み‐うり【身売り】
身売り
『仮名手本忠臣蔵』3~6段目 早野勘平はお軽と逢い引きしていたため、主君塩冶判官の刃傷を阻止できず、武士の面目をつぶす。やむなく勘平は、京都山崎のお軽の実家に身を寄せて、猟師となる。お軽は、勘平が再び武士となり仇討ちに参加できるよう、祇園一力茶屋に身売りして、百両の金を作る。しかしその半金50両を受け取って帰るお軽の父与市兵衛は、夜道で斧定九郎に殺され、50両を奪われる→〔財布〕1。
*『ヴィヨンの妻』(太宰治)の「私」は、小料理屋・椿屋で働いて、夫の借金を返済しようと考える(*→〔夫〕1a)。椿屋の亭主は「奥さん、とんだお軽だね」と言い、「私」たちは声を合わせて笑う。
『文七元結』(落語) 佐官長兵衛は博打に夢中になり、家計は火の車で年が越せない。1人娘お久が見かねて、吉原の佐野槌(または角海老)へ行き、身売りを申し出る。感心した佐野槌の女将は、お久を女中として預かり、長兵衛に説教して50両を貸す。しかし長兵衛は帰り道で、身投げする男を見て、50両を与えてしまう→〔身投げ〕1b。
『もう半分』(落語) 天秤棒をかついで野菜を売り歩く老人がいる。娘が、老父にちゃんとした八百屋の店を構えさせてやりたいと思い、その資金を作るために吉原に身売りして50両を得る。しかし老人は、行きつけの居酒屋に50両入りの財布を忘れ、それを居酒屋夫婦が自分たちのものにしてしまう→〔誕生〕7。
『柳田格之進』(落語) 浪人・柳田格之進は、碁が縁で、質両替商・萬屋源兵衛と知り合い、懇意にしていた。8月15夜の晩、源兵衛宅で50両が紛失し、番頭・徳兵衛は柳田を疑った。柳田は、あらぬ疑いをかけられたことに憤り、切腹しようとする。柳田の娘・19歳のお絹がそれを止め、吉原に身売りして50両を作る→〔碁〕3a。
『有難う』(川端康成) 晩秋。定期乗合自動車に乗って、15里離れた町の遊郭へ、母親が娘を売りに行く。運転手は、馬車や荷車を追い越す度に「ありがとう」と声をかける、評判の良い運転手だった。娘は運転手のことが好きになり、母親は運転手に頼んで、娘と一夜を過ごしてもらう。翌朝。娘に泣かれ、運転手に叱られて、母親は娘を売るのを春まで待つことにする。
★3.身売りする娘を買い戻す。
『血槍富士』(内田吐夢) 貧しい百姓藤三郎は5年前、娘おしなを女郎屋へ売った。以来、藤三郎は生野の銀山で命がけで働き、身請けに必要な30両を作って、女郎屋を訪れる。しかし「おしなは2年前に死んだ」と聞かされ、藤三郎は嘆き悲しむ。折りしも、また新たに村娘が1人、30両で売られて来た。藤三郎は自分の30両を女郎屋の亭主に叩きつけ、村娘を買い戻して親元へ帰してやる。
『自然居士』(能) 亡父母追善のため、少女が人買いに身を売って小袖に替え、それを施物として自然居士に供養を請う。自然居士は人買いを追い、「少女を解放せよ」と要求する。人買いは、少女を返す条件に自然居士に様々な芸をさせ、なぶりものにしようとする。自然居士はそれを承知で、曲舞・ささら・羯鼓など芸を尽くして少女を救う。
『まつら長者』(説経)初段~4段目 母と2人貧しく暮らす16歳のさよ姫は、亡父京極殿の十三年忌の費用を作るため、奥州から上京したごんが太夫に身を売り、陸奥の安達の郡へ下る。「養子にして大名家へ奉公に出す」と、姫は聞かされたが、実は、大蛇のいけにえにされるのであった。
佐渡おけさの伝説 猫好きの老婆が、生活に困窮する。長年飼われていた老猫が美しい娘に変身し、「江戸から人買いが来ているから、私を売り、その身のしろ金で楽に暮らして下さい」と、老婆に言う。やがて江戸の深川に「おけさ」と名乗る遊女が現れ、彼女の歌う「おけさ節」が評判になり、流行した(新潟県両津市・佐渡郡)〔*後に1人の船頭が、おけさの正体を猫と知り、それを口外したので、おけさに取り殺された〕。
『大般涅槃経』(40巻本「光明遍照高貴徳王菩薩品」) 貧しい男が自分の身体を金5枚で売り、その金で仏陀への布施物を買って届ける。男の身体を買った人は悪性の病気で、薬として人肉150グラムを毎日食べねばならない。男は毎日、自分の肉を切って病人に与えるが、仏陀から教わった詩偈を念じていたので、痛みを感じなかった。病人は人肉を1ヵ月間食べて治癒した。男の身体の肉を切り取った傷も、跡形なく消えた。
★7.女児を売る。
『吾輩は猫である』(夏目漱石)6 迷亭の話。「明治の初年頃まで静岡では、女の子を唐茄子のように籠へ入れて、天秤棒で担いで売り歩く商売があった。僕が6つくらいの時、おやじと散歩していると、人売りが『仕舞物だから安くまけておきます。買っておくんなさい』と言う。籠の中には、前に1人、後ろに1人、2歳ばかりの女の子が入れてある・・・・」。この話を聞いて寒月は、「この頃の女は、学校の行き帰りや合奏会や慈善会や園遊会で、『ちょいと買ってちょうだいな、あらおいや?』などと、自分で自分を売りに歩いています」と言った。
人身売買
(身売り から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 10:05 UTC 版)
人身売買(じんしんばいばい)とは、人間を物品と同様に売買すること[1]。現代ではこれに類する行為に対して、多様な実態と法的位置づけの、広い範囲に用いられている。
