最高峰「スタンキング」が発売。東京オリンピック選手団に採用される
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1964年 業界の発展のためにそれまで7団体あった業界団体が連合統一し「東京靴製造団体連合会(通称 靴団連)」が結成され、社長の池田和夫が初代会長に任命される。念願の革底セメント靴の開発に成功し「フロンティア」が発売された。セメント製法の靴の利点はコストダウンもさることながら、当時流行であったマッケイ製法では使用できないつま先が薄い木型も採用することができる利点もあった。セメントに相性の良い銀付きスムースのラマカーフ(日本皮革製)と特殊中底・セミソフトソールを採用した。淀川工場がJIS認定工場の許可を得る。 秋冬の新商品として新商標「スタンキング」が発表される。格式高い本格派フォーマル及びビジネスシューズとして商標の通り最高級ラインという位置付けで販売される。グッドイヤー製法を中心にマッケイ製法を配し、新木型「ST84」「ST86」を採用、上代4800〜5000円のスタンキングデラックスと3500〜4500円のスタンキングの製品群を用意。この販売に当たって「SK作戦」というスローガンを旗印に宣伝販売に当たった。10月10日から24日まで東京オリンピックが開催され日本選手団の男子選手団は当社の開発製品「スタンキング9920 ST85」の甲革色を白に変更したモデルだった。スタンキングは瞬く間にフロンティア・ウィンスロップに並ぶ主力商品になったが。特にオリンピックの影響もあって「9920 ST85」は本社工場の生産能力を超えるほど受注が入り、淀川工場の底付ラインも使用するほどであった。 1965年 高度成長が終止符を打ち昭和四十年不況に突入し靴業界にも影響を与え始める。経営不振の理由はセメント製法の普及による過剰生産であった。このため生産部門を数日間の生産停止にしたりと在庫調整をはかったがこの年の決算は減収減益(売上高26億3600万円 7%減)昭和三十年以来の赤字となってしまった。この秋業績回復のためにアペックス底高級セメントシューズの新商標「ハイスタン」を投入。またイタリアンコンチネンタルデザイン「リトリコルック」を投入した。この靴はグッドイヤーとマッケイで展開されたが、甲材には人工皮革「ハイテラック」が使用された。 1966年 この年新商品として「スタンフレックス」が発売される。この靴の特筆すべきことはその2種類の製法である。服装の軽量化が一般化し合成底や底の薄い革底が好まれる傾向を取り入れグッドイヤー製法の丈夫さとセメント製法の軽快さを併せ持つGC(グッドイヤー&セメント)製法を採用。これを「キングウェルト製法」と称した。またNG(ネオグッドイヤー)製法と呼ばれる、グッドイヤー製法にキングウェルトに採用されている芯なしのリブテープを使用したかえりの良さを強調した靴となった。フランスコンチネンタルデザインの雄であるピエールカルダンとのサブライセンス契約を結ぶ。2月4日に全日空機が羽田沖で墜落。乗客133名が亡くなったがこの中にスタンダード靴懸賞当選招待客と東京ブロック会長丹波徳太郎などが巻き込まれてしまう。この年はさらに悲報が続く。6月2日午前11時32分に創業者である宮澤胤勇が79歳でその生涯を閉じた。 1967年 景気は次第に回復傾向になったが、米国の原皮輸出制限の実施などで原皮が世界的に高騰し皮革の値上げが相次いだ。これにより革靴の値段を上げざるを得ず、製造コストは上がる反面販売は伸び悩み生産数と販売数がアンバランスになり17%の売上高増になったが利益は前年の補填程度にしかならなかった。さらに製法・デザイン・素材も多様化し多品種少量生産を余儀なくされた。この年さらなる低価格普及品の開発のために英国CIC社よりインジェクション機(射出底型成型機)を導入しポリウレタンインジェクションモールド製法の靴の量産に入った。この商品を「IPシューズ」の名前で発売された。札幌営業所が札幌市北6条東4丁目札幌綜合卸センター内に移転。 1968年 後年いざなぎ景気と呼ばれる好景気局面に入る。しかし靴業界は過剰生産や原皮高による価格の上昇などにより激しい市場競争を展開していた。兼ねてからのさらなる製造部門の採算化に向けて淀川工場の閉鎖と本社工場への集約を提案したがスタンダード靴労組から反対をうけ撤回せざるを得なかった。 1969年 製造部の採算化へ努力を重ねた。