移転を経たのちも従来からの大塚の校地に止まっており、先述の「占春園」および嘉納治五郎像も附属小の敷地内に残されている。 筑波大学東京キャンパス大塚地区(2009年) / かつての東京高師大塚校地。 筑波大学附属小学校内の嘉納治五郎像 / 銅像の立地する校内庭園はかつての東京高師の占春園であった。
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校地の変遷と継承
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「第七高等学校造士館 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
鶴丸城址に置かれた七高校地は、設立から新制鹿児島大学への移行に至るまで基本的には維持されたが、1945年6月の空襲による校舎の全焼後、同年11月に鹿児島県出水郡高尾野町(現:出水市)の出水海軍第二航空隊の旧施設に一時移転し、1947年9月に旧校地に復帰した。 七高校地は新制鹿児島大学への包括にともない文理学部校地として継承されたが1953年 - 1958年に市内郡元地区に統合移転した後は、同大学医学部の校地として使用された(1957年 - 1974年)。 現在、鶴丸城址の旧校地には鹿児島県歴史資料センター黎明館(1983年開館)・県立図書館(1980年開館)が建てられており、黎明館内には旧制七高関連のコーナーが設けられている。また敷地内には「七高久遠の像」および寮歌「『北辰斜に』の碑」が建立されている。疎開先の出水海軍航空隊跡は出水市立下水流小学校校地となっており、同校校門横には「七高記念碑」が建立されている。 国の重要文化財に指定されている「異人館」は、もともと磯地区に建てられていた鹿児島紡績所技師館が1882年に鶴丸城址内に移築され、七高本館として長く使用されていたもので、1936年に再び磯地区に移築され、戦災による破壊も免れ現在に至っている(内部の一般公開は耐震強度の関係で現在中止されている)。
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校地の変遷と継承
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大分師範学校男子部 前身の大分県師範学校から引き継いだ大分市駄の原 (現・王子北町、通称春日浦校舎) の校地を使用したが、第二次世界大戦末期の1945年7月、空襲で校舎の大半を焼失した。戦後は市内上野の第12海軍航空廠少年工宿舎跡を仮校舎として授業を再開した。全校挙げての復興運動で得た寄附金により、1948年4月に大分市駄の原字野中 (現・王子新町) の旧陸軍施設跡に移転した。駄の原校地は後身の新制大分大学学芸学部に引き継がれ、同学部が1966年に教育学部と改称後、1968年4月に現在の旦野原キャンパスに移転するまで使用された。 春日浦校舎の跡地には1947年に大分県立春日浦野球場が建設されたが、1980年に開場した新大分球場に役目を譲り、解体された。跡地はフレスポ春日浦となっている。王子新町の旧校地には、現在も大分大学教育学部の附属校(幼稚園・小学校・中学校・特別支援学校)が存在する。 大分師範学校女子部 前身の大分県女子師範学校から引き継いだ大分市長浜町の校地を使用したが、1945年5月・7月の空襲で校舎の大半を焼失した。旧長浜校舎の跡地は、市立長浜小学校となっている。
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校地の変遷と継承
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「桐生高等工業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
創設時に群馬県から寄附された桐生市天神町の校地を廃止まで使用した。同校地は後身の群馬大学理工学部に引き継がれている。1915年竣工の旧制桐生高等染織学校講堂と本館の一部は、1970年校地中央から正門脇に移設された。1998年国登録有形文化財に指定された。
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校地の変遷と継承
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「府立高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
上述のように設立当初の校地は東京市麹町区永田町(現・東京都千代田区永田町)の東京府立第一中学校(東京都立日比谷高等学校の前身校)の校内に設置されていたが、1932年4月に荏原郡碑衾町の八雲校地に移転した。新制移行に伴い旧制都立高(府立高を改称)の校地は東京都立大学に継承され都立大学八雲キャンパスとなり、人文学部がおかれたが、1991年八王子市南大沢の新キャンパスに統合移転されたため、校地は廃止されて「めぐろ区民キャンパス」として再開発され現在に至っている。同敷地内には旧制時代および都立大の旧正門が保存され、モニュメントが建立されている。また併設されていた尋常科の後身校である都立大附属高校は、その後校名を改称(都立桜修館中等教育学校)しながらも旧制以来の上記校地に所在している。
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校地の変遷と継承
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「第六高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
岡山市中区古京町の操山の麓に位置する校地は「六稜」と呼ばれ新制岡山大学への包括まで維持されたが、1945年6月の空襲による校舎などの焼失後は、完全に復興されないまま廃校となった(敗戦後黒正巌校長の下で動員された六高生多数が、進駐軍が撤収して空き家となった岡山の陸軍第17師団跡地22万坪を確保、現在の岡山大学津島キャンパスとなった)。 現在、かつての六高校地は岡山県立岡山朝日高等学校に継承されており、当時の建造物のうち書庫(画像参照)・柔道場・校門が現存し、校内には六高記念館が設置されている。
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校地の変遷と継承
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「第二高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
1889年(明治22年)、仙台城址にあった陸軍第2師団と広瀬川を挟んで対岸に位置する片平丁の旧陸軍省用地に校舎が完成(片平校舎)。のちに、東北帝大法文学部設置にあたって校地を提供して、1925年(大正14年)に北六番丁に移転した(北六校舎)。1945年(昭和20年)7月の仙台空襲で校舎が焼失した後は、仙台市南部の旧仙台陸軍幼年学校の校舎として使用されていた三神峯校舎に移転。新制東北大学への包括後、三神峯校舎は第一教養部富沢分校として引き継がれ、1958年(昭和33年)まで使用されたのち市内川内地区への統合移転により廃止された(現在は三神峯公園となっている)。 設立当初の旧片平校地は東北大学片平キャンパスとして継承され現在に至る。構内には書庫および旧物理学教室など二高時代の建造物が残る。東北大学正門の近くに、当時の位置に移設された二高の校門を中心にして、第二高等学校片平記念苑がある。記念苑は、尚志同窓会が1996年に整備した。校門は校舎の移転とともに移り、廃止後しばらく市立博物館に保存されてから、最初の位置に戻った。 また明善寮も三神峯に移転したものの建物自体は引き続き東北大学の学生寮として継承された。 旧北六校地は、新制東北大農学部のキャンパス(雨宮キャンパス)として継承され現在に至る。同構内には旧二高以来の守衛所が現在も使用されており、旧制二高関連のモニュメントが多数建立されている。
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校地の変遷と継承
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開校時の校地は第一大区十六小区の越前堀2丁目3番地で、1881年(明治14年)に至って神田区神田錦町2丁目2番地に移転した。この地はもと旗本蒔田氏の屋敷跡で、維新後に山階宮晃親王邸となっていたのを三菱が買収し、母屋・長屋・土蔵を改造して校舎とした。廃校後の1885年(明治18年)4月に岡山兼吉と増島六一郎の斡旋によりこの地を三菱から4,128円で購入し、英吉利法律学校と東京英語学校が共同使用することとなった。
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校地の変遷と継承
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「松山高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立当初の校舎は松山市萱町2丁目の松山市公会堂を借り受けた仮校舎であり、開校2年目の1920年(大正9年)8月、温泉郡道後村大字持田に完成した新校舎に移転した。 1945年の空襲で校舎と寄宿舎を焼失した後は焼け残った講堂や武道場、校外施設(石手寺など)で授業を行った。持田校地は新制愛媛大学への包括により文理学部校地として継承され、その後教育学部附属学校の校地となり現在に至っている。 現在、旧制高校時代の講堂(章光堂)は1963年(昭和38年)以降、愛媛大学附属中学校の講堂として使用され、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録された(松山市内では初)。
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校地の変遷と継承
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「専修学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
開校時の本校舎は東京府京橋区木挽町2丁目の明治会堂別館とされたが、内部工事の遅延により1880年(明治13年)9月16日に同区南鍋町1丁目の簿記講習所仮校舎で開校式を行った。翌月に至ってようやく改築工事が完了したため、10月11日に本校舎に移転して本格的な授業を開始した。 その後の学生数増加により、1882年(明治15年)11月に神田区中猿楽町の順天求合社(数学者福田理軒がおこした算術塾)の校舎を借用して移転した。 さらに1884年(明治17年)12月16日、同区今川小路2丁目(現在の神田神保町3丁目)の田中芳男邸(560坪)を田尻稲次郎名義で購入し、翌年7月に校舎を新築して移転した。 1917年(大正6年)には隣接地1,150坪を買収して校地を3倍に拡張し、3年後に木造3階建ての校舎を新築した。これらの積極策がなければ大学令による専修大学の昇格はさらに困難になっただろうと評されている。この校地が専修大学の神田キャンパスとして現在に至るまで継承されている。
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校地の変遷と継承
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「福井青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
福井青年師範学校は、前身の福井県立青年学校教員養成所から引き継いだ福井県立福井農林学校内校舎で発足した (福井市新保、現・福井県立福井農林高等学校)。1948年6月の福井地震で校舎が壊滅し、同年9月には今立郡神明町 (現・鯖江市三六町) の福井師範学校男子部校舎 (旧陸軍歩兵第36連隊兵舎) に同居した。1949年4月、新制福井大学の発足を前に、鯖江町上鯖江 (現・鯖江市舟津町) の福井師範学校女子部校舎に移転した。(福井師範学校#校地の変遷と継承も参照)
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校地の変遷と継承
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「香川青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の香川県立青年学校教員養成所から引き継いだ、香川郡一宮村 (現・高松市一宮) の校地で発足した。同校地は香川県立香川農業学校 (現・香川県立高松南高等学校の前身の一つ) と同居だったため狭隘となり、1948年に善通寺市の旧陸軍第11師団輜重隊跡に移転した。戦災を受けた高松経済専門学校が仮校舎としていた跡に入居したものである。 善通寺校地は新制香川大学学芸学部に引き継がれて善通寺教室となり、中学校職業科・家庭科教員の養成課程が置かれたが、1952年3月に高松の学芸学部本校に統合され、廃止となった。
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校地の変遷と継承
