福岡藩 福岡藩の概要

福岡藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 03:26 UTC 版)

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舞鶴公園 福岡城下の橋大手門
福岡藩領域図(慶長期)

略史

慶長5年(1600年関ヶ原の戦いの功により、筑前の一部を領有していた小早川秀秋備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津藩主の黒田長政が、同じく関ヶ原の戦功により、筑前一国一円52万3千余の大封を与えられたことにより、当藩が成立した。国主、本国持の大名家である。

2代・忠之以降の歴代藩主に、松平の名字と将軍実名一字を授与(偏諱)された。江戸城内の席次は大広間松の間、9代斉隆以降、大廊下上之部屋。松平筑前守黒田家として幕末に至る[1]

江戸幕府より、佐賀藩と1年交代で、幕府領である長崎の警備を幕末に至るまで命じられ、藩財政の重い負担となった。

筑前入府当初の居城は、小早川氏と同じ戦国武将立花鑑載が築城した名島城であったが、手狭であり交通にも不便であったため、慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)までの約6年をかけて、新たに広大な城郭・福岡城(別名:舞鶴城・石城)を築城した。同時に領内に於いて、不仲である細川家を警戒し(農民の逃散など[注 1])、福岡藩と小倉藩の藩境に筑前六端城(益増城、鷹取城、左右良城、黒崎城、若松城、小石原城)を築き、黒田八虎で筆頭重臣の栗山利安井上之房を始めとする家臣らが城主となる。なお、長政は質素倹約を旨とする父の藩祖・黒田如水の教えにより藩内には豪壮な別邸屋敷、大名庭園などは築庭しなかった。黒田家は6代藩主継高隠居屋敷、数寄屋庭園の友泉亭(現・友泉亭公園)を建立した程度である。

2代・忠之は、父・長政の遺言により弟の長興に筑前秋月藩5万石、高政に筑前直方藩4万石を分知した[注 2]。これにより石高は43万3千余石となった。忠之の時代には黒田騒動と呼ばれるお家騒動が起きた。

3代・光之は、藩儒貝原益軒に命じて黒田家正史の『黒田家譜』を編纂させた。それまでの保守的な重臣を遠ざけて新参の鎌田昌勝や立花実山を家老として新たに登用し、藩士の序列統制や幕末まで続く福岡藩の政治体制を整えたといえる。

4代・綱政は、東蓮寺藩主から福岡藩主となった。第二の黒田騒動と呼ばれる御家騒動が起きる。

5代・宣政は、生来病がちであり領地筑前に中々入ることができず、叔父の直方藩主・黒田長清が代理として藩政を助けた。

6代・継高は、直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領4万石は福岡藩に還付され、石高は47万3千余石となり廃藩置県までこれが表高となった。藩祖孝高の血統としては最後の藩主。

7代・治之は、御三卿一橋徳川家からの婿養子で、8代将軍徳川吉宗の孫にあたる。養父の継高は黒田一門、重臣達と協議の上、福岡藩の永続を優先に考え、徳川家から養子を迎えた。

8代・治高は、婿養子(末期養子)として多度津藩京極氏から迎えたが早世し、妻子も無く1代限りの藩主であった。

9代・斉隆は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子。11代将軍徳川家斉は同母で実兄である。天明4年(1784年)に修猷館(しゅうゆうかん)、甘棠館(かんとうかん)の藩校2校を興した。そのうち修猷館は福岡県立修猷館高等学校として現在も福岡県教育の主導的地位を誇っている。

10代・斉清は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来して見聞を広げている。

11代・長溥は、薩摩藩島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。

12代・長知は、伊勢津藩藤堂氏からの養継嗣。能楽を好み、多くの能楽師達を支援した。最後の筑前福岡藩藩主。初代福岡知藩事となった。

幕末

幕末には、慶応元年(1865年)当初、第一次長州征討中止の周旋に奔走した筑前勤王党(尊皇攘夷派)を主とする勤王派が主力を占めた。勤王派は同時に三条実美ら五卿を説得して太宰府に移したことで尊皇攘夷の雄藩の一角とされるようになったが、その事を藩主である黒田長溥が幕府に責められていた。さらに犬鳴谷に建設されていた犬鳴御別館が藩主を幽閉するための物と噂され、謀反の疑いがかけられた。そして幕府が第二次長州征討を決定した結果、勤王派の周旋は否定され、藩論が佐幕に傾いた。勤王派の多くが逮捕され、家老・加藤司書をはじめ7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首、野村望東尼ら15名が流刑となった乙丑の獄により、筑前勤王党は壊滅した。その後、慶応4年(1868年)再び勤王派の巻き返しがあり藩論は勤王に転向と目まぐるしく変転した。

明治3年(1870年)、日田県知事松方正義が福岡藩士による太政官札贋造事件を告発。その後の明治政府の調査の結果、松方の告発が事実で福岡藩首脳部も関与していた事実が判明した。このため明治4年7月2日(1871年8月17日)、12代・長知知藩事を解任、後任には黒田家と縁のある有栖川宮熾仁親王が就任したが、廃藩置県までの12日間に過ぎなかった。とは言え、知藩事は江戸時代の藩主と同様に世襲が認められていたことから、嫡男が知藩事を継げない事態は江戸時代の改易に匹敵する厳罰であり、事実上の廃藩と言われている。この際、見せしめとして事件に関わった最高幹部である大参事立花増美・矢野安雄、権大参事小河愛四郎、小参事徳永織人・三隅伝八の5名が実行犯として処刑され、10人以上が閉門流罪などにされている。長知一族は福岡を離れ、東京に移住した。その後、廃藩置県により福岡県となった。この事件で名前を上げた松方正義は明治新政府で出世の道を掴んだ。