製法別分業化を行い本社工場はグッドイヤー・マッケイ・キングウェルト製法を主体に一部ハイスタン等の高級セメント靴生産用の接着製法を主体とした。高野工場はグッドイヤーを本社に移管しインジェクション生産を集約。淀川工場は接着製法を中心に製造することになった。春の新製品としてヤング向けの新ブランド「イレブン」を11点発表する。栄進産業製の本底にカールフロイデンベルグ社の皮革を使用した本格派であったが、特にカールフロイデンベルグ社起毛素材使用のEL11と淀川工場製のEL13・14は大変好評を得た。アメリカンスタイルの流行に合わせ「ウェスタン」ブランドを復活させた。これにより「ピエールカルダン」「ウィンスロップ」「スタンキング」「フロンティア」「リトリコ」「ハイスタン」「スタンダード」「IP」「イレブン」「ウェスタン」と10ブランドを展開するようになった。 1970年 生産部門は高級化を推し進めるためにイタリアの「ウニベルサル・スチレ」社と技術提携をする。 1971年 ニクソンショックにより円の変動相場制へ移行したため円切り不況が到来した。この頃になると革底の需要がかなり減少し合成底が最盛期を迎えることになる。生産足数のうちセメント製法・IP製法の比率が60%に達するとともにグッドイヤーウェルト製法の靴の生産は著しく低下した。従来の「ハイスタン」「イレブン」を配していた合成底分野のレベルアップをするためにハイグレードビジネスシューズを企画。7月に新商標「エクセル」が発表される。生活密着型を志向しビジネスタイプの「エクセルドレッシー」とタウン向け「エクセルアーバン」の2系統を接着製法とマッケイ製法投入した。特に西川化学の「CPソール」を使用したEX7103(4800円)とEX7107(5500円)は大変な人気を呼んだ。商品の多様化とともに3工場の生産だけでは需要を満たすことができなかったため難易度の高いものは本社工場、難易度の低いものは外注協力工場へと切り替えたていたが、この年についに自社生産品より仕入れ商品の方が比率が高くなる結果となった。協力工場とは「栄進産業」「パラマウント製靴」「田中製靴」「ラッキー製靴」「ハルタ製靴」「大黒製靴」「金子芳製靴」などであった。またこの年にはさらなるコスト削減を見越して韓国「エスカイアー」社にクラリーノを使った紳士靴を発注した。 1972年 新潟と金沢に出張所を開設。日給制から日給月給制に工員賃金制度を改正する。外注先であった「ラッキー製靴」火災。11月30日に開かれた株主総会において池田和夫が退任し桜井富司が代表取締役に就任した。 1973年 春夏のテーマを「歩くよろこび」として開発の重点を「エクセル」に置き機能性重視の開発を進めた。また新ブランド「ジャンボウイズ」を発表。ST38という従来の靴型を原型に4Eを作成、革靴マッケイの他にクラリーノ甲材の革底製品も開発した。この年に生産足数は877,000足(前年69,000足増)販売足数も841,000足(前年37,000足増)に達し好調な業績だった。11月18日、元代表取締役の磯畑弘太郎が77歳で生涯を閉じた。第一次オイルショック。 1974年 オイルショックにより卸売物価指数が34%も高騰、当然原材料も高騰し原価は再び上昇した。拡販のためには商品構成を拡大する必要があり積極的に海外ブランドの輸入にも取り組んだ。「モレスキー」「クロケット」「ウニベルサル」などを日本に紹介したが27%の関税がかかりかなりの資金が必要であったため年間輸入量8千足程度は微々たるものであった。6月16日に開かれた新作発表会において人気ブランドである「エクセル」に高級感のある「エクセルロイヤル」手縫いモカを施した「エクセルモカシン」3E/4Eの合成底を採用した「エクセルワイド」を発表した。これに「エクセルドレッシィ」「エクセルアーバン」を加えた5分野を確立した。 1975年 ピエールカルダンのサブライセンスを販売して10年を迎える。カルダン紳士靴事務局を中心に強力な販売キャンペーンを行う。「kenmoor(ケンモール)」商標登録。 1976年 ヤング向けに「ワイルドウォーカー」アダルト向けに「ボランテ」を開発。この年を前後して売上高は増加するものの人件費などが吸収できず赤字が続くようになる。高齢臨時工や淀川工場臨時工などの271人の工場人員削減など共に、スタンダード高等学校の生徒募集を停止した。 