第一審・名古屋地裁
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「ドラム缶女性焼殺事件」の記事における「第一審・名古屋地裁」の解説
2000年7月18日、6被告人の初公判 N・Kら被告人6人の刑事裁判初公判は2000年7月18日、名古屋地裁で開かれた。 この事件は主犯格のN・K両被告人が名古屋地裁刑事第3部(片山俊雄裁判長)で、共犯者4人が名古屋地裁刑事第5部(三宅俊一郎裁判長)で、それぞれ分離公判として審理されることとなった。 それぞれの公判において冒頭陳述で検察側は、「N・K両被告人が共犯被告人4人に対し、自分たちが経営する会社が受取人となる生命保険に加入させた上、命令に従わない場合は殺害することをほのめかし、計画に引き込んでいた」と事実を明らかにするとともに「犯行動機は被害者Aに手形の支払いを断られたことである」と主張して、極めて残忍な手口を詳述し「本件は計画的犯行である」と断罪した。 これに加え、「本来の殺害対象はA・B夫妻だったが、『犯行を目撃されたために口止め目的で』被害者Cをも巻き込み、『生きたまま焼き殺せば血液が飛散しない』という理由で焼殺という手段に至った」と主張した。 また、犯行グループが設立した取り込み詐欺会社は2000年2月、パソコンの取り込み詐欺で約2,200万円の利益を上げていたことも明らかにされた。N・K両被告人の審理(名古屋地裁刑事第3部、片山俊雄裁判長) 罪状認否でN・K両被告人は「間違いありません」と起訴事実を全面的に認めた。 W・X・Y・Zの4被告人の審理(名古屋地裁刑事第5部、三宅俊一郎裁判長) 罪状認否でW・X・Y・Zの4被告人はそれぞれ起訴事実を認めた上で、「犯行は主犯格2人に命じられた」と述べた。 殺害・死体損壊実行犯の被告人Wは罪状認否にて「犯行はN・K両被告人の指示によるものだ」と述べた。 W・X両被告人の弁護人は「主犯格のN・K両被告人から高額の生命保険をかけられ、2人の命令を拒否できない立場にあった」と主張し、それぞれ刑事責任の軽減を求めた。 また殺害現場にいなかったY・Z両被告人は「殺害の謀議があったことは認めるが、実際にどういうことがあったのかはわからない」と述べた。 2000年9月7日、N・K両被告人の第2回公判、名古屋地裁(片山俊雄裁判長) N・K両被告人の第2回公判は2000年9月7日、名古屋地裁(片山俊雄裁判長)で開かれた。 同日、検察側の物的証拠として焼殺に使われたドラム缶2つ・遺体切断に使われたチェーンソーなどが法廷に提出され、証拠採用された。ドラム缶の煤は洗い流され、上部は缶切りで開けたように一部分を除いて切断されており、下部には空気穴が開けられていた。 また、被害者Aら被害者遺族の「人間にできることではない。犯人にも同じことをしないと気が済まない。極刑を願っている」「B・Cが炎でもがきながら死んだ姿を想像してしまう。犯人に生きる権利はない」など、怒りの声がつづられた供述調書3通も検察側から法廷に提出され、証拠採用された。 2001年10月18日、W・X・Y・Zの共犯者4被告人について論告求刑公判。W・X両被告人に死刑、Y・Z両被告人に懲役15年をそれぞれ求刑 2001年(平成13年)10月2日午後、W・X・Y・Zの共犯者4被告人について論告求刑公判が予定されていた。この時点までに検察側は以下のように求刑する方針を固めていた。殺害・死体損壊の実行犯である被告人W…死刑 殺害行為には関与しなかったが殺害現場に居合わせ、死体損壊の実行犯となった被告人X…死刑 被害者Aから奪った車を運転し、殺害現場に向かう途中で逮捕されたY・Z両被告人…「関与の程度はW・X両被告人に比べて低い」と判断し、長期の懲役刑 しかしこの日の公判では、検察側が新たに捜査段階の警察官調書などを証拠提出した一方、弁護人側が認否を留保したため、予定されていた論告求刑は次回公判(2001年10月18日)に持ち越された。 その後、名古屋地裁(三宅俊一郎裁判長)で2001年10月18日、改めて共犯4被告人についての論告求刑公判が開かれ、検察側は4被告人について「N・Kに恐怖感は抱いておらず、指示があれば躊躇なく承諾した」と主張し、以下の通り求刑した。