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「栃木青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の栃木県立実業補習学校教員養成所は県立宇都宮農学校で発足後、河内郡平石村峰(現・宇都宮市峰町、宇都宮大学峰キャンパス)の宇都宮高等農林学校校内に移転、栃木県立実業教員養成所と改称した。栃木県立青年学校教員養成所時代に同窓会から生徒実習農場の寄附を受け、1941年には高等農林校内から同地に移転した(河内郡平石村大字石井上野地内、現・宇都宮市石井町2980番地)。後身の官立栃木青年師範学校は同地を引き続き使用した。 新制宇都宮大学発足後、旧・青師校地は農学部附属石井農場として継承されたが、1959年、同地に学生寮を統合することになったため、農場は中央農場(現・峰キャンパス内)に統合移転した。旧・青師校地には「志峰寮」が建設され、これに旧・青師「石井寮」、旧・農専「自律寮」・「姿川寮」、旧・師範男子寮「啓明寮」が順次統合された。1973年には女子寮「清和寮」も統合され、志峰寮第5寮となった。1982年、入退寮権や経費負担をめぐる寮生との紛争から、大学側は志峰寮の入寮を停止した。1988年、志峰寮は廃止され、第4棟が改装の上で新規格寮「第1寮」(男子寮)となった。1990年には「第2寮」(女子寮)が発足。また1989年には第1寮西側に留学生寮「国際交流会館」が設置され、現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「徳島高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
旧制徳島医学専門学校に併置された (当該記事参照)。学生寮 (徳風寮) は同校から引き継いだと考えられ、寮歌は 2曲ほど存在が確認されている。
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校地の変遷と継承
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「仙台高等工業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
(旧)仙台高等工業学校創立時は、宮城県から寄附された宮城県第一中学校校地(旧制第二高等学校の南東隣。現:仙台市青葉区片平の東北大学多元物質科学研究所素材工学研究棟付近)を使用した。一中校舎は高工開校直前に焼失し、開校当初は焼け残りの寄宿舎を使用したが、1909年に高工校舎が完成した。 東北帝国大学附属工学専門部時代の1919年、東北帝国大学工学部開設に伴い、校舎・校地を工学部に譲り、南隣の南六軒丁地区(東北大学片平キャンパスの南端一帯)に校舎を新築・移転した。南六軒丁の校地は1921年の高工独立後も引き続き使用され、第二次世界大戦後、仙台工専の廃止まで維持された。1930年竣工の旧建築学科棟(東北大学電気通信研究所附属21世紀情報通信研究開発センターの通称SKK棟)が旧制仙台高工(仙台工専)の代表的建物として残存している他、いくつかの建物が現存している。また寄宿舎・日就寮は東北大学の学生寮として八木山校地に存続している。 附設工業教員養成所は、新制東北大学工学部で工業教員養成課程として復活した。
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校地の変遷と継承
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「茨城青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
茨城青年師範学校は母体となった茨城県立水戸農学校 (現・茨城県立水戸農業高等学校、当時は水戸市緑町に所在) の校地で発足した。翌1945年4月1日、筑波郡上郷村上郷 (現・つくば市上郷) の茨城県立上郷農蚕学校 (現・茨城県立上郷高等学校) 校地に移転した。1948年9月には、西茨城郡宍戸町 (のちの友部町、現・笠間市旭町) の旧海軍筑波航空隊兵舎に移転した。同校地は後身の新制茨城大学教育学部に引き継がれ、教育学部友部農場となった。友部農場は1955年3月に廃止された (水戸市東原に移転)。 現在、茨城県立水戸農学校の跡地は茨城県立歴史館となっている。海軍筑波航空隊の跡地は、茨城県立こころの医療センター(旧・茨城県立友部病院)や国土交通省友部航空無線通信所となっている。
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校地の変遷と継承
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「函館高等水産学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の北海道帝国大学附属水産専門部時代 (その前身諸校を含む) は、札幌市の北海道帝国大学校地に校舎が所在したが、函館高等水産学校創設後は、函館市より寄附された亀田郡亀田村字港253番地 (1949年4月から函館市港町253番地) の校地を使用した。第二次世界大戦敗戦により、校舎は一時的にアメリカ軍に接収されたが、1947年1月に返還された。その後、函館高等水産学校は母体である北海道大学に統合されることとなったが、函館校地は後身の新制北海道大学水産学部に継承され、現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「弘前高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
1921年の開校当初は弘前市公会堂 (弘前市蔵主町) を仮校舎として使用した。富田村 (現 弘前市文京町) に建設中の本校舎が 1923年末までに完成し、移転した。以後、同校地は旧制弘前高等学校廃止まで使用され、後身の弘前大学に引き継がれた (現 文京町地区)。
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校地の変遷と継承
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設立当初は先述の通り、上京区東三本木通にあった料亭「清輝楼(旧・吉田屋)」の2階および3階部分を間借りして講義を行っていた。 開講直後に京都府に提出した「校舎敷地貸与願書」では、当時上京区土手町通丸太町下ル駒之町にあった「旧京都府立第一高等女学校」の校舎と敷地の期限付貸与を申し出たが、「京都府立第二高等女学校」の利用が決まったためにこれを断念。そこで1901年(明治34年)12月、西園寺公望の実弟で第15代住友家当主・住友友純から1,500円の寄付を得るなどして上京区清和院口寺町東入ルに移転。ここに旧京都府中学校校舎の一部の払い下げを受け、3教室を確保した。 京都法政大学と改称した後の1905年(明治38年)には五條警察署旧庁舎の払い下げを受けて校舎の増築を行い、さらに夜間授業の大学校舎を有効活用する形で昼間授業の清和普通学校(翌年清和中学校、1913年立命館中学と改称)も開設した。同一校舎での大学と中学の同居は1922年(大正11年)まで続いた。 中学移転後の広小路学舎は大学部と専門学部が使用することになったが、木造2階建ての校舎は狭隘化が目立つようになったため、1924~26年にかけて図書館(養性館)を、1927~28年にかけて新校舎2棟(存心館と尽心館)を建設し、ようやく大学らしい教育環境を整えるに至った。 この広小路学舎は1981年(昭和56年)に衣笠キャンパス(北区等持院北町)に移転するまでの約80年間、立命館大学の本部キャンパスとして機能した。 現在、京都法政学校が仮学舎とした「清輝楼」の跡地には、「立命館草創の地」を示す記念碑が建っている。また、1901年(明治34年)から1981年(昭和56年)まで学校法人本部のあった「広小路学舎」跡地(旧中川会館付近)にも「立命館大学発祥の地」記念碑が建てられている。
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校地の変遷と継承
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「佐賀高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
開校時は佐賀市内にあった元佐賀高等小学校女子部校舎を仮校舎として使用した。翌1921年2月に佐賀県佐賀郡本庄村1番地 (現・佐賀市本庄町) の新校舎が竣工し、3月末に移転した。本庄校地は、校地北側の東西に伸びる県道の通称に因み、学校関係者から 「十五畷」 と呼ばれた。本庄校地は佐賀高等学校廃止まで維持され、後身の佐賀大学に引き継がれた (現・本庄キャンパス)。
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校地の変遷と継承
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「秋田青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の秋田県立青年学校教員養成所から引き継いだ、河辺郡四ツ小屋村小阿地(現 秋田市四ツ小屋小阿地・御所野地蔵田)の校地を使用した。四ツ小屋校地は後身の秋田大学学芸学部に引き継がれ、1990年3月まで四ツ小屋農場として使用された。
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校地の変遷と継承
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「三重水産専門学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
校地は、三重県一志郡香良洲町 (現・津市香良洲町) の三重海軍航空隊跡地で、香良洲漁港に隣接していた。南隣には、戦災を受けて避難してきた三重師範学校の校地が存在した。
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校地の変遷と継承
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「新居浜工業専門学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
新居浜高工創立当初は、新居浜第二尋常小学校 (現・新居浜市立宮西小学校) 校舎を仮校舎とした。翌1940年には第2期生を収容するために、住友アルミ青年学校 (夜間校) 校舎を昼間のみ借用した。1940年末に新居浜市庄内1188番地 (現・八雲町) の校舎が竣工し、移転した。庄内の校地は、後身の新制愛媛大学工学部に引き継がれた。1960年代に入り、工学部が松山市城北地区 (文京町) に統合移転することになり、その見返りとして1962年4月、国立新居浜工業高等専門学校 (新居浜高専) が庄内校地に設置された。高専との同居を約1年続けた後、1963年8月、愛媛大学工学部は松山市城北地区に移転した。庄内 (八雲町) の校地は新居浜高専に引き継がれて現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「岐阜青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の岐阜県立青年学校教員養成所から引き継いだ、不破郡宮代村 (現・垂井町宮代) の校地を使用した。岐阜青師が新制岐阜大学学芸学部に包括され宮代校地の廃止が決まったため、1950年4月、新制岐阜県立不破高等学校が旧宮代校地に設置され、現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「高知青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の高知県立青年学校教員養成所から引き継いだ、高知市大原町の校地を廃止まで使用した。高知青年師範学校廃止後の 1951年4月から1964年7月まで、大原地区には高知大学事務局が置かれた。
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校地の変遷と継承
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「愛媛県立松山農科大学」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
源流の旧制愛媛県農業学校は愛媛県温泉郡道後村持田に設置された (現・松山東警察署付近。「愛媛農業教育発祥の地」碑が建立されている)。同地は周囲の市街地化に伴い再三面積を減じられ狭隘となったため、1929年5月に温泉郡桑原村の新校舎に移転した (現在の樽味キャンパス)。同地は後身の旧制愛媛県立農林専門学校、愛媛県立松山農科大学、愛媛大学農学部に引き継がれ、現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「山口青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
山口青年師範学校は前身の山口県立青年学校教員養成所から引き継いだ、防府市大字三田尻村 (現・桑山) の校地を使用した。同校地は後身の新制山口大学教育学部に引き継がれ、教育学部防府分校となった。防府分校は1960年(昭和35年)3月に廃止され、山口市亀山の教育学部本校に統合された。防府分校の跡地は現在、防府市立桑山中学校となっている。
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校地の変遷と継承
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「埼玉青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
