木挽町
木挽町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 15:51 UTC 版)
「木挽町 (名古屋市)」の記事における「木挽町」の解説
名古屋城築城の際に、当地に木挽小屋を設置し、木挽職人が定住したことに由来する。したがって、清洲越しではない。
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木挽町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:58 UTC 版)
材木町の南に隣接する地区で、広島築城当時は木挽小屋がある畑地であったことから、のちの中島新町と併せ「中島地方」(なかじまじがた)と称され、天和年間(17世紀末)頃に「木挽町」として独立した。材木町と同じくかつての材木の集散地であり、のちに住宅街となった。建物疎開により被爆時には街並みの大半が撤去されていたが、戦後この撤去区域の一部が平和大通りとなり、旧町域のごく一部が市街地(現・中島町内)として残っている。
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木挽町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:55 UTC 版)
寛永19年(1642年)、山村小兵衛(初代山村長太夫)という者が木挽町四丁目(こびきちょう、現在の中央区銀座4丁目の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを山村座(やまむらざ)といった。続いて慶安元年(1648年)には筑前の狂言作者・初代河原崎権之助が木挽町五丁目(現在の銀座5丁目の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを河原崎座(かわらさきざ)といった。さらに万治3年(1660年)には摂津の人で「うなぎ太郎兵衛」と呼ばれた森田太郎兵衛がやはり木挽町五丁目に櫓をあげ、これを森田座(もりたざ)といった。 こうして木挽町四五丁目界隈にも芝居茶屋や芝居関係者の住居が軒を連ね、一時は堺町・葺屋町に匹敵する芝居町を形成、「木挽町へ行く」と言えば「芝居見物に出かける」ことを意味するほどの盛況となった。この山村座・河原崎座・森田座の三座を、木挽町三座(こびきちょう さんざ)という。 しかし間もなく河原崎座が座元の後継者を欠いて休座になったので、寛文3年(1663年)に森田座がこれを吸収するかたちで合併した。さらに正徳4年(1714年)には江島生島事件に連座して山村座座元の五代目山村長太夫が伊豆大島に遠島となり、山村座は官許取り消し、廃座となってしまった。こうして木挽町にはひとり森田座が残るのみとなり、あたりには次第に閑古鳥が鳴きはじめる。そこに享保の改革によってもたらされた不況の波が押し寄せ、森田座の経営は年を追うごとに悪化の一途をたどっていった。ついに享保19年(1734年)には地代の滞納がかさんで地主から訴えられてしまう。南町奉行大岡越前の裁きは地主側の訴えを全面的に認めたものとなり、森田座は返済で首が回らなくなって破綻、とうとうこれも休座に追い込まれてしまった。 慌てたのは芝居関係者だった。芝居小屋は役者や狂言作者を雇っているだけではなく、周囲に数々の芝居茶屋や浮世絵の版元などを従えた歓楽街の中核である。それがなくなってしまうということは、木挽町全体の死活問題でもあった。そこで森田座に代わる新しい櫓をあげることが模索されたが、すでにこの頃までに官許三座制が確立しており、新規の櫓が認められることはまず望めない。それならばと、かつて官許を得ながら廃座になった河原崎座・都座・桐座の座元の子孫が名乗り出て、それぞれの座の由緒書とともに旧座の再興を願い出たのである。 街の灯が消えてしまうことは治安の面からも望ましいことではなかったので、町奉行所としては何らかのかたちで座の再興は容認することにしていた。しかし三座制の手前もあり、彼らすべてにこれを許すわけにはいかない。そこで再興するのはあくまでも森田座であるとし、三者のうちの一人が森田座の興行権を当面の間代行するというかたちでこれを許すことにした。そして森田座の勝手向きが改善したあかつきには、代興行主はすみやかに興行権を元へ戻すという条件をこれにつけ加えた。こうして三者による恨みっこなしのくじ引きの結果、二代目河原崎権之助が森田座代興行権を引き当て、翌享保20年(1735年)に河原崎座を復興したのである。
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