理工学部
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理工学部(りこうがくぶ)は、大学の学部のひとつ。理学と工学の両方の立場から、自然科学に関する研究および教育を実践する組織である。理学・工学の各分野に加えて、関連する学際系の学科を併設している場合が多い[1][2][3]。機械工学、電気・電子工学、金属工学、土木工学、建築学/建築工学、経営工学、電気通信学、応用物理学、応用化学、数学、物理学、化学、天文学、工業経営学などの諸科がある[4]。
- ^ “筑波大学|学群・大学院|理工学群”. www.tsukuba.ac.jp. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “学部紹介 - 横浜国立大学・理工学部”. www.es.ynu.ac.jp. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “7つの学類|理工学域紹介|理工学域|金沢大学”. www.se.kanazawa-u.ac.jp. 2020年2月9日閲覧。
- ^ 理工学部|精選版 日本国語大辞典の解説|コトバンク
- ^ a b OIKAWA, Katsunari; NAGASAKA, Tetsuya (2019). “Report on the Specially Planned Session Ⅱ “Meeting of the President and Dean of Engineering” Held in 67th Annual Meeting of JSEE”. Journal of JSEE 67 (6): 6_22–6_24. doi:10.4307/jsee.67.6_22. ISSN 1341-2167 .
- 1 理工学部とは
- 2 理工学部の概要
- 3 理工学部類似組織をもつ日本の大学
理工学部(旧工学部)
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「慶應義塾大学」の記事における「理工学部(旧工学部)」の解説
1944年(昭和19年)に藤原工業大学は慶應義塾に寄付され「慶應義塾大学工学部」となったが、その時の日本は太平洋戦争の最中であった。1945年(昭和20年)4月、慶応の日吉キャンパスの上空には米軍の爆撃機が襲来し、工学部校舎は米軍の空襲によって多くを焼失した。終戦後、慶応の焼け残った日吉校舎、寄宿舎は米軍に接収されてしまい、大学の授業再開は不可能な状態であった。この教育的困難に直面した慶應義塾大学工学部は新たな校舎を確保してスタートしなければならなかった。1945年(昭和20年)10月、慶應義塾大学工学部は目黒の旧海軍技術研究所を仮校舎として使用し(目黒仮校舎)、翌年6月には川崎市の日本光学工業の工場を仮校舎として使用した(溝ノ口仮校舎)。1948(昭和23年)3月、慶應義塾は東京都北多摩郡小金井町にある横河電機製作所の工場の土地を取得し、翌年の1949年(昭和24年)ここを慶應義塾大学工学部の「小金井キャンパス」とした。そこは、製作所の工場をそのまま大学の校舎、研究室に転用しただけの粗末なキャンパスであったが、慶應工学部の教員、学生たちは各自手作りした工作機械、実験器具、椅子、備品、薬品、資料などを用意して日々の教育・研究活動に励んだ。その後、1957年(昭和32年)には計測工学科、1959年(昭和34年)には管理工学科が設置され、慶應義塾大学工学部は5学科体制となった。それと並行して、小金井キャンパスは北海道炭礦汽船から寄付された土地2千坪と合わせて、さらなるキャンパスの整備、拡大を目指した。しかし、一般教養課程(日吉校舎)と専門課程(小金井校舎)は地理的な距離が大きく、4年間の一体教育・研究を効果的に行うには困難であった。また、小金井の校舎は工場の建物を改修しただけのものであり、研究設備のさらなる改善も期待できなかった。高度経済成長の日本において、新しい技術革新は次々に誕生していく。それを意識して慶應義塾大学工学部の中からは東京の小金井から神奈川の日吉台へ復帰を求める声がますます増えていった。そして、ついに、1972年(昭和47年)、慶應義塾大学工学部はキャンパスを念願の日吉・矢上台へ全面移転した。役割を終えた小金井キャンパスは1992年(平成2年)までに全ての土地と施設が売却され、その資金は湘南藤沢キャンパスの建設費用に充てられた。
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