埼玉県実業補習学校教員養成所として創設以来、熊谷農学校(現・埼玉県立熊谷農業高等学校)校舎を使用した。1947年に大里郡幡羅村大字原郷字西原208番地(現・深谷市原郷、深谷商業の北隣)の旧東京第二陸軍造兵廠深谷製造所跡に移転し、廃止の日を迎えた。 深谷の校地は、新制埼玉大学教育学部職業科の実習農場(深谷農場)として継承された。1954年3月、深谷農場・熊谷農場は所管換となり、大宮市日進町に大宮農場が新設された。大宮農場は教育学部附属養護学校(1972年4月設置)の用地となり、代替として大久保農場が新設され、現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「山口高等商業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立当初の校地は、1861年(文久元年)以来山口講堂 - 山口高等学校(旧・旧山高)が所在していた亀山東麓(当時は山口県吉敷郡山口町 / 現・山口市亀山地区)の亀山校地を継承した。この校地は学制改革を経て山口大学経済学部に引き継がれたが、同学部は1973年1月に吉田地区に移転され亀山校地は廃止された。現在、亀山校地跡には「鳳陽寮歌石碑」が建立されている。
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校地の変遷と継承
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校地 前身の旧制兵庫県立医専は、附属医院(旧・兵庫県立神戸病院)の南隣にあった神戸市立第二高女・女子商業学校の校舎で発足した(現在の神戸市中央区楠町6丁目)。後身の旧制兵庫県立医大、新制神戸医大、神戸大学医学部は楠校地を引き継ぎ、現在に至っている。 1946年発足の旧制兵庫県立医大予科は、篠山の旧陸軍歩兵第70連隊兵舎跡で発足し、1948年3月まで同校地を使用した。篠山校地は1949年発足の新制兵庫農科大学に引き継がれた。農科大学が神戸大学に統合されたのち篠山校地は廃止され、現在は工場用地になっている(兵庫農科大学参照)。 附属病院 附属病院の前身 兵庫県立神戸病院は、1900年4月に現在の神戸市中央区楠町の地に移転した。以来、拡張・改築を重ねながら同地を使用し続けている。
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校地の変遷と継承
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「横浜高等商業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立当初は横浜高等工業学校(大岡)の建物を借用していたが、1926年3月、南太田町清水台校地に、震災対策として高商のなかでは比較的早く鉄筋コンクリート造の新校舎を建設して移転した。清水台校地は学制改革を経て横浜国立大学経済学部に継承され、1974年3月に常盤台校地(保土ヶ谷区)に移転するまで使用された。旧清水台校地は、現在は神奈川県立横浜清陵総合高等学校の校地や清水ヶ丘公園となっている。
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校地の変遷と継承
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「愛知新城大谷大学短期大学部」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
土地・建物を所有する新城市は尾張学園撤退後、撤退時に公立大学化が相次いだ他の公私協力大学と違って、独立行政法人を設置して大学・短大運営は行わず、外部から新たな校地継承者を募った。その結果、大智学園高等学校を経営する株式会社コーチング・スタッフに土地・建物を貸与することを決め、2014年4月愛知新城大谷大学跡地に「穂の香看護専門学校」が開校された。
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校地の変遷と継承
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「岩手青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
岩手青年師範学校は、前身の岩手県立青年学校教員養成所から引き継いだ胆沢郡相去町 (現・胆沢郡金ケ崎町六原蟹子沢、岩手県立農業大学校) の岩手県立六原道場に併設されて発足したが、1946年(昭和21年)4月に胆沢郡金ケ崎町大字三ケ尻字東浦の旧陸軍兵舎跡に移転した。同校地を1950年(昭和25年)11月まで使用した後、後身である岩手大学学芸学部の校地に統合移転し、廃止の日を迎えた。 金ケ崎町大字三ケ尻字東浦の校地跡には、同窓会によって記念碑が建立されている。
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校地の変遷と継承
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男子部 首里市当蔵 (現・那覇市首里当蔵町) にあった旧沖縄県師範学校校地を引き継ぎ、1945年4月の校舎壊滅まで使用した。首里城を望む龍潭池畔に所在し、同窓会 (龍潭同窓会) の名前の由来となっている。現在の沖縄県立芸術大学キャンパスの一帯とされる。 女子部 真和志村安里 (現・那覇市安里) にあった旧沖縄県女子師範学校校地を引き継ぎ、1945年3月の校舎壊滅まで使用した。校地は沖縄県立第一高等女学校と共用であった。 現在も那覇市大道には、女子部の代用附属だった那覇市立大道小学校が存在する。また、2002年には、ひめゆり同窓会によって大道小学校敷地内に学校跡地の碑が建立された。
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校地の変遷と継承
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「沖縄青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の沖縄県立青年学校教員養成所は、北谷村嘉手納 (現・嘉手納町) にあった沖縄県立農林学校 (現 沖縄県立北部農林高等学校・中部農林高等学校の源流) に併設された。官立沖縄青年師範学校は引き続き嘉手納校地を使用した (詳細未詳)。1945年3月21日、沖縄県立農林学校校舎はアメリカ軍の攻撃で焼失しており、青年師範学校校舎も共に焼失したとみられる。 沖縄県立農林学校の跡地は、1953年から嘉手納町立嘉手納中学校となっている。
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校地の変遷と継承
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「神戸高等工業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
神戸高工開校時の校地は神戸市水笠通(西代校舎・現長田区水笠通)に所在しており、新制大学移行まで継承された。1945年3月17日未明の空襲により校舎は土木科棟など一部を除いて全焼、戦後の復興にあたって舞鶴の海軍施設への移転も検討されたが、神戸市から市立第一機械工業学校(旧市立松野実業学校。新制市立神戸工業高校機械科→現在の市立科学技術高校の前身)の校舎を提供され、1946年12月に本部を移転する(松野校舎)などして長田区内に留まった。神戸大学への包括後、2つの校地はしばらく同大学の工学部に継承されたが、ほどなくして各学部キャンパスの六甲台への統合移転が本格化、1961年に工学部の移転が開始され1962年8月までに完了した。なお、焼け残っていた土木科棟は工学部の移転後も雑居ビルとして使用されていたが、阪神・淡路大震災後の区画整理事業のため1999年に解体された。現在、元西代校舎跡地の一角、新長田駅北地区5号緑地に 「神戸高等工業学校発祥之地」碑が設置されている。松野校舎跡地は、前記の市立神戸工高や大和田工業高等学校(のち市立長田工業高校と改称)の校地に使用された。同校移転により、現在はマンション(新長田駅前アーバンコンフォートほか)となっている。
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校地の変遷と継承
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開校当初の校地となったのは東京府下浅草区蔵前片町29番地(現・台東区蔵前)の浅草御蔵および浅草文庫蔵前閲覧所の跡地であり、1882年6月10日新校舎が建設が開始され、11月27日に竣工した。校地・校舎は後身の東京工業学校・東京高等工業学校に継承され、東京高工時代には近隣の南元町38番地の土地を加えて拡張工事が行われた。その結果、蔵前校地は隅田川西岸の面積43,000平方メートルに及ぶ広大な土地を占めていた。以上のような事情を背景に「蔵前」(もしくは蔵前工業・蔵前工業学園)は東京高工の別称となり、東京高工およびその後身である(旧制・新制)東京工業大学の同窓会「蔵前工業会」の名称の由来となっている。 蔵前校地は1923年9月の関東大震災によって灰燼に帰したため、翌1924年、東京高工の校地は大岡山に移転、これが1929年に設立された(旧制)東京工業大学の校地として継承され、学制改革を経て発足した現在の東京工大大岡山キャンパスとなっている。かつての蔵前校地の正門付近は第六天榊神社の境内となっており、他には浅草中学校などが旧校地内に立地している。榊神社南側には1943年、蔵前工業会により「蔵前工業学園之蹟」(工業教育発祥の地)の碑が建立され、かつて校地の飛地となっていた台東区蔵前2丁目(旧・南元町)には「東京工業大学発祥の地」のパネルが設置されている。
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校地の変遷と継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 01:53 UTC 版)
1880年(明治13年)4月に東京法学社(講法局・代言局)が東京府神田区駿河台北甲賀町19番地に開設され、同地において9月12日に本格的に開校したが、同年末には神田錦町2丁目3番地の旗本屋敷跡へ移転。翌1881年(明治14年)5月に東京法学校が東京法学社から分離・独立した際にも校地はそのまま引き継がれた。 その後、1884年(明治17年)3月に同区小川町1番地の新校舎に移転した。レンガ造りで建坪が316.5坪の旧勧工場(内国勧業博覧会を日常化した百貨商品販売所)の建物を買い取って内部を改築したもので、建物の前の半分が教務室、食堂、寄宿舎、奥の半分が約300人収容の講堂を中心とした教室であった。その頃の学校としては、かなり人目を引く規模の校舎であったという。この新校舎の購入に際しては、ボアソナードが私財を投じたといわれ、校舎の前面には、当時の大審院院長であった玉乃世履の揮毫による「東京法学校」の大文字の額が掛かっていた。 なお、東京法学校はこの校舎の向かいにあったもう1棟のレンガ造り建坪144坪の建物も所有していたが、こちらは仏学会 (La Société de Langue Française) に賃貸され、1886年(明治19年)11月の東京仏学校開校時の校舎となった。また、この東京仏学校の校舎は、仏学会からさらに夜間のみ東京物理学校(現・東京理科大学)に賃貸され(転貸借)、東京法学校と東京仏学校が合併に向けて動き出した1888年(明治21年)12月に東京物理学校に売却された(同校が1906年に神楽坂に移転するまで使用)。 東京仏学校は、1889年(明治22年)4月に神田区柳原河岸第19号地へ一時的に移転したが、正式に合併して和仏法律学校が発足した後の同年11月に、九段上の麹町区富士見町6丁目16番地の土地315坪を購入。翌1890年(明治23年)7月には、建坪255坪の木造2階建ての新校舎が竣工し、小川町の旧東京法学校校舎と柳原河岸の旧東京仏学校校舎から、九段上の新校舎へと移転した。 この九段上校舎は、エコール・サントラル・パリ (École Centrale Paris) を卒業し、同時期(1890年前後)に帝国大学や一高から五高までの校舎も手掛けた山口半六が設計したもので、6つの講堂、事務室、応接所、書籍閲覧室などが設けられていた。教員や学生たちからは「梧桐の校舎」と呼ばれて親しまれたが、大正期には手狭になったため、1918年(大正7年)に旧江戸城外堀沿いの富士見町4丁目12・13番地(現在の市ケ谷キャンパスの所在地)を買収し、新校舎を建設することになった。そして、1921年(大正10年)に第一校舎が竣工し、移転した。当初は今よりも敷地は狭く、徐々に敷地を買収・拡張しながら、現在に至っている。 一方、九段上校舎は分校としてしばらく使用した後、1923年(大正12年)に大東文化学院(現・大東文化大学)に売却され、同学院校舎として1941年(昭和16年)まで使用された。
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校地の変遷と継承