殺害・死体損壊の実行犯だったW・X両被告人…それぞれ死刑を求刑論告で検察側は両被告人について「弁護人側主張とは異なりN・K両被告人に恐怖感は抱いておらず、指示に賛同して一連の犯行で重要な役割を果たした」と指摘した。 殺害現場に向かう途中で逮捕されたY・Z両被告人…それぞれ懲役15年を求刑Y・Z両被告人については「凶器を準備するなど、積極的に犯行に関与した」と指摘し、強盗殺人罪の共謀共同正犯の成立を主張した。 論告で検察側は「被告人6人は240万円の手形債権の取り立てに絡み、何の落ち度もない女性2人を焼き殺した。殺害方法は類を見ないほど冷酷・無慈悲で残虐非道の極み」と犯行を断罪した上で、「完全犯罪を狙い、阿鼻叫喚の地獄さながら生きたまま2人を焼き殺し、死体を徹底的に粉砕し投げ捨てるという、犯罪史上稀に見る凶悪さだ。被告人らには人間の生命を尊ぶ気持ちが全くなく、鬼畜の如き所業だ」と主張した。 2001年11月5日、W・X・Y・Zの4被告人の公判結審、弁護人側最終弁論 2001年11月5日、W・X・Y・Zの4被告人について最終弁論公判が開かれ結審した。 4被告人それぞれの弁護人はそれぞれ以下のように情状酌量を求めた。死刑を求刑されたW・X両被告人の弁護人は「主犯格のN・K両被告人から脅され、指示に従わざるを得なかった」としてともに死刑回避を求めた。 懲役15年を求刑されたY・Z両被告人の弁護人も、「強盗殺人罪の共謀共同正犯は成立しない」と主張し、情状酌量を求めた。 2001年11月21日、主犯格のN・K両被告人に論告求刑公判で死刑求刑 2001年11月21日、主犯格のN・K両被告人に関して論告求刑公判が開かれ、検察側は両被告人に死刑を求刑した。検察側は論告で「N・K両被告人は取り込み詐欺に失敗したため手形回収の仕事を請け負ったが、被害者Aが240万円の手形取り立てを拒否したために無理矢理回収しようとした。私利私欲に基づく犯行で、2人を殺害する必要はなかった」として「動機に酌量の余地はない」と訴えた。 その上で「阿鼻叫喚のうちに無関係な女性2人を生きたまま焼き殺した、犯罪史上類のない残酷な犯行だ。チェーンソーで遺体を切断し骨片を山中に捨てるなど、死者に対する畏敬の念は微塵もない。被害者遺族の処罰感情は峻烈だ」と犯行を糾弾した。 そして「事件発覚後、家族の身の安全と引き換えに共犯者らに責任を負わせて警察に出頭させたことなどから、悪質で矯正可能性はなく、極刑をもって臨むしかない」などと結論付けた。 また、両被告人・および各弁護人が互いに「相手の指示に逆らえなかった」と主張したことに対しては「上下関係はなく対等な立場でそれぞれ一連の犯行を主導した」と反論した。 2001年12月20日、N・K両被告人の公判結審、弁護人側最終弁論 2001年12月20日、弁護人の最終弁論が開かれ、N・K両被告人の公判が結審した。両被告人の弁護人はそれぞれ「両被告人は矯正の可能性が強く、生きて償わせるべきだ」と述べ、死刑回避を求めた。 被告人Kの弁護人は最終弁論で「事件の発端は被告人Nと関係が深い暴力団組織の債権取り立てが原因であり、被告人Kの刑事責任は被告人Nほど重くない」と指摘した。 被告人Nの弁護人は「被告人Nは2人を焼き殺した残酷な状況が今も忘れられずに苦しんでいる。Nにとっては極刑より生きて償わせることの方が過酷な刑だ」と述べた。 両被告人は最終意見陳述で、それぞれ「死刑でも受け入れる」と意見陳述した。被告人Kは「死刑でも仕方ないが、家族のことを考えると少しでも長生きしたい」と述べた。被告人Nは公判当初、「被告人Kに逆らえなかった」と主張していたが、その後は被告人質問などで「自分が死刑になる姿を見せ、少しでも被害者遺族の心が安らかになればいい」「自分が一番悪い。命で償うしかない」などと話すようになり、自ら死刑判決を希望する旨を語っていた。 被告人Nは「命で償うしかない。どんな判決でも控訴しない。極刑でも受け入れる」と述べた。被告人Kは弁護人によれば、被害者の冥福を祈って毎日写経をする一方、キリスト教関係者とも交流を持つようになり、判決前には洗礼を受けることを決めていた。