- ^ 一般に排水量が増えるほど必要とされる乗組員数は多くなる。
- ^ 毎年一隻に日本と中国の間での貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のカピタン・マジョールの称号が与えられた[18]。
- ^ 船倉内に可能な限り多くの奴隷を入れることを可能とした複層区画の奴隷船が登場するのは17世紀以降である。1570年、セバスティアン1世 (ポルトガル王)は300トン以下、450トン以上の船の建造を禁止している[27][28]。ポルトガルは最盛期でさえも300隻以上の船を保有しておらず、1585年から1597年までにインドへ出航した66隻のうち無事に戻ってきたのは34隻だけであった[29]。16世紀から17世紀を通じてポルトガル―インド間を運行したナウ船の中でも最大級のものは載貨重量トン数600トン(現代の計算方法で換算すると排水量1100トン[30][28])にもなり乗組員、乗客、奴隷、護衛の兵士を含む400-450人を乗せることができたという[31]。排水量900トンのナウ船は77人の乗組員、18人の砲兵、317人の兵士、26の家族を乗船させることができた[32][注 1]。 日明間の航路については、貿易風の性質上、1年周期に限定されており、ナウ船1隻だけを使用することで利益を最大化した[33][注 2]。ポルトガルのナウ船は毎年1000〜2500ピコ(1ピコ=60キログラム)の絹を運んだという[34]。3000ピコは180トンの絹に相当するため船倉容積は250から400立方メートルと推定でき、それに武装、備品、乗組員、乗客、兵士、食料と水が加わっていたと推測される。日本からの積荷が硫黄、銀、海産物、刀、漆器等の特産品とするなら、積荷の量によって乗船できる人数は上下したと考えられる。
- ^ ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[47]。
- ^ イエズス会は1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[41]。イエズス会による抗議は1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[42]。日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[43][44][45]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[46][注 4]。
- ^ 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが。宣教師によって記述された情報は「ポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動」[40]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる[注 5]。
- ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [49]のだという。
- ^ 人身売買 コトバンク
- ^ 日本においては、労働基準法5条、同法6条、職業安定法63条1号及び同2号、同法65条10号、労働契約法5条及び労働基準法13条、民法90条他により、奴隷的扱いを含む違法な労働が禁じられ、また契約として無効になっている。
- ^ traffickingとは、不正売買のこと。
- ^ a b 平成27年5月人身取引対策に関する取組について (PDF)
- ^ 政府広報オンライン
- ^ スマトラ沖地震・津波情報 日本ユニセフ協会
- ^ 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(2014年) p.14
- ^ 下重清『身売りの日本史―人身売買から年季奉公へ』p.11
- ^ 『室町は今日もハードボイルド』、清水克行、2021年6月発行、新潮社、P108
- ^ 『室町は今日もハードボイルド』、清水克行、2021年6月発行、新潮社、P109
- ^ 『室町は今日もハードボイルド』、清水克行、2021年6月発行、新潮社、P110~114
- ^ 『日本奴隷史』阿部 弘臧
- ^ 三宅亨「倭寇と王直」『日本と東アジアのコミュニケーションの総合的研究』2012年
- ^ Worcester, Dean C. (1906). "The Non-Christian Tribes of Northern Luzon". The Philippine Journal of Science. National Science Development Board
- ^ Tōkyō Daigaku Shiryō Hensanjo (ed.). Nihon Kankei Kaigai Shiryō – Iezusu-kai Nihon Shokan, Genbun, 3 volumes. Tokyo: Tōkyō Daigaku Shiryō Hensanjo, 1990-2011. II, pp. 303-4.
