カフェ【(フランス)café/(イタリア)caffè】
カフェー (風俗営業)
(カフェー から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 01:45 UTC 版)
カフェーは、日本で20世紀前半に流行した飲食店・風俗営業の一業態。古くは特殊喫茶、社交喫茶という言い方もあった。
- ^ カフェー 勝本清一郎、1964年、青空文庫
- ^ 可否茶館 かつひーさかん コトバンク
- ^ カフェ café コトバンク
- ^ 『ちんちん電車』獅子文六、河出書房新社、2017年
- ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年、406頁。ISBN 4-309-22361-3。
- ^ 安藤更生『銀座細見』p.81
- ^ 「カフェーバー等の取締に就て」『日本警察新聞』1933年3月。執筆は警視庁風紀係長の稲毛新。
- ^ 安藤更生『銀座細見』p.116
- ^ 寺澤優『戦前日本の私娼・性風俗産業と大衆社会』有志舎、2022年、211頁。ISBN 978-4-908672-61-3。
- ^ 安藤更生『銀座細見』p.129
- ^ 西沢爽『雑学東京行進曲』pp.348-349
- ^ 今西英造『演歌に生きた男たち』、菊池清麿『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』に詳細に記されている。
- ^ 1930年頃から使われるようになったと見られる。
- ^ 『前掲 戦前日本の私娼・性風俗産業と大衆社会』有志舎、219-222頁。
- ^ 『前掲『戦前日本の私娼・性風俗産業と大衆社会』』有志舎、217〜219頁。
- ^ 前掲「カフェーバー等の取締に就て」。
- ^ カフェー、バーから学生服締め出す『東京朝日新聞』昭和9年10月5日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p344 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ カフェーなどから学生を締め出し『大阪毎日新聞』昭和11年5月15日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p154)
- ^ 東京の盛り場、抜き打ち二千人検挙『東京日日新聞』昭和13年2月16日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p71)
- ^ 徴兵猶予取り消しも考えると末次内相『東京日日新聞』昭和13年7月30日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p72)
- ^ 芸妓同伴、昼酒は禁止『朝日新聞』昭和15年12月15日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p300)
- ^ 「料理屋など十一件許可前に建つ 池上特飲街もめる」『朝日新聞』昭和25年11月11日3面
- 1 カフェー (風俗営業)とは
- 2 カフェー (風俗営業)の概要
- 3 脚注
カフェー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 00:17 UTC 版)
1930年当時、コーヒーよりも女給のエロを売りにする「カフェー」と呼ばれる文化が存在した。 東京では1930年当時、「レヴュー」文化が盛んだった浅草に対し、銀座では「カフェー」と呼ばれる喫茶店文化が盛んであった。銀座には1911年に「カフェー・プランタン」「カフェー・ライオン」「カフェーパウリスタ」などが開業して以降、カフェーが多く存在した。給仕の中には女性も存在し、とりわけ「カフェーライオン」は女給を多く抱えていたが、給仕以上のものではなく、「カフェーライオン」では給仕以上のことをする品行不良な女給はクビにしていた。しかし、1924年に開業した「カフェー・タイガー」は女給の接客を売りにし、女給に売り上げを競わせることで繁盛した。現在のクラブの走りとされる。「カフェー・タイガー」では「カフェー・ライオン」をクビになった女給を積極的に雇っており、「カフェー・タイガー」の成功を見た「カフェー・ライオン」も次第に女給の濃厚な接客を売りにするようになった。 大阪では、千日前にあった「カフェ・ユニオン」が大正末頃にダンスホールを併設し、「大人の社交場」として機能するようになった。1928年、「ユニオン」が人形町に出店したのが「大阪式カフェー」が東京に進出した最初である。1930年には戎橋「カフェー美人座」や道頓堀「カフェー日輪」が銀座に進出するに及び、「大阪式カフェー」が東京を席巻するようになった。「大阪式カフェー」の特徴として、従来の銀座のカフェーよりもさらに濃厚な「エログロ」サービスと、客を選別せず学生でも入りやすい雰囲気だったことが挙げられる。この「大阪エロの洪水」に対抗するように、カフェーのエロは激化。性的サービスを行う店も登場した。 1930年当時は「スピード時代」だったので、遊廓と比べて安価に早く自由恋愛が行えるカフェーは大衆(特に若者)に人気となった。また、遊廓は主に身売り(人身売買)によって就職し、年季が明けるまで退職することができない前近代的な就労環境だったのに対して、カフェーは募集広告を見て就職し、辞めたいときに辞められる自由な就労環境だったという点でも「モダン」な環境として若者から人気で、経済的困窮に拠らずに望んで就労する女性も少なくなかった。永井荷風はカフェーに通った日々のことを『断腸亭日乗』に記しており、林芙美子はカフェーでバイトをしていた時期のことを『放浪記』に記している。 戦争の激化とともにコーヒーの輸入が滞るようになり、次第に廃業する。最終的に1944年2月の閣議決定「決戦非常措置要綱」に従い、カフェーはすべて廃業する。
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