明治以降の藩の記録・回想など

明治17年(1884年)、長知の子である黒田長成は新政府の華族令により侯爵を叙爵し、華族に列した[4]。その息子の長礼は閑院宮茂子女王の降嫁を迎えた[5]

明治時代中頃から始まった福岡士族・江島茂逸による福岡藩の記録編纂にあたり、江島は高杉晋作について、故郷長州でもまだまとまった伝記が出されていなかった明治26年(1893年)に『高杉晋作伝入筑始末』[6]を著し、東京の出版社から世に出して晋作伝の第一号となっている[7]。明治時代末期から大正時代に近代化の達成が意識されると、藩が明治維新にいかに貢献したかの観点が重視された。編纂事業は江島から長野誠に引き継がれ、福岡藩は「征長解兵」「五卿送迎」「薩長和解」[8]といった福岡藩の果たした役割を「維新起源」として強調している[9]

戦前の教育においては勤王志士が賛美され、長溥など藩主は愚昧と喧伝された[10]


注釈

  1. ^ 反対側の佐賀藩との藩境には何の対策も取られていない。
  2. ^ 忠之の不行跡で福岡藩が改易された際の備えのためとされる[2]

出典

  1. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。
  2. ^ 山本 2015, p. 17.
  3. ^ a b 国立国会図書館利用者サービス部編「特集 国立国会図書館所蔵写真帳・写真集の内容細目総覧―明治・大正編―」『参考書誌研究』第33号、 617頁、 ISSN 0385-3306合本(大正2年4月-3年3月=1913年、1914年)。22×31cm。
  4. ^ 「黒田侯爵邸に於ける米国議員婦人団一行の歓迎会」『歴史写真(大正)』大正2年10月号、歴史写真会[3]
  5. ^ 「閑院宮第2女王茂子殿下・侯爵黒田長成令嗣長礼との御婚儀」『歴史写真(大正)』大正3年2月号、歴史写真会[3]
  6. ^ 江島茂逸(編)『高杉晋作略伝 : 入筑始末』団々社ほか、明治26年、doi:10.11501/781609。国立国会図書館近代デジタルライブラリーに収蔵、インターネット公開(保護期間満了)。
  7. ^ 一坂 2002, p. 69.
  8. ^ 福井淳 編「薩長和解の事」 『明治太平記』(2版)明昇堂ほか、大阪、明治20年(1887年)、25 (コマ番号0022.jp2)頁。 また、「高杉晋作兵を起す事」23頁 (コマ番号0021.jp2)を掲載。
  9. ^ 福岡県の幕末維新 2015, p. 37.
  10. ^ 柳 1989, あとがき.
  11. ^ 旧三奈木黒田家庭園朝倉市
  12. ^ 戸川 1914, pp. 1–3, コマ番号0013.jp2、0015.jp2-0016.jp2.
  13. ^ 戸川 1914, コマ番号0011.jp2.
  14. ^ 挿絵「寛永古図略説」の欄外に、「黒田右衛門佐は外務省」と記述がある[13]
  15. ^ 『慶長年間江戸図考』、コマ番号0004.ja2(左)頁。doi:10.11501/253324  - 国立国会図書館デジタルコレクション(古典籍資料(貴重書等)- 絵図)。
  16. ^ 「慶長江戸図」『江戸 A』(近世絵図地図資料集成 ; 第1期 第3巻)、近世絵図地図資料研究会(編)、科学書院、1997年。
  17. ^ 『慶長江戸図』[15][16]・『寛政十二年江戸全図』(国立国会図書館)。
  18. ^ 3.泥絵 霞が関, , 第3展示室(近世)特集展示「もの」からみる近世『泥絵と江戸の名所』, 歴博とは (国立歴史民俗博物館(プレスリリース)), https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p151020/index.html 2022年4月11日閲覧。 
  19. ^ 港区立港郷土資料館 2005, pp. 156-, 図版265番 霞ヶ関福岡藩黒田侯上屋敷玄関.
  20. ^ 週刊新潮 1997, p. 150, コマ番号0076.jp2).
  21. ^ 「『莫都五十年史(実写)』小林音次郎、日本仏教協会、大正6年」。 2100頁、24×31cm、非売品、明治初年の写真ほか。
  22. ^ 「『93 東京市史跡名勝天然紀念物写真帳』東京市役所公園課(編)、大正11年」。 7166枚、26cm。
  23. ^ 「東京市各編:東京の史蹟 旧黒田侯邸」不動健治『復興の帝都』、写真日報社、昭和5年4月、95頁。21p 27×36cm。関東大震災復興後の写真を中心に、オリジナルプリントを34枚貼り込んである。
  24. ^ 「明治初年の霞ケ関黒田邸」[21]、「黒田藩邸の長屋」[22][23]
  25. ^ 光雲神社公式ホームページ”. 光雲神社. 2022年4月7日閲覧。
  26. ^ 粟山大膳「帝劇十年」『参考書誌研究』第554号。元資料は大正7年6月発刊、63枚、26×38cm。英文書名:The 10 years of Imperial Theatre。本体の写真は帝劇で上演した舞台の写真。


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