- ^ Zhèng Shùn-gōng / Tei Shunkō (auth.), MIKAJIRI Hiroshi (ed.) Nihon Ikkan. [Unnamed place]:[Unnamed editor], 1937, pp. 482-3. KATAYAMA Harukata. “Nihon Ikkan no Kiso teki Kenkyū, Sono ichi.” In: Komazawa Tanki Daigaku Kenkyū Kiyō, 24, 15. 1997; KATAYAMA Harukata. “Nihon Ikkan no Kiso teki Kenkyū, Sono ni.” In: Komazawa Tanki Daigaku Kenkyū Kiyō, 24, 17. 1998; YONETANI Hitoshi. “Kōki Wakō kara Chōsen Shinryaku he.” In: IKE Susumu (ed.). Tenka Tōitsu to Chōsen Shinryaku. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 2003, pp. 146-7.
- ^ See YONETANI Hitoshi. “Kōki Wakō kara Chōsen Shinryaku he.” In: IKE Susumu (ed.). Tenka Tōitsu to Chōsen Shinryaku. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 2003, pp. 146-7.
- ^ a b c d Boxer, Charles Ralph (1951). The Christian Century in Japan 1549–1650. University of California Press.
- ^ a b Boxer, Charles Ralph (1968). Fidalgos on the Far-East 1550-1770. Oxford University Press. ISBN 9780196380742.p16
- ^ "Urushi once attracted the world". Urushi Nation Joboji. Archived from the original on 25 December 2019.
- ^ Kwame Anthony Appiah, Henry Louis Gates, Jr., ed (2005). Africana: The Encyclopedia of the African and African American Experience (illustrated ed.). Oxford University Press. p. 479. ISBN 0195170555 2014年2月2日閲覧。
- ^ Anthony Appiah, Henry Louis Gates, ed (2010). Encyclopedia of Africa, Volume 1 (illustrated ed.). Oxford University Press. p. 187. ISBN 0195337700 2014年2月2日閲覧。
- ^ 16世紀のポルトガルの支配領域において東アジア人の奴隷の数は「わずかなもの」で、インド人、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった。Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X 2014年2月2日閲覧。
- ^ Magalhaes, J.R. (1997). "Africans, Indians, and Slavery in Portugal". Portuguese Studies. 13: 143–151.
- ^ In the Name of God: The Making of Global Christianity By Edmondo F. Lupieri, James Hooten, Amanda Kunder
- ^ https://www.japantimes.co.jp/culture/2013/05/26/books/book-reviews/the-rarely-if-ever-told-story-of-japanese-sold-as-slaves-by-portuguese-traders/
- ^ 外山卯三郎、南蛮船貿易史 (1943年), pp. 241-242
- ^ a b BARCELOS, CHRISTIANO SENNA, Construction of Naus in Lisbon and Goa for the India Route, Boletim da Sociedade de Geographia de Lisboa, 17a, série no1. 1898-99
- ^ Decline of the Portuguese naval power: A study based on Portuguese documents, Mathew, K.M. (The Portuguese, Indian Ocean and European Bridgeheads: 1580-1800) Festschrift in Honour of Prof. K.S. Mathew, Ed. By: Pius Malekandathil and Jamal Mohammed Fundacao Oriente, Lisbon. 2001, pp. 331-332
- ^ 外山卯三郎、南蛮船貿易史 (1943年), pp. 240-241
- ^ Reconstructing the Nau from Lavanha’s Manuscript, T Vacas, N Fonseca, T Santos, F Castro, nautical research journal, 2010, p.25
- ^ Menéndez: Pedro Menéndez de Avilés, Captain General of the Ocean Sea Albert C. Manucy, published 1992 by Pineapple Press, Inc, p.100
- ^ 外山卯三郎、南蛮船貿易史 (1943年), pp. 245-246
- ^ 高瀬弘一郎、キリシタン時代の貿易と外交 ハードカバー、八木書店、2002/2/1、pp. 8-26
- ^ Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X 2014年2月2日閲覧
- ^ Nelson, Thomas (Winter 2004). Monumenta Nipponica (Slavery in Medieval Japan). Vol. 59. Sophia University. p.463
- ^ 『建設コンサルタンツ協会 会報』Vol.256 (2012年7月) pp.12-15 「特集 鹿児島」尚古集成館田村省三
- ^ a b c デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p233-235
- ^ MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 19-20
