からて‐どう〔‐ダウ〕【空手道】
読み方:からてどう
⇒からて(空手)2
空手道
歴史と沿革
空手の発祥の地は古来、琉球と呼ばれていた沖縄です。その源流は、彼の地で古くから伝承されてきた独自の格闘技「テー」が、14世紀後半に伝来した中国拳法の影響を受け、現在の形に発展したと考えられています。「空手」という名称の由来には諸説あります。中国(唐)に学んだ拳法(テー)ゆえに、当初、「唐手(トーテー)」と呼ばれていたものが「カラ・テ」と読み替えられ、その後、手に何の武器も持たないことを意味する「徒手空拳」の「空」が「唐」の字に置き換わり、「空手」になったとする説が一般的です。
空手は長い間、秘技として伝承されました。沖縄で一般に広まったのは1900年代初頭のこと。その後本土に上陸しました。1922年、東京で開催された第1回体育博覧会で、「形(かた)」の演武が公開されたのを契機に、大学を中心として日本各地に普及しました。海外にまで広まるのは戦後のことです。昭和30年代以後、多くの日本人指導者が海を渡り、空手を全世界に広めました。
空手はその発展の過程で様々な流派に分かれました。その数は大小合わせ100を超えます。各流派は独自の活動を続けていましたが、1964年の東京オリンピックを契機として、大同団結の機運が高まりました。同年、国内唯一の統括団体として全日本空手道連盟(JKF)が設立され、5年後の1969年、統一ルールのもとで、第1回全日本選手権が開催されました。また海外でも、1970年に世界空手道連合(後に世界空手連盟=WKFに改称)が結成され、同年、東京で初の世界選手権が開かれました。現在、国内の空手人口は約300万人、世界では 165カ国がWKFに加盟しており、4,000万人の愛好者、競技者が日夜稽古に励んでいます。
競技方法
空手道は、徒手空拳による格闘スタイルのスポーツです。その種目には、実際の相手と一定のルールに則り対戦する「組手競技」と、多数の敵との攻防を想定した一連の動作を一人で演じ、その正確さを競う「形(かた)競技」の2種類があります。
「組手競技」では、8メートル四方のコートの中で互いに突き、蹴りを繰り出します。ただし、選手の安全に配慮して、相手の身体に当たる寸前で攻撃を止める「ノンコンタクトルール」が採用されており、誤って当ててしまった場合は反則となります。試合時間は男性が3分、女性が2分。
「形」は空手の発展の過程で体系化されたもので、選手は大会で公認された「形」の中から得意なものを選んで演じ、技の正確さ、気迫、緩急などの要素の総合評価で勝敗が決まります。
空手道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/02 11:39 UTC 版)
空手道(からてどう)または空手(からて、沖縄語発音: [kaɽati])は、琉球王国発祥[1]の拳足による打撃技を特徴とする武道である[2]。起源には諸説があるが、沖縄固有の拳法の手に当身の際の発声、巻き藁稽古法など、日本の剣術(特に薩摩示現流)の影響を受けたという見方がある。
注釈
- ^ 中田瑞彦「本部朝基先生・語録」1978年(小沼保『琉球拳法空手術達人 本部朝基正伝』所収)に「古流唐手」の使用例がある。それ以降では、岩井作夫『古伝琉球唐手術』(愛隆堂、1992年)等に見いだされる。
- ^ 元・月刊空手道編集長の小島一志が、“フルコンタクト空手”という名称がアメリカ発で、それを日本で行われている極真会館に代表される直接打撃制の空手ルールに呼びやすい名前をつけるために拝借したと自身の著作、“リアルバトロジー2 新世紀格闘技論”にて告白している。
- ^ 英語版の記事ではそう記述されているが、日本側の文献では本部朝基に中国人の弟子がいたかどうか確認できていない。
- ^ 前 IOC副委員長で世界跆拳道連盟の会長であった金雲容は 「テコンドー協会長になった頃、シルムやサッカーの関係者は自分たちのスポーツが国技であると主張していた。当時のテコンドーはいろんな面で弱かったので、私は(訳者注:1971年3月20日に)、朴正煕大統領に頼んで『国技テコンドー』と親筆揮毫していただいた。そしてこれを大量にコピーして、全ての道場に掛けるように命じた。このことがきっかけになってテコンドーは国技になった。」と『mooto media、www.mooto.com、2010年2月9日』で語っている。
出典
- ^ 「危険に立ち向かう力が身につく。心技体を鍛えて強くなる」、2016年1月15日発行、発行者・小川雄一、14頁。
- ^ 船越義珍『琉球拳法唐手』3頁参照。
- ^ 「空手の歴史」 宮城篤正 おきなわ文庫 2014年2月12日
