格闘映画
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格闘をモチーフとしたアクション映画は1956年の『空手打ちシリーズ』(高倉健主演)からだが、1960年代に入ると柔道を正式競技とする東京オリンピックを先取りした『柔道一代シリーズ』(千葉真一主演)や、テレビドラマでも桜木健一を主役にすえた『柔道一直線』を制作していた( ⇒ #テレビドラマ)。1973年の空手をモチーフとした千葉真一主演『ボディガード牙シリーズ』は、週刊サンケイに連載していた梶原一騎の劇画を映画化したもので、『巨人の星』・『あしたのジョー』・『空手バカ一代』と梶原が次々ヒット漫画・劇画を発表していたので岡田は注目していた。 4か国合作『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(千葉真一主演)のシナリオハンティングで、1973年の夏に香港を訪れた高田宏治が劇場で『燃えよドラゴン』を観て「香港にとんでもなく面白い映画がある」と、岡田へ日本で一般公開される前に試写で観せた。「オモロイやないか。カンフーをカラテに置き換えて、千葉で行け(千葉真一を主演に据える)」と岡田が号令を出して製作したのが1974年の『激突! 殺人拳』。東映にとって久々の大ヒットを飛ばした作品となり、当時の岡田は何をやってもうまくいかなかったが、よっぽど嬉しかったらしく祝電をいっぱい打っていた。 詳細は「激突! 殺人拳」を参照 フランシス・フォード・コッポラが千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を作りたいと岡田に打診してきたことがある。アメリカ州・欧州・東南アジアで千葉の主演作品『殺人拳シリーズ』・『地獄拳シリーズ』が大ヒットしていた頃、岡田に「海外で勝負させてください」と千葉は頼んだが、「ハリウッドを牛耳っている人たちに、ケツの毛まで抜かれて帰ってくるのが関の山だぞ」と反対された。ジャパンアクションクラブ (JAC) のことも悩み、他の人に引き継いで、全部クリアしてからアメリカ行きを決断したときはもう50歳を過ぎていた。 鈴木則文が提出した三作品の企画を自らで潰しておきながら、京都へ帰ろうと挨拶に来た失意の鈴木に「京都時代に俺とお前で作った『緋牡丹博徒』のカラテ版をつくる。主演は香港から呼ぶ。『燃えよドラゴン』でブルース・リーの妹役を演ったアンジェラ・マオと交渉した香港支社から、今OKの知らせが入った。すぐ脚本の準備に入れ」と電光石火で企画を成立させる。「日本語なんか喋れなくてもあの子は売れるぞ。緋牡丹のお竜のカンフー版だ。お前のシリーズになるぞ。題名はこれだ」と岡田が付けた題名が『女必殺拳』(1974年)であった。しかしアンジェラ・マオが諸事情で不出演となり、千葉が推薦してきた愛弟子・志穂美悦子の抜擢となった。志穂美は「現代版お竜」を謳い文句に、「日本初のスタントウーマン」と銘打って『女必殺拳』で主演デビュー、『女必殺拳』はシリーズ化され、志穂美の出世作となった。志穂美は『華麗なる追跡』などにも主演していく。志穂美に続き、千葉の秘蔵っ子・真田広之が『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)、『吼えろ鉄拳』(1981年)、『燃える勇者』(1981年)と主演し、アクションスターとして売り出された。初主演作『忍者武芸帖 百地三太夫』は当初、ジャッキー・チェンの香港カラテ映画を参考にしたナンセンスアクションであったが、岡田が真面目な時代劇に変更したという。2002年、日刊スポーツ映画大賞の表彰式で『たそがれ清兵衛』で主演男優賞を獲得した真田広之について「ウチにいたときよりずっと良くなったよ」と話した。
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格闘映画
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1963年から始まる『柔道一代シリーズ』に主演したのが最初の格闘映画で、第二作『柔道一代 講道館の鬼』(1964年)の乱闘シーンで肩を骨折してしまった。1963年11月には主演映画『空手風雲録』に備え、空手道場で跳び蹴りを繰り出す姿が残されている。(⇒ #空手道・#アクション映画) 1973年の『ボディガード牙シリーズ』で、10年ぶりに格闘映画へカムバック。翌年の『激突! 殺人拳』は、ヤクザ映画が下火になっていた東映にとって、久々の大ヒットを飛ばす作品となった。アメリカ合衆国・ヨーロッパ・オーストラリア・カナダの映画会社も『激突! 殺人拳』を買い付けに来ていた。なかでもアメリカのニュー・ライン・シネマは当初ヤクザ映画を購入するつもりだったが、本作を見て心変わりし、「ブルース・リー以上だ。素晴らしい」と評して興行権を買い取り、『The Street Fighter』とタイトルをつけ、千葉をSonny Chiba(サニー ちば)とネーミング。同年11月12日から主にアメリカ中南部の都市18館で封切られ、3週間でベスト5に躍り出て千葉の代表作となった。アメリカで最も権威のある総合情報週刊誌「Variety」の12月18日付にもこの出来事が掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げている。大ヒットした要因として「リーの舞踊劇的な功夫と違い、ワザと力もより本物に近く、迫力がある」「器械体操を利用した、トランジスター的器用さが面白い」と評されており、計四作の『殺人拳シリーズ』として封切りされた。忍者の末裔に扮した同年の主演作『直撃! 地獄拳』は、千葉のスピードあるアクションと石井輝男のユーモアとウィットを盛り込んだ演出が組み合わされた作品で、1974年度に4億1700万円の配給収入を上げ、同年度の日本映画配給収入ランキング第5位に入り、アメリカでは『The Executioner』というタイトルで1999年現在、10万本以上のビデオが売れている。(⇒ #Sonny Chiba・#海外進出・#空手道) 海外ではマーシャルアーツの大スターである"Sonny Chiba"の熱狂的な人気は根強く、キアヌ・リーブス、クエンティン・タランティーノ、リュ・スンワン、らの著名人の熱烈なファンがおり、谷川貞治は「千葉さんの映画のおかげで格闘技人口がかなり増え、格闘技界の宝だ」と述べている。(⇒ #ファン) 岡田茂は「(主人公と)牛との格闘を欧州ではびっくりして、えらく受けている。ショウ・ブラザーズが千葉真一の空手映画を購入してシンガポールでも大ヒット。東南アジア映画祭でジャカルタへ行ったときも、抜群の動員力と人気を上げていた。千葉くんの空手が入って、東南アジア全域で当たり、すごい人気だ。東洋でナンバーワンなんだから、あのアクションをやらせたら世界に(千葉真一以外)いないんじゃないかな」と世界各地の人気・商況・反響を語っている。この頃フランシス・フォード・コッポラは「千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を製作したい」と東映へオファーし、千葉も「海外で勝負させてください」と岡田に懇望したが、「まだその時期ではない」と認められなかった。 『けんか空手シリーズ』や『子連れ殺人拳』で千葉とタッグを組んだ山口和彦は「常に自分しかできないアクションを見せることに徹していた。熱心な男で現場でいろいろなアイデアを出してくる。全てのアイデアを聞き入れることはできなかったが、自分がアクション映画を変えるんだという、その意気込みは凄かった。そうやって彼は自分の代わりが居ないところまで到達したからね。千葉真一というアクションスターは永遠に残っていくよ」と評している。(⇒ #空手道・#Sonny Chiba) 詳細は「激突! 殺人拳」を参照 詳細は「殺人拳シリーズ」を参照 詳細は「けんか空手シリーズ」を参照
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