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「静岡県立静岡農科大学」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の旧制静岡県立静岡農林専門学校は、磐田郡磐田町 (現・磐田市) の県立中泉農学校 (現・県立磐田農業高等学校) に併設されたが、独自校舎を持つ方針だったため、校舎は磐田町見付兜塚の旧陸軍第一航空情報聯隊跡の旧兵舎を修復しながら使用した (同地は静岡第一師範学校仮校舎や米軍第8部隊に使用された後は放置され荒廃していた)。同校地は後身の静岡県立静岡農科大学・静岡大学農学部に引き継がれた。静岡大学農学部は1973年4月に現在の静岡キャンパス (静岡市駿河区大谷) へ移転した。磐田市見付の旧校地は、現在は静岡県立農林大学校キャンパスおよび かぶと塚公園となっている。
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校地の変遷と継承
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「岡山農業専門学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立当初は、岡山県吉備郡高松町原古才 (現・岡山市北区高松原古才) の岡山県高松農業学校 (現・岡山県立高松農業高等学校) の校舎に併設された。1947年11月から段階的に岡山市津島の進駐軍 (英印部隊) 兵舎跡 (元は旧陸軍第四十八部隊跡) に移転し、1949年4月には正式に移転を完了した。津島校地は、後身の岡山大学に引き継がれた。
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校地の変遷と継承
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「京都青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の京都府青年学校教員養成所に引き続き、京都市上京区(現:北区)小山南大野町の京都師範学校男子部校地で発足した。1945年12月、船井郡高原村字富田 (現:京丹波町富田) の旧海軍施設に移転した。高原村の校地は後身の京都学芸大学に継承され、高原分教場となった。高原分教場は 1959年3月に廃止され、跡地は京都大学に引き継がれた。
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校地の変遷と継承
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「新潟青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の新潟県立青年学校教員養成所に引き続き、加茂農林学校 (現・新潟県加茂市の加茂農林高等学校) 校内を使用した。1946年、北蒲原郡新発田町 (1947年から新発田市) の誘致に応えて、新発田城本丸の陸軍歩兵第16連隊兵舎跡に移転した。新発田校地は後身の新制新潟大学教育学部に引き継がれ、新潟大学新発田分校となった (1951年4月から教育学部新発田分校)。新発田分校は1952年12月で廃止予定だったが廃校への反発もあり、新潟分校と改称されてからも 1953年3月まで新発田に残留した。同年4月、新潟分校は新潟市旭町通の教育学部本校内に移転し (新潟分校は1956年3月廃止)、旧新発田校地は警察予備隊に引き渡された (現・陸上自衛隊新発田駐屯地)。
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校地の変遷と継承
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旧制以前のことは、ここでは省略する。旧制諸学校を参照されたい。 東京教育大学の母体となった東京高等師範学校と東京文理科大学は文京区大塚に、東京農業教育専門学校は目黒区駒場に、東京体育専門学校は渋谷区幡ヶ谷にあった。そこで、そのままに引き継ぐ形で、上記「キャンパス」に見られるように、3キャンパスにそれぞれの5学部が成立した。なお、教養部制をとらず、1年生でも専門課程を履修でき、4年生でも教養課程を履修できた。 筑波大学発足後は、東京教育大学が管理していた校地は、次のように変化している。 筑波大学が継承したもの 附属学校 演習林(長野県八ヶ岳、長野県川上村、静岡県静岡市井川) 岳東寮(山梨県山中湖畔、のちの筑波大学山中共同研修所) 北条寮(千葉県館山市、のちの筑波大学館山研修所) 北辰寮(新潟県石打丸山スキー場近く、筑波大学石打研修所を経て2013年9月30日に廃止) 高原生物実験所(長野県真田町、のちの筑波大学菅平高原実験センター) 臨海実験所(静岡県下田市、のちの筑波大学下田臨海実験センター) 附属農場(保谷市)→筑波大学附属小学校保谷農園 附属農場(埼玉県坂戸市・鶴ヶ島市)→一部が筑波大学附属坂戸高等学校の農場の一部 筑波大学に継承されなかったもの 大塚キャンパス→文京区区立教育の森公園、筑波大学東京キャンパス文京校舎、放送大学東京文京学習センターに分割 駒場キャンパス→目黒区立駒場野公園、同駒場体育館、東京都立国際高等学校、大学入試センターに分割 幡ヶ谷キャンパス→渋谷区に割譲。渋谷区スポーツセンター、同運動場、同フットサル、渋谷区総合ケアコミュニティ(介護等の複合施設)、ガールスカウト会館 光学研究所→社会保険中央総合病院 桐花寮(板橋区・学生寮)→板橋区平和公園、区立高齢者住宅 保谷寮(西東京市保谷・学生寮ラグビー部と陸上競技部)→文理台公園 茗花寮(板橋区・女子学生寮)→筑波大学附属桐が丘特別支援学校の敷地の一部 ラグビーグラウンド・400mトラック・体育学部生用学生寮→当時の保谷市に割譲。西東京市文理台公園、市営住宅、明保中学(校地前部を市道に割譲)、上水道ポンプ場 附属農場(世田谷区祖師谷)→都立祖師谷公園、祖師谷国際交流会館
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校地の変遷と継承
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「新潟高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
1919年の開校時はまだ校舎は建設されておらず、新潟師範学校の一部を借りて授業を行っていたが、間もなく現在の新潟市中央区西大畑町に新校舎が建設され、1922年6月1日に落成式を行った。 新制移行後は新潟大学人文学部・理学部のキャンパスとして継承されたが、1968年 - 70年に市内五十嵐地区に統合移転したため、その後新潟大学教育学部附属新潟小学校・同附属新潟中学校が移転し現在に至っている。 旧校地内およびその周辺にはドッペリ坂(「ドッペリ」は留年の意)など旧制新潟高を記念するモニュメントが建立され、新潟大学あさひまち展示館(旭町学術展示資料館 / 旧・旧制新潟師範学校記念館)では旧制高校時代の実験器具が展示されている。また六花寮も新潟大の学生寮として継承され、1965年関屋地区に移転して現在に至っている(新潟大学#附属機関・施設の「寮」参照)。
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校地の変遷と継承
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島根師範学校男子部 前身の島根県師範学校から引き継いだ松江市外中原町の校地を使用した。同校地は後身の新制島根大学教育学部に引き継がれ、1962年12月に現在の川津キャンパスに移転完了するまで使用された。その後1963年9月から1969年まで、旧・外中原校地は島根大学教育学部附属中学校に使用された。現在は松江市立第一中学校の校地となっている。 島根師範学校女子部 前身の島根県女子師範学校から引き継いだ浜田市原井 (現・片庭町) の校地を使用した。同校地は後身の新制島根大学教育学部に引き継がれ教育学部浜田分校となったが、分校は1952年4月に廃止された。その後、旧浜田校地は島根県立浜田ろう学校に1966年まで使用された。現在は島根県浜田合同庁舎の敷地となっている。
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校地の変遷と継承
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愛媛師範学校男子部 前身の愛媛県師範学校から引き継いだ松山市木屋町 (現・若草町4丁目) の校地を使用した。1945年7月の空襲で校舎を失い、同年9月の授業再開時は、空襲の被害を受けなかった女子部校舎や太山寺等を使用した。1947年、市内城北 (現・文京町) の旧陸軍歩兵第22連隊練兵場跡に教室2棟を設置し、女子部校舎との 2箇所で分散授業を行った (女子部も 1950年までに城北地区に移転完了した)。城北校地は後身の新制愛媛大学教育学部に継承された。現在、愛媛大学城北キャンパスには医学部・農学部を除く法文学部・教育学部・工学部・理学部が集中している。 旧木屋町校地の跡地は、現在は松山若草合同庁舎となっており、「愛媛教育草創之地」 碑が設置されている。 愛媛師範学校女子部 前身の愛媛県女子師範学校から引き継いだ松山市三津西須賀町 (旧・温泉郡三津浜町字梅田町新立小松原、現・松山市須賀町) の校地を使用した。1945年7月の空襲では被害を受けなかったが、第二次世界大戦終戦後、校舎を焼失した男子部が移転して来たため、同居状態となった。1947年に男子部が城北地区に一部移転したのに続いて、1948年から女子部も城北地区へ移転することになった。城北への移転は 1950年までに完了し、三津校地は同年11月に警察予備隊に引き渡された。現在、旧三津校地の跡は、松山西警察署となっている。
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校地の変遷と継承
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山梨師範学校男子部 前身の山梨県師範学校から引き継いだ甲府市古府中町2282番地 (旧・相川村字昌永、現・甲府市武田4丁目) の校地を使用した。1945年7月の甲府空襲で校舎を焼失し、同年9月の授業再開時は、焼け残った附属国民学校の一部建物を使用した。同年12月、市内古府中町 (現・北新) の旧陸軍六三部隊兵舎跡に移転したが、1947年6月、元の男子部校地に竣工した新校舎に復帰した。同校地は後身の新制山梨大学学芸学部 (現・教育人間科学部) に継承され、現在に至っている。 山梨師範学校女子部 前身の山梨県女子師範学校から引き継いだ加納岩村 (現・山梨市上神内川) の校地を使用した。同校地は後身の新制山梨大学学芸学部に継承され加納岩分校 (2年課程を設置) となったが、1952年4月に 2年課程は甲府の学芸学部本校に統合され、加納岩分校は廃止された (西隣にあった附属幼稚園のみは1962年3月まで加納岩に残った)。旧・加納岩校地は元併設校の山梨県立山梨高等学校 (旧・山梨県立高等女学校) に引き継がれて現在に至っている。
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「同志社高等商業学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
同志社専門学校高商部として設立された当時の校地は、上京区今出川の同志社大学(同志社専門学校)校地内に所在していた。その後定員増加にも関わらず施設整備が遅れたため、教員・生徒による募金運動が起こり、新たに京都府愛宕郡岩倉村(現在の左京区岩倉)に64,000坪におよぶ広大な用地(うち半分を校地に充当)を購入取得、1929年4月新校地に移転し、ようやく高商専用の校舎・施設を得ることができた。 戦後の学制改革に際し、1947年、当時の同志社総長・湯浅八郎は、高商を新制の商学部に改編して今出川に移し、岩倉の旧高商校地には「前期大学」(教養課程に相当)と新制同志社高等学校(かつての旧制同志社中学)などの校地に当てる構想を示したが、「前期大学」への移行が想定された予科生の反対により大学の一部移転については実現せず、1949年新制同志社高校のみが岩倉に移転した。結局、高校校地以外の岩倉校地は、大学の運動施設用地として使用されることとなった。 現在の岩倉校地は大学校地としては廃止されており、既存の同志社高校、中学校、小学校の校地となっている。なお1977年9月、同志社大学商学部樹徳会により校地の一隅に「同志社高商之跡」碑が建立されており、高商の新校地獲得運動が岩倉校地の発祥につながったことを顕彰している。
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校地の変遷と継承