- ^ 『空手発祥の地 沖縄 Okinawa The Birthplace of Karate』沖縄県、2017年3月。
- ^ 糸洲十訓第6条を参照。
- ^ 「本社主催・空手座談会(二)」『琉球新報』1936年10月28日。
- ^ 摩文仁賢和・仲宗根源和『攻防拳法空手道入門』43頁参照。
- ^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』榕樹書林、2004年、98頁参照。
- ^ 富名腰義珍『琉球拳法唐手』武侠社、1922年、2頁。
- ^ 本部朝基『沖縄拳法唐手術組手編』唐手術普及会、1926年、4頁。
- ^ 『本社主催 空手座談會(一)~(六)』琉球新報社、1936年10月27日から11月2日付。
- ^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』榕樹書林、2004年、99頁参照。
- ^ 『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、7、25頁参照。
- ^ 『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、25頁参照。
- ^ 『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、4、25頁参照。
- ^ 三木二三郎・高田瑞穂『拳法概説』東大唐手研究会、1929年、改訂版1930年、復刻版、榕樹書林、2002年、221頁参照。
- ^ 同上。
- ^ a b 宮城長順「唐手道概説」 1936年、参照。
- ^ 山内盛彬「空手随想」『月刊空手道』七・八月合併号、空手時報社、1956年、61頁参照。
- ^ 安里安恒談・富名腰義珍筆「沖縄の武技」(『琉球新報』1913年1月17日-19日記事)。
- ^ 本部朝基『私の唐手術』、岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』所収、10頁。
- ^ a b c 本部直樹「「阿嘉直識遺言書」に見る18世紀の琉球の諸武術―示現流、柔術、からむとう―」(『日本武道学会第42回大会研究発表抄録』日本武道学会、2009年)
- ^ 長嶺将真『史実と伝統を守る・沖縄の空手道』50頁。
- ^ 『日本武道体系第8巻空手道・合気道・少林寺拳法・太極拳』 今村嘉雄編 同朋舎出版 1982年 ISBN 4810490173 P,105
- ^ 上里隆史『目からウロコの琉球・沖縄史』ボーダーインク、2007年、64頁参照。
- ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談 近代空手道の歴史を語る』43頁参照。
- ^ 同上、42頁。
- ^ 藤原稜三『格闘技の歴史』640頁参照。
- ^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』95頁参照。
- ^ 岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』愛隆堂、平成14年、146頁参照。
- ^ 渡久地雅昭「空手の歴史、その信憑性を考察する」『JKFan』2006年10、11、12月号、2007年5、7月号、チャンプ
- ^ 藤原稜三『格闘技の歴史』657頁参照。
- ^ 『球陽』第18号、1909年、沖縄県公文書館所蔵。高宮城繁・仲本政博・新里勝彦『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、736頁参照。
- ^ 船越義珍『愛蔵版 空手道一路』149頁参照。
- ^ 長嶺将真『沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社、昭和61年、144頁参照。
- ^ 「唐手実見の感想」『日布時事』1927年7月6日[1]。
- ^ 比嘉敏雄・高宮城繁編著『武魂 -奥妙在錬心-』沖空会北谷道場、2002年、90頁参照。
- ^ a b 『空手道:その歴史と技法』嘉手苅、小山、和田, 2020年日本武道館(ベースボールマガジン社)
- ^ 長嶺将真『史実と伝統を守る・沖縄の空手道』52頁参照。
- ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道の歴史を語る』147頁参照。
- ^ 『空手道』収録の寄稿文、大塚博紀「明正塾前後」の55頁、ならびに小西康裕「琉球唐手術の先達者」の58、59頁を参照。
- ^ 月刊空手道2012年10月号 防具付空手の開拓者 一撃必殺錬武会[リンク切れ]