- ^ Slavery in Medieval Japan, Slavery in Medieval Japan, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, "As early as 1555, complaints were made by the Church that Portuguese merchants were taking Japaense slave girls with them back to Portugal and living with them there in sin....Political disunity in Japan, however, together with the difficulty that the Portuguese Crown faced in enforcing its will in the distant Indies, the ready availability of human merchandise, and the profits to be made from the trade meant that the chances were negligible of such a ban actually being enforced. In 1603 and 1605, the citizens of Goa protested against the law, claiming that it was wrong to ban the traffic in slaves who had been legally bought. Eventually, in 1605, King Philip of Spain and Portugal issued a document that was a masterpiece of obfuscation intended both to pacify his critics in Goa demanding the right to take Japanese slaves and the Jesuits, who insisted that the practice be banned."
- ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
- ^ COSTA, João Paulo Oliveira e. O Cristianismo no Japão e o Episcopado de D. Luís Cerqueira. PhD thesis. Lisbon: Universidade Nova de Lisboa, 1998, p. 312. Sousa indicates the same letters, but he mistakenly attributed them to Filipe II, Filipe III’s father. See SOUSA, Lúcio de. Escravatura e Diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII. Braga: NICPRI, 2014, p. 298.
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
- ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 494-504
- ^ BOXER, C. R. The Christian Century in Japan, 1549 – 1650. California: University of California Press, 1974, pp. 97-98, "But since the Portuguese are unwilling to do this, and they often go to places against the padres` wishes, there is always much jealousy and rivalry between these lords, from which follow in turn to great toil and moil to the padres and to Christianity. And, moreover, it sometimes happens that the Portguese go with their ships to the fiefs of heathen lords who bitterly persecute the padres and Christianity, wrecking churches and burning images, which causes great scandal and contempt of the Christian religion."
- ^ 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 実業之日本社、1923年
- ^ 『日本売春史』中村三郎
- ^ 唐権『海を越えた艶ごと一日中文化交流秘史』新説社、2005、p121
- ^ 古賀十二郎『新訂丸山遊女と唐紅毛人』長崎文献社、1968、p232
- ^ a b Harald Fischer-Tiné (2003). “'White women degrading themselves to the lowest depths': European networks of prostitution and colonial anxieties in British India and Ceylon ca. 1880–1914”. Indian Economic and Social History Review 40 (2): 163–90 [175–81]. doi:10.1177/001946460304000202.
- ^ a b Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Translated by Karen F. Colligan-Taylor. Routledge. p. 63. ISBN 978-1317460251
- ^ “大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷”. 大阪商業大学下山研究室. 2014年2月9日閲覧。
- ^ 『室町は今日もハードボイルド』、清水克行、2021年6月発行、新潮社、P116
- ^ 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(2014年)pp.126-127
- ^ 「薩摩の兵が豊後で捕らえた人々の一部は、肥後へ売られていった。ところが、その年の肥後の住民は飢饉に苦しめられ、生活すらままならなかった。したがって、豊後の人々を買って養うことは、もちろん不可能であった。それゆえ買った豊後の人々を羊や牛のごとく、高来に運んで売った。このように三会・島原では、四十人くらいがまとめて売られることもあった。豊後の女・子供は、二束三文で売られ、しかもその数は実に多かった。」ルイス・フロイス 著、松田毅一・川崎桃太 訳『完訳 フロイス日本史』 8巻、中央公論新社〈中公文庫〉、2000年、268頁。
- ^ 太田淑子編『日本史小百科 キリシタン』(東京堂出版)p148-149
- ^ 北川鐵三『島津史料集』人物往来社 152ページ "禁制高麗国(藉)一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉事、一、放火事、付人取事"
- ^ 橋本増吉『物語東洋史: 朝鮮』雄山閣 266ページ
- ^ 藤木久志『雑兵(ぞうひょう)たちの戦場: 中世の傭兵と奴隷狩り』59ページ
- ^ 『多聞院日記 三十六』天正20年5月18日条
- ^ 中村 質『「南蛮」から「紅毛」へ』p.28
- ^ 『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(2014年)pp.172-174
- ^ 内藤雋輔『文禄・慶長の役における被虜人の研究』(東京大学出版社、1976年)p226、
- ^ 渡邊 大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(2014年)pp.172-173、2014
- ^ 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(2014年)p.175
- ^ 藤野豊『戦後日本の人身売買』p.18
- ^ 藤野豊『戦後日本の人身売買』p.19
- ^ “日本侵華硏究”. Journal of Studies of Japanese Aggression Against China (日本侵華研究學會) (5–8): 64. (1991) .