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栃木県師範学校・官立栃木師範学校男子部 源流となった栃木県 「類似師範学校」 は 1873年4月、都賀郡栃木町万町 (現・栃木市万町) 近龍寺境内にあった栃木小学校校内で発足した。翌5月に栃木町若松街に移転、同年8月には栃木町旭町の旧足利藩陣屋郭内官邸に移転した。1877年2月、当時の栃木県庁の隣地、都賀郡薗部村鶉島 (現・栃木市入舟町、栃木第一小学校校地) に新築移転した。 1884年に県庁が宇都宮町に移転したのに伴い、1885年4月に栃木県師範学校も県庁の隣地、宇都宮町塙田村二里山 (現・宇都宮市塙田) に移転した。1902年3月、宇都宮市戸祭町松原 (現・宇都宮市松原、宇都宮大学附属小・中校地) に移転。同年9月、暴風雨で校舎・寄宿舎の一部が倒壊し、旧二里山校舎に撤退したが、1903年12月に戸祭に復帰した。1928年9月、河内郡国本村宝木 (現・宇都宮市若草、栃木県立宇都宮中央女子高等学校校地) の陸軍第十四師団第六十六聯隊跡に移転。宝木校地は、官立栃木師範学校男子部、さらに後身の新制宇都宮大学学芸学部に引き継がれた。新制宇都宮大学の本部は、1949年5月に宇都宮市峰町の旧宇都宮農専本館が全焼したため、宝木校地に置かれた。しかし宝木の旧師範学校本館も1952年2月に火災で焼失し、大学本部は1952年11月に峰町 (農学部キャンパス) に移転した。1955年4月には学芸学部 (1966年から教育学部) も宝木から峰町に統合移転し、現在に至っている。 旧二里山校地は、1909年-1928年の間、女子師範学校に使用された。旧戸祭 (松原) 校地は、1928年から女子師範学校校地となった。旧宝木校地は、現在は栃木県立宇都宮中央女子高等学校 および 宇都宮大学附属養護学校となっている。師範学校校地となる前の陸軍聯隊時代 (明治期) に建設された煉瓦造の倉庫は現在も宇都宮中央女子高校内に残り、登録有形文化財に登録されている。 栃木県女子師範学校・官立栃木師範学校女子部 栃木県女子師範学校は、栃木県師範学校の隣地 (宇都宮町塙田村二里山) で発足。1909年からは、栃木県師範学校の旧二里山校舎に移転。1928年10月、栃木県師範学校の旧戸祭 (松原) 校舎に移転した。戸祭校舎は、官立栃木師範学校女子部に引き継がれた。 旧戸祭 (松原) 校舎は、現在は宇都宮大学附属小学校・中学校の校地となっている。
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校地の変遷と継承
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熊本師範学校男子部 前身の熊本県師範学校から引き継いだ熊本市京町本丁の校地を使用した。新制熊本大学教育学部への移行を前にした 1949年(昭和24年)4月、男子部・女子部が統合され、京町校地は本科の校地となった。熊本大学教育学部の発足により、京町校地は京町教室となり、学部の本校が置かれた。1954年(昭和29年)10月、熊本大学教育学部は現在の黒髪キャンパス北地区 (旧制五高跡) に移転し、1955年(昭和30年)2月までに移転完了した。 現在、旧京町校地は熊本大学教育学部附属小学校・熊本大学教育学部附属中学校によって使用されている。 熊本師範学校女子部 前身の熊本県女子師範学校から引き継いだ熊本市内坪井町 (現・千葉城町) の校地を使用した。新制熊本大学教育学部への移行を前にした 1949年(昭和24年)4月、男子部・女子部が統合され、内坪井校地は予科の校地となった。熊本大学教育学部の発足により、内坪井校地は坪井教室となり、2年制課程が置かれた。その後、熊本大学教育学部は 1955年(昭和30年)2月までに黒髪キャンパスに統合移転した。 現在、旧内坪井校地は熊本市立藤園中学校・熊本市立城東小学校によって使用されている。
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校地の変遷と継承
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佐賀師範学校男子部 前身の佐賀県師範学校から引き継いだ、佐賀市赤松町53番地 (現・城内1丁目、佐賀城三の丸跡) の校地を使用した。城内校地は後身の佐賀大学教育学部に引き継がれた。1966年に佐賀大学教育学部が現在の本庄キャンパス (旧・佐賀高等学校跡一帯) に移転した後、跡地には1968年から佐賀県立博物館が建設されたほか (1970年開館)、佐賀県立美術館が建設されて現在に至っている。 佐賀師範学校女子部 前身の佐賀県女子師範学校から引き継いだ、佐賀市赤松町19番地 (現・城内1丁目、男子部の西隣) の校地を使用した。1948年、男子部附属中学校 (現・佐賀大学文化教育学部附属中学校) が女子部校地に移転し、現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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香川師範学校男子部 前身の香川県師範学校から引き継いだ高松市幸町 (旧・西浜新町) の校地を使用したが、1945年(昭和20年)7月の空襲で校舎を焼失した。同年8月、綾歌郡山内村国民学校に移転したのち、翌1946年(昭和21年)には坂出市の野田農機具工場、さらに丸亀市の歩兵連隊跡に移転した。1948年(昭和23年)に高松の旧校地に復帰した。 後身の新制香川大学学芸学部は旧・男子部校地を本校として発足した。1966年(昭和41年)に教育学部に改称した後も、引き続き同校地を使用している (現・幸町キャンパスの一部)。 香川師範学校女子部 前身の香川県女子師範学校から引き継いだ坂出市 (現・坂出市文京町) の校地を使用した。同校地は新制香川大学学芸学部に引き継がれて坂出分校となり、2年制課程が置かれた。坂出分校は 1954年(昭和24年)3月で廃止となり、現在は香川県立坂出高等学校 (元併設校、香川県立坂出高等女学校の後身) の校地となっている。 旧・女子部の附属小学校・附属中学校の後身校は現在も坂出市に存在する。
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校地の変遷と継承
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岩手師範学校男子部 前身の岩手県師範学校から引き継いだ盛岡市上田豕小屋30 (現・高松4丁目) の校地を使用した。高松校地は後身の新制岩手大学学芸学部に引き継がれ、1965年9月に現在の上田キャンパス (元・盛岡高等農林学校校地) に移転するまで使用された。旧・高松校地には現在、岩手県立盛岡第三高等学校および岩手大学北謳寮・紅梅寮・国際学生宿舎が存在する。 岩手師範学校女子部 前身の岩手県女子師範学校から引き継いだ盛岡市内丸の校地を使用したが、1948年8月、火災で校舎を焼失した。附属幼稚園の後身、岩手大学学芸学部附属幼稚園は1954年12月まで内丸に存在した。現在、内丸校地の跡地には、盛岡合同庁舎などが存在する。
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校地の変遷と継承
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群馬師範学校男子部 前身の群馬県師範学校から引き継いだ前橋市日吉町の校地を廃止まで使用した。日吉町校地は後身の群馬大学学芸学部に引き継がれた。群馬大学学芸学部は1966年に教育学部と改称後、1970年に市内荒牧町の校地 (現・荒牧キャンパス) に移転し、現在に至っている。旧日吉町校地には、現在は群馬県民会館などが建てられている。 群馬師範学校女子部 前身の群馬県女子師範学校から引き継いだ前橋市若宮町の校地を廃止まで使用した。若宮町の校地は後身の群馬大学学芸学部に引き継がれた。旧若宮町校地には現在、群馬大学共同教育学部附属小学校・附属幼稚園などが存在する。
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校地の変遷と継承
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石川師範学校男子部 前身の石川県師範学校から引き継いだ金沢市弥生町(旧・石川郡野村 [1925年、金沢市に編入]、現・金沢市弥生)の校地を使用した。1949年4月、女子部・石川青年師範学校が弥生町校地に統合され、男子部附属校は旧女子部校地に統合移転した。弥生町校地は後身の金沢大学教育学部に引き継がれ、同学部が1953年4月に金沢城内に移転するまで使用された。1992年10月、金沢大学教育学部は現在の角間キャンパスに移転した。 旧弥生町校地には現在、金沢市立泉小学校・泉中学校のほか、金沢大学北溟寮・金沢大学職員宿舎が設置されている。 石川師範学校女子部 前身の石川県女子師範学校から引き継いだ金沢市広坂の校地を使用した。1949年4月、男女共学化により、女子部は男子部校地(弥生町)に移転し、広坂校地には男子部・女子部の附属小学校・中学校が統合された。1995年9月、金沢大学教育学部附属校は金沢市平和町(旧 青師校地跡を含む)に統合された。 旧広坂校地は現在、金沢21世紀美術館敷地となっている。
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校地の変遷と継承
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奈良師範学校男子部 前身の奈良県師範学校から引き継いだ奈良市登大路町 (現・奈良県庁東側駐車場一帯) の校地を使用した。同校地は後身の新制奈良学芸大学に引き継がれ、1958年10月に現在の高畑キャンパス (旧陸軍奈良連隊跡 → 奈良進駐軍第25師団キャンプC地区跡) に移転するまで使用された。 奈良師範学校女子部 前身の奈良県女子師範学校から引き継いだ奈良市半田横町の校地を使用した。1948年3月から校舎は附属中学校 (新制) に使用された。1960年2月、後身の奈良学芸大学附属中学校は法蓮佐保町 (現・法蓮町) に移転し、跡地には奈良女子大学の学生寮が建設され、現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「新潟医科大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の新潟医学専門学校以来、現在の旭町通一番町の校地 (旭町キャンパス) を使用している。
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校地の変遷と継承
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福井師範学校男子部 前身の福井県福井師範学校から引き継いだ福井市豊島中町 (現・福井市豊島) の校地を使用したが、1945年7月19日の福井空襲で校舎を焼失した。第二次世界大戦後の 1945年12月、鯖江の女子部校地に同居し、三部授業で授業を再開した。1946年、今立郡神明村 (現・鯖江市三六町) の旧陸軍歩兵第36連隊兵舎の使用許可が下り、1947年1月に移転した。神明校地は後身の新制福井大学学芸学部に引き継がれ、1952年10月、福井市牧ノ島 (現・福井市文京、福井大学文京キャンパス) に統合移転するまで使用された。 現在、福井市豊島の旧校地跡地は東公園 (福井市野球場が存在したが2008年閉鎖) となっている。 福井師範学校女子部 前身の福井県鯖江女子師範学校から引き継いだ今立郡舟津村 (現・鯖江市舟津町) の校地を使用した。1949年4月からは福井青年師範学校が同校地に移転。同5月、後身の新制福井大学学芸学部に引き継がれ、分教場となった。現在、旧鯖江校地は福井県立鯖江高等学校 (旧併設校の県立鯖江高等女学校の後身校) の校地となっている。
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校地の変遷と継承
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「東京青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
東京府立農業教員養成所としての発足当初から西多摩郡青梅町(現・青梅市)の東京府立農林学校(現・東京都立青梅総合高等学校)に併設されていたが、東京府立青年学校教員養成所に改称後の1937年4月、目黒区駒場の東京農業教育専門学校校内(現・駒場野公園)に移転した。1939年4月に赤坂区(現・港区)青山北町の東京府青山師範学校跡(現在の都営青山北町団地)に移転後、1940年10月に北多摩郡調布町布田(のちの調布市小島町、現・富士見町)の新校舎に移転した。 調布校舎は官立東京青年師範学校に引き継がれ、1949年、同校の東京学芸大学への包括に伴い調布分教場が置かれた。調布分教場は1951年3月、東京青年師範学校の廃止と共に廃止され、附属農場は東京学芸大学世田谷分校(旧・東京第一師範学校、現・東京学芸大学附属高等学校)に移転した。 調布分教場の廃止後も、旧・調布校地には学芸大の学生寮と運動場が残っていたが、電気通信大学の調布移転に伴い1953年から1957年頃までに電気通信大学に所属替えとなった。電気通信大学西門の脇に、「東京青年師範学校跡」 と記された碑が建てられている。
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校地の変遷と継承
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滋賀師範学校男子部 前身の滋賀県師範学校から引き継いだ大津市膳所錦町 (のちの膳所西之庄、現 昭和町・西の庄) の校地を使用した。膳所校地は後身の新制滋賀大学学芸学部に引き継がれ、1959年4月、石山石津町 (現・石津、滋賀大学大津キャンパス) に移転するまで使用された。その後1963年2月、旧師範学校女子部校地に統合されていた附属小学校・中学校が昭和町 (旧膳所校地) に移転し、現在に至っている。 滋賀師範学校女子部 前身の滋賀県女子師範学校から引き継いだ大津市東浦町 (のちの東浦石野町、現 末広町・京町3丁目) の校地を使用した。新制滋賀大学への移行を前にした 1949年4月、男子部・女子部両方の附属小学校・中学校が統合された。後身の新制滋賀大学学芸学部は、学部を旧男子部校地 (膳所) に、附属校を旧女子部 (東浦) に置いた。東浦校地は附属校が 1963年に現在の昭和町に移転するまで使用された。その後、旧東浦校地跡地を貫く形で中央大通りが建設された。
