発足当初
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 23:17 UTC 版)
発足当初の陸上自衛隊は、1個方面隊及び4個管区隊編成であった。武器は米軍供与のものが中心であり、1960年代の戦車や小銃などの国産装備の採用まで、この米軍供与の武器が主体である状態が続いた。方面隊は、ソビエト連邦の脅威に対応するため北海道を管轄する北部方面隊のみ置かれ、北部方面総監部は札幌市に所在した。 管区隊は、アメリカ陸軍の歩兵師団を参考に編成された部隊で、管区総監部及び3個大隊から成る普通科連隊3個、野戦砲6門の中隊3コで編成される大隊4個と対空大隊から成る特科連隊を基幹とする所謂三単位編制の師団であり、発足当時15,200名の人員を擁していた。第1から第4管区隊まで編成され、第1管区総監部(後の第1師団司令部)は東京都、第2管区総監部(後の第2師団司令部)は北海道旭川市、第3管区総監部(後の第3師団司令部)は兵庫県伊丹市、第4管区総監部(後の第4師団司令部)は福岡県筑紫郡春日町(現:春日市)にそれぞれ置かれた。
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発足当初
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 10:10 UTC 版)
1993年にJリーグ映像(後のJリーグメディアプロモーション)によりJリーグ公認のテレホンサービスとして全国主要都市でサービスを開始した。Jリーグの試合結果および経過速報、各クラブの最新情報等を提供していた。ナビゲーターには福田英次、酒井道代、桜井加代子が当たっていた。 2002年からインターネット版のサービスを開始、「サポーター目線」「スピード」「豊富なコンテンツ量」の3つを基本に活動している。特にサポーター目線は普段メディアに取り上げられないような、試合前のスタジアムの様子などを取材していた。写真の掲載点数も多く、Jリーグ事務局や各チームからの公式発表もすぐ掲載され、一部スポーツ新聞の記事も配信されるため、情報の集積度は高かった。J's GOAL TVでは選手からのメッセージや得点場面についての動画配信も行われていた。Jリーグの公認ファンサイトであるが、日本サッカー協会の公式リリースも掲載され、サッカー日本代表についてもFIFAワールドカップをはじめとした各大会での試合レポートを写真を交えて掲載していた。 一方、あくまでも「ファンサイト」であって「報道メディア」ではないというスタンスを貫いているため、特に試合後の会見などで監督が審判の判断を批判した場面に関して、J's GOALではその部分を削除して掲載するのが常態化していた。これについてサッカーファンから問い合わせを受けた際に、J's GOAL側は「一方の当事者側の見解(コメント)のみを、Jリーグ公式(ファンサイト)であるJ's GOALに掲載するのは控えさせて頂いている」と返答したという記事がサッカー情報サイトの「サポティスタ」に掲載されている。 また、J1に比べて露出度が低くなりがちなJ2クラブには専属のライターを置いて「J2日記」として試合以外の活動なども逐一リポート。東邦出版により「J2白書」の名で毎年刊行されていた。ただし、2014年に発足したJ3リーグに関しては扱われなかった。
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発足当初
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 01:16 UTC 版)
2019年4月1日、関西みらい銀行が発足し、大阪市中央区の本店で発足式が開催される。 発足と同時に、旧関西アーバン銀行傘下の「関西アーバン銀リース株式会社」を「関西みらいリース株式会社」に、旧近畿大阪銀行傘下の「近畿大阪信用保証株式会社」を「関西みらい保証株式会社」に商号変更したほか、旧関西アーバン銀行傘下の「株式会社関西クレジット・サービス」が個人ローン部門信用保証業務を関西総合信用株式会社に吸収分割したうえでりそなカード株式会社完全子会社となり、りそなカードに吸収合併された。
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発足当初
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 04:27 UTC 版)
1885年、英領インドのボンベイ(現・ムンバイ)で、72人の代表を集めて第1回の会議が開催された。この会議は、インドにおける人種差別的行政に憤ったイギリス人官僚、アラン・オクタヴィアン・ヒューム(教育行政に尽力した官僚だが、インドでは鳥類の研究者としての方が有名)がインド人初のイギリス下院議員となったダーダーバーイー・ナオロージーらとともに、インド知識人層の不満を吸収しつつ、インド人の政治参加を漸次拡大するための体制補完的、穏健的な団体として設立したもので、当初は、年末の4日間だけ活動する程度のものであった。これは、当時のインド総督の承認のもと開催され、「急増する反英勢力への安全弁」としての役割を期待されていた。 しかし、19世紀末よりバール・ガンガーダル・ティラク、オーロビンド・ゴーシュなどの急進派が台頭し、公然とスワラージ(自治・独立)を掲げる姿勢を見せた。先んじて1883年に全インド国民協議会を結成し、人種差別に反対していたS・バネルジーも全インド的な民族運動団体の設立を目指し合流し、穏健派を形成(後に脱退)した。 設立当初のメンバーは、教育を受けた中間層エリート、産業界の代表らから成り、大衆にまで広く浸透していた団体とはいえなかったが、一貫して「民族的団結の強調」「英国による対印抑圧政治の批判」「民衆の貧困」を強調したことは、民族運動初期のインド大衆世論の形成に大きな役割を果たした。
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