また、被告人Kは公判で「死刑を受け入れる」と話しつつも、自分の2人の子供の将来を心配し、「少しでも長く生きていたい」と発言していた。 2002年2月19日、W・X・Y・Zの4被告人への判決公判、無期懲役・懲役12年とする判決 翌2002年(平成14年)2月19日、名古屋地裁(三宅俊一郎裁判長)でW・X・Y・Zの4被告人に対する判決公判が開かれた。 名古屋地裁は殺害・死体損壊実行役のW・X両被告人に無期懲役判決(求刑・死刑)、殺害現場に向かう途中で逮捕されたY・Z両被告人に懲役12年判決(求刑・懲役15年)をそれぞれ言い渡した。名古屋地裁は判決理由で「一連の犯行は短絡的・無謀であり、態様は残虐非道で、4被告人もそれぞれ重要な役割を果たした」と厳しく犯行を指弾し、特に殺害・死体損壊行為の実行犯であるW・X両被告人に対しては「死刑の選択も考えられる」と非難した。 その上で「犯行は主犯格のN・K両被告人が、躊躇うWら4人を脅して加担・実行させた」と認定し、「4被告人は目先の保身を優先させたとの非難は免れられないが、こうした事情は量刑上考慮されるべきだ」と指摘した。 量刑理由については以下の通り。殺害・死体損壊の実行役として関与したW・X両被告人に対しては「ドラム缶に引火させるなど重要な実行行為を担当し、死刑選択も考えられるが、主犯2人の強い指示命令の下に行われた犯行であり、極刑がやむを得ないとは認められない」と結論付け、死刑を回避して無期懲役刑を選択することが相当とした。 Y・Z両被告人はいずれも無期懲役刑を選択の上で酌量減軽し、懲役12年とするのが相当とした。 2002年3月5日まで、名古屋地検・被告人側がいずれも名古屋高裁に控訴 この判決については検察側・被告人側の双方が量刑不当を訴え、被告人側はさらに「共犯関係の存在」「自首の成立」について事実誤認を主張した。 無期懲役判決を受けた被告人Wは2002年2月28日(被告人Kと同日)、判決を不服として名古屋高等裁判所に控訴した。 懲役12年の判決を受けた被告人Zの弁護人は2002年3月1日、判決を不服として名古屋高裁に控訴した。 無期懲役判決を受けた被告人X・懲役12年の判決を受けた被告人Yはそれぞれ、2002年3月5日付で判決を不服として名古屋高裁に控訴した 。 一方で検察側(名古屋地検)は2002年3月4日、判決に対する量刑不当を訴えて4被告人全員について名古屋高裁に控訴した 。 2002年2月21日、主犯格のN・K両被告人に死刑判決 2002年2月21日、名古屋地裁(片山俊雄裁判長)で主犯格のN・K両被告人についての判決公判が開かれた。 名古屋地裁はN・K両被告人にいずれも求刑通り死刑判決を言い渡した。名古屋地裁は判決理由で、事実認定について「一連の事件は被告人Nが犯行計画を立てた上で共犯者に具体的な指示を出して犯行を遂行しており、責任は犯行集団の中で最も重い」として、被告人Nを事件の主犯と認定した。 また、被告人Kについても「Nと並んで最も強い立場にあり、Wら共犯被告人4人を強引に犯行に引き込んだ。果たした役割はNに準ずるほど重大だ」と認定し、「Nが怖くて従った」とする被告人Kの弁護人主張を退けた。 その上で量刑理由について、「犯行の発覚を防ぐためという理由で被害者2人の命を奪い、動機も極めて自己中心的だ。社会に与えた影響も大きい」と厳しく犯行を非難し、「2人の存在がなかったら犯行は遂行されなかった。その責任はWら共犯者4人とは格段の違いがある」と断じ、「極刑はやむを得ない」と結論付けた。 2002年2月28日、被告人K側が名古屋高裁に控訴 被告人Kの弁護人・三浦和人弁護士は判決後、「自分たちのメンツを保つためという動機だけではこのような犯行はしない。動機の事実認定はしっかりされておらず、不満が残る」と述べ、「被告人本人と接見して控訴するかどうか判断する」と意向を示した。 その後、被告人K・弁護人は2002年2月28日(被告人Wと同日)、名古屋高裁に控訴した。 2002年3月7日、被告人N側が名古屋高裁に控訴 被告人Nは判決前日、弁護人・浅井正と面会した際に「死刑執行が早まるようにしてほしい」と話した上で「極刑でも絶対に控訴しないでほしい」と希望していた。弁護人の浅井正・近藤之彦両弁護士は判決後、「死刑を選択した量刑は不満だが事実認定は大筋で受け入れざるを得ない。控訴するかは被告人本人の意思を尊重する」と述べ、その上で被告人Nに控訴するよう説得した 。しかし本人の同意が得られなかったため、「生きて罪を償わせることが刑罰の正しいあり方だ」などとして、控訴期限となる2002年3月7日に弁護人の権限を行使して単独で名古屋高裁に控訴した 。この時点で他5被告人は全員控訴していたため、この控訴により起訴された6被告人全員が控訴したこととなった 。