1977年 空前の婦人ブーツのブームだったが、過剰生産がたたってブームの裏に大量の売れ残りを抱えた神戸や浅草の婦人靴メーカーや問屋が倒産に追い込まれる。関連会社の「ヤマト商事」「アサヒ商事」も赤字を計上してしまう。パラマウント製靴の手形が2回目の不渡りになり銀行取引停止になった。本社においても希望退職を含む経営改善策を三労組に提案し5月に大筋合意する(希望退職者約160名)。横浜営業所・千葉出張所・岡山出張所を閉鎖。旧本社工場も解体が終わり遊休地になった西側部を東京都に売却した。近年続くカジュアル化の波に乗って英国ハンテンインターナショナル社と「ハンテン」ブランドをサブライセンスを契約。 1978年 全商品にカジュアル志向を取り入れる。ヨーロピアンスタイルが半数を占める傾向になった。この年ついに売上高は100億円(前年より10億以上増収)を突破し、そこに本社遊休土地の売却益も加わり大幅な黒字を計上する。「ウニベルサル」の販売十周年を記念して拡販するためにエコノミー商品の「ロミウニベルサル」を発売する。この年、順調に推移し売上高も111億9200万円となり前期比10.9%増となった。 1979年 この年「ウニベルサル」「ピエールカルダン」「ボランテ」が好調にスタートする。特にピエールカルダンカジュアルとボランテの手縫いモカへの注文が殺到し予定生産足数を大きく上回る受注が続いた。しかし好調な受注に水を差すように7年ぶりの靴材料の大幅な値上げ要請が出てきた。特に80%も北米から輸入に頼っていた牛革はシカゴ市場の暴騰(コロラドステア(牛原皮)は1972年の2倍の価格)のための値上げで卸値の改定をせざるを得なかった。社の経営改善策の一環でスタンダード高等学校の生徒募集を停止しておりこの年が最後の卒業生となった。1945年に養成部として発足、48年に文部省の認可がおり、翌年に財団法人スタンダード学園が設立された。49年には昼間定時制工業科スタンダード高等学校が開校になった。この廃校まで34年5ヶ月に渡り447名を排出した。 1980年 テレビ番組「プロ野球・夢の球宴」で「ピエールカルダンカジュアル」がCMに登場、月刊メンズクラブ・月刊宝石・週刊サンケイなど雑誌のカラー広告も積極的に出稿した。エクセル10周年「ありがとうセール」実施、また5万足限定で80年代に生きる男の靴をテーマに開発された「エクセルエイティ」を発売する。新ブランド攻勢は続きアメリカ調の「ケンモール」カジュアルカテゴリーを「グッドラック」に集約。アメリカから「サーギャル」ブランドのデッキシューズを輸入した。高島屋用の「エスパスカルダン」の生産を期に本社工場にてグッドイヤーウェルト製法の機械を再度導入し生産を再開した。技術部が改良型ボローニャ製法を開発し「ウニベルサル」に採用される。この製法はのちに「カトル製法」と呼ばれるようになった。平沼商事が保有していたスイスアレージア社「ウォルターウルフ」ブランドのサブライセンス契約。ヤマト商事が「バンカルデイ」社と技術提携。 1981年 この年二つのブランドを販売開始する。一つは前年にサブライセンス契約をしたフランク・ウィリアムズ率いるF1コンストラクターであった「ウォルターウルフ」。もう一つは若年層向けの「ヘブン」である。また十五周年を迎えカルダンブランドで450億円まで成長した「ピエールカルダン」も順調に推移した。百貨店などで拡大する海外ブランド需要に応えるために「モレスキー(63,000〜98,000円)」「ウニベルサル(75,000〜87,000円)」「ガルス(25,000〜28,000円)」「サーギャル(24,000〜32,000円)」「カルロス(12,000〜16,000円)」「ブルゾーニ(27,000〜28,000円)」なども積極的に展開した。1978年の婦人ブーツブームが去った後に急激に業績が悪化した「ヤマト商事」が、累計損失2億7000万円を抱え負債を9割弁償することの了解を得て自主廃業した。スタンダード高等学校跡地を日商岩井に売却し売却益を得たものの、ブランド経費などの増加分を吸収できずにこの年は2億2000万円の経常損失を計上してしまった。この結果を受け、9月に数々の功績を残した池田和夫が相談役を退任した。12月22日、累積赤字の解消を図るために大和銀行から辰巳茂を迎い入れ、定時株主総会及び取締役会で桜井富司が社長を退任し取締役相談役に、新社長に辰巳が就任した。
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