- ^ 空手道の歴史について 組手の競技化を実現した「寸止めルール」(福昌堂)[リンク切れ]
- ^ 『創立十周年・記念誌』沖縄県空手道連盟、1991年、19頁参照。
- ^ 『創立十周年・記念誌』沖縄県空手道連盟、1991年、16頁参照。
- ^ 長嶺将真「国体における空手道型の指定について」『創立十周年・記念誌』沖縄県空手道連盟、1991年、188頁参照。
- ^ 「対談・ゲスト小西康裕/聞き手池田奉秀・空手道を語る――過去と現在の武道的視点――」『対談集・空手道を語る』武道出版研究所、1977年、6頁参照。
- ^ 糸洲十訓参照。
- ^ 岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』199頁参照。
- ^ 船越義珍『愛蔵版・空手道一路』105頁参照。
- ^ 外間哲弘編著『空手道歴史年表』42頁参照。
- ^ 時津賢児『武道の力』(大和書房、2005年)の「古流空手から中国拳法へ」(62-66頁)参照。
- ^ フル・コム編『公開!沖縄空手の真実』東邦出版、2009年、48頁。
- ^ 全日本空手道連盟. “「空手」東京2020オリンピック追加競技に決定!”. 2016年8月25日閲覧。
- ^ 東スポWeb. “空手五輪入りへ大きな一歩!フルコン初の統一大会大成功”. 2014年5月19日閲覧。
- ^ John CorcoranとEmil Farkasの著作、The Original Martial Arts Encyclopedia: Tradition, History, Pioneers を参照。
- ^ アメリカ空手界歴史研究家,Jerry Beasleyの著作、Mastering Karateを参照。
- ^ eFight【イーファイト】. “大幅ルール改正、松井館長「より実戦的な空手でクオリティの高い競技を」”. 2017年9月8日閲覧。
- ^ eFight【イーファイト】. “2018年6月から新ルール導入、五輪空手ルールに対応へ=下段蹴り禁止、顔面寸止め有効など”. 2017年11月4日閲覧。
- ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道を語る』273頁参照。
- ^ 三木二三郎・高田瑞穂『拳法概説』184頁参照。
- ^ 富名腰義珍『錬胆護身 唐手術』掲載写真参照。
- ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道を語る』104頁参照。
- ^ 富名腰義珍『空手道教範』大倉広文堂、昭和10年、37頁参照。
- ^ 『日布時事』1927年4月12日記事
空手道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:54 UTC 版)
「日本の発明・発見の一覧」の記事における「空手道」の解説
琉球王国の士族、親雲上の間で「 手 (沖縄武術)」として知られる武術一般として始まった。手の正式な様式は少なかったが、多くは独自の方法で練習していた。本部朝基が開祖の本部流は、現存する一つの例である。初期の空手の流派は、それらが生まれた3つの地域にちなんで首里手、那覇手、泊手として分類された。
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空手道
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空手道を扱ったもの。これらの他、異種格闘漫画においても頻繁に扱われる。 あした青空(川原正敏) ALEXANDRITE(成田美名子) 空手小公子 小日向海流(馬場康誌) 空手バカ一代(原作:梶原一騎、作画:つのだじろう、影丸譲也) 新カラテ地獄変(原作:梶原一騎、作画:中城健) 天馬の風(松葉博) 秘拳伝キラ(原作:碧星タケル、作画:三好雄己) 萌えカレ!!(池山田剛) ハンザスカイ(佐渡川準)
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空手道
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世界空手道選手権大会(世界空手道連盟主催) 松濤杯争奪世界空手道選手権(日本空手協会主催) 世界空手道選手権(國際松濤館空手道連盟主催) 世界空手道選手権(日本空手松涛連盟主催) 空手之道世界連盟世界大会(空手之道世界連盟主催) 和道会ワールド空手道カップ(全日本空手道連盟和道会主催) (その他、流派別に多数存在する。)
