木屋町
木屋町
木屋町
木屋町
〒604-0961 京都府京都市中京区木屋町
〒572-0087 大阪府寝屋川市木屋町
〒790-0821 愛媛県松山市木屋町
木屋町通
(木屋町 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 10:27 UTC 版)
木屋町通、木屋町通り(きやまちどおり)は、京都市の南北の通りの一つである[1][2][3]。北は二条通から南は七条通まで[1]、全長約2.8キロメートル[4]の道路である[2]。先斗町の西にあり[5]、高瀬川の東側に沿って[1]中京区・下京区を貫通する[2]。
- ^ a b c ビジュアル・ワイド京都の大路小路 11頁
- ^ a b c 木屋町、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年9月13日閲覧。
- ^ a b c d 織田武雄. “木屋町 とは”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年5月26日閲覧。
- ^ a b ビジュアル・ワイド京都の大路小路 10頁
- ^ ビジュアル・ワイド京都の大路小路 12頁
- ^ “木屋町通”. 京都観光Navi. 京都市産業観光局観光MICE推進室. 2015年4月14日閲覧。
- ^ 京都市電慕情 12頁
- ^ 京都市電慕情 42頁
- ^ 京都二条、五条の大橋流失『大阪毎日新聞』昭和10年6月29日号外(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p206-207 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ “祇園・木屋町暴力団排除宣言”. 京都府警察 (2016年). 2022年8月17日閲覧。
木屋町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:59 UTC 版)
木屋町での生活はそれまでとは一変したものとなった。日に日に大きくなる腹のため、秀は芸妓を止めざるを得ず、俊藤はろくに働きもしなかったため、白井が持たせてくれた手切れ金はすぐに底をついた。やがて家具や着物を質草にして生活を賄うようになった。1946年(昭和21年)10月、秀は女の子を出産し、高子と名づけられた。 出産の翌年より秀は寺町四条の菊水というカフェーで働くようになる。当時、カフェーの女給には固定給は無く、指名客が落とした金やチップが収入となる仕組みであった。秀はあっという間に菊水一の稼ぎ頭となったが、半年ほどで突如店を止めた。この菊水での女給勤めの理由に関して、後の雑誌インタビューで秀は「自分が店を持つにあたっての修行見習いだった」と述べている。 木屋町の自宅を改造し、バーを開くことを思い立った秀は、その準備にとりかかった。改築費用については祇園時代より贔屓にされていた政治家大野伴睦が工面してくれることとなり、酒は西川布団の社長が見立ててくれることとなった。店の名前は「おそめ」とされた。1948年(昭和23年)、木屋町にカウンターに5、6人がようやく腰掛けられる小さなホームバーが開店した。服部良一、門田勲、大佛次郎、川口松太郎、青山二郎、白洲正子など、このホームバーの常連客として知られる者は数多く、会員制の小さなバーにも関わらず大いに繁盛したという。祇園の芸妓からバーのマダムになった第一号である。そんな中、常連客のひとりであった伊藤道郎が、東京にもおそめのような店を作って欲しいともちかけた。元来東京にある種のあこがれのようなものを持っていた秀はこの提案に一も二もなく飛びつき、東京進出という話が現実味を帯びて動き始めた。1955年(昭和30年)、伊藤は銀座3丁目の空き家を秀に紹介し、東京の「おそめ」が開店した。
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