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校地の変遷と継承
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「静岡高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
旧制静岡高等学校の校地は、駿府城公園(駿府城址)の北側、賤機山の東麓に位置していた。静岡大学発足後は、旧制静岡高等学校の後身である文理学部のキャンパスとして継承されたが、1968年に、静岡大学が静岡市駿河区大谷に統合移転したため、校地は廃止された。跡地は静岡市に譲渡、整備され、1985年に静岡市立城北公園が開園、静岡市立中央図書館を置くなど市民の憩いの場として現在に至っている。旧本館があった位置には、花時計があり、旧制静岡高等学校を記念するモニュメントとして、正門のあった位置に「留魂碑」、園内には、「静陵輝像」「寮歌碑」などのモニュメントが建立されている。また、旧制静岡高等学校寄宿舎「仰秀寮」は、静岡大学仰秀寮として継承されたが、上述の統合移転後は、静岡市駿河区小鹿三丁目にある静岡大学雄萠寮に、仰秀寮で使用されていた寮名(3階「不二寮」、2階「穆寮」、1階「映寮」、4階「魁寮」、5階「悟寮」)、寮歌「地のさゞめごと」、ストームなどの伝統として継承されている。
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校地の変遷と継承
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「富山高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
開校当初、校地に予定されていた富山県上新川郡大広田村蓮町(現・富山市蓮町)では校舎が完成していなかったため、東岩瀬町立尋常小学校の校舎の一部を借りて仮校舎とした。1925年(大正14年)3月新校舎完成により仮校舎から移転し、以後蓮町校地は米軍の空襲による被災からも免れ、廃校まで存続した。新制移行後、旧富山高校地は富山大学文理学部キャンパスとしてしばらく使用されたが、1962年(昭和37年)3月、五福キャンパスへの統合移転にともなって廃止され、現在は「馬場記念公園」となり大木の並木などが往時を偲ばせている。正門は1998年(平成6年)1月,公園を管理する富山市によって復元された。
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校地の変遷と継承
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「浪速高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
浪高は大阪市郊外の千里丘陵西に位置する大阪府豊能郡豊中村(その後町制を施行、さらに1936年市制施行により豊中市)の府立大阪医大(大阪帝国大学医学部の前身)予科跡地に設置された(待兼山校地)。待兼山校地は第二次世界大戦中軍需工場として一部接収されるなどしたものの、新制大阪大学の豊中キャンパスとして継承され、その校舎は「一般教養部北校」となった(同じく阪大に包括された旧大阪高校の校地は「南校」となったがのち廃止)。 現在も豊中キャンパスに残る浪高時代の建造物としては、旧高等科本館や弓道場などがあるが、特に旧本館(1929年建造)は「イ号館」と呼ばれ、阪大の全学共通教育機構本館・総合学術博物館として現在も使用され、2004年には国の登録有形文化財に登録されている。その他にも同キャンパス内には「浪高庭園」など旧制時代を記念するモニュメントがいくつか建立されている。2010年5月27日には、浪高創立85周年と阪大創立80周年(2011年)記念として、待兼山庭園に「旧制浪高生の像」と、「まちかね童子像」が竣工した。なお、これらの銅像を制作した夢童由里子は、浪高第1回卒業生の野間光辰の息女である。 また浪高に隣接して設置された旧大阪帝国大学附属医院石橋分院の建物は、戦後医療技術短期大学部(現在の医学部保健学科)本館として使用されたのち、大阪大学総合学術博物館「待兼山修学館展示場」に改装され浪高時代の教材標本資料を一般に公開している。
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校地の変遷と継承
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「水戸高等学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立当初の校地は水戸市郊外の東茨城郡常磐村に所在し(東原校地)、1933年3月同村は水戸市に編入された。水戸空襲による校舎焼失後、水高は1948年陸軍東部第37部隊跡地に移転、これが新制茨城大学水戸キャンパスとして継承され現在に至っている。 その後、旧東原校地の南半分は水戸市立第一中学校の校地となり、同校校内には水高を記念するモニュメントが建立されている。水戸市立第一中学校には、水戸高等学校関係の資料室が設置され、多くの資料が残されている。北半分には1965年、国立水戸病院(現在の国立病院機構水戸医療センター)が設置されたが、2004年同病院は茨城町に移転した。跡地は北水会病院(水高スクエア)になっている。 この他市内に残る水高関連のモニュメントとしては、偕楽園内に「暁鐘楼」等が設置され、千波湖南岸には「水高の森」が寄贈されている。また水戸市立博物館には水高同窓会が寄贈した「旧制水戸高等学校 暁鐘の青春」の常設展示コーナーが設けられている。
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校地の変遷と継承
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「米子医科大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
米子医学専門学校の創立時から、米子市西町の校地を使用し続けている。医学部敷地は元は米子市立義方国民学校 (現・米子市立義方小学校)・精華女学校の校地であった。附属病院敷地は、前身の財団法人米子病院から引き継いだものである (海側に拡張している)。
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「前橋医科大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前橋医学専門学校は前橋市岩神町280番地 (現・昭和町3-39-22) に設置され、元々前橋工業学校用に建設していた校舎を使用した。昭和町校舎は後身の前橋医科大学、さらに後身の新制群馬大学医学部に引き継がれて現在に至っている (現・昭和キャンパス)。
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「弘前医科大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
校舎 旧制青森医専設立当初は、青森市浦町210の野脇国民学校校舎を使用した。校舎は1945年7月の青森空襲に耐えたが、市内の附属病院・寄宿舎は焼失した。1947年3月、医専存続のため、弘前市在府町5番地の旧朝陽小学校校地に移転。同校地は後身の旧制弘前医大・新制弘前大学医学部に引き継がれている。 附属病院 1945年4月、青森市寺町46 (現・青森市中央1丁目、青森市役所付近) の青森県立青森病院が移管され、青森医専附属病院となった。同年7月、空襲で附属病院焼失。同年10月、東津軽郡筒井村の旧陸軍官舎を仮附属病院として使用。1947年3月、医専の弘前移転に伴い、弘前市本町53番地の旧弘前市立病院を医専附属病院とした。後身の弘前医大附属病院、弘前大学医学部附属病院も同地を使用し続けている。
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校地の変遷と継承
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旅順師範学校男子部 1936年の創立時は旅順新市街 沿岸部にあった旅順高等公学校校舎を仮校舎とした。翌1937年4月、旅順第二小学校校舎 (のちの旅順高等学校仮校舎) に移転し、同校を附属小学校とした。1937年9月、沿岸部にあった旧関東州庁舎 (本校舎) に移転し、1945年8月にソビエト軍に占拠されるまで使用した。 旅順師範学校女子部
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校地の変遷と継承
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「長崎青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の長崎県立青年学校教員養成所から引き継いだ、諫早市城見町の校地で発足した。第二次世界大戦後、1947年に女子部は大村市の航空厰 植松工員宿舎跡に、1948年に男子部も大村海軍航空隊跡に移転した。諫早市城見町の旧校地は、現在は諫早市立北諫早中学校の校地となっている。 後身の新制長崎大学水産学部の事務所は大村の青年師範学校で発足し、1950年(昭和25年)に佐世保市崎辺の海軍航空隊跡に移転した。水産学部は1961年(昭和36年)8月に長崎市の現・文教キャンパスに移転した。
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校地の変遷と継承
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「和歌山青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の和歌山県立青年学校教員養成所と同様、県立紀北農業学校(現和歌山県立那賀高等学校)校内を使用した。
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「岡山医科大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
1870年4月、岡山藩医学館が岡山市門田に設立された。1872年7月、岡山藩大病院を岡山市中之町に移転し、病院内に医学所を設置した。1873年、岡山市栄町に移転。その後、数回の改組・改称を経て岡山医学専門学校となり、1917年、現在地の岡山市北区鹿田に移転した。正門は、2007年5月15日、国の登録有形文化財に登録された。
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校地の変遷と継承
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「東京文理科大学 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
1929年設立時の東京文理大の校地は、母体となった東京高師と同じ大塚(当時は東京市小石川区大塚窪町。現・文京区大塚3丁目))に置かれ、その校地は後身校たる新制東京教育大学の本部キャンパスとして継承された。同キャンパスは東教大の筑波大学への改組以降、筑波大の東京キャンパス大塚地区として使用されている。
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校地の変遷と継承
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「新潟第一師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
新潟第一師範学校男子部 前身の新潟県新潟師範学校から引き継いだ新潟市旭町通2番町 (現・中央区旭町通2番町) の校地を使用した。同校地は後身の新制新潟大学教育学部に継承され、1982年(昭和57年)6月に現在の五十嵐キャンパスに統合移転完了するまで使用された。現在、旧旭町校地は旭町キャンパス (医学部・歯学部) の一部となっており、一角に旧・師範学校児童博物館 (師範学校記念館) が新潟大学あさひまち展示館 (旭町学術資料展示館) として残されている (登録有形文化財)。 新潟第一師範学校女子部 前身の新潟県長岡女子師範学校から引き継いだ長岡市東神田町の校地を使用した。後身の新潟大学長岡分校は東神田町で発足したが、1951年4月に教育学部長岡分校と改称したのち、1953年8月、工学部の東隣 (長岡市学校町) に移転した。教育学部長岡分校は1981年4月に廃止され、新潟市の教育学部本校に統合された (教育学部長岡分校の跡地は、1984年から附属長岡小・附属長岡中・附属幼の校地となっている)。 東神田町の旧校地は附属長岡小 (1962年まで)・附属長岡中 (1959年まで)・附属幼 (1963年まで)や長岡市立東北中学校に使用されたが、師範学校時代からの旧校舎は1965年頃焼失した。
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校地の変遷と継承
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「千葉高等園芸学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