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空手道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:57 UTC 版)
東映に入る前から大山道場に通っており、きっかけは大学生の時に大山倍達を知っている韓国人から紹介を受けて入門。格闘映画で千葉の敵役を演じた石橋雅史は極真カラテの先輩にあたる。大山は「学生時分から千葉は道場へ通ってきており、仕事の関係でまとまった稽古をしていないまでも、門下生の序列でいうと相当古い方になるんだよ」と語っている。千葉は名誉段位ではなく、一般門下生と同様に昇段審査を受け、1965年10月15日に黒帯(初段)を允許、1977年2月3日に弐段を越えて飛び段で参段、1984年1月20日に四段へ昇段した。 1977年3月16日に空手道による真剣勝負をすることが発表され、4月にハワイで開催された「日本代表極真会館チーム対ハワイ代表チーム」というフルコンタクト空手の対抗戦に参戦した。他の日本代表メンバーには大石代悟・二宮城光・東孝・中村誠などがおり、対戦相手は「前アメリカ東海岸空手チャンピオンのグレッグ・カーフマン」という180cm以上ある黒人であった。千葉は通常の空手技の他に、跳び右後ろ回し蹴りや胴回し回転蹴りの元となった前方宙返りして踵で蹴るなど攻撃して、第2ラウンドに二段蹴りでKO勝ちを収めた。結果的に同年5月14日に封切り公開された映画『空手バカ一代』の宣伝にもなった。大山倍達は「千葉真一の空手映画は欧米で非常なブームとなっており、本職の空手家らの『Sonny Chiba (サニー ちば)の空手は本物』という批評が聞かれていた。極真カラテの黒帯である千葉だからそれも当然で、この対抗試合に出場してその実力を示したのは立派と言うしかない」と述べている。(⇒ #Sonny Chiba) 1984年1月20日 - 22日に開催された極真会館主催の第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では志穂美悦子・真田広之らジャパンアクションクラブ (JAC ) メンバーを率い、演武とテレビのゲスト解説をした。同年8月、極真会館ブラジル支部長・磯部清次の招待により、志穂美・真田・大葉健二を連れてサンパウロへ行き、25日 - 26日に開催された第1回日伯・第8回ブラジル極真空手道選手権大会でも演武を行った。 日本・アメリカ・東南アジアと世界各国で後進の育成・空手道の普及に活動しており、毎年10月には旧武徳殿がある京都市武道センターで少年少女オープン空手道選手権大会「千葉真一総裁杯」を催している。『新 影の軍団シリーズ』で共演した高野八誠は「最終章のラストシーンで千葉さんと殺陣をするんですが、休憩中に千葉さんが後ろ回し蹴りを見せてくれて、すっごい感動しましたね。動きは昔と変わってないなって、改めてビックリさせてもらいました」と、当時66歳の千葉について語っている。(⇒ #格闘映画)
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空手道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:44 UTC 版)
高校時代に地元岡山市で空手道を始める。2016年に全日本空手道連盟のアンバサダーに任命。その後、空手道が東京オリンピックの追加種目に初めて正式決定してから、2020年東京オリンピックに向けて国内外での空手道の知名度向上や普及などの支援。
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空手道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 14:24 UTC 版)
空手の組手・型の動作においては、相手の中段突きを受けた手で腕や道着を掴んで手前に引き落とし、態勢の崩れた相手の後頭部に逆側の手で鉄槌を当てる・捕らえた腕の肘関節の逆を打つ、上段突きに自身の体を低く沈めながらかわして相手の脇腹を横に薙ぐように払い打つ、中段突き・前蹴り等を受け流す・体を捌くなどして相手の背後に出つつ腰の後背面を打つ。あるいは様々の場面で突き・蹴りを打ち落とす受けにも使用される。 後頭部・肋軟骨・後背面(腎臓部)など当てれば致命的打撃になる(肘関節なら打ち折れるような)位置を狙うように訓練されるが、競技試合ではすべて反則部位につながるため、競技・試合重視の練習では軽視される要因ともいえるが、伝統派の団体等においては約束組手・型演武などで普通に練習される。