- ^ Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Routledge. ISBN 978-1317460244
- ^ Tomoko Yamazaki (1985). The story of Yamada Waka: from prostitute to feminist pioneer. Kodansha International. ISBN 978-0870117336
- ^ Giving a Voice to the Voiceless: The Significance of Yamazaki Tomoko's Use of Oral History in "Sandakan Hachiban Shōkan". University of Sheffield, School of East Asian Studies. (1995)
- ^ Tomoko Yamazaki (2005). Yukiko Sumoto-Schwan; Friedrich B. Schwan. eds. Sandakan Bordell Nr. 8: Ein verdrängtes Kapitel japanischer Frauengeschichte. Translated by Yukiko Sumoto-Schwan, Friedrich B. Schwan. Iudicium Verlag. ISBN 978-3891294062
- ^ Shōichirō Kami; Tomoko Yamazaki, eds (1965). Nihon no yōchien: yōji kyōiku no rekishi. Rironsha
- ^ James Francis Warren (2003). Ah Ku and Karayuki-san: Prostitution in Singapore, 1870–1940. Singapore Series, Singapore: studies in society & history (illustrated ed.). NUS Press. p. 223. ISBN 9789971692674
- ^ Tomoko Yamazaki (1974). サンダカンの墓. 文芸春秋. p. 223
- ^ Tomoko Yamazaki (1975) (illustrated ed.). 文藝春秋. p. 223. https://books.google.com/books?id=4XoPAQAAMAAJ
- ^ Gwyn Campbell; Elizabeth Elbourne, eds (2014). Sex, Power, and Slavery. Ohio University Press. p. 223. ISBN 978-0821444900
- ^ Ameyuki San no uta. Bungei Shunjû. (1978)
- ^ James Francis Warren (2003). Ah Ku and Karayuki-san: Prostitution in Singapore, 1870–1940. Singapore Series, Singapore: studies in society & history. NUS Press. p. 83. ISBN 978-9971692674
- ^ Journal of the Malaysian Branch of the Royal Asiatic Society 62 (2): 57. (1989). https://books.google.com/books?id=slYaAQAAIAAJ.
- ^ Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor Karen F. Colligan-Taylor訳 (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Routledge. p. xxiv. ISBN 978-1317460251
- ^ James Boyd (August 2005). “A Forgotten 'Hero': Kawahara Misako and Japan's Informal Imperialism in Mongolia during the Meiji Period”. Intersections: Gender, History and Culture in the Asian Context (11) 2015年7月21日閲覧。.
- ^ Narangoa & Cribb 2003, p. 45.
- ^ Narangoa & Cribb 2003, p. 46.
- ^ Jamie Bisher (2006). White Terror: Cossack Warlords of the Trans-Siberian. Routledge. p. 59. ISBN 978-1135765958 2014年5月17日閲覧。
- ^ Yamazaki & Colligan-Taylor 2015.
- ^ Christopher, Pybus & Rediker 2007, p. 212; Frances 2007, p. 49.
- ^ Historical Studies, Volume 17. (1976). p. 331 2014年5月17日閲覧。
- ^ Boris & Janssens 1999, p. 105.
- ^ Dr Samantha Murray; Professor Nikki Sullivan, eds (2012). Somatechnics: Queering the Technologisation of Bodies. Queer Interventions (revised ed.). Ashgate Publishing, Ltd.. ISBN 978-1409491972 2014年5月17日閲覧。
- ^ Frances 2007, p. 47.
- ^ Frances 2007, p. 48.