源流の千葉県立園芸専門学校の設置された東葛飾郡松戸町戸定丘(現・松戸市松戸)は、元々は県立千葉中学校松戸分校(1901年創立、1906年廃止)の校地であった。同校地は、東葛飾郡会議員・山下寅吉が設立した私立松戸中学校に貸与されたが、同校も廃止となった(千葉県の旧制中学校の一覧を参照)。この経緯から、千葉県立園芸専門学校には創設当初、私立松戸中学校の在校生を編入するための予科が設置されていた。戸定校地は、後身の千葉県立高等園芸学校・千葉高等園芸学校・千葉農業専門学校に引き継がれ、さらに新制千葉大学園芸学部の松戸キャンパスとなり、現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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山口師範学校男子部 前身の山口県師範学校から引き継いだ山口市亀山町の校地を使用した。同校地は後身の新制山口大学教育学部に継承され、1972年(昭和47年)に現在の吉田校地 (吉田キャンパス) に統合移転するまで使用された。亀山校地の跡地は、現在は山口市役所となっている。 山口師範学校女子部 前身の山口県女子師範学校から引き継いだ光市室積の校地を使用した。同校地は後身の新制山口大学教育学部に継承され光分校となったが、1957年(昭和32年)3月に廃止された。山口大学教育学部附属光小学校・山口大学教育学部附属光中学校は現在も光市に立地している。
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校地の変遷と継承
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兵庫師範学校男子部 前身の兵庫県師範学校から引き継いだ武庫郡住吉村赤塚山(現・神戸市東灘区住吉山手)の校地を使用した。赤塚山校地は後身の新制神戸大学教育学部に引き継がれ、1968年12月に現在の六甲台に移転するまで使用された。跡地は1998年まで神戸市立赤塚山高等学校(神戸市立六甲アイランド高等学校を参照)に使用された。現在、旧赤塚山校地には赤塚山合同宿舎が建てられている。附属校(神戸大学附属中等教育学校)は現在も赤塚山に立地している。 男子部予科は、武庫郡御影町(現・神戸市東灘区御影中町3丁目)の旧兵庫県御影師範学校校舎で発足した。校舎は神戸商業大学予科と同居であった。1945年6月の空襲で予科校舎は焼失し、篠山の旧陸軍兵舎に移転した(神戸医科大学・兵庫農科大学も参照)。旧御影校地は新制神戸大学に引き継がれ、御影分校となったのち、神戸市立御影工業高等学校に使用された(神戸商業大学 (旧制)#予科の校地を参照)。 兵庫師範学校女子部 前身の兵庫県明石女子師範学校から引き継いだ明石市山下町の校地を使用した。明石校地は後身の新制神戸大学教育学部に引き継がれて明石分校となり、1957年の分校廃止まで使用された。附属校(神戸大学附属幼稚園・同附属小学校)は現在も明石に立地している。
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校地の変遷と継承
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「兵庫青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の兵庫県立青年学校教員養成所から引き継いだ加古郡平岡村新在家(現・加古川市平岡町新在家)の校地で発足した。同校地は狭隘となったため、1947年頃 大学昇格の機運に乗じて校地の移転・拡張が計画され、1949年4月、姫路市野里町(現・峰南町。城北校地)の旧陸軍野砲隊兵舎跡に移転した。城北校地は後身の新制神戸大学教育学部に引き継がれて城北分校となり、旧制兵庫青師の全在校生が卒業する1951年3月まで使用された。旧城北校地一帯は警察予備隊(現・陸上自衛隊)に引き渡され、姫路駐屯地となっている。 加古川の旧校地は1951年-1957年に兵庫農業短期大学の校地として使用された後、兵庫農科大学の加古川農場(第1農場 / 横蔵農場)となった。兵庫農大の国立移管に伴い、1969年3月末で加古川農場は廃止された。跡地は兵庫県いなみ野学園(高齢者大学)の校地となっている。
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校地の変遷と継承
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「富山青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の富山県立青年学校教員養成所は富山県産業講習所(富山市太郎丸)内で発足し、後身の官立富山青年師範学校も同地を使用した。第二次世界大戦後の1946年4月、中新川郡雄山町(現・立山町)の五百石国民学校記念会館に移転。1948年4月、同町前沢に新校舎が完成し移転した。同校地は新制富山大学教育学部に引き継がれ、分教場として1951年8月まで使用された。その後、校地は富山県立雄山高等学校に引き継がれて現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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長崎医学校の前身たる長崎精得館から、小島郷字稲荷岳の校地(小島校地)をそのまま継承した。この校地は第五高等中学校時代まで存続し、1892年9月、浦上校地(現在の長崎大学坂本町(医学部)キャンパス)に移転した。この際、小島校地はしばらく分教場として使用された。その後、浦上校地のいわゆる「グビロが丘」には医学校当時の木造2階建校舎が小島校地から移築されたが、1930年7月の台風で倒壊、その後再建されたものの1945年8月9日の原爆投下により壊滅した。
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校地の変遷と継承
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「福岡第二師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
福岡第二師範学校男子部 前身の福岡県小倉師範学校から引き継いだ小倉市富野 (現・北九州市小倉北区下富野3丁目) の校地を使用した。後身の新制福岡学芸大学小倉分校発足に当たって、旧富野校地は附属中学校校地に充当され、小倉分校は市内北方新町 (現・小倉南区若園) の旧陸軍小倉兵器補給廠跡に移転した。 富野校地は現在も福岡教育大学附属小倉小学校・中学校によって使用されている。北方校地は1966年11月に大学 (同年4月、福岡教育大学と改称) が宗像市赤間に統合移転するまで使用され、現在は福岡県立北九州高等学校の校地となっている。 福岡第二師範学校女子部 田川市伊田の校地を廃止まで使用した。田川校地は後身の福岡学芸大学 (1966年4月から福岡教育大学) に継承されて田川分校となり、1966年11月に宗像市赤間に統合移転するまで使用された。跡地は現在、福岡県立大学の校地となっている。
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校地の変遷と継承
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「宮崎青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の宮崎県立青年学校教員養成所から引き継いだ、宮崎市霧島町1番地の校地を使用した。
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校地の変遷と継承
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「鳥取青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の鳥取県立青年学校教員養成所から引き継いだ岩美郡米里村 (現・鳥取市米里地区) の校地で発足したが、1945年4月、東伯郡上井町 (現・倉吉市上井) にあった鳥取県立河北農業学校の校舎校地一式の寄附を受け、同地に移転した。学制改革で新制鳥取大学学芸学部に包括された際、青年師範学校校地には学芸学部第二分室が設置されたが、旧制在校生の卒業とともに廃止された。 併設の県立河北農業学校は1948年4月に新制の県立河北実業高等学校となり、以後、東伯高等学校河北校舎(1949年4月) → 倉吉農業高等学校河北分校(1951年4月) → 河北農業高等学校(1953年4月) → 倉吉産業高等学校(1963年4月) と変遷した。河北農業高等学校の校舎は、当初は国有財産だったが、1957年頃(昭和32年度)に鳥取県に無償譲渡された。2003年4月、倉吉産業高等学校は倉吉工業高等学校と合併して鳥取県立倉吉総合産業高等学校となり、旧工業高校校地に統合された。旧・倉吉産業高等学校の跡地は、2013年4月から倉吉市立河北中学校が使用している。
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校地の変遷と継承
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「青森青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
青森青年師範学校の前身、青森県立実業補習学校教員養成所は、青森市浪打 (現・花園2丁目) にあった青森県師範学校 (のちに官立青森師範学校男子部) 校内で発足した。1944年4月に官立青森青年師範学校となった際も、引き続き同地を使用していたが、1945年7月の空襲で校舎を焼失した。1945年10月、野辺地町から提供を受けた、野辺地国民学校女子部校舎 (上北郡野辺地町大字野辺地字野辺地351ノ1) に移転した。同校地は後身の新制弘前大学に継承され、教育学部野辺地分校 (当初は弘前大学野辺地分校) となり 2年制課程が置かれた。野辺地分校は 1960年3月で廃止となり、弘前の本校に統合された。 1946年に設置された附属青年学校は 1947年に新制中学校となり、1951年4月には弘前大学教育学部附属野辺地中学校となった。附属野辺地中学校は1966年3月に廃止され、弘前大学教育学部附属中学校に統合された。 2003年、野辺地町立野辺地中学校の南隣に、「弘前大学野辺地分校跡」 記念碑が建立された。
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校地の変遷と継承
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「滋賀青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
男子部は滋賀師範学校男子部 (大津市膳所錦町、現 昭和町・西の庄) に、女子部は滋賀師範学校女子部 (大津市東浦町、現 末広町・京町3丁目) に併設されていた。滋賀師範学校#校地の変遷と継承を参照。
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校地の変遷と継承
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「福島青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
福島市入江町66番地 (現・入江町1-1) の校地を廃止まで使用した。1947年、女子部の開設で生徒数が増加したため、市内森合の県立女子医専旧校舎 (現・福島県立福島工業高等学校校地) を借用したが (森合校舎)、1948年3月に元の入江町に復帰した (その間も、入江町校地は寮などとして使用されていた)。 1949年、後身の福島大学学芸学部発足時には学芸学部分教場 (1952年、職業科と改称) が設置されたが、1954年には学芸学部本校 (浜田町) に統合され、入江町校地には如月寮が設置された (1980年、金谷川に移転)。現在、入江町校地跡には福島市音楽堂・古関裕而記念館が設置されている。
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校地の変遷と継承
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「熊本青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
熊本市出水町長溝 (現・出水5丁目) の校地を使用した。出水校地には熊本大学教育学部発足時に出水教室が設置された。出水教室は旧制在学生がすべて卒業した1951年(昭和26年)3月で廃止された。跡地は熊本市に譲渡され、熊本市立出水中学校校地となって現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「秋田鉱山専門学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立から秋田大学に再編されるまで、秋田市(旧南秋田郡旭川村)手形字深田(現・手形学園町)の校地を使用した。同校地は新制秋田大学鉱山学部に継承された。1963年(昭和38年)、南隣に学芸学部(現・教育文化学部)が移転して鉱山学部キャンパスと一体化し、現在の手形キャンパスとなった。
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校地の変遷と継承