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第一審・名古屋地裁
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「名古屋大学女子学生殺人事件」の記事における「第一審・名古屋地裁」の解説
2017年1月16日に、名古屋地方裁判所で裁判員裁判が開かれた。被告人は殺人事件と放火未遂事件については認めたものの、タリウム事件については「観察目的」と主張して殺意を否定し、弁護側は非常に重い精神障害を理由に「責任能力はなかった」として、全ての事件で無罪を主張した。 1月19日の被告人質問では、薬物治療によって「極端だった気分の波が穏やかになった。まだ人を殺したいとの思いはあるが、頻度が少なくなった」と述べた。さらに、「妹や大学の友人2人も殺そうと思ったことがある」と述べた。 2017年3月24日、名古屋地裁(山田耕司裁判長)はタリウム事件の殺人未遂を認めた上で「複数の重大かつ悪質な犯罪に及び、有期刑では軽過ぎる」として、被告人に求刑通り無期懲役判決を言い渡した。無期懲役囚の仮釈放許可率は著しく低いが、山田は判決言い渡し後、「有期刑の上限である懲役30年に近い無期懲役だ。被害者のことを考えて罪を償ってほしい」と改悛の情が認められた場合の仮釈放を認めるべきとの立場より被告人に説諭した。 被告人は判決を不服として2017年4月5日付で名古屋高等裁判所に控訴した。
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第一審・名古屋地裁
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勝田は強盗殺人罪など合計33の罪状・計27の犯罪事実で名古屋地方裁判所に起訴されたが、併合罪(刑法第45条)の規定により、一連の犯行途中に受けた有罪判決を境に「強盗殺人7件を含む17罪」(前半事件)+「執行猶予判決後の殺人1件を含む『113号事件』16罪」(後半事件)と分離され、主文はそれぞれ2つに分けて言い渡された。 1983年5月27日午後1時15分から名古屋地裁刑事第4部(水谷富茂人裁判長)にて被告人・勝田清孝の初公判が開かれた。検察官は宇野博・小久保勝両検事、弁護人は国選の村瀬武司がそれぞれ立ち会い、被告人・勝田は罪状認否にてこの時点で起訴されていた「山科区の事件2件・拳銃強奪事件・浜松市の事件・養老SA殺傷事件・第一勧銀事件」のうち養老SA事件に関してのみ殺意を否認したがその他の事件については大筋で起訴事実を認めた。弁護人・村瀬は「被告人・勝田は現時点で起訴されているいずれの犯行時においても『家庭・愛人の問題、借金の返済などで出費が増大しており、かつ収入が不安定だった』ことから『心神耗弱状態、すなわちノイローゼ状態』にあった」と主張して完全責任能力を否定し、その後検察側が15,000字に上る冒頭陳述で勝田の生い立ち・犯行動機・犯行経緯などを述べた。その後、この時点で捜査中だった「113号事件」以前の数々の強盗殺人事件などに関しても次々と追起訴された。 公判途中の1983年10月23日までに、勝田は男性3人・女性5人の計8人の殺害を自供しており、うち男性3人に関しては既に起訴され公判で審理されていたが、それらとは別に「まだ10人くらい女性を殺している。最初の殺人は16歳か17歳のころ、郷里・京都府相楽郡木津町近辺で犯した」などと供述した。そのため『毎日新聞』1983年10月24日付朝刊では「殺害人数は合計18人か?