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空手道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 05:09 UTC 版)
16才から空手を始め、全日本空手道剛柔会板橋道場へ入門。国際空手道剛柔会・全日本空手道剛柔会、剛柔会創始者である山口剛玄拳聖(世界的に”THE CAT”と呼ばれていた)の三男、現会長 山口剛史最高師範の元で直接指導を受ける。 昭和57年度全日本空手道剛柔会全国大会に於いて、少年(高校生)組手の部で優勝。昭和59年度第37回東京都民大会に於いて組手の部で準優勝。大学時代、国民体育大会予選 東京都空手道選手権大会に於いて、青年男子中量級組手の部でベスト4、ベスト8。 日本大学芸術学部入学後は、日本大学剛柔流空手道部に在席し第40代主将を務める。 日本大学剛柔流空手道部OBには、山口最高師範を始め、大山倍達が極真会館の前身である立教大学真裏に設立した大山道場の初代師範 石橋雅史師範、南本一郎師範、又、沢村忠(後のキックボクシング「キックの鬼」)など多数が在籍し、空手界の礎を築いた。 現在、一般社団法人全日本空手道剛柔会公認四段助教。全日本空手道剛柔会役員評議員。
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空手道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 06:46 UTC 版)
父親から柔道と剣道を幼少から習っていた。伝習館高等学校在学中には柔道を修行し、日本大学芸術学部演劇科へ進学後、浅草にある剛柔流の道場に通うようになった。やがて大学の剛柔流空手道部主将となり、卒業後は同部の師範を務めていた。剛柔流の先輩でもある大山倍達から頼まれ、大山道場と極真会館で師範代を役者修業の合間に引き受けることとなる。本来なら剛柔流を脱退し独立した大山のところへ行く事は許されないのだが、大山から何度も頼まれたため、家へ帰る途中に道場があった事から「寄り道をした」ということにして指導をし始めた。石橋は大山の伝説の一つ“10円玉曲げ”や、1956年11月の田園コロシアムで大山が550キロの牛と戦ったのを見ており、大山の高弟でもある。石橋の指導を受けた門下生には、後年極真会館の牽引車たる役割を担った者も多い。彼らは石橋の空手道や人柄をそれぞれ以下のように語っている。 山崎照朝 マネしたのは大山倍達館長と石橋雅史先生だけ。身体を柔らかく使う石橋先生は、剛柔一体の空手でお二人には極めたものがあった。石橋先生は私の組手の原点で、綺麗で大きく構えを大事にし、独特の動きは柔らかくしなやかで何より強かった。組手をしている最中でも弓受けの構えを使い、これをやられると石橋先生の懐に入れなかった。今も(2013年)空手の御指導をされてるが、80歳とは思えない技の切れとうまさには驚かされた。 石橋は白帯の頃の山崎を才能があると見込んで、合同稽古の後に手取り足取りマンツーマンで特別に教えていた。極真会館が初めて開催した第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会で優勝した山崎は、第一報と喜びの報告を石橋へ伝えており、ワイン会社の顧問をしている山崎がワインを石橋に贈るなどその師弟関係は続いていた。 盧山初雄 長身でとても柔軟な身体を持ち、痩身でどちらかというと空手家タイプでなかったが、ベンチプレスで70〜80kgをいとも簡単に持ち上げていた。組手になると相手が正拳で突いてきたら受けると同時に、もう片方の手の裏拳で攻撃してきたり、前に攻撃していくと横に飛び、後ろに引くと同時に攻撃してくるという具合で動きが全然見えない。前蹴りもそのまま関節を返して上段回し蹴りに持ってくる。まるで石橋先生の操り人形になったようで何回となく、その手と足で顔をなでられた。それでも組手が終わると、必ずあそこが悪い、こうしたらよかったとアドバイスしてくれた。 大山茂 入門した時に3人の大先輩がいた。石橋さんは先輩の中で一番優しかった。 その他の門下生では岡田博文・渡辺一久・藤巻潤・春山一郎・大山泰彦、ジョン・ブルミン、千葉真一・郷田勇三・中村忠・加藤重夫・藤平昭雄・芦原英幸・添野義二らがいる。石橋は「武術は受けてすぐ攻撃しなければダメ。受けと攻撃で一つの動作なのです」と自身の武術観を述べ、その組手スタイルは変幻自在で「円を描く流麗な組手」と称された。
※この「空手道」の解説は、「石橋雅史」の解説の一部です。
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