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「静岡青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の静岡県立青年学校教員養成所から引き継いだ、現・島田市中河町の校地を廃止まで使用した。島田校地は後身の静岡大学教育学部に引き継がれ、島田分校として1955年3月まで使用された。島田分校の廃止に伴い、附属島田中学校 (旧・静岡青年師範学校附属中学校) が跡地に移転して現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「佐賀青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の佐賀県立青年学校教員養成所から引き継いだ佐賀郡久保泉村白石原 (現・佐賀市久保泉町下和泉) の校地を使用した。久保泉の校地は後身の新制佐賀大学に引き継がれ、佐賀大学附属農場 (1956年4月から佐賀大学農学部附属農場、現・資源循環フィールド科学教育センター) となって現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「島根青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
出雲市塩冶町1538番にあった校地を使用した。後身の新制島根大学教育学部に引き継がれて出雲分教場となったが、1950年4月に松江市外中原町の教育学部本校に統合され、出雲分教場は廃止された。出雲市立第二中学校の正門横に「島根青年師範学校跡」の碑が建立されている。
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校地の変遷と継承
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当初の校地は旧医学所から継承した下谷御徒町に所在していた(湯島にある大学(本校)から東に位置しており、これが「東校」の名の由来となった)が、のち病院の所在地であった神田和泉町(現在の秋葉原駅北東)に移転した。さらにより広い校地(および病院用地)を求めて上野(現在の上野恩賜公園)に土地を取得、1873年より移転のための基礎工事を開始したが、同地の文部省移管が取り消されたため頓挫(東校の御雇い外国人教師ボードウィンの反対論が影響したとされる)、この代替地として本郷本富士町の加賀藩上屋敷跡が提供され、1876年東京医学校は現在の東京大学龍岡門付近に移転、これが現東大本郷キャンパスの端緒となった。 本郷移転時(1876年)に新築された擬洋風建築の東京医学校本館(現在の東大病院外来棟付近に位置)は、1923年(大正12年)の関東大震災により(旧)東京大学以来の本郷校地の建造物がほとんど全半壊するなかで大きな被害を免れ、その後、小石川植物園に移築されて東京大学総合研究博物館の「小石川分館」として使用、東大の中では最古の建築物として現存している(東京大学の建造物#小石川植物園の建造物参照)。なお、神田和泉町のかつての校地は現在三井記念病院敷地となっている。
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校地の変遷と継承
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「宮崎高等農林学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
設立から廃止まで、宮崎市船塚町178番地の校地を使用した。船塚町校地は後身の新制宮崎大学農学部に引き継がれ、1985年1月に宮崎市学園木花台 (現・木花キャンパス) に統合移転するまで使用された。旧船塚町校地には、宮崎県総合文化公園 (県立美術館・県立芸術劇場・県立図書館) が設置されている。
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校地の変遷と継承
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1900年の学校設立時は自前の校舎を持たず、9月15日の仮開校式は九段上の和仏法律学校で行い、同月17日から和仏法律学校校舎を昼間だけ借りて授業を開始した。翌年に小石川区茗荷谷町32・33番地の5千有余坪の官有地を取得し、6月に着工した新校舎は10月28日に完成し、翌月1日に移転式を行った。この校地が拓殖大学の文京キャンパスとして現在に至るまで継承されている。
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校地の変遷と継承
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「福岡市立拓殖専門学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
福岡市立拓殖専門学校創立時には、福岡市堅粕町御馬町 (現・福岡市博多区東比恵2丁目) にあった福岡商業学校 (現・福岡市立福翔高等学校) 校舎を仮校舎とした。1944年、軍の要請により私立泰星中学校跡地 (福岡市平尾杉谷、現・中央区平尾) に移転 (旧堅粕校舎には九州帝国大学附属工業専門部が設置された)。第二次大戦敗戦後の 1945年12月、福岡市立松原国民学校跡に移転 (現・福岡市立千代中学校校地、博多区千代)。 千代校舎時代の1946年2月、農業専門学校に改組された。千代校舎も1948年に新制千代中学校校舎となり、1949年8月、福岡県への移管とともに元の堅粕校舎に戻った。福岡県立福岡農業専門学校の設置位置は、条例上は 「筑紫郡二日市町大字二日市日出町66番地」 とされているが、実際には堅粕から移転することができないまま廃校を迎えた。旧堅粕校舎は、現在は東福岡高等学校校地となっている。
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校地の変遷と継承
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「愛媛青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
男子部は前身の愛媛県立青年学校教員養成所から引き継いだ松山市御幸町 (現・御幸2丁目) の校地を廃止まで使用した。女子部は当初、松山市三津の愛媛師範学校女子部に併設されていたが、1944年10月、御幸校地に移転した。御幸校地は後身の新制愛媛大学に引き継がれ、校舎改造により学生寮 (御幸寮) として使用された。旧御幸校地は、現在も愛媛大学御幸寮 (御幸学生宿舎) として使用され続けている。
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校地の変遷と継承
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福島師範学校男子部 前身の福島県師範学校から引き継いだ福島市浜田町の校地を使用した。浜田校地は後身の新制福島大学学芸学部(1966年教育学部と改称)に引き継がれ、1979年4月に現在の金谷川キャンパスに統合移転するまで使用された。1980年4月、旧浜田校地の南半分は福島県立福島東高等学校の校地となった。その後、北半分には1982年5月に福島大学附属中学校、1984年3月に福島大学附属幼稚園が移転し、現在に至っている。 福島師範学校女子部 前身の福島県女子師範学校から引き継いだ福島市舟場町(現・杉妻町)の校地を使用した。新制福島大学学芸学部への移行を前にした 1949年3月、男子部・女子部が統合され、舟場町校地には附属小学校・中学校が置かれた。後に、旧舟場町校地は福島県立医科大学に使用され、1960年8月に福島大学附属中学校が市内腰浜町に、1961年7月に同附属小学校が市内歯扶柳(現・新浜町)に移転した。1987年6月、福島県立医科大学は市内光が丘に移転した。現在、旧舟場町校地には、福島県庁東分庁舎や県北建設事務所が建てられている。国道4号を挟んで東側にある福島大学職員会館は、かつてこの地に女子師範寄宿舎(後の葵寮)があった名残りである。
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校地の変遷と継承
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「新潟第二師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の新潟県高田師範学校から引き継いだ高田市西城町 (現・上越市西城町1丁目) の校地を使用した。同校地は後身の新制新潟大学高田分校 (1951年4月から新潟大学教育学部高田分校) に引き継がれた。高田分校は新潟市の五十嵐キャンパスに統合されることになり、1978年に上越教育大学が高田分校内で発足した。附属高田小学校・附属高田中学校は1981年から上越教育大学に移管され、高田分校は1982年4月に廃校となった。 現在、上越市西城町の旧校地には上越教育大学附属小学校、隣接の高田城本丸には同附属中学校が存在する。
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校地の変遷と継承
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「宮城青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の宮城県立青年学校教員養成所に引き続き、宮城師範学校男子部校地 (現・仙台市青葉区上杉6丁目) を使用した。宮城師範学校#校地の変遷と継承を参照。
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校地の変遷と継承
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「石川青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
石川青年師範学校は、前身の石川県立女子青年学校教員養成所から引き継いだ、河北郡津幡町加賀爪の校地で発足した。第二次世界大戦後の1946年6月、金沢市野田町(現・平和町)の旧・騎兵隊跡に移転。新制金沢大学教育学部に包括されることになり、1949年4月には市内弥生町(現・弥生)の石川師範学校校舎に統合移転した(青年師範学校附属中学校は、石川師範学校附属校とともに市内広坂の校地[現・金沢21世紀美術館]に統合された)。 旧・野田町校地は 1949年3月末で金沢市に売却され、市立野田中学校校地となった。1950年12月、町内の旧・山砲隊跡に所在していた金沢高師が敷地を警察予備隊に明け渡すことになり(現・陸上自衛隊金沢駐屯地)、旧・野田町校地の一部は金沢高等師範学校附属中学校・高等学校・五誓寮に使用された。1995年9月、金沢大学教育学部の他の附属校も広坂から平和町(旧・野田町校地)に統合され、現在に至っている。
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校地の変遷と継承
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「岡山青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
官立岡山青年師範学校は前身諸校の校地を引き継がず、倉敷市日吉町の新校地で発足した。新制岡山大学教育学部発足後の1950年、岡山市津島の同学部内に移転した。倉敷日吉町の旧校地は、現在は倉敷市立西中学校の校地となっている。
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校地の変遷と継承
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「福岡青年師範学校」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
前身の福岡県立青年学校教員養成所から引き継いだ、八女郡羽犬塚村 (現・筑後市) の校地で発足した。第二次世界大戦後、三井郡高良内村 (現・久留米市) の旧陸軍戦車隊跡に移転した。後身の新制福岡学芸大学発足時、青年師範校地は久留米分校分教場となったが、1950年(昭和25年)6月、久留米市西町 (現・南町1丁目) の久留米分校 (旧・福岡第一師範学校女子部) に統合され、分教場は廃止された。 羽犬塚の旧校地は筑後市立羽犬塚中学校の校地となっている。
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校地の変遷と継承
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「岐阜工業専門学校 (旧制)」の記事における「校地の変遷と継承」の解説
岐阜県羽島郡笠松町常盤町1700番地の岐阜県立第一工業学校 (現・岐阜県立岐阜工業高等学校) に併設され、廃止まで同校地を使用した。笠松校地は後身の新制岐阜医工科大学工学部・岐阜県立大学工学部に引き継がれた (当時 笠松校地に同居していた岐阜県工業試験場の一部研究室も、大学附属研究室とされた)。1952年4月に国立移管により発足した岐阜大学工学部は、当初は笠松校地を使用したが、1954年9月に稲葉郡那加町 (現・各務原市那加門前町) の農学部キャンパス (元・旧制岐阜高等農林学校校地) に移転。さらに、1981年10月に、現在の岐阜市柳戸地区に統合移転した。
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