仮に本当ならば帝銀事件(1948年1月)の12人を超える『戦後日本犯罪史上最悪の大量殺人事件』に発展することになる」と報道されたが、それまでに自供した8件の殺人と比較して時間・場所などの記憶が曖昧な面が見られ、結局は立件されなかった。 1983年10月26日、名古屋地裁刑事第4部(橋本享典裁判長)で開かれた第5回公判で被告人・勝田は「(この時点で認めていた養老SA射殺事件以外に)男女7人を殺害した。申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と述べる形で「法廷で初めて殺人の件数を口にした」ほか、初めて涙を流した。なお同日は千種区の警察官襲撃事件から丸1年を控えた日だった。 被告人・勝田清孝は1985年11月26日、名古屋地裁(橋本享典裁判長)で開かれた第22回論告求刑公判において検察側(名古屋地検)から前半・後半両事件ともに死刑を求刑された。論告において検察側は「勝田は天をも恐れず、共同社会の一員に留まることを自ら否定するかのように犯行を重ねた。前半事件において男女7人を無差別に殺害するなど冷酷性を究めたばかりか、後半事件においても有罪判決後にまた1人を殺害するなど更に残忍性を強め、犯行から次の犯行までの再犯速度を著しく速めて法秩序に挑み、社会を完全に敵に回した。高速道路・銃器を用いた『現代的犯行』の手口は模倣性・伝播性が高く、もはや矯正は不可能であり極刑が相当だ」と主張した。 1985年12月16日に開かれた第23回公判で弁護人による最終弁論が開かれ、初公判(1983年5月)から2年7か月ぶりに結審した。弁護人は同日の最終弁論で「各事件の計画性のなさ」「被告人・勝田は犯行当時完全な責任能力を有しない心神耗弱状態だった」「8件中7件の殺人を自供した行為は自首に該当する」などと主張した上で、「被告人・勝田の反省・悔悟の念」「死刑制度の違憲性」などの点から「死刑回避・無期懲役の量刑選択が妥当」を訴えた。被告人・勝田は最終意見陳述で「名古屋拘置所内で綴った手記『贖罪の日々』」を提出した上で、被害者や遺族に対する謝罪の言葉を述べた。 名古屋地裁(橋本享典裁判長)は1986年3月24日、検察側の求刑通り被告人・勝田清孝に対し、前半・後半両事件ともに死刑判決を言い渡した。名古屋地裁は判決理由で一連の事件を「果てしない虚栄心・物欲を満足させるため犯罪の拡大・再生産を行い、大胆で悪質・残虐だ」と非難した上で「逮捕後、反省・悔悟の日々を送っているとはいえ、自らの生命をもって史上まれな凶悪犯罪を償うほかにない」と量刑理由を述べた。 被告人・勝田と弁護人は1986年3月28日午前11時過ぎ、「死刑は重すぎる」などと事実誤認・量刑不当を理由に名古屋高等裁判所に控訴した。勝田は判決後、名古屋拘置所内で2日間にわたり弁護人・村瀬武司弁護士と控訴するかどうかを話し合った。当初は控訴に消極的な態度も見せていた勝田だったが、判決が勝田の主張をほぼ全面的に退けているため、村瀬が「正しい判断を受ける権利がある」と勝田を説得したところ、勝田は「控訴すべきだろう」と感想を話した。そのため、勝田と弁護人・村瀬が別個に同時に控訴状を提出して控訴手続きを行った。弁護人の控訴理由骨子は以下の通り。 死刑判決は「勝田の反省・悔悟の情を十分に評価していない」点で量刑不当である上、死刑は日本国憲法第36条で固く禁止された残酷な刑罰だ。 一連の連続殺人のうち7件は勝田が捜査中に自供したため、弁護人は「自首が成立するため量刑を軽減する事情となる」と主張したが、判決はうち1人に対してしか自首を認定しなかった。 「犯行当時、勝田は心神耗弱(ノイローゼ状態)だった」とする主張が認められず「完全な責任能力を有していた」という事実誤認がなされた。 「113号事件における殺意を否認する」主張を否定された。 名古屋地裁の判決言い渡しは法令適用・証拠標目などを口頭で明らかにしておらず、刑事訴訟法上の誤り・不完全さがある。
※この「第一審・名古屋地裁」の解説は、「勝田清孝事件」の解説の一部です。
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