- ^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p344 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
- ^ 警視庁も身売り娘救済に乗り出す『中外商業新聞』昭和9年10月26日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p465 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 岩手の欠食児、年末には5万人を越すか『東京朝日新聞』昭和9年10月12日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p461)
- ^ 「また、ふえた身売り 受け入れ地は東京が多い」『朝日新聞』昭和26年9月22日3面
- ^ 「人身売買容疑で組員ら逮捕 日本人女性被害」『朝日新聞』2007年7月24日付[リンク切れ]
- ^ 人身取引対策行動計画 (Report). 内閣官房. 7 February 2004.
- ^ 2005年刑法改正
- ^ 平成17年における人身取引の被害者について
- ^ “売春や強制的な労働などを強要される「人身取引」 被害者に助けを求められたら最寄りの警察などへ”. 政府広報 (2014年5月30日). 2014年6月7日閲覧。
- ^ 2018年人身取引報告書(日本に関する部分) (Report). 在日米国大使館.
- ^ a b 2011年人身売買報告書(抜粋・日本に関する報告) (Report). 米国大使館.
- ^ 米国大使館「2014年人身売買報告書(日本に関する部分)
- ^ “JKビジネスが売春容易に…米人身売買報告”. Nippon Television Network Corporation news24 (2015年7月28日). 2015年11月12日閲覧。
- ^ “米・人身売買報告書、日本を格下げ 技能実習・児童買春、対策「不十分」”. 朝日新聞デジタル. (2020年6月27日)
- ^ 「人身売買との闘い」指宿弁護士を米表彰 技能実習生を支援 朝日新聞デジタル(2021年7月3日)2021年8月3日閲覧
- ^ 平成25年中における人身取引事犯について (PDF)
- ^ 平成24年中における人身取引事犯について (PDF)
- ^ 海老沢哲雄「元代奴婢問題小論」『社会文化史学』 第8号(1972年7月)
- ^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年「(十二月)庚午(二十八日)、侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、獻王及公女。」
- ^ 『ハンギョレ』2014年7月5日「米軍の性病だけを心配していた政府…人間に対する礼儀を守れ」
- ^ 西村大輔 (2010年2月11日). “「7万8千円で妻を買いました」 脱北、売られ中国人妻”. 朝日新聞. オリジナルの2011年9月8日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c d e f g h 西村大輔 (2010年2月11日). “中朝国境人身売買、仲介業者が暗躍 国境警備隊も結託”. 朝日新聞. オリジナルの2011年9月8日時点におけるアーカイブ。
- ^ リュ・ジョン (2008年10月13日). “脱北者の悲痛な訴え、弁護士協会が人権白書”. 朝鮮日報. オリジナルの2008年10月13日時点におけるアーカイブ。
- ^ “中国で横行する人身売買、17年かけて息子を探した女性の悲劇”. AFPBB News. (2014年1月26日) 2014年1月26日閲覧。
- ^ “中国で乳児人身売買組織を摘発”. AFPBB News. (2011年11月6日) 2014年1月26日閲覧。
- ^ “中国に巣食う「一人っ子政策の闇」、赤ちゃん売買がネットで拡大”. Reuters. (2014年4月1日) 2014年4月1日閲覧。
- ^ 「中国の児童人身売買、誘拐された子どもの一部は米国へ―米紙」Record China:2012年12月29日(土)17時18分配信
- ^ ミャンマーで女性の人身売買が横行、8割が嫁不足の中国へ売られる―ミャンマー紙 配信日時:2013年1月9日 13時6分
- ^ 2014年度中国国内犯罪統計による。また、華南理工大法学院の調査では、約半数が親による我が子の売買としている。
- ^ “アジア女性の人身売買、中国で増加”. AFPBB News. (2011年11月25日) 2014年1月26日閲覧。
- ^ “「妻として売られた」外国人女性1100人を救出”. AFP (2019年6月22日). 2019年6月23日閲覧。
- ^ “奴隷貿易Ⅲ〜アメリカ奴隷制度の歴史〜”. 株式会社ベネディクト. 2014年1月26日閲覧。
- ^ “米南部で性目的の人身売買組織を摘発、女性11人救出”. AFPBB News. (2013年1月18日) 2014年1月26日閲覧。
- ^ Trafficking in Persons Report 2015
- ^ 「米人身売買報告書、マレーシア・キューバの評価引き上げ」reuters(2015年7月28日)
- ^ Trafficking in Persons Report 2018: Tier Placements and Regional Maps 2018.11.13閲覧
「身売り」の例文・使い方・用例・文例
品詞の分類